ユニット
Unit
短編小説「ユニットストーリー」
──4ヶ月前。ドラゴンエンパイア西部。
「お師匠様。お待たせしました」
ソエルは民家の扉の向こうにひと声かけてから、彼を待つ師レザエルの元に駆け寄った。
「お別れはもういいのかな、ソエル」
えぇ、と頷いた天使の少年は、何かを大事そうに両手の中に抱えていた。
「どうしても受け取ってほしいと言われて……すみません。断り切れませんでした」
尋ねる視線に、ソエルは申し訳なさそうに手を開いてみせた。
それはスノードームと言えばわかりやすいだろうか。ソエルが持っているのは、水を満たした円筒で、密閉されたガラス容器はひっくり返す度に中に詰められたものが底に降り注ぐ、シンプルな仕組み。小さな無限を楽しむ玩具だ。
「医者として、こうした頂き物は極力遠慮するべきだと、お師匠様から教えられていましたけど……」
レザエルは叱ることをしなかった。むしろその表情は弟子を称賛するものだ。
「苦しみを忘れて安らいで欲しいと願った君の真心が、あの子に届いたんだろう。技術や知識、経験よりも相手に寄り添う気持ちこそが医者として何より大事なもの。それは君の宝物だ。もらっておきなさい。大事にするといい」
はい!とソエルは笑顔になって、歩き出す師匠の後ろに付き従った。
「でも、僕は付き添って一緒に遊んであげただけです。お師匠様が治療し手配してくれたお陰で、明日には隣村にいる親戚に引き取られるそうですし」
「親切で善良な人たちだった。だがそんな中でも、誰かが気がつかないと救えないこともある。特に子供の場合」
「そうですね……大人になるまで保護してくれる人がいてくれたら」
ソエルはスノードームを見つめた。これをあの子に送った親御さんも間違いなく子供思いだったはずだ。
この天使の少年が、この家の危機を感じ取ったのは偶然だった。
2人で南西を目指し飛んでいた時、山間の孤立した一軒家から漏れる微かな声を聴き取ったのだ。
「狩りと野草の採集に出たご両親が、男の子ひとりを残して同時に遭難するなんて……」
天使の医師2人が舞い降りた時、子供はほとんど動けない状態だった。飢えと渇き、疲労そして孤独に押し潰されて。
「悲劇だ。……だが絶望に心閉ざされたとしても、いつかは立ち上がり生きてゆかねばならない。我々もまた」
「はい。そんな人たちの支えになれるように……」
ソエルは師匠の横顔を見つめながら、答えた。
師レザエルはまたあのいつもの深い悲しみと思索の中にいるようだが、黙って弟子の頭を撫でてくれた。だからソエルの次の言葉は心底から未来の自分に誓うものだった。
「僕も頑張ります!」
Illust:海鵜げそ
──現在。零の虚中央、最深部。
白い羽が舞い上がった。
ブンッ!!
静かだが必殺の確信をこめて振りきったブラグドマイヤーの狙いは、何らかの力によって逸らされ、大鎌は空しく瘴気と悲しみの雨を切り裂いた。
!?
レザエルの目の前、何もなかった無の空間に、リィエルが、リィエル゠アモルタが、時の運命者の眩しい姿があった。
「次に目覚めた時はきっとまたあなたがいる。そうよね、レザエル」
「リィエル!?」
それはあり得ない現象だった。
時の運命者リィエル=アモルタはその身体の機械部分を破壊され、昏睡状態のまま上空に待機するリューベツァールの船室にいるはず。
だが呆然と見つめるレザエルの前でリィエルはもう一度微笑んで消えた。
それはレザエルの幻覚か。あるいは上空に睡るリィエルの希望が結んだ幻像だったのだろうか。
「リィエル!!」
レザエルの伸ばし、かき抱いた左腕は空を切り、掴みかけた白い羽は手をすり抜けて虚空に消えてしまった。
光が去ると、もうそこは無の世界。
限りなく暗い白い闇に包まれ、周囲には物言わぬ零の虚の被害者が、自由を奪われ、時を奪われ、ゆっくりと“無”と化すブラグドマイヤーの領域だった。
悲しみが白い闇の中に、切ないほど激しく噴き上がった。
その元であるレザエルは凝固し、隙だらけだ。
ブラグドマイヤーが、リィエル=アモルタの突然の出現に怯んだのはほんの束の間、大鎌は再び振りかぶられた。
「死して我が糧となれ、奇跡の運命者」
呟くように、ブラグドマイヤーは死の宣告をした。
標的は無抵抗。あとは薙ぎ払い、両断するだけ。
零の運命者の心は沼のように澱み、静まりかえっていた。
レザエルを我が手に掛ける今こそ、最高の獲物を手に入れる待望の瞬間なのだが、野の獣ですら覚えるであろう獲物にかぶりつく際の湧きあがる悦びすらない。
ブラグドマイヤーには感情というものがないからだ。
いや、なかったというのが正しいだろうか。
つい先ほど、真っ直ぐにこの零の虚の中心を目指して降下してくるレザエルを見たとき、ブラグドマイヤーは自分の中にあるものが蠢くのを感じた。いまもちらりとその感覚があった。
だがそれも意識の沼の表面に浮かび上がった見泡に過ぎない。
奇跡、死すべし。
ブンッ!
鎌が唸る。
レザエルは呆然としたまま、それを剣で受けた。
「?!」
何かの間違いだ。この奇跡の運命者は、2度と会えないと思っていた相手に助けられ、そしてまた失われたのを見たのだ。今度こそ彼の心が砕けてもおかしくない。
……待て。おかしくないだと?
