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小説

Novel
長編小説「クレイ堕獄譚(プリズンレコード)」

第1章 4話 イマ

 ありえない。

 スィはアジャラの力によって生き延び、今もパンゴにいるはずだ。

 そう考えたところでふと、本当にそうなのだろうか、と疑問が湧いてきた。

 セザはスィの回復を見届ける前に獄送船に乗った。もしアジャラがセザにペテンを仕掛け、スィの病気を治していなかったとしたら?

 すでにスィはあの悪人の街パンゴで死んでいたとしたら? ——誰にも看取られず、たった一人で。

 もしそうなら、きっとセザを恨んだはずだ。

 命が尽きるその瞬間、セザを呪ったはずだ。

 その呪詛がスィの魂をゴーストに変えてしまったのなら——

「……お前はスィなのか」

 刻片は答えない。

「お前を置いていったことが罪なのか」

 セザは甲板から身を乗り出し、縋るように手を伸ばした。

 指先を撫でて風が吹きぬける。刻片を覆う霧状のヴェールが捲れ、その瞳があらわになった。

 スィの瞳は一目見たら二度と忘れられないほど鮮やかな青だった。しかし現れたのは、海底でひっそりとまたたく珊瑚のような、淡い薄紅色。

「スィじゃ、ない」

 セザが呟いたそのとき、波に煽られ、船体が大きく揺れた。

 悲鳴をあげる間すらなく、セザは甲板から弾き出されていた。

 頬にひやりと冷たいものが触れ、セザは目を覚ました。

 目を開けると、髪をカーテンのように垂らし、見知らぬ少女がこちらを覗きこんでいる。

 年齢はスィと同じぐらいだろうか。身体は心配になるほど華奢で、触れれば簡単に折れてしまいそうだ。

 髪は白く、肌はムーンストーンのようにわずかに透き通っている。

 セザは幼い頃に見たアクアリウムのクラゲを思い出した。母親が生きていたころ、彼女が働く店に置かれていた白いクラゲ。

 まじまじと見れば髪色以外にスィと似ているところは無い。

 

 


