ユニット
Unit
短編小説「ユニットストーリー」
107 龍樹篇「凶眼竜皇 アマナグルジオ・マスクス」
ダークステイツ
種族 アビスドラゴン
悪夢の朝。
“王の峡谷”の門は破られた。
帝の直衛についていた樹角獣たち、すなわちパンテーロ、アルピン、ギュノスラ、エンピックスは、ただの一撃で蹴散らされた岩戸の破片、もうもうと立ちこめる粉塵の向こうに立ちはだかる巨大な影に向け、一斉に威嚇の牙を剥く。そんな地上の修羅場に対し、天は悲しいほどに晴れ渡っていた。
彼らの背後にはこちらもやはり小山と見まごう、樹角獣帝マグノリア・エルダーの偉容が聳えている。
「我に跪け!マグノリア・エルダー!」
それはまるで恐怖そのものが形を取ったかのような、物理的な圧力まで感じられる咆哮。
樹角獣の衛士たちは一斉に地にひれ伏した──名誉のために、この場でマグノリア王を守る任務に当たっている彼ら彼女らはレティア大渓谷でも選りすぐりの精鋭である事を断っておかねばならない──。
この圧倒的な恐怖の波の中でただ一人、打ちひしがれなかった者がいる。衛士らしからぬ風貌、変わった形の眼鏡を掛けた獣人だった。
「待て、アマナ。今、樹角獣帝よりお言葉を賜る」
C・K・ザカット。動物学者としてレティア大渓谷に入り、その研究熱が高じるまま、グレートネイチャー総合大学動物学教授の座を投げ打ち、森を守る獣医として樹角獣たちの世話を見ながら、帝の近くに使えている。だが今、ザカットは侵略者を旧知の仲のように“アマナ”と呼ばなかったか。
「龍樹に与する者よ、去れ。この地は我と我が愛する樹角獣たちの版図である」
ザカットは帝の言葉を通訳した。マグノリアの言葉に相当するものとは、帝自身が象徴する“森”、それ自体が発する“波動”だ。そしてそれは樹角獣や帝が心許す獣人にとっては、言葉よりも鮮やかに意味を汲める意図の伝達だった。
「まさに蟷螂の斧だな、樹角獣帝。おまえにも“森”にも我を拒む力はすでに無い。判っているだろう」
凶眼の竜は嘲笑い、帝と獣医は沈黙した。
「此の国の心髄はここレティア大渓谷にあり。『マグノリアの世界樹』の陥落はすなわちストイケイアの完全支配を意味する。今日、世界最古の世界樹を平らげる我が名は……」
恐怖の支配者の名で呼ばれる竜の胸に凶眼が燃えていた。唯一無二の力を求めて。
「凶眼竜皇アマナグルジオ・マスクス!!」
いま再びの咆哮。
マグノリアが座すレティア大渓谷の奥宮、王の峡谷は恐怖に鳴動した。
Illust:touge369
ストイケイア国旧ズー領、ゾーア・カルデラからズーガイア大陸西端に至るまでの広大な土地は「レティア大渓谷」と呼ばれている。
山あり谷あり幾筋もの川が流れ清水の湧く泉も無数にある、ここはストイケイアの中でも特に自然に恵まれた動植物の楽園だ。
「にゃあ」
動物学者C・K・ザカットがその猫の鳴き声を聞いたのは夕方。
昼間、住居兼研究所兼診療所につめかけ(様々な鳴き声で)賑やかなお喋りに興じていた樹角獣たちも塒に帰り、ほっと一息ついて冷たいお茶を満喫していた時だった。
「やぁ、ずいぶん遅いお客様だね」
ザカットは穏やかな口調で語りかけた。
だが、普通の患者と違っていたのは口に運んだカップはそのままに、振り向きさえしなかったことである。
「……」
「君はとてもお喋りだって聞いていたけどね、アマナ」
「……。あなたは優秀なお医者さんだって聞いたんだけど、ザカット先生」
「どこか悪い所があるの?」
「ワタシはどこも。直すべき所があるとすればこの土地ね」
いまや完璧な共通語を操る黒猫は謎めいた答えをして、フンと鼻を鳴らした。
