惑星クレイの天上は大小の月と衛星、数多輝く星々の姿で彩られていた。
焔の巫女たちは《調和の環》を描いて無心に炎と踊る。
陽が昇り陽が沈みそしてまた新たな陽が昇るまで。彼女たちの先代もまたその先代も昔からそうであったように、淀みなく果てしもなく。
暁紅院。
ドラゴンエンパイアのほぼ中央に位置する深山の寺院とその儀式の始まりは、人間という種の起源にまで遡れるという。そしてここに集った歴代の巫女達は生涯をかけて、この寺院に仕舞われた他には無い宝を保護し見守り続ける役目を担ってきた。天輪聖紀の幕開けを告げる出来事が起こるあの日までは。
「……なぜ私なの。ホントならあの環の中にいたはずなのに」
リノは旅の荷物を縛り終えると、今夜何度目かの深い溜め息をついた。
歌うこと、踊ること、お喋りすることが何より好きなリノにとって、今の状況は何よりも辛い。
足下の気配に視線を落とすと、光る瞳が彼女を見上げていた。
それは一抱えもある大きな卵、二つの足で立ち、尻尾もあり、真ん中に空いた割れ目から二つの目が覗く奇妙な生き物だった。
「問うならば“なぜ我”ではなく“なぜ今なのか”だ、リノ」
「導師様」
リノは恭しく立礼の姿勢をとった。
背後にいつの間にか立っていたのは、リノたち焔の巫女の教師を勤める老人だった。暁紅院の高僧には役職はあっても名前はない。寺院に入った時から人としての名は奪われ、太陽と聖なる竜をあがめ奉る者となるからだ。だからこの高齢の男性も《導師》とだけ呼ばれている。
「旅立ちに際し、伝えておきたいことがある」
リノは黙って頭を垂れた。日頃の快活な様子はみじんも窺わせない。年若い少女であってもリノはこの惑星クレイで最も古い寺院の選ばれし焔の巫女なのだ。
「知っての通り、これからのおまえの務めはサンライズ・エッグを守護して共にこの星を巡り、その成長を助けることにある。聖なる卵が孵った時に選ばれた、これがお前の宿命だ」
「承知しております」
「おまえはこの寺以外をほとんど知らぬ。そしてその外界も、我らにもたらされる知らせは日を追うごとに動乱の予兆に満ちておる。気休めは言わぬ。旅は厳しいものとなるだろう」
「あの……導師様。私にはどうしても自分が務まるとは……」
「リノ、儂は必ず成し遂げると信じておるよ。おまえは誰よりもまっすぐで、澄んだ心の持ち主だ。その曇りない目で外の世界を見ておいで」
老人は微笑んだ。それは厳格な導師の、リノが初めて見る笑顔だった。
「おまえの歌声と笑顔は、この山奥で暮らす我々にとって日々何よりの慰めだった。寂しくなるな」
リノはもう声もなかった。自分がこの寺院とここの人々をどんなに愛し愛されていたかを、今初めて知ったのだ。その目にみるみる涙があふれてくる。
「さぁもう行きなさい。偉大なる太陽と聖なる竜の祝福を」
「偉大なる太陽と聖なる竜の祝福を。ごきげんよう、導師様」
師は去った。
リノはその背に一礼すると、最後に一度だけ焔の巫女達の──本当なら自分も陶然と舞っていたはずの──《天輪の舞》の環に目を向けた。
ホントならあの環の中にいたはずなのに。
「いつまでそうやって見ているつもり?」しっとりと落ち着きのある声が空気を震わせた。
「ぐすぐずしてると置いてくよ、リノ」男の子と間違えそうな元気な声が背中を押した。
「そうですよぉ、準備いろいろ大変だったんですからぁ」甘ったるい声が促した。
びっくりして振りむいたリノの前にレイユ、ゾンネ、ローナ──歳で言うと年上、同い年、年下の順になる──実の姉妹のように暮らしてきた仲間が旅支度を整えて待っていた。
「……どうして」