ブラグドマイヤーは本能的に危険を感じて、大きく後退った。
いま自分は何を考えていたのか。
「察したのだな。私の心を」
レザエルだ。彼はいま向き直り、その瞳はまっすぐに零の運命者を見つめている。ブラグドマイヤーは無言でにらみ返した。
「心の動き。それが感情だ。身の内からあふれ出て、自分を彩り、他人と繋ぐもの」
「感情など知らん。悲しみを喰らい、飢えを満たす。それが俺の本能」
その言葉はまた沈んだ調子を取り戻している。
「さっき貴様を見た瞬間、俺は感じたのだ。確信した。お前は俺で俺はお前だと」
「……」
レザエルにはブラグドマイヤーの言葉に自らと恋人を顧みる所があったのだが、今は何も言わなかった。
「俺はお前を呑み込まなければならない。なぜなら悲しみから生まれた俺の半分はお前、レザエルのものだからだ。一つのものになる運命なのだ」
「それがおまえの望みか、ブラグドマイヤー」
「欲望だ。俺には欲しかない」
「私を殺して『一つ』になったなら運命力の均衡は崩れ、世界は“無”となり、時すらも止まる」
「俺はお前を呑み込みたいだけだ。後のことは知らん」
「では戦わざるを得ないな」
「それでいい」
レザエルが剣を構え直したのを見て、ブラグドマイヤーは安堵し、再開の予感に戦慄した。
言っていることの意味はまるで解らないが、この相手とまた鎌を交えることができる。
だが……
安堵?打ち震える?
また引っかかった。
ホッとし、再び戦える悦びに打ち震えるなどという心地はなじみのないものだ。
ブラグドマイヤーは首を振って、目の前の戦いに集中した。
剣と鎌。2つの闘気がぶつかり合った。
Illust:タカヤマトシアキ
──現在。強襲飛翔母艦リューベツァール飛行甲板上。
巨船は噴き上がる瘴気に揺らいでいた。
「やたら揺れやがるな」
「下の戦いは激しいのでしょうか。決着はまだ……?」
「そのようだな」
いまヴェルストラの横にはソエルが駆けつけている。やはり少しでも師匠の近くにいたいという望みは捨てられなかったのだ。そして師の言いつけを破ってまでソエルが甲板に出た理由は、他にもあった。
「そうか……リィエルは」
ソエルが伝えたのは、特等船室の寝台に横たわる時の運命者リィエル=アモルタの容態だった。
「はい。激しく輝いた後にほんの一瞬、意識を取り戻されたのですが、今はまた昏睡状態に。クリスレイン様がここは任せて、あなたはお師匠様の近くに行きなさいと。次の奇跡のために大事なことを伝えるのは僕、ソエルですよと言われて」
「うん、さすが。大人だよな、あの人は」
ヴェルストラの笑みはいつもと少し違っていた。
察するにクリスレインの真意としては、ソエルの心に重荷を負わせたくなかったのだろう。いつ姿を消すかわからないリィエル=アモルタを、その枕辺で何も打てる手も無いまま絶望を抱えて見守るのは、医師とはいえ若者に課すべき務めではない。あなたにはするべきことがある。もうこれ以上、悲しまないでと。未来のリィエルが、レザエルにそう望んだように。
「……さっきの大揺れ。あれもリィエルの、リィエル=アモルタが起こした“奇跡”なんだろ。凄いよな、愛の力って。あっさり時空の常識超えちゃってるじゃんか」
「わかるんですか?」
ソエルは目を丸くした。ヴェルストラはそんなソエルの髪をくしゃくしゃにしながら言った。
「だ・か・ら!オレも運命者だってこと、みんな忘れ過ぎだろ。感じるんだよ、奇跡が起こったのがさ」
「お師匠様は勝てますよね!」
「勝てるに決まってる!奇跡は何度でも起こるさ。だからその大事なことを伝えて、ここで一緒にお師匠さんの帰りを待とうぜ、ソエル君」
標の運命者は笑顔でひとつだけ優しい嘘をついた。そんな彼も善き大人の一人だった。
──現在。零の虚中央、最深部。
戦闘は、まだ果てしも無く続いていた。
剣であれ鎌であれ、近接戦闘というのはそもそも長時間行われるものではない。
どのような強者であれ、いや強者同士がぶつかるが故に身体が、精神が、そして武器さえもが鬩ぎ合う疲労に耐えられなくなるからだ。
片方が「ひとつになる」という猛烈な衝動を、片方が「世界を救う」という切実な望みをもって戦う、運命者同士の対決でもない限りは。
「諦めろ、レザエル。ここは俺の領域、世界中の悲しみが降り注ぎそれを俺が喰らう中心だ。悲しみの剣を振るお前一人に、俺は決して倒せない」
ブラグドマイヤーはもう何度目かの渾身の一撃をレザエルに放った。
剣が大鎌を受け止める。
「同じことを、言われた記憶がある」
レザエルは肩で息をつきながら、崩れかけた膝を奮い立たせた。
『お師匠様!』
突然、レザエルの耳元の通信機が叫んだ。
「ソエル!?ソエルか!」
『ご無事でよかった!お伝えしたいことが……』
激しいノイズ。
今まで沈黙していた通信が回復したのは、ブラグドマイヤーもまた疲労し、零の虚とその結界を張り巡らす力が不安定になっている証のようだ。
『聞こえますか?どうしても……一言だけ……リィ……』
!!