「土地は直すものではないと思うけど」
「話す時は人の目を見てって大学では教えてなかった?教授」
こっちを見ろ、と暗に促されても、ザカットは振り向かなかった。
「残念ながら私は教えるのは得意ではなかったんだよ。言行不一致ってやつさ」
「それ、ウソだね。知っているんでしょ、ワタシの眼の力を」
夕焼けの窓辺で、黒猫の異様に大きい右眼が光っていた。ザカットが頑なに振り向こうとしなかったのはこの眼を警戒しているのだろう。
「いや、私はシャイなんだよ。凶眼獣アマナキィティ」
ザカットは苦笑いしてカップをテーブルに戻した。その手がかすかに震えソーサーが鈴鳴りの音を立てた。
さりげない会話と仕草の裏で緊迫した腹の探り合い、強い精神力を持つ者同士の鍔迫り合いが行われている。
Illust:Moopic
突如、大音量の叫びが響いた。
ザカットはそれでも耐えた。イヌ科獣人の本能としては音に反応し、肉体は振り返らざるを得なかったはずだ。凄まじい克己心の賜物といえよう。
Illust:Moopic
Illust:Moopic
「ククク……これでもまだ我が凶眼に向き合わぬとは。もう大丈夫だよ、振り返ってごらん。ザカット教授」
その声は再び、ザカットの背後から羽ばたきの音を伴ってかけられた。思わず声の方を振り返りたくなるような、邪悪だが心に忍び入るような甘い声だった。
「ふふ……大丈夫な訳がないだろう。凶眼獣アマナクロウグ、そして君、アマナオウルズ。ネコからカラス、そしてフクロウへ。これほど目まぐるしい変化を見せられると動物学者としては正直、振り向きたい衝動を抑えるのが難しいよ……警告をくれたセルセーラとアリウスには感謝しなくてはね」
「チッ!あのすばしっこいネズミどもめ!食らい尽くしてくれればよかったものを!」
凶眼獣アマナオウルズ、フクロウ型の悪魔は地金を剥き出しにした。
「捕まえられなかったんだろう?通信が妨害されているから、君たち龍樹側の監視をかいくぐって自分たちの足で歩いて(いや獣ムーンバックの背に乗ってだから飛んでかな)つい先日ここまで教えに来てくれたんだよ。彼女たちこそ勇者だ」
「黙れ!お前たちの英雄ごっこには虫酸が走るわ!……一人一人、切り崩してその無力さを思い知らせてやる」
「そういう君たち龍樹だって、一枚板じゃないんだろう。リアノーンとも私は親しいんだよ」
「よくもその名を言ったな……」
その声音は岩がきしるようだった。事実、この樹上にある診療所が何か大質量の出現にともなう衝撃波で、激しく揺れきしんだ。
ザカットは今度こそ戦慄した。イヌ科獣人の、本来こうした時にも開かぬはずの汗腺が冷や汗を滲ませる。全身の震えが止まらない。意識せず、舌がだらりと垂れ下がった。それは深甚な恐怖だった。
「そう。その恐怖だ。極上の味だぞ、ザカット医師」
ザカットを3度、別な称号で呼んだその存在は、猫がネズミをいたぶるように嘲笑った。
「最初に何用かと聞かれたな。では答えよう」
「……」
「我ら龍樹は明日の朝、“王の峡谷”を攻める。同化を拒むものは滅ぼす」
ザカットは何も答えられなかった。容赦のない宣告が、ただただ怖ろしかったのだ。
「マグノリア王に伝えよ。抵抗は無駄だ」
「樹角獣王マグノリア様はすでに聞いておられる」
やっとザカットは言葉を出すことができた。
「なるほど。この“森”自体がマグノリアの保護下、意識の中で守られているという訳ね」
背後の声はまた最初の愛らしい(しかし邪悪な)猫の声に戻った。またしても振り返りたくなる誘惑に耐えながらザカットは答えた。
「レティア大渓谷の樹角獣たちは穏やかに見えるだろうが、怒らせると怖いぞ」