Illust:中西達哉

 セザが身を起こすと、少女はゆらめくように距離を取った。

「……あんたは誰だ」

 少女は答えなかった。

 どうやらセザは船から落ちたようで、身体は黒い汚水で濡れていた。肉が腐ったような酷い臭いが鼻を突く。

 地面は炭のような黒く尖った砂利でできていた。そばには真っ黒な川が流れ、ごぷごぷと不気味に泡立ちながら、島の奥に向かって蛇行している。

 獄送船はどこにも無い。当然、ほかの囚人たちの姿も見当たらなかった。

 セザが一人で川から岸に上がれたとは思えない。

「助けてくれたのか」

 少女の唇が震えて、砂粒がこぼれるような細い声が聞こえてきた。

「……わたしはただ、あなたの手を引いた、だけで」

 セザは思わず吹き出してしまった。

「それを助けたって言うんだよ。ありがとう」

「たすけた?」

 少女は華奢な腕を掲げ、初めて自分に手があることに気づいたと言うようにぎこちなく指を開いた。

「手が、ある」

「あぁ足もあるぞ。ちょっと透けてるけど、いい感じの足が」

「足……」

 今気づいたというように、少女は自分の脚に目を向けた。

「いっぽん、にほん」

 少女は脚を丁寧に数えてから爪先を引き寄せ、今度は丁寧に足の指を数え始めた。

 セザもそれを覗きこみ、足から手の指まで数えるのを手伝ってやる。

「……——じゅうきゅう、にじゅう」

「俺も手足合わせて二十ある。同じだな」

「……どうして?」

「どうしてって言われても……」

 おかしな反応だった。

 生まれたての赤ん坊が大きな身体を与えられてしまったら、きっとこんな反応をするだろう。

「……あんたは何なんだ」

刻片フラグメント。理想郷の破片。理想郷からこぼれ落ちたもの」

「……さっぱりわからん」

 お手上げ、とセザは両手をあげてポーズを取り、船上での記憶を手繰った。

「堕獄官は刻片フラグメントを “罪を刻むもの” だと言った。それがあんたなんだろ?」

 ふわふわと浮かび船に近づいてきたゴーストたちは形が曖昧で、今目の前にいる少女のようにはっきりとした姿形をしてはいなかった。

 それでも彼女が刻片フラグメントを名乗るからには、その力を持っているに違いない。

「そっちにも何か事情があるらしいが、こっちも急いでる。早く俺に罪能を刻んでくれ」

 船はセザを置いて行ってしまった。これでもしも堕獄に入れない、なんてことが起きたらすべての命運が尽きる。

 少女はぎこちなく、しかしはっきりと首を振った。

「……できない」

「なぜ」

「理想郷が望まないから」

「……俺程度の罪じゃ駄目だって?」

 少女は目を伏せる。雄弁な沈黙だった。

「……っ!」

 焦燥感で思考が焼ける。

 やはりにわか仕込みの罪では駄目だったのだろうか。

 それとも、いくら高価な物だったとしても損壊程度のちゃちな罪では堕獄に入る資格は無いというのだろうか。

 どんどん心がネガティブな方向に進んでいこうとするのを、セザは慌てて立て直した。

 ここで諦めて何になる。見るからにおかしなこの少女が『外れ』なだけで、他の刻片ならセザに罪能を刻めるかもしれない。

 そう自分を鼓舞してセザは立ち上がった。

 蛇行する川に目を凝らすと、樹影の上に尖塔の先が見えた。どうやら目的地はさほど遠くないようだ。

 パシィアはきっとそこにいる。獄送船に追いつきパシィアに指示を仰ぐほか、今のセザにできることはない。

 とりあえずの行き先が決まったところでセザは少女に目を向けた。

「あんたはどうするつもりなんだ」

「在る。理想郷はわたしで、わたしは理想郷だから」

「……さっぱりわからん」

 あたりには、不気味なほどに生き物の気配がない。獣の咆哮はおろか、虫の羽音すら聞こえてこない。

 ただ、息苦しくなるような死の気配だけが立ちこめていた。

 セザはハァとため息をつき、少女の手首を掴んだ。

「——行くぞ、こっちだ」

 脳裏には、いかにもお人好しそうなパシィアの顔が浮かんでいた。彼女ならこのよくわからない存在をどうにかしてくれるだろう。

 特に抵抗する気もないらしく、少女は素直についてくる。