「気を散らすな。よそ見は禁物だぞ」
疲れても平静だったブラグドマイヤーが、怒りの色を見せてレザエルに迫った。大鎌の一撃は身体をかすめ、辛うじてレザエルは敵の突進を躱した。
「戦え!そして滅んで我がものとなれ、レザエル」
その時、通信はこの瞬間にだけ完璧に回復した。
『意識を取り戻した時、僕とクリスレイン様にリィエルさんは言いました!レザエル様に伝えて欲しい……』
『“忘れないで”と』
レザエルは雷に打たれたように立ち尽くした。
その隙を見逃すはずもなく、ブラグドマイヤーが振るった大鎌は天使の大剣を弾き飛ばし、ついに奇跡の運命者は地面に倒れ伏した。零の虚の泥濘にレザエルの身体が埋もれてゆく。
「これで終わりだ」
「……」
「こんな時に何をブツブツ言っている」
ブラグドマイヤーは激昂した。
彼自身は気がついていないが、これほどの“怒り”もまた初めて覚えた感情だ。
「忘れないで?……忘れていたことなどない。一瞬たりとも」
今度はブラグドマイヤーにも聴き取れた。
「妄言が辞世の句とはな。さらば、そしてようこそ我が半身よ。滅びて我と共にあれ!」
大鎌が振りかぶられた。
「貴様と戦えたのは我が悦びだったぞ、レザエル」
ブラグドマイヤーはあくまで陰鬱な口調のまま告げると、大鎌をレザエルの頭頂に向けて振り下した。
白い闇の中に、光が爆発した。
──2000年以上前。ユナイテッドサンクチュアリ天空の都ケテルギア、最上層テラス。
「レザエル?」
「あぁ、ぼんやりしていた。すまない、リィエル」
「ふふ、働き過ぎでは」
「そうかもしれない。プロディティオなる男が反旗を翻して以来、各地からの救援要請は増すばかりだから。だが無理を押しても会うべき人がいる。それが今の僕の幸せだ」
「光栄だわ。でもあなたは忘れやすいから」
「忘れやすい?初めて言われた。自慢ではないが見習いの頃だって、僕は……」
「最優秀だったね、確かに。でも今こうしてあなたが見て、聞いたこともあなたは大事なときに覚えていない」
「君がオラクルだとは知らなかった」
「冗談で言っているのではないのよ。大事な言葉ほど羽のように心をかすめ過ぎていくもの。あなたを愛しているわ、レザエル。ほら、こんな風に」
「そんなわけはない!君のその声、その顔も、何ひとつ忘れるものか!この一瞬一瞬が輝いているんだ。今こそ生きているって感じる」
「あなたがいま感じているのが恋で、私がいま投げかけているのが愛よね。わたしたち医師でもどうにもできない心の不思議。そう言ってくれるあなたの気持ちは何よりも嬉しいけれど……でもレザエル」「?」
「これは忘れないで」「……」
「あなたの側にはいつも私がいる。私たちの間に横たわるものがどれほど大きく、深いものだとしても。どのような形でも。そこに漂う私の愛を感じてほしい」
「僕もそうだ。時も距離も僕らの間を割くことはできないさ」
「そうだったら嬉しい。この意味を、そして他の私の言葉もいつか思い出してくれたら、もっと」
──現在。零の虚中央、最深部。
光が収まると、ブラグドマイヤーは泥濘に膝をついていた。
レザエルは起き上がり、地に落ちていた剣を再びその手に収めた。その肩に一瞬、白い羽根が止まったように見えたのは幻だろうか。
「確かに忘れていた。私は一人で戦っているのではない。君はいつも僕と共にいた。僕の心に」
「何のことだ」
「いま運命力の均衡が傾いたのを感じるな、ブラグドマイヤー」
「……感じる。力が流れ出てゆく。あれほど俺を満たしていた“悲しみ”も」
「そう望んだ人がいるのだ。時空を超えて、ただ寄り添い、悲しみを癒やそうとした者が」
「力が……入らない。なんだ、この胸を焦がすものは」
レザエルは、起き上がろうともがくブラグドマイヤーに手を差し出した。疲弊し尽くすほど戦った敵に。
「悔しさだ。だがそれは克服できる」
「勝てないというのか。俺はお前を……」
「怒り、そして苛立ち。それらは当然の反応だ、ブラグドマイヤー」
「俺と戦え、レザエル」
「それはまたの機会にしよう。するべき事を終えて」
「俺は……何に負けだのだ?教えろ」
「私にもわからない。君でも奪うことのできないものが、この世界には在るという事なのだろう」
「……」
「まだ腹は減っているか、ブラグドマイヤー」
「ああ」
「飢えを感じるか」
「前ほどでは無い。なにかが胸に詰まった感じだ」
「それが感情だ。さあ、私のこの手を取れ、ブラグドマイヤー」
レザエルは先ほどから一度も手を引っ込めなかった。
「取ってどうする」
「おまえに見せたいものがある。世界だ。この“無”が繰り返す零の虚を抜けよう」
「これは俺の故郷だ」
「君の故郷ははるか後方だろう。これは君の殻」
レザエルは、スノードームのように捕らわれた生物と非生物が舞い落ちる空間を見上げた。それは世界から集まった悲しみが生んだ“無”の玩具だった。
「そして魂の牢獄だ。捕らわれたものを帰さねば。あるべき場所へと」
「……なぜ連れて行こうとする」