「怖さには恐さで。従わせるわ。マグノリアも世界樹も、あなたも、あの娘も再び」
ザカットはまたリアノーンの名を口にしかけて、なんとか踏み留まった。凶眼の獣アマナは怒りに満ちている。刺激するのは危険だった。この状況でいまこの瞬間、まだ命存えているのはこの自制力のおかげなのだ。
「じゃまた会いましょう。明日の朝、“王の峡谷”で」
大渓谷の探究家C・K・ザカットの返答を待つこともなく、その存在は巨大な翼を羽ばたかせて去った。やはりこの樹上の庵の目前で、黒猫から変化していたのだろう。噂の凶眼竜アマナグルジオへと。
「あぁ……」
ザカットは絶望の叫びをあげて、床に倒れ伏した。
言われるまでもなく勝機はほとんど無かった。
このザカットの住居もまたマグノリアの領域。その保護下の森に、敵はやすやすと侵入したのだ。より厳重に守護された奥院とて無事だとどうして断言することができるだろうか。
Illust:touge369
奥院、レティア大渓谷でもっとも神聖にして守りが堅いはずの“王の峡谷”をめぐる戦いは、あっけないほど短く決着がついた。
凶眼を見ないようにというザカットの警告空しく、真の姿と力を現した凶眼竜皇アマナグルジオ・マスクスと恐怖の前に樹角獣はなぎ払われ、“王の峡谷”の門は破られた。
だいたいまともに相手を見ずに戦えるわけがないのだ。まして龍樹の仮面から圧倒的な恐怖の気配を漂わせるアマナグルジオ・マスクスは、動物たちの力を弱め、あるいは封じる特別な力を持っているようだった。
凶眼の獣アマナとは、まさに龍樹がストイケイア攻略に対して用意した決戦兵器だったのだ。
「降伏せよ、マグノリア」
凶眼竜皇アマナグルジオ・マスクスはもはや敬称もつけなかった。
地に臥した樹角獣が主を軽んじられる屈辱に歯噛みするのが、ザカットには聞こえるようだった。
『ザカット……』
突然聞こえた“声”に、ザカットは驚きを抑えるため全力を費やさなければならなかった。
幸い、この瞬間の敵アマナは、配下の龍樹の落胤デプス・エイリィやミザリィウイング・ドラゴンが樹角獣を無力化させてゆくのを満足げに見下ろしていたので、ザカットの些細な動揺には気がついていない。
Illust:DaisukeIzuka
(マグノリア様?)
もしこの声が樹角獣帝マグノリア・エルダーのものだとすると、直接臣下に言葉(思念)で話しかけるなど、前代未聞の出来事である。
『そうです。ザカット、よくやってくれました。もう無理をせずともよい』
その声は深く、無限の優しさと包容力、そして何者にも侵せない権威と力が漲っていた。
(はっ。しかしこのままでは龍樹の成すがままに、世界は……)
『いいえ。あなたを通して知った事からすれば、龍樹の目的は我々を滅ぼすことではないようです』
アマナグルジオ・マスクスは少しいらついた様子でザカットに叫んだ。
「どうした!樹角獣帝の返答はいかに?」
「もう少しだけ、待って欲しい」
「いいだろう。だが我は気の長い方ではないぞ、急げ」
時間を稼ぐべく、ザカットはマグノリア・エルダーの巨躯に向き合って跪いた。
『それでよい。ザカット、この後アマナは仮面を着けるよう要求するはず。受けましょう』
(陛下!?そ、それでは……)
ザカットはまた冷や汗が全身に滲むのを感じていた。
『彼女らが望むのは“力”。そうですね、ザカット。“力”とはそれを振るう方向が伴って初めて実効する。我らにはまだ幾つかの希望が残っています。いまアマナたちが振るっているのは恐怖させ屈服させる力。そして彼らを倒すのもまた道を正す“力”のはず。仮面を着け、これを見極めましょう』
(危険です!)