と言う前に、もうリノの手は巫女仲間三人に引かれていた。
「わたしが、たった一人でリノを行かせるわけないでしょ」
とローナ。舌足らずだけどいつも一生懸命な彼女の言葉を聞くとリノはつい微笑んでしまう。
「あ、ちなみにあたし立候補な、旅の道連れ」
とゾンネ。活発な彼女の言動にリノはいつも励まされ、心を軽くさせられる。
「道連れって……ねぇみんなの卵はどうするの?」
とリノ。焔の巫女たちが各々に世話をして護るべき宝物──暁紅院の竜の卵からは勝手に離れられない戒律である。
「ゾンネとローナ、そして私の卵は預かってもらいます。私たち四人とサンライズ・エッグは一蓮托生よ。リノ、知っているでしょう。あなたは拒めないわ」
とレイユ。年齢よりはるかに大人びて、何事にも優秀な“姉”だった。言われてみれば誰よりも頼れる代わりに、レイユの言うことにリノはうまく反論できたためしがない。
「なぁに、“いちれんたくしょう”って」
「これからは何をするにも一緒だってことさ」
「えー、それじゃ今までと同じじゃなーい!」
楽し気なローナとゾンネに答えられずにいるリノの足に、何かの感覚があった。
サンライズ・エッグ──つい先日までこの寺の本尊として、古代からずっと崇め奉られてきた大きな卵──が、リノを見上げて身をすり寄せていた。行こう、と言っている。
“そうだ、行かなければ。この卵のために。みんなのために”
リノは顔をあげると、預かってきた“祝福の角笛”を取り出した。
焔の巫女が旅立ちに際し──その機会もなく暁紅院で生涯を終える者も多いが──、必ず行う儀式だった。
──!!
リノの吹き鳴らす角笛が、希望を求め願う力強い音色が、ドラゴンエンパイアの山々のさらにそれを越えたはるかな土地にまで遠く遠く響き渡った。
ゾンネとローナ、そして寺院に拝礼を終えたレイユの角笛が続く。
こうしてリノは歩み出した。
まだ見ぬ世界へ。友と重すぎる荷と奇妙な同行者と一緒に。
「ヤバいぜ。どっかに隠れてやりすごそう、アバン」
「無駄だね。犬はボクらの臭気を追っているんだよ、ガデイ。ここは逃げるしかない」
アバンと呼ばれた少年は、淡い光に輝く白銀色の髪を振りながら答えた。
この期に及んで理屈っぽいヤツ、とあきれた風でガデイも黒い髪を掻き上げる。
二人は走り続ける。
地上より遥かに下った廃墟の内部。灯りと言えば、彼らが持ち込んだ蛍光ライトだけ。ぼんやりと浮かび上がる貴族の屋敷のように整った様式の壁や床、天井がかえって方向・距離感覚を失わせる、ここはまさに迷宮だ。少年達がいくら進めど、出口へつながる道は見つかりそうもなかった。
ケテルサンクチュアリはドラゴニア大陸の西北に位置する国である。
約3000年前、神聖王国ユナイテッドサンクチュアリと呼ばれた頃、隆盛を極めた首都セイクリッド・アルビオンに往時の姿はなく、支配者と権力は天空の浮島ケテルギアへと移り、地上の都はその中心部が空に向かって伸びる漏斗状の構造をした町となっている。
ガデイが幼なじみのアバンを《宝探し》に誘ったのは、その地上の古い都に遅い春が近づく3の月の朝だった。
「面白そうだね。でも断る」
アバンは父の営む古書店のカウンターで、せわしなくタブレット端末を操りながら答えた。
「つれねぇなあ。なぁ頼むって、お前が来てくれると色々心強いんだ。すげえ戦力になるし」
黒髪ガデイと白銀髪アバンは学校でも家でもまるで同じ家族のように過ごしてきた。