零の運命者ブラグドマイヤーは鎌を下ろして、おずおずと手を伸ばした。奇跡の運命者レザエルへと。
「その答えは先ほど君自身が言った」
レザエルはやはり善き教師、善き医師だった。
「君は私、私もまた君の半分だからだ。自分をこんな所に放ってはおけないよ」
Illust:DaisukeIzuka
──現在。強襲飛翔母艦リューベツァール飛行甲板上。
「ようやく終わったな。いやぁ色々と大変だったけど」
ヴェルストラはヘルメットを外すと、エンジェルフェザー見習いの少年に笑いかけた。
「えっ、本当ですか!?……それと、いいんですか外しちゃって」
とソエル。艦橋からの連絡で、零の虚──すでに渦の動きは止まっていて、あの凶暴な潮汐力は失われている──に向かって微速降下中とはいえ、ただの人間であるヴェルストラは気圧、酸素ともにまだ相当苦しい状態のはずだ。
「いいんだよ。英雄の凱旋にヘルメット着けてちゃダメだろ。それにね」
ヴェルストラは左手で、甲板を掴む右の剛腕武装を指差した。
「こいつの機能で短時間なら宇宙空間でも生身で生きられるのさ。無敵無敵ぃ!」
言いながらちょっと咽せるヴェルストラ。
ソエルは痩せ我慢はほどほどにと言いかけて、止めた。
「あぁ。それにしても目が覚めたんだったなら居合わせたかったなぁ、リィエル=アモルタ」
「でも、ずーっと声は聞いてたんでしょう。ヴェルストラさんは、誰よりも沢山」
「“卵”通信と生身じゃ違うんだよ!あんな健気で超ド級のロマンス抱えたヒロイン美女なんてもう出会えないぜ!」
「わがままお姫様に苦労させられた、とか仰っていたような」
「ものの例えだよ!ほら、こう……クラスで好きな女の子に口悪く対応しちゃう男の子みたいな」
「それとリィエルさん、お師匠様の彼女さんですけれど。2000年以上前から」
「わっかんないかなー。リノちゃんやバヴサーガラみたいに細い肩に全世界背負っちゃう感じ。あの存在そのものが別格なの!愛でるの!誰と付き合ってるかなんて問題じゃないの!(あ、リノちゃんはオレ独占ね)」
辺り憚らず悔し泣きしているヴェルストラを見て、あぁこの人も僕らと同じで《ユナイテッドサンクチュアリの華》のことが大好きになっていたんだな、とソエルは素直に感心した。
「まぁいずれにしても親友って最高だよな。いやぁ、全面協力して良かった良かった。それじゃ歓迎会の準備もしなくちゃな。あと病室も」
「え。ヴェルストラさん、いま何て?」
にやっと笑って下を指したヴェルストラの視線の先を見た途端、ソエルは迷わず甲板から身を投げ出した。
満身創痍の師匠、レザエルが上昇してくる所だった。
その隣に一人の悪魔を抱えて。
彼はまだ虚の外を知らない。いわば生まれたばかりの存在だ。彼、ブラグドマイヤーとこれから出逢う世界とはどの様な関わりになるのだろうか。
だがブラグドマイヤーもまた《在るべき未来》を選び、歩き出した。おそらくそれが一番、重要な一歩なのだ。
それは奇跡の運命者レザエルと時の運命者リィエル゠アモルタが選んだ未来。
零の運命者ブラグドマイヤーが白い闇と虚ろな沼を捨て、惑星クレイという新世界に漕ぎ出した瞬間だった。
──強襲飛翔母艦リューベツァール、特等船室。
クリスレインは水晶玉を覗きこみ、静かな嘆息をついた。
大いなる運命の時は過ぎた。
彼女が背負ってきた予言はいずれも未来に悲観的なものばかりだった(うち一つは言うまでもなく、ストイケイアの叡智の結晶“ワイズキューブ”であったが)。
その中で、たった一つ。
大望の翼ソエルの役割に触れたものがあった。ケテルサンクチュアリのオラクルの言だ。
「若者のひたむきな思いが2000年を超える恋人たちの架け橋となった」
そしてまた一人、孤独な魂にも手が差し伸べられ、物語は新たな章へと入りつつある。
『恐れず進みたまえ。未来はひとつではない。この惑星に生きる君たち自身が選び取るものだ』
それは彼女が最初に聞いて以来、いつも心に留めている声だ。
「大賢者ストイケイア。あなたの御言葉あらためて胸に刻み、我々は進んでいきます。未来へと」
クリスレインは祈るように胸の前で手を組み合わせた。その目には光るものがある。
リリカルモナステリオ導きの塔の主は振り返った。寝台へ。
そこには今度こそ、幸せを掴んで欲しい人がいたから。
もうすぐ彼女の愛しい人がここにやって来る。
時空を超えた恋人たちは手を取り合い、2人だけの時間は──充分ではないかもしれないが──与えられるだろう。
「あぁっ!」
だが顧みたクリスレインが見たものは、一度は意識を取り戻し、ソエルを介してレザエルを救う一言を残して、再び微笑んで安らかに眠っていたリィエル=アモルタではなかった。
それは透けていた。
存在が保てなくなっているのだ。
もちろんこれはリィエル自身が予言していたことだ。時間軸が閉じられると未来に属するリィエルの存在もまた。でも、こんな……。
「ダメ!そんな!……残酷過ぎる!」
リィエル!リィエル!!時の運命者!時翔の偉大な成功者!惑星クレイ世界の未来を守った英雄!
消えないで、消えないで!!!