『やるのです。我らが神格ニルヴァーナとリノたち、トリクスタを信じて。彼女の“眼”に惑わされずに』
「ザカット!!」
アマナグルジオ・マスクスの怒号に龍樹の兵までが地に伏せる。
「陛下のお言葉である。……龍樹を受け入れよう」
凶眼竜皇の咆哮は哄笑へと変わった。
「ほう!誇り高きマグノリア、実り豊かなストイケイアの化身が我らに膝を折るか。これは愉快!」
ザカットと樹角獣は今度こそ音を立てて、悔しさに歯噛みした。
だが敵に向かって身を乗り出した樹角獣帝マグノリア・エルダーはあくまで気品に満ち、堂々として、まったく敗者のそれではなかった。
「では仮面を着けよ。今日この瞬間からおまえも我らの仲間だ。歓迎するぞ、マグノリア」
Illust:かわすみ
かくしてストイケイアの西、不可侵を誇ったレティア大渓谷は龍樹の手に落ちた。
朝の陽に胸を張り、仮面に前肢を差し出したマグノリア・エルダー。それは自由と平和の民の守護者、レティア大渓谷の王の最後の姿だった。
----------------------------------------------------------
《今回の一口用語メモ》
ストイケイアの心髄『マグノリアの世界樹』
惑星クレイに数ある世界樹の中で、もっとも謎めいた存在だったのがレティア大渓谷の奥院、峡谷の中にある『マグノリアの世界樹』だ。
もし近くで見る事ができた者はその偉大なる力に魅了されるだろう。かくいう私もその一人である。
この世界樹がその知名度とあまりにも強い力に比して、長らく世間の目に触れてこなかったのは、ほかでもない樹角獣帝マグノリア・エルダーのお膝元、偉大なる森の王自体の御座に根を張り安置されてきたからだ。
レティア大渓谷は“悪意あるものを拒み無力化する”樹角獣王マグノリアの力によって、凶眼竜皇 アマナグルジオ・マスクスによる龍樹侵攻までは、《世界の選択》の時でさえ、ただの一度も他勢力の侵略を許したことはなかった。
惑星クレイの世界樹はいずれも惑星の生命と密接につながり、世界樹を通して地上の生命の活力が惑星自体の力(運命力)に変えられ、そしてその惑星の豊かなエネルギーがまた新たな生命を育む……という自然のシステムの「環」である。
現在クレイを席巻している異星からの侵略者、龍樹の目的とはこの運命力の吸収・奪取にあるらしく──その軍門に下ることになった今もこの核心だけは、私にも教えてくれない──、故に『マグノリアの世界樹』がその標的になることは、以前から懸念としてあった。
そして『マグノリアの世界樹』とその祭壇は現在、龍樹の配下によって占拠されている。
これも不確定情報だが、どうやら他の世界樹とは埋蔵量の桁が違うらしく、配下ではなくもっと強力な存在によってストイケイアの力を龍樹支配の力に直結させたいと考えているようだ。
つまり私の懸念は、龍樹の仮面を着けた我が樹角獣帝が、この「運命力の供給・運搬役」を任されることになるのではないかというものだ。
この文章が監視役に特に止められないという事は、まさか……いや徒に不安をかき立てる憶測は止めよう。
以上、龍樹本拠宛。ザカットより最初の報告書となります。
※本稿は自称を変えること以外特に検閲されることもなく、私の庵で自由に書き記し保存することが許された。教授の称号に未練はないのでこの点で不快と感じることは無い。さて、他の龍樹の支配下の土地とたぶん同じように「水銀様の者」が住民に交じってきたこと以外、今のところ生活自体は龍樹侵攻前とほとんど変わることは無い。奥院の岩門は破壊されたが、森と渓谷は平穏を取り戻している。ヒュドラグルム「龍樹の落胤デプス・エイリィ」も外見こそ奇異な感じではあるが、問題や衝突を起こした事例は皆無だ。が、私はこの穏やかな同化政策が嵐の前の静けさのように感じてならない。また現在、レティア大渓谷の境界を越えて出ることは禁じられており連絡手段もなく、我々は実質孤立している。いつかこの状態を……おっと。そろそろ背後の龍樹の落胤どのが鎌首をもたげているようだ。このあたりで止めにしないといけないか。それでは私は筆を置き、お茶を楽しむことにしよう。水晶玉の皆、あとは頼んだよ※
------
世界樹については
→ユニットストーリー049「ジプソフィラの妖精 アシェル」《今回の一口用語メモ》を参照のこと。
レティア峡谷の世界樹、つまり今回の『マグノリアの世界樹』については
→ユニットストーリー065 世界樹篇「リペルドマリス・ドラゴン」
において、ディアブロス“暴虐バイオレンス”ブルースが「最後に(龍樹勢力が)狙うであろう候補地」と予測して警告のため訪れ、魔宝竜ドラジュエルド曰く「惑星の生命に直結する世界樹」として触れられている。
あまりにも巨大な力と体躯をもつマグノリアの究極の姿「樹角獣帝マグノリア・エルダー」にについては
→035「樹角獣帝 マグノリア・エルダー」を参照のこと。