鍛冶屋の息子で体格が良く豪快奔放なガデイが詩や歌を好み、古本と旧都汎用通信網に飛び交う膨大な情報に囲まれて育った細身の美少年アバンが古式剣術の競技大会で連続優勝記録を持つ名手、という妙に対照的な二人。つるんでいる彼らを見て、またあの凸凹コンビがと大人達は笑い、少年達は二人が考案する新しい遊びを求めて集まるのだった。
「君が狙ってるのは掘り出し物だろう。遺跡保護地域からの持ち出しは、それが小石一つでも罪に問われるの知ってるよね」
アバンは画面から目も上げずに話を続けた。二人は今年で13歳になる。お互いに初めて会った時のことを覚えていないほど長い付き合いなのに、なぜかアバンはガデイを“君”と呼ぶ。
「なにも売りさばいて儲けようってんじゃないんだ。先祖のものは子孫のオレたちのもの。どうせ埃をかぶったガラクタなんだから古い詩集を部屋の棚に飾っとくくらい……」
「そのボクらの祖先が生きていた証なんだよ。そっとしておいてあげたら」
「ま、来ないならいいんだぜ。あーあ、オヤジの新作の短剣持ってきたんだけどこれムダだなぁ。それとオレ、ちょっと面白そうな場所、見つけちゃったんだけどなぁ~」
一瞬の間。白銀髪アバンは初めて画面から目を上げた。
右へ左へ、階下からまた上へとどのくらい走っただろう。
アバンは駆けていた足をスライドさせ、床を滑りながら減速すると相棒に呼びかけた。
「待て、ここは広間になっている」
「へえ。初めて見るな、こんな場所」
ガデイも運動神経では負けていない。アバンにほとんど遅れることなく開け放たれた扉から内部をのぞき込んだ。
「誰もいない」
「わかるもんか。大体さっきの犬けしかけた連中は何なんだよ。何も盗ってないのに」とガデイ。
「ここは遺跡保護地域の最深部だと思う。おそらく聖域なんだよ」
「なーるほど。ここは地下に埋もれた進入禁止の聖なる宮殿ってヤツですか、アバン先生」
「ああ。それもこれも君が秘密の入り口とやらで足を滑らせなければ……」
「手ぇ取ってくれてありがとな。結局、巻き添えにしちまったけど」
「君だけいなくなると親父さんに言い訳できないからね。それにしても迂闊だった!」
沈着冷静なアバンがいつになく感情をむき出しにしていた。彼には何か悔いる点があるらしい。
「迂闊ったってあの怪しい穴からこんな深くまで落ちるとは思わないじゃんか。ゴーッって内に引き込む風が吹いたかと思えば、後はまるで滑り台だったぜ」
「あるいはこれ自体が罠なのかも」
アバンは広間に踏み出した。
「おいおい……」
大丈夫、と言いつつアバンは広間の中央まで歩みを進める。右の手には短剣。並の大人が相手なら口でも剣でも負かせる自信があるのだ。
「早く来いよ。鍛冶屋のどら息子」
「ったくしょうがねぇな、本屋のお坊ちゃんはよ」
ガデイは背中に括り付けていた鎚斧を手に構えて後に続いた。
「天井が見えないな」とアバン。
ガデイは蛍光ライトを前方に掲げて目を凝らした。
「いくら何でも広すぎるぜ、ここは。まるで……」
「数多の騎士が集う場所だ。シャドウパラディンの」アバンは頷いた。
「はン!シャドウパラディンの本拠だぁ?どうやったらたどり着けるんだ、そんな所」
ガデイがそう言うのも無理はない。天輪聖紀の現在、ケテルサンクチュアリの国内でさえ、闇の騎士団シャドウパラディンは謎として語られる存在なのだ。
「そうか。君、気がつかなかったのか。ボクらが落ちてきた穴」
「穴がどうした」
「あれは恐らく空間に開いた穴だよ。ボクらがこの建物に着いたときに消滅した。跡形も無く」
げっ、とガデイが息を呑んだ。
「じゃ出口は無いってのか……お前、よく平気だな」
平気じゃないよ、とアバンは肩をすくめて見せた。