クリスレインは空しく、手を差し伸ばした。
機械仕掛けの天使の身体が消え去りつつある寝台へ。
滅びの運命から世界と恋人を救うという偉業を成し遂げ、いま愛に包まれて旅立つ、ユナイテッドサンクチュアリの華、レザエルの恋人。
時の運命者リィエル=アモルタ。
誰もが彼女を愛した、微笑む天使に。
※スノードームについては地球の似た玩具、工芸品の名称を使っている。※
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《今回の一口用語メモ》
調査報告書 『零の虚』、一旦完了について
ケテルサンクチュアリ防衛省長官 殿
同報送信CC 円卓会議 各位
本通信は、この度活動を停止した通称『零の虚』とこれに関わる諸事件について、一応の解決を報告するものである。
諸氏もすでにご存じのことも多いとは思うが、現状について列記してみたい。
①零の虚の吸引力は消滅。瘴気の渦の動きと拡大も停止。
②零の運命者 ブラグドマイヤーは、奇跡の運命者レザエルの保護と監視の下に置かれている。
『零の虚』活動停止直後は我々も、強襲飛翔母艦リューベツァールも総員臨戦態勢で待機していたものの、ヴェルストラCEOの判断により解除されている。リィエル=アモルタ消滅に対するレザエルの心境は察するに余りあるが、動揺は我々が案じていた程ではなかった。少なくとも外見上は。渦の中や戦闘前、本人たちにしかわからない交流があったものと思われる。
③②にともない、ブラグドマイヤーからの聴取をレザエル立ち会いの下、小官が水晶玉ネットワークを代表して行っている。
ブラグドマイヤーは生誕の瞬間から現在まで孤独であったため、コミュニケーションにはやや困難が伴ったがおおむね協力的である。
ブラグドマイヤーの発生と行動、第7の運命者リィエル=アモルタも関わる本案件の結末については、別紙参照のこと。
各国会議において②の同意と、ブラグドマイヤーの罪は問わない決定は承知済み。
ただしこれには各国代表および識者からの信頼が篤い“救世の使い”レザエルの管理と、下記④が条件となる。
④零の虚に取り込まれた生物/非生物に関しては、ブラグドマイヤーより返還が約束されている。
レザエルのコメント「彼はまだこの惑星クレイ世界に生まれ落ちたばかりである」ことから、情操と協調の教育が必要であり、この意味でもレザエルが適任と我々現場も同意する所である。
また、国境を越える被害が出ているため事態の収拾には、今後も関係各国の協調が求められるであろう。
なお現在、小官アゼンシオルと騎士ベンテスタはリューベツァールより離脱し、北部ブラントゲートの山地に野営。本通信では「一旦完了」と題したが特に指示なき場合、同2名は案件を未解決(潜在的な脅威は去っていない)と判断して秘密任務を継続する。
この後、レザエル一行(これまで通り大望の翼ソエルと、そしておそらく教育と謝罪返還を兼ねた「世界漫遊」のためブラグドマイヤーが同行すると予測される)の出立に合わせて、監視連絡任務に復帰する。
なお長官殿におかれてはゾルガ船長、ヴェルストラCEOへの手厚い援助・助言頂き、水晶玉ネットワークよりあらためて感謝の言を預かっており、この場を借りてお伝えする次第であります。
以上、ご報告と各位へ心寄りの謝意を込めて。
ロイヤルパラディン第4騎士団所属 国土防衛調査官 躍進の騎士 アゼンシオル
ケテルサンクチュアリ国土防衛調査官 躍進の騎士 アゼンシオルの調査報告書、初号は
→ユニットストーリー128「奇跡の運命者 レザエル」を参照のこと。
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「お師匠様。お待たせしました」
ソエルは民家の扉の向こうにひと声かけてから、彼を待つ師レザエルの元に駆け寄った。
「お別れはもういいのかな、ソエル」
えぇ、と頷いた天使の少年は、何かを大事そうに両手の中に抱えていた。
「どうしても受け取ってほしいと言われて……すみません。断り切れませんでした」
尋ねる視線に、ソエルは申し訳なさそうに手を開いてみせた。
それはスノードームと言えばわかりやすいだろうか。ソエルが持っているのは、水を満たした円筒で、密閉されたガラス容器はひっくり返す度に中に詰められたものが底に降り注ぐ、シンプルな仕組み。小さな無限を楽しむ玩具だ。
「医者として、こうした頂き物は極力遠慮するべきだと、お師匠様から教えられていましたけど……」
レザエルは叱ることをしなかった。むしろその表情は弟子を称賛するものだ。
「苦しみを忘れて安らいで欲しいと願った君の真心が、あの子に届いたんだろう。技術や知識、経験よりも相手に寄り添う気持ちこそが医者として何より大事なもの。それは君の宝物だ。もらっておきなさい。大事にするといい」
はい!とソエルは笑顔になって、歩き出す師匠の後ろに付き従った。
「でも、僕は付き添って一緒に遊んであげただけです。お師匠様が治療し手配してくれたお陰で、明日には隣村にいる親戚に引き取られるそうですし」
「親切で善良な人たちだった。だがそんな中でも、誰かが気がつかないと救えないこともある。特に子供の場合」
「そうですね……大人になるまで保護してくれる人がいてくれたら」
ソエルはスノードームを見つめた。これをあの子に送った親御さんも間違いなく子供思いだったはずだ。
この天使の少年が、この家の危機を感じ取ったのは偶然だった。
2人で南西を目指し飛んでいた時、山間の孤立した一軒家から漏れる微かな声を聴き取ったのだ。
「狩りと野草の採集に出たご両親が、男の子ひとりを残して同時に遭難するなんて……」
天使の医師2人が舞い降りた時、子供はほとんど動けない状態だった。飢えと渇き、疲労そして孤独に押し潰されて。
「悲劇だ。……だが絶望に心閉ざされたとしても、いつかは立ち上がり生きてゆかねばならない。我々もまた」
「はい。そんな人たちの支えになれるように……」
ソエルは師匠の横顔を見つめながら、答えた。
師レザエルはまたあのいつもの深い悲しみと思索の中にいるようだが、黙って弟子の頭を撫でてくれた。だからソエルの次の言葉は心底から未来の自分に誓うものだった。
「僕も頑張ります!」
Illust:海鵜げそ
──現在。零の虚中央、最深部。
白い羽が舞い上がった。
ブンッ!!