動物学者、獣医、樹角獣帝の廷臣C・K・ザカットについては
→ユニットストーリー017「樹角獣 ダマイナル」
ユニットストーリー053「大渓谷の探究家 C・K・ザカット」
を参照のこと。なお、現在のザカットの職籍については本人(退職)と大学側(在籍)で齟齬がある。
凶眼の獣アマナと凶眼竜 アマナグルジオについては
→世界観コラム「セルセーラ秘録図書館」016 凶眼、を参照のこと。
----------------------------------------------------------
“王の峡谷”の門は破られた。
帝の直衛についていた樹角獣たち、すなわちパンテーロ、アルピン、ギュノスラ、エンピックスは、ただの一撃で蹴散らされた岩戸の破片、もうもうと立ちこめる粉塵の向こうに立ちはだかる巨大な影に向け、一斉に威嚇の牙を剥く。そんな地上の修羅場に対し、天は悲しいほどに晴れ渡っていた。
彼らの背後にはこちらもやはり小山と見まごう、樹角獣帝マグノリア・エルダーの偉容が聳えている。
「我に跪け!マグノリア・エルダー!」
それはまるで恐怖そのものが形を取ったかのような、物理的な圧力まで感じられる咆哮。
樹角獣の衛士たちは一斉に地にひれ伏した──名誉のために、この場でマグノリア王を守る任務に当たっている彼ら彼女らはレティア大渓谷でも選りすぐりの精鋭である事を断っておかねばならない──。
この圧倒的な恐怖の波の中でただ一人、打ちひしがれなかった者がいる。衛士らしからぬ風貌、変わった形の眼鏡を掛けた獣人だった。
「待て、アマナ。今、樹角獣帝よりお言葉を賜る」
C・K・ザカット。動物学者としてレティア大渓谷に入り、その研究熱が高じるまま、グレートネイチャー総合大学動物学教授の座を投げ打ち、森を守る獣医として樹角獣たちの世話を見ながら、帝の近くに使えている。だが今、ザカットは侵略者を旧知の仲のように“アマナ”と呼ばなかったか。
「龍樹に与する者よ、去れ。この地は我と我が愛する樹角獣たちの版図である」
ザカットは帝の言葉を通訳した。マグノリアの言葉に相当するものとは、帝自身が象徴する“森”、それ自体が発する“波動”だ。そしてそれは樹角獣や帝が心許す獣人にとっては、言葉よりも鮮やかに意味を汲める意図の伝達だった。
「まさに蟷螂の斧だな、樹角獣帝。おまえにも“森”にも我を拒む力はすでに無い。判っているだろう」
凶眼の竜は嘲笑い、帝と獣医は沈黙した。
「此の国の心髄はここレティア大渓谷にあり。『マグノリアの世界樹』の陥落はすなわちストイケイアの完全支配を意味する。今日、世界最古の世界樹を平らげる我が名は……」
恐怖の支配者の名で呼ばれる竜の胸に凶眼が燃えていた。唯一無二の力を求めて。
「凶眼竜皇アマナグルジオ・マスクス!!」
いま再びの咆哮。
マグノリアが座すレティア大渓谷の奥宮、王の峡谷は恐怖に鳴動した。
Illust:touge369
ストイケイア国旧ズー領、ゾーア・カルデラからズーガイア大陸西端に至るまでの広大な土地は「レティア大渓谷」と呼ばれている。
山あり谷あり幾筋もの川が流れ清水の湧く泉も無数にある、ここはストイケイアの中でも特に自然に恵まれた動植物の楽園だ。
「にゃあ」
動物学者C・K・ザカットがその猫の鳴き声を聞いたのは夕方。
昼間、住居兼研究所兼診療所につめかけ(様々な鳴き声で)賑やかなお喋りに興じていた樹角獣たちも塒に帰り、ほっと一息ついて冷たいお茶を満喫していた時だった。
「やぁ、ずいぶん遅いお客様だね」
ザカットは穏やかな口調で語りかけた。
だが、普通の患者と違っていたのは口に運んだカップはそのままに、振り向きさえしなかったことである。
「……」
「君はとてもお喋りだって聞いていたけどね、アマナ」
「……。あなたは優秀なお医者さんだって聞いたんだけど、ザカット先生」
「どこか悪い所があるの?」
「ワタシはどこも。直すべき所があるとすればこの土地ね」
いまや完璧な共通語を操る黒猫は謎めいた答えをして、フンと鼻を鳴らした。
「土地は直すものではないと思うけど」
「話す時は人の目を見てって大学では教えてなかった?教授」
こっちを見ろ、と暗に促されても、ザカットは振り向かなかった。
「残念ながら私は教えるのは得意ではなかったんだよ。言行不一致ってやつさ」
「それ、ウソだね。知っているんでしょ、ワタシの眼の力を」
夕焼けの窓辺で、黒猫の異様に大きい右眼が光っていた。ザカットが頑なに振り向こうとしなかったのはこの眼を警戒しているのだろう。
「いや、私はシャイなんだよ。凶眼獣アマナキィティ」
ザカットは苦笑いしてカップをテーブルに戻した。その手がかすかに震えソーサーが鈴鳴りの音を立てた。
さりげない会話と仕草の裏で緊迫した腹の探り合い、強い精神力を持つ者同士の鍔迫り合いが行われている。
Illust:Moopic
カァーーーーーッ!!