「……あんた、って呼ぶのも何だよな。名前は?」

刻片フラグメント

「……無い、ってわけね」

 予想通りだった。自分の指の数すら知らなかった少女が名前を知っているはずがない。

 ふと、彼女の名前を考えようと思った。

「シロ……いや違うな、犬じゃないんだから。刻片フラグメントだからフラ……いや、ヒューマンにヒューって付けるセンスか?」

 昔、盗んだ魚をバケツで飼っていたとき『フリッター』と名づけてスィに怒られたことがある。

 ネーミングセンスの無さは折り紙つきだ、じっくり考えてもろくなことにはならない。

「—— “イマ” 。お前の名前は “イマ” だ。俺がイマ考えたから」

 シャレの効いた名前だと思ったが、口から出した途端にまずい気がしてきた。

「やっぱ止めだ、止めよう」

「……イマ」

「無いな、無し無し」

「わたしの名前は、イマ」

 繰り返されるとさらに恥ずかしい。悪かった、と言いかけたところで、少女がわずかに頭を下げた。

「ありがとう、セザ」

 そのまっすぐな目に悪い企みが閃いた。

「名前、受け取ったな」

 少女が浅く頷いて、セザは「しめた」と思った。

 きっとセザの訴えを聞いていたアジャラも同じことを思ったに違いない。

「なら対価をもらおうか。この世にあるものはすべて有償だし、名前だってそうだ。そうだな、大サービスで金貨一枚にしておこう」

「え?」

 静かにまばたきをする少女に、セザは早口で言葉を浴びせかけた。

「払えないか、まぁ払えないよな。それなら対価は行動で払ってもらうしかないな、なに大したことじゃない、俺に罪能を刻んでくれればいい」

「……それは」

 セザは戸惑っている少女の手を掴み、縋るように畳みかける。

「罪能をくれ、頼む」

「……だけど」

「俺は罪人にならなきゃいけないんだ」

「…………」

 ついに諦めたように目をつむり、少女——イマはセザの胸に触れた。

 青い炎が起こる。不思議なほど熱くはなかった。

——罪科承認、“一筋の嘘ラスト・ライ”。

 全身に刃の先で撫でるような痛みが走って、青い炎が消えていった。

 これで罪能が刻まれたのだろう。しかしぱっと見えるところにはそれらしいものは無い。

 セザが服をめくって罪能を探していると、耳をつんざく叫び声が聞こえてきた。

「わぁあぁあぁ~~~~見つけた~~~~~~!」

 真っ黒い林の向こうから、パシィアがまっすぐに駆けてくる。

「良かった、本当に良かった! もしセザさんに何かあったら私、クビになっちゃうんじゃないかって……ようやく中に入れると思ったのに……でももう大丈夫、さぁ行きましょう! ……ん?」

 一方的にまくしたてていたパシィアは、そこでセザの影に隠れていたイマに気づいた。

「あなたは?」

「……イマ」

 パシィアは携えた分厚い本を開き、すぐに首を傾げた。

「イマさん……はちょっと名簿に名前が無いですね。どちらからいらっしゃったんですか?」

「理想郷から」

「えっと……?」

 パシィアが助けを求めるようにセザを見る。しかしセザにだって分からない。

「本人は刻片フラグメントって名乗ってる」

「あっはっはっ! まさかぁ。刻片フラグメントは罪能を刻む “現象” 、こんな可愛い女の子じゃありませんよ」

「わかった、じゃあ迷子だ。それでいいから保護してくれ」

 セザが投げやりに言うと、パシィアは困ったように眉を下げた。

「ふぇ? 迷子なんてありえませんよ。辺獄には古の結界があって、堕獄官と堕獄囚以外は入れないんです」

「そんなこと俺に言われても困る」

「えーっと、こういうときは……書いてあったっけ……」

 パシィアは焦った様子でしばらく分厚い本をめくっていたが、「無い……」と悲しげに呟き、諦めたように本を閉じた。

 失態を取り繕うようにイマに向かってめいっぱい微笑む。

「わかりました、あとで私と一緒に執務室に行きましょう。安心してください、記録をあたればきっと方法が見つかりますから。そのワンピースじゃ寒くないですか? 私の制服で申し訳ないですが、こちらをどうぞ」