「旧都汎用通信網に載ってるんだ。まぁ今日まではボクも都市伝説だと思ってたんだけど。昔からセイクリッド・アルビオンの町には空間の歪んだ場所があって、入り込んだら戻ってこられない《穴》が開くんだって。そこでは不思議なことがよく起こるらしい。例えば……」
アバンの言葉が途切れたのにガデイは気づき、彼の視線をたどって同じように凍り付いた。
少年たちの頭上、今までは何もなかった空間に光の球が出現していた。
それは強い光なのに眩しくはなく、彼らの手の届く位置より高くに静止し、微動だにしない。
「例えば、こういう光の球が出現する……とか?」
「そうだね。さすがの君も魔法くらい見たことあるだろう」
「魔法だかなんだか知らねぇが、コイツはさぁ取ってくださいと言わんばかりだよな、へへっ」
ガデイが指を鳴らす。
「そう思うのは君らしいね。魔法なのか科学実験で生まれたものなのか、正体もわからないのに」
苦笑したアバンは次の瞬間、表情を硬くした。犬の吠える声が聞こえたような気がしたからだ。
「あれ、聞こえたよな。不思議ついでに出口の手がかりにでもなるなら、今これを貰っておいて損はないだろ」
ガデイはもう鎚斧を下ろして助走位置へと歩いていた。渋々といった感じで短剣をおいたアバンも反対側に距離を取る。
「どっちか手を伸ばして先に取ったほうが持ち主な。恨みっこなし」
「それでいいよ」
!
なんの合図もなく二人は同時にダッシュし、光の球の直前で高く高く跳び上がった。
学校の球技大会の決勝で競った時のように、伸び上がった二人の手は光の球に達し、挟み込むようにして同時に握りしめた。
次の瞬間──
光と闇が爆発した。
荒涼とした大地に、異形のものたちが対峙していた。
黒い犬とトカゲの戦士が先兵として戦いを肉弾戦を繰り広げる中、先手を取ったのは、竜騎士だ。巨大な鎧竜の上に立ち剣と盾を構えている。
竜騎士が剣を突き下ろすと、槍を構えた黒騎士が衝撃波を受けて苦しみ悶えた。
「《ドラゴンナイト ネハーレン》、かげろうのドラゴンだ」
「撃たれたのは《ブラスター・ジャベリン》だな。シャドウパラディンの」
アバンとガデイはお互いの声が聞こえたことに驚き、ついで自分たちの口をついて出た《知らないはずの知識》に驚いた。いや、そもそもここはどこなのか。肉体の感覚はない。どうやら二人の少年は視点だけの存在となって、この戦いを目撃させられているらしいのだが。
「オレたちどうなっちまったんだ?」
「死んではいないらしいね。幻影を見せられているんだ。この流れ込む記憶もたぶん……」
ドーン!
地表に黒い炎が上がり、それが現れようとしていた。
──映像がぷつりと切れた。
気がつくと二人は手を合わせて、騎士の間の床に着地していた。
さっき飛び上がってから、ほんの数秒も経っていなかったらしい。
渋々ガデイが手を離すと、アバンの手の中に残ったものは青と白からなる台座に赤い宝石が嵌め込まれた首飾りだった。
「……」
二人が言葉を交わす間もあればこそ、正面の大扉が開き、真っ黒な猟犬たちが矢のように飛び出してきた。
「後ろだ!」
アバンが指さす先、ガデイの背後の空間に真っ黒に穴が開いていた。
「逃げ道はここしかねぇ。飛び込むぜ!」とガデイ。
忘れ物だ、とアバンは床に置かれた鎚斧をガデイに放る。
受け取ったガデイの姿が穴に呑まれたのを確かめると、用心深く猟犬に正対し短剣を抜いたまま、アバンも穴に身を任せた。
闇に呑まれる直前、アバンの耳に響いたのは追っ手たちの声、妙に心騒ぐ誰かの叫びだった。
『光の宝具が持ち去られたぞ!我ら闇の騎士の名誉に賭けて行方を捜すのだ!!』
世界観設定:中村聡
本文:金子良馬