静かだが必殺の確信をこめて振りきったブラグドマイヤーの狙いは、何らかの力によって逸らされ、大鎌は空しく瘴気と悲しみの雨を切り裂いた。
!?
レザエルの目の前、何もなかった無の空間に、リィエルが、リィエル゠アモルタが、時の運命者の眩しい姿があった。
「次に目覚めた時はきっとまたあなたがいる。そうよね、レザエル」
「リィエル!?」
それはあり得ない現象だった。
時の運命者リィエル=アモルタはその身体の機械部分を破壊され、昏睡状態のまま上空に待機するリューベツァールの船室にいるはず。
だが呆然と見つめるレザエルの前でリィエルはもう一度微笑んで消えた。
それはレザエルの幻覚か。あるいは上空に睡るリィエルの希望が結んだ幻像だったのだろうか。
「リィエル!!」
レザエルの伸ばし、かき抱いた左腕は空を切り、掴みかけた白い羽は手をすり抜けて虚空に消えてしまった。
光が去ると、もうそこは無の世界。
限りなく暗い白い闇に包まれ、周囲には物言わぬ零の虚の被害者が、自由を奪われ、時を奪われ、ゆっくりと“無”と化すブラグドマイヤーの領域だった。
悲しみが白い闇の中に、切ないほど激しく噴き上がった。
その元であるレザエルは凝固し、隙だらけだ。
ブラグドマイヤーが、リィエル=アモルタの突然の出現に怯んだのはほんの束の間、大鎌は再び振りかぶられた。
「死して我が糧となれ、奇跡の運命者」
呟くように、ブラグドマイヤーは死の宣告をした。
標的は無抵抗。あとは薙ぎ払い、両断するだけ。
零の運命者の心は沼のように澱み、静まりかえっていた。
レザエルを我が手に掛ける今こそ、最高の獲物を手に入れる待望の瞬間なのだが、野の獣ですら覚えるであろう獲物にかぶりつく際の湧きあがる悦びすらない。
ブラグドマイヤーには感情というものがないからだ。
いや、なかったというのが正しいだろうか。
つい先ほど、真っ直ぐにこの零の虚の中心を目指して降下してくるレザエルを見たとき、ブラグドマイヤーは自分の中にあるものが蠢くのを感じた。いまもちらりとその感覚があった。
だがそれも意識の沼の表面に浮かび上がった見泡に過ぎない。
奇跡、死すべし。
ブンッ!
鎌が唸る。
レザエルは呆然としたまま、それを剣で受けた。
「?!」
何かの間違いだ。この奇跡の運命者は、2度と会えないと思っていた相手に助けられ、そしてまた失われたのを見たのだ。今度こそ彼の心が砕けてもおかしくない。
……待て。おかしくないだと?
ブラグドマイヤーは本能的に危険を感じて、大きく後退った。
いま自分は何を考えていたのか。
「察したのだな。私の心を」
レザエルだ。彼はいま向き直り、その瞳はまっすぐに零の運命者を見つめている。ブラグドマイヤーは無言でにらみ返した。
「心の動き。それが感情だ。身の内からあふれ出て、自分を彩り、他人と繋ぐもの」
「感情など知らん。悲しみを喰らい、飢えを満たす。それが俺の本能」
その言葉はまた沈んだ調子を取り戻している。
「さっき貴様を見た瞬間、俺は感じたのだ。確信した。お前は俺で俺はお前だと」
「……」
レザエルにはブラグドマイヤーの言葉に自らと恋人を顧みる所があったのだが、今は何も言わなかった。
「俺はお前を呑み込まなければならない。なぜなら悲しみから生まれた俺の半分はお前、レザエルのものだからだ。一つのものになる運命なのだ」
「それがおまえの望みか、ブラグドマイヤー」
「欲望だ。俺には欲しかない」
「私を殺して『一つ』になったなら運命力の均衡は崩れ、世界は“無”となり、時すらも止まる」
「俺はお前を呑み込みたいだけだ。後のことは知らん」
「では戦わざるを得ないな」
「それでいい」
レザエルが剣を構え直したのを見て、ブラグドマイヤーは安堵し、再開の予感に戦慄した。
言っていることの意味はまるで解らないが、この相手とまた鎌を交えることができる。
だが……
安堵?打ち震える?