 と、パシィアは着ていたジャケットを脱いでイマの肩にかけている。

 甲斐甲斐しく世話を焼いているその姿に、セザは小さくガッツポーズをした。

 ひとつ面倒を押しつけ終わったところで、林の奥から男の怒鳴り声が聞こえてきた。

「——おい、堕獄官!」

 やってきたのはダモスだった。

 彼も川に落ちたのか、全身汚水まみれで毛がべったりとまとわりついている。

「ダモスさん! あぁ、ご無事でよかった」

「……これが無事に見えるか?」

 殺気を迸らせるダモスに「えっと……? すみません……? でもお風呂の準備は無くて……」とパシィアはズレたことを言った。

 ダモスは舌打ちをしたが、川で溺れて疲れ切っているのか、それ以上は何も言わなかった。

 パシィアについて黒い林を抜けると、目的地となる建物が見えてきた。

 建物とは言っても、パンゴにあるようなコンクリートやレンガを組んで作ったビルとはずいぶん趣きが異なっている。

 巨大な奇岩をそのまま用いたような歪な形。その壁面は長年風雨にさらされたのか、無数の小さな孔が空いている。

 正面の大扉は開かれていた。パシィアに続いて中に入る。

 内部も人の手が入っているとは言いがたく、足もとには黒いツタ状の物がのたうち、雨でも漏れているのか水が滴る音が聞こえた。

 鍾乳洞のような回廊を進むと、式典ホールのような場所に行き着いた。

 階段をあがった所には、門のようなものがある。しかし門とは言ってもその先はただの岩壁になっているため、巨大な暖炉飾り枠マントルピースと表現するのが正しいだろうか。


Illust:めそ

 パシィアは足を止め、もったいぶって「えほん」と咳払いをした。

「こちらが辺獄の最終地点、中へと繋がる始まりのゲートです。ここを抜ければそこはゲヘナシア、もう戻ることはできません。いいですね?」

「グダグダしてんなよ、そのデケェケツに突っ込むぞ眼鏡ブス!」

 ダモスから品の無い罵詈が飛ぶ。

「め、眼鏡ブス?! 仕方ないじゃないですか、確認する決まりなんですから! あぁ、もうっ!

—— “夢にもひとしき命、うたた寝に垣間見た現世、理想郷に永遠が満ちますよう”」

 パシィアが歌うように唱えると、門が魔力を帯びて光を放った。

 門の向こうの岩壁が水面のように揺らぎ、その先がわずかに透けていく。

 堕獄に繋がったのだ。

 パシィアは手を広げてゲートを示した。

「さぁ、どうぞ。お二方の幸運を祈ります」

「あぁ、わざわざどーも」

 しかしダモスはゲートに向かおうとせず、大股でパシィアに歩み寄ると、丸太のような腕を振りあげた。

 手の甲では罪能の紋が青く光っている。

「——ありがとなッ!」

 巨大な拳を振り下ろし、パシィアを容赦なく吹き飛ばした。

 肉の潰れる鈍い音。パシィアは石壁に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

「痛っ、つつ……」

 ダモスは熱を醒ますように拳を軽く振っている。側面は赤く爛れ、細く煙が立ちのぼっていた。

「クソ痛ってぇな! ジャケット無いくせにこれかよ」

 パシィアのこめかみからは血が滴り、瞑った瞼は痛みに震えている。しかし命に別状は無いようだ。

 普通なら即死の拳だった。この程度で済んでいるのは制服に付与されているという守護魔法のおかげだろう。

 突然の惨劇に、セザの頭は混乱していた。

 どうして堕獄官を襲った? そんなことをして何の得になる——理解ができなかった。

「さてと」

 ダモスがセザとイマを見て、唇をめくりあげた。次の獲物はお前たちだ——目がそう言っている。

 セザは媚びへつらうように笑った。

「ダモスさん、あんた堕獄を攻略するんだろう? 俺たちみたいな雑魚に貴重な罪能を使う必要はない。あんたの力がもったいないよ」

 悪人はほとんど思慮が浅いバカだ。感情の導火線が短く、相手の話を聞こうとしない。

 しかし意外なことにダモスは「確かにな、お前の言うとおりだ」と素直に頷いた。

「お前、俺が何て呼ばれてる知ってるか?」

「“九十九人殺しのダモス” 。誰でも知ってる、スターだ、敵うわけがない! それに比べて俺は地面をコソコソ這いまわるドブネズミみたいなもんで、あんたの相手になんか——」

 命乞いをするように卑下を並べたてるセザを、ダモスが怒声で遮った。

「“九十九人”! キリが悪いだろ? 気持ち悪いだろ?」

「あ、あぁ……」

「中に入る前にあと一人、ここで殺しておきたいじゃねぇか」

「バ、」

 バカみたいな理由だな、と口から出かけた。『キリを良くする』ために殺すなんて、人の命を何だと思ってるんだ。

 あぁそうか、とセザは思う。

 罪人っていうのはどこまでもバカげた生き物なんだ。

「殴り甲斐は無さそうだが贅沢言っちゃいられねぇな。オスか、メスか、どっちがいいか……」

 楽しげなダモスを見据えつつ、セザはイマの手首を握りしめた。

 押し固めた空気のような奇妙な触感、冷ややかな体温、生き物ならあるべきはずの鼓動は感じられない。

 やはり彼女は刻片フラグメントで、ゴーストなのだ。

 罪能を纏ったダモスの拳はイマに致死のダメージを与えるだろう。だが、生き物じゃないゴーストなら殺されてもいいじゃないか。

 そうだ、イマを囮にしてその隙に堕獄に飛びこめばいい!