突如、大音量の叫びが響いた。
ザカットはそれでも耐えた。イヌ科獣人の本能としては音に反応し、肉体は振り返らざるを得なかったはずだ。凄まじい克己心の賜物といえよう。
Illust:Moopic
Illust:Moopic
「ククク……これでもまだ我が凶眼に向き合わぬとは。もう大丈夫だよ、振り返ってごらん。ザカット教授」
その声は再び、ザカットの背後から羽ばたきの音を伴ってかけられた。思わず声の方を振り返りたくなるような、邪悪だが心に忍び入るような甘い声だった。
「ふふ……大丈夫な訳がないだろう。凶眼獣アマナクロウグ、そして君、アマナオウルズ。ネコからカラス、そしてフクロウへ。これほど目まぐるしい変化を見せられると動物学者としては正直、振り向きたい衝動を抑えるのが難しいよ……警告をくれたセルセーラとアリウスには感謝しなくてはね」
「チッ!あのすばしっこいネズミどもめ!食らい尽くしてくれればよかったものを!」
凶眼獣アマナオウルズ、フクロウ型の悪魔は地金を剥き出しにした。
「捕まえられなかったんだろう?通信が妨害されているから、君たち龍樹側の監視をかいくぐって自分たちの足で歩いて(いや獣ムーンバックの背に乗ってだから飛んでかな)つい先日ここまで教えに来てくれたんだよ。彼女たちこそ勇者だ」
「黙れ!お前たちの英雄ごっこには虫酸が走るわ!……一人一人、切り崩してその無力さを思い知らせてやる」
「そういう君たち龍樹だって、一枚板じゃないんだろう。リアノーンとも私は親しいんだよ」
「よくもその名を言ったな……」
その声音は岩がきしるようだった。事実、この樹上にある診療所が何か大質量の出現にともなう衝撃波で、激しく揺れきしんだ。
ザカットは今度こそ戦慄した。イヌ科獣人の、本来こうした時にも開かぬはずの汗腺が冷や汗を滲ませる。全身の震えが止まらない。意識せず、舌がだらりと垂れ下がった。それは深甚な恐怖だった。
「そう。その恐怖だ。極上の味だぞ、ザカット医師」
ザカットを3度、別な称号で呼んだその存在は、猫がネズミをいたぶるように嘲笑った。
「最初に何用かと聞かれたな。では答えよう」
「……」
「我ら龍樹は明日の朝、“王の峡谷”を攻める。同化を拒むものは滅ぼす」
ザカットは何も答えられなかった。容赦のない宣告が、ただただ怖ろしかったのだ。
「マグノリア王に伝えよ。抵抗は無駄だ」
「樹角獣王マグノリア様はすでに聞いておられる」
やっとザカットは言葉を出すことができた。
「なるほど。この“森”自体がマグノリアの保護下、意識の中で守られているという訳ね」
背後の声はまた最初の愛らしい(しかし邪悪な)猫の声に戻った。またしても振り返りたくなる誘惑に耐えながらザカットは答えた。
「レティア大渓谷の樹角獣たちは穏やかに見えるだろうが、怒らせると怖いぞ」
「怖さには恐さで。従わせるわ。マグノリアも世界樹も、あなたも、あの娘も再び」
ザカットはまたリアノーンの名を口にしかけて、なんとか踏み留まった。凶眼の獣アマナは怒りに満ちている。刺激するのは危険だった。この状況でいまこの瞬間、まだ命存えているのはこの自制力のおかげなのだ。
「じゃまた会いましょう。明日の朝、“王の峡谷”で」
大渓谷の探究家C・K・ザカットの返答を待つこともなく、その存在は巨大な翼を羽ばたかせて去った。やはりこの樹上の庵の目前で、黒猫から変化していたのだろう。噂の凶眼竜アマナグルジオへと。
「あぁ……」
ザカットは絶望の叫びをあげて、床に倒れ伏した。
言われるまでもなく勝機はほとんど無かった。
このザカットの住居もまたマグノリアの領域。その保護下の森に、敵はやすやすと侵入したのだ。より厳重に守護された奥院とて無事だとどうして断言することができるだろうか。
Illust:touge369
奥院、レティア大渓谷でもっとも神聖にして守りが堅いはずの“王の峡谷”をめぐる戦いは、あっけないほど短く決着がついた。
凶眼を見ないようにというザカットの警告空しく、真の姿と力を現した凶眼竜皇アマナグルジオ・マスクスと恐怖の前に樹角獣はなぎ払われ、“王の峡谷”の門は破られた。