また引っかかった。
ホッとし、再び戦える悦びに打ち震えるなどという心地はなじみのないものだ。
ブラグドマイヤーは首を振って、目の前の戦いに集中した。
剣と鎌。2つの闘気がぶつかり合った。
Illust:タカヤマトシアキ
──現在。強襲飛翔母艦リューベツァール飛行甲板上。
巨船は噴き上がる瘴気に揺らいでいた。
「やたら揺れやがるな」
「下の戦いは激しいのでしょうか。決着はまだ……?」
「そのようだな」
いまヴェルストラの横にはソエルが駆けつけている。やはり少しでも師匠の近くにいたいという望みは捨てられなかったのだ。そして師の言いつけを破ってまでソエルが甲板に出た理由は、他にもあった。
「そうか……リィエルは」
ソエルが伝えたのは、特等船室の寝台に横たわる時の運命者リィエル=アモルタの容態だった。
「はい。激しく輝いた後にほんの一瞬、意識を取り戻されたのですが、今はまた昏睡状態に。クリスレイン様がここは任せて、あなたはお師匠様の近くに行きなさいと。次の奇跡のために大事なことを伝えるのは僕、ソエルですよと言われて」
「うん、さすが。大人だよな、あの人は」
ヴェルストラの笑みはいつもと少し違っていた。
察するにクリスレインの真意としては、ソエルの心に重荷を負わせたくなかったのだろう。いつ姿を消すかわからないリィエル=アモルタを、その枕辺で何も打てる手も無いまま絶望を抱えて見守るのは、医師とはいえ若者に課すべき務めではない。あなたにはするべきことがある。もうこれ以上、悲しまないでと。未来のリィエルが、レザエルにそう望んだように。
「……さっきの大揺れ。あれもリィエルの、リィエル=アモルタが起こした“奇跡”なんだろ。凄いよな、愛の力って。あっさり時空の常識超えちゃってるじゃんか」
「わかるんですか?」
ソエルは目を丸くした。ヴェルストラはそんなソエルの髪をくしゃくしゃにしながら言った。
「だ・か・ら!オレも運命者だってこと、みんな忘れ過ぎだろ。感じるんだよ、奇跡が起こったのがさ」
「お師匠様は勝てますよね!」
「勝てるに決まってる!奇跡は何度でも起こるさ。だからその大事なことを伝えて、ここで一緒にお師匠さんの帰りを待とうぜ、ソエル君」
標の運命者は笑顔でひとつだけ優しい嘘をついた。そんな彼も善き大人の一人だった。
──現在。零の虚中央、最深部。
戦闘は、まだ果てしも無く続いていた。
剣であれ鎌であれ、近接戦闘というのはそもそも長時間行われるものではない。
どのような強者であれ、いや強者同士がぶつかるが故に身体が、精神が、そして武器さえもが鬩ぎ合う疲労に耐えられなくなるからだ。
片方が「ひとつになる」という猛烈な衝動を、片方が「世界を救う」という切実な望みをもって戦う、運命者同士の対決でもない限りは。
「諦めろ、レザエル。ここは俺の領域、世界中の悲しみが降り注ぎそれを俺が喰らう中心だ。悲しみの剣を振るお前一人に、俺は決して倒せない」
ブラグドマイヤーはもう何度目かの渾身の一撃をレザエルに放った。
剣が大鎌を受け止める。
「同じことを、言われた記憶がある」
レザエルは肩で息をつきながら、崩れかけた膝を奮い立たせた。
『お師匠様!』
突然、レザエルの耳元の通信機が叫んだ。
「ソエル!?ソエルか!」
『ご無事でよかった!お伝えしたいことが……』
激しいノイズ。
今まで沈黙していた通信が回復したのは、ブラグドマイヤーもまた疲労し、零の虚とその結界を張り巡らす力が不安定になっている証のようだ。
『聞こえますか?どうしても……一言だけ……リィ……』
!!
「気を散らすな。よそ見は禁物だぞ」
疲れても平静だったブラグドマイヤーが、怒りの色を見せてレザエルに迫った。大鎌の一撃は身体をかすめ、辛うじてレザエルは敵の突進を躱した。
「戦え!そして滅んで我がものとなれ、レザエル」
その時、通信はこの瞬間にだけ完璧に回復した。
『意識を取り戻した時、僕とクリスレイン様にリィエルさんは言いました!レザエル様に伝えて欲しい……』
『“忘れないで”と』
レザエルは雷に打たれたように立ち尽くした。
その隙を見逃すはずもなく、ブラグドマイヤーが振るった大鎌は天使の大剣を弾き飛ばし、ついに奇跡の運命者は地面に倒れ伏した。零の虚の泥濘にレザエルの身体が埋もれてゆく。
「これで終わりだ」
「……」
「こんな時に何をブツブツ言っている」
ブラグドマイヤーは激昂した。
彼自身は気がついていないが、これほどの“怒り”もまた初めて覚えた感情だ。
「忘れないで?……忘れていたことなどない。一瞬たりとも」
今度はブラグドマイヤーにも聴き取れた。
「妄言が辞世の句とはな。さらば、そしてようこそ我が半身よ。滅びて我と共にあれ!」
大鎌が振りかぶられた。
「貴様と戦えたのは我が悦びだったぞ、レザエル」
ブラグドマイヤーはあくまで陰鬱な口調のまま告げると、大鎌をレザエルの頭頂に向けて振り下した。
白い闇の中に、光が爆発した。
──2000年以上前。ユナイテッドサンクチュアリ天空の都ケテルギア、最上層テラス。
「レザエル?」
「あぁ、ぼんやりしていた。すまない、リィエル」
「ふふ、働き過ぎでは」
「そうかもしれない。プロディティオなる男が反旗を翻して以来、各地からの救援要請は増すばかりだから。だが無理を押しても会うべき人がいる。それが今の僕の幸せだ」