 名案だと思った。しかし身体が動かない。

 はは、とセザは自嘲を漏らした。

 かつて飼っていた魚に『フリッター』と名づけたのは、どうせいつか食うんだ、と思ったからだ。初めから食べ物の名前をつけてしまえば愛着も湧かずに済む。

 ずいぶん捻くれた考えだが、それは正しかったのだろう。

 イマ、なんてバカみたいな名前でも、付けてしまえば愛着が沸く。

   バカみたいな理由で殺されて欲しくないと思ってしまう。

「行け!」

 イマの肩を突き飛ばし、セザはガラスナイフを抜いた。

「そうかよ! その方がアガるってもんだ!」

 ダモスは目を爛々と輝かせ、腕を高く振り上げた。

 セザに勝算は無かった。勝てるわけがない。

 しかし今必要なのは勝つことではなかった。ダモスと対峙し、そのまま堕獄に逃げこむことだ。それならセザにも方法がある。

 刻印が輝く拳は右。当然、左に隙ができる。左を狙って走り抜ける——

(と、見せかけて!)

 豪速で迫る拳を躱し、あえて踏みこむ。独楽のように身体を旋回させ、ダモスの右脇に跳ねた。

 ぶぅん! えぐい音を立てて腕が振り抜かれれば、右はガラ空きだ。

 罪能によってどれだけ力が強くなろうとも、当たらなければ意味がない。

(よし!)

 脇の隙間を通り抜け、そのまま階段を駆けあがる。ゲートまでは五メートル、目と鼻の先——行ける!

 背後から声がした。

 

「—— “巨罪拳ジャイアント・パンチ”」

 

 セザは背中から吹き飛ばされていた。

 胸から地面に倒れこみ、虫がもがくように顔を上げれば、こちらに悠々と歩いてくるダモスの姿。

 拳は届かない距離だったはずなのに、なぜ。

「罪能ってのはすげぇよな、空気を殴っただけでこの威力だ」

 ダモスは『1000』と刻まれた拳を自慢げに掲げ、転がっているセザの腹を蹴りあげた。

 セザの身体はボールのように跳ねてバウンドする。

 すると突然、ダモスが「ダハハハハ!」と仰け反って笑いだした。

「おいおい、マジかよ。——お前の罪能『1』じゃねぇか!」

「……っ」

 そんな、まさか。

 胸に手をやると、吹き飛ばされた衝撃で胸元が破けている。そこにははっきりと『1』の紋が刻まれていた。

「俺の罪能はたったの1……?」

 イマがあれだけ渋ったのだから、大した数ではないとは思っていた。

 それでも二桁の後半、上手くいけば三桁には乗るのではと、そう淡い期待を抱いていた。

 現実を受け止められずにいると、ダモスがガハッと吹き出した。

「メスはやめだ、お前が百人目だ」

「……堕獄官の話を聞かなかったのか? 堕獄囚は罪能がある限り死なない」

 確かにセザの罪能はたったの1だ。しかしこの1がある限り、セザが死ぬことはない。

「ガハハハハッ!」

 最高のジョークを聞いたようにダモスは笑った。

「そうか、お前は船から落ちて聞いてなかったのか! あの女は言ったぜ、堕獄でも囚人は死ぬんだ」

「……まさか」

「いいや。堕獄囚は不老だが不死身じゃねぇ。刺されりゃ死ぬ。ただし、罪能を対価に生き返るんだ。つまり、殺し続けりゃ『0』になる。『0』の囚人は生き返らない!

——おい『1』、2回殺せるか試そうじゃねぇか」

 ぞっ、と寒気が駆けていく。

「……ッ」

 セザは弾かれたように身を起こし、ゲートに向かって走り出した。しかし二歩も行かずに足先が脾腹に刺さる。

「ぐっ……うっ……!」

 もんどり打つセザを、ダモスが下卑た笑みで覗きこんでくる。

「おいおい、寂しいじゃねぇか『1』くんよ」

 何か手は無いのか。罪能を使えば逃げる時間くらいは稼げるか?