だいたいまともに相手を見ずに戦えるわけがないのだ。まして龍樹の仮面から圧倒的な恐怖の気配を漂わせるアマナグルジオ・マスクスは、動物たちの力を弱め、あるいは封じる特別な力を持っているようだった。
凶眼の獣アマナとは、まさに龍樹がストイケイア攻略に対して用意した決戦兵器だったのだ。
「降伏せよ、マグノリア」
凶眼竜皇アマナグルジオ・マスクスはもはや敬称もつけなかった。
地に臥した樹角獣が主を軽んじられる屈辱に歯噛みするのが、ザカットには聞こえるようだった。
『ザカット……』
突然聞こえた“声”に、ザカットは驚きを抑えるため全力を費やさなければならなかった。
幸い、この瞬間の敵アマナは、配下の龍樹の落胤デプス・エイリィやミザリィウイング・ドラゴンが樹角獣を無力化させてゆくのを満足げに見下ろしていたので、ザカットの些細な動揺には気がついていない。
Illust:DaisukeIzuka
(マグノリア様?)
もしこの声が樹角獣帝マグノリア・エルダーのものだとすると、直接臣下に言葉(思念)で話しかけるなど、前代未聞の出来事である。
『そうです。ザカット、よくやってくれました。もう無理をせずともよい』
その声は深く、無限の優しさと包容力、そして何者にも侵せない権威と力が漲っていた。
(はっ。しかしこのままでは龍樹の成すがままに、世界は……)
『いいえ。あなたを通して知った事からすれば、龍樹の目的は我々を滅ぼすことではないようです』
アマナグルジオ・マスクスは少しいらついた様子でザカットに叫んだ。
「どうした!樹角獣帝の返答はいかに?」
「もう少しだけ、待って欲しい」
「いいだろう。だが我は気の長い方ではないぞ、急げ」
時間を稼ぐべく、ザカットはマグノリア・エルダーの巨躯に向き合って跪いた。
『それでよい。ザカット、この後アマナは仮面を着けるよう要求するはず。受けましょう』
(陛下!?そ、それでは……)
ザカットはまた冷や汗が全身に滲むのを感じていた。
『彼女らが望むのは“力”。そうですね、ザカット。“力”とはそれを振るう方向が伴って初めて実効する。我らにはまだ幾つかの希望が残っています。いまアマナたちが振るっているのは恐怖させ屈服させる力。そして彼らを倒すのもまた道を正す“力”のはず。仮面を着け、これを見極めましょう』
(危険です!)
『やるのです。我らが神格ニルヴァーナとリノたち、トリクスタを信じて。彼女の“眼”に惑わされずに』
「ザカット!!」
アマナグルジオ・マスクスの怒号に龍樹の兵までが地に伏せる。
「陛下のお言葉である。……龍樹を受け入れよう」
凶眼竜皇の咆哮は哄笑へと変わった。
「ほう!誇り高きマグノリア、実り豊かなストイケイアの化身が我らに膝を折るか。これは愉快!」
ザカットと樹角獣は今度こそ音を立てて、悔しさに歯噛みした。
だが敵に向かって身を乗り出した樹角獣帝マグノリア・エルダーはあくまで気品に満ち、堂々として、まったく敗者のそれではなかった。
「では仮面を着けよ。今日この瞬間からおまえも我らの仲間だ。歓迎するぞ、マグノリア」
Illust:かわすみ
かくしてストイケイアの西、不可侵を誇ったレティア大渓谷は龍樹の手に落ちた。
朝の陽に胸を張り、仮面に前肢を差し出したマグノリア・エルダー。それは自由と平和の民の守護者、レティア大渓谷の王の最後の姿だった。
了
----------------------------------------------------------
《今回の一口用語メモ》
ストイケイアの心髄『マグノリアの世界樹』
惑星クレイに数ある世界樹の中で、もっとも謎めいた存在だったのがレティア大渓谷の奥院、峡谷の中にある『マグノリアの世界樹』だ。
もし近くで見る事ができた者はその偉大なる力に魅了されるだろう。かくいう私もその一人である。
この世界樹がその知名度とあまりにも強い力に比して、長らく世間の目に触れてこなかったのは、ほかでもない樹角獣帝マグノリア・エルダーのお膝元、偉大なる森の王自体の御座に根を張り安置されてきたからだ。