「光栄だわ。でもあなたは忘れやすいから」
「忘れやすい?初めて言われた。自慢ではないが見習いの頃だって、僕は……」
「最優秀だったね、確かに。でも今こうしてあなたが見て、聞いたこともあなたは大事なときに覚えていない」
「君がオラクルだとは知らなかった」
「冗談で言っているのではないのよ。大事な言葉ほど羽のように心をかすめ過ぎていくもの。あなたを愛しているわ、レザエル。ほら、こんな風に」
「そんなわけはない!君のその声、その顔も、何ひとつ忘れるものか!この一瞬一瞬が輝いているんだ。今こそ生きているって感じる」
「あなたがいま感じているのが恋で、私がいま投げかけているのが愛よね。わたしたち医師でもどうにもできない心の不思議。そう言ってくれるあなたの気持ちは何よりも嬉しいけれど……でもレザエル」「?」
「これは忘れないで」「……」
「あなたの側にはいつも私がいる。私たちの間に横たわるものがどれほど大きく、深いものだとしても。どのような形でも。そこに漂う私の愛を感じてほしい」
「僕もそうだ。時も距離も僕らの間を割くことはできないさ」
「そうだったら嬉しい。この意味を、そして他の私の言葉もいつか思い出してくれたら、もっと」
──現在。零の虚中央、最深部。
光が収まると、ブラグドマイヤーは泥濘に膝をついていた。
レザエルは起き上がり、地に落ちていた剣を再びその手に収めた。その肩に一瞬、白い羽根が止まったように見えたのは幻だろうか。
「確かに忘れていた。私は一人で戦っているのではない。君はいつも僕と共にいた。僕の心に」
「何のことだ」
「いま運命力の均衡が傾いたのを感じるな、ブラグドマイヤー」
「……感じる。力が流れ出てゆく。あれほど俺を満たしていた“悲しみ”も」
「そう望んだ人がいるのだ。時空を超えて、ただ寄り添い、悲しみを癒やそうとした者が」
「力が……入らない。なんだ、この胸を焦がすものは」
レザエルは、起き上がろうともがくブラグドマイヤーに手を差し出した。疲弊し尽くすほど戦った敵に。
「悔しさだ。だがそれは克服できる」
「勝てないというのか。俺はお前を……」
「怒り、そして苛立ち。それらは当然の反応だ、ブラグドマイヤー」
「俺と戦え、レザエル」
「それはまたの機会にしよう。するべき事を終えて」
「俺は……何に負けだのだ?教えろ」
「私にもわからない。君でも奪うことのできないものが、この世界には在るという事なのだろう」
「……」
「まだ腹は減っているか、ブラグドマイヤー」
「ああ」
「飢えを感じるか」
「前ほどでは無い。なにかが胸に詰まった感じだ」
「それが感情だ。さあ、私のこの手を取れ、ブラグドマイヤー」
レザエルは先ほどから一度も手を引っ込めなかった。
「取ってどうする」
「おまえに見せたいものがある。世界だ。この“無”が繰り返す零の虚を抜けよう」
「これは俺の故郷だ」
「君の故郷ははるか後方だろう。これは君の殻」
レザエルは、スノードームのように捕らわれた生物と非生物が舞い落ちる空間を見上げた。それは世界から集まった悲しみが生んだ“無”の玩具だった。
「そして魂の牢獄だ。捕らわれたものを帰さねば。あるべき場所へと」
「……なぜ連れて行こうとする」
零の運命者ブラグドマイヤーは鎌を下ろして、おずおずと手を伸ばした。奇跡の運命者レザエルへと。
「その答えは先ほど君自身が言った」
レザエルはやはり善き教師、善き医師だった。
「君は私、私もまた君の半分だからだ。自分をこんな所に放ってはおけないよ」
Illust:DaisukeIzuka
──現在。強襲飛翔母艦リューベツァール飛行甲板上。
「ようやく終わったな。いやぁ色々と大変だったけど」
ヴェルストラはヘルメットを外すと、エンジェルフェザー見習いの少年に笑いかけた。
「えっ、本当ですか!?……それと、いいんですか外しちゃって」
とソエル。艦橋からの連絡で、零の虚──すでに渦の動きは止まっていて、あの凶暴な潮汐力は失われている──に向かって微速降下中とはいえ、ただの人間であるヴェルストラは気圧、酸素ともにまだ相当苦しい状態のはずだ。
「いいんだよ。英雄の凱旋にヘルメット着けてちゃダメだろ。それにね」
ヴェルストラは左手で、甲板を掴む右の剛腕武装を指差した。
「こいつの機能で短時間なら宇宙空間でも生身で生きられるのさ。無敵無敵ぃ!」
言いながらちょっと咽せるヴェルストラ。
ソエルは痩せ我慢はほどほどにと言いかけて、止めた。
「あぁ。それにしても目が覚めたんだったなら居合わせたかったなぁ、リィエル=アモルタ」
「でも、ずーっと声は聞いてたんでしょう。ヴェルストラさんは、誰よりも沢山」
「“卵”通信と生身じゃ違うんだよ!あんな健気で超ド級のロマンス抱えたヒロイン美女なんてもう出会えないぜ!」
「わがままお姫様に苦労させられた、とか仰っていたような」
「ものの例えだよ!ほら、こう……クラスで好きな女の子に口悪く対応しちゃう男の子みたいな」
「それとリィエルさん、お師匠様の彼女さんですけれど。2000年以上前から」
「わっかんないかなー。リノちゃんやバヴサーガラみたいに細い肩に全世界背負っちゃう感じ。あの存在