 しかし、罪能が0になれば堕獄には入れない。スィを救えない――

「お前、パンゴの大通りにいたガキだろ。いっちょ前にこちらを睨んでた。船で見て驚いたぜ。どんな罪があるのかと思えば——『1』!」

 ダモスはセザを足蹴にする力を強めていく。

「なんだ、堕獄に入れば英雄になれるとでも思ったか? こそこそ生きてるドブネズミが、何者かになれるって? 無ぇ無ぇ無ぇ、無ぇんだよッ! ——お前はただの『1』だ!」

 セザは死に物狂いで身を起こしたが、痛みが走って足がもつれる。一歩、二歩と後ろによろめき、あぁここで死ぬのかと諦観めいたことを思った、そのときだ。

 肩に繊細な指の感触があって、横で柔らかなヴェールのようなものがふわりとなびいた。

「セザ」

 驚愕して振り返ると、イマがセザの背を支えるようにして立っていた。

「何でまだいる、早く逃げろ!」

「なんで……」

 イマはわずかに考えこみ、小さくまばたきした。

「わたしが、そう望んだ・・・から」

 思わず言葉を失うほど、強い意志のこもった声だった。

 イマは言う。

「存在は無辜、望みは罪。わたしは望みつみによって理想郷からこぼれたもの、イマ。セザ、あなたの望みを教えて」

「……俺の望み?」

 とっさに答えが出なかった。

 セザはただ生きていたいだけだった。豪華な食事も黄金もいらない。殴られても腹を空かせていても、明日さえ来るのならそれでいい。

 なのに、それだけのことが許されない。

 悪人だけが生きていけるこの世界で、セザの力はあまりに弱く、悪人たちにすべて踏みにじられる——それなら。

 

「俺の望みは、すべての罪を奪うことだ。千年だって、万年だって」 

 

 すてき、とイマは言った。

「そうしたら、ずっと一緒にいられるね」

「何ごちゃごちゃ言ってんだ!」

 ダモスが拳を振り上げ、セザ目がけて振り下ろす。

 後ろにはイマがいる。もう足はもつれない、セザの方が——はやい。

 煌めきが走って、ナイフの切っ先がダモスの拳、その罪印へと突き刺さった。

 肉を貫いたというのに空気を突いたようなあっけない手応えがあり、ふと、糸が切れたように奇妙な静寂が満ちて。

 声がした。

 

『 しにたくない 』

 

声は束なり、莫大な音の奔流として脳内に響き渡った。

 

  ころさないで、どうして、どうし、いたい、しにたくな、

しぬの、なんで、こわい、こわいこわいこわい、おかあさ、いたいよ

  ごめんなさい、ゆるして、あついよ、いたいいたい、だいじょうぶきっと

 どうして

 

 音は荒れ狂う大波となって、セザの脳裏で像を結んだ。

 薄暗い路地裏で、視界が暗く染まるなか、血だまりのなかでもがく男。

 目も鼻も、命乞いの喉すら潰れ果て、この世のすべてを呪う少年。

 胸に子どもを抱きかかえ、この子だけはと命乞いする女。

 彼らを見下ろして、唇をめくれ上がらせダモスは哂っている。

 セザは気づいた。

 これはダモスに殺された人々の断末魔だ。今やただの数字となった人々の呪いだ。

 絶叫がセザの脳天を貫いて、意識を根こそぎかっ攫い、悪人とは、罪人とは何なのかを叫びたてる。

 悪とは踏みにじることだ、罪とは奪うことだ。お前にその覚悟はあるのか?

 セザはナイフを握る手に力をこめ、喉を裂くように叫んだ。

 

「お前の罪を寄こせッ!」

  

 絶叫が束縛を引きちぎり、何かが身体を駆け抜けていく。

 右手が鉄を押し当てられたように熱く、そこに天から声が降る。

——罪科承認。