レティア大渓谷は“悪意あるものを拒み無力化する”樹角獣王マグノリアの力によって、凶眼竜皇 アマナグルジオ・マスクスによる龍樹侵攻までは、《世界の選択》の時でさえ、ただの一度も他勢力の侵略を許したことはなかった。
惑星クレイの世界樹はいずれも惑星の生命と密接につながり、世界樹を通して地上の生命の活力が惑星自体の力(運命力)に変えられ、そしてその惑星の豊かなエネルギーがまた新たな生命を育む……という自然のシステムの「環」である。
現在クレイを席巻している異星からの侵略者、龍樹の目的とはこの運命力の吸収・奪取にあるらしく──その軍門に下ることになった今もこの核心だけは、私にも教えてくれない──、故に『マグノリアの世界樹』がその標的になることは、以前から懸念としてあった。
そして『マグノリアの世界樹』とその祭壇は現在、龍樹の配下によって占拠されている。
これも不確定情報だが、どうやら他の世界樹とは埋蔵量の桁が違うらしく、配下ではなくもっと強力な存在によってストイケイアの力を龍樹支配の力に直結させたいと考えているようだ。
つまり私の懸念は、龍樹の仮面を着けた我が樹角獣帝が、この「運命力の供給・運搬役」を任されることになるのではないかというものだ。
この文章が監視役に特に止められないという事は、まさか……いや徒に不安をかき立てる憶測は止めよう。
以上、龍樹本拠宛。ザカットより最初の報告書となります。
龍樹の臣下 レティア大渓谷 樹角獣担当官
C・K・ザカット 拝
C・K・ザカット 拝
※本稿は自称を変えること以外特に検閲されることもなく、私の庵で自由に書き記し保存することが許された。教授の称号に未練はないのでこの点で不快と感じることは無い。さて、他の龍樹の支配下の土地とたぶん同じように「水銀様の者」が住民に交じってきたこと以外、今のところ生活自体は龍樹侵攻前とほとんど変わることは無い。奥院の岩門は破壊されたが、森と渓谷は平穏を取り戻している。ヒュドラグルム「龍樹の落胤デプス・エイリィ」も外見こそ奇異な感じではあるが、問題や衝突を起こした事例は皆無だ。が、私はこの穏やかな同化政策が嵐の前の静けさのように感じてならない。また現在、レティア大渓谷の境界を越えて出ることは禁じられており連絡手段もなく、我々は実質孤立している。いつかこの状態を……おっと。そろそろ背後の龍樹の落胤どのが鎌首をもたげているようだ。このあたりで止めにしないといけないか。それでは私は筆を置き、お茶を楽しむことにしよう。水晶玉の皆、あとは頼んだよ※
------
世界樹については
→ユニットストーリー049「ジプソフィラの妖精 アシェル」《今回の一口用語メモ》を参照のこと。
レティア峡谷の世界樹、つまり今回の『マグノリアの世界樹』については
→ユニットストーリー065 世界樹篇「リペルドマリス・ドラゴン」
において、ディアブロス“暴虐バイオレンス”ブルースが「最後に(龍樹勢力が)狙うであろう候補地」と予測して警告のため訪れ、魔宝竜ドラジュエルド曰く「惑星の生命に直結する世界樹」として触れられている。
あまりにも巨大な力と体躯をもつマグノリアの究極の姿「樹角獣帝マグノリア・エルダー」にについては
→035「樹角獣帝 マグノリア・エルダー」を参照のこと。
動物学者、獣医、樹角獣帝の廷臣C・K・ザカットについては
→ユニットストーリー017「樹角獣 ダマイナル」
ユニットストーリー053「大渓谷の探究家 C・K・ザカット」
を参照のこと。なお、現在のザカットの職籍については本人(退職)と大学側(在籍)で齟齬がある。
凶眼の獣アマナと凶眼竜 アマナグルジオについては
→世界観コラム「セルセーラ秘録図書館」016 凶眼、を参照のこと。
----------------------------------------------------------
本文:金子良馬
世界観監修:中村聡
世界観監修:中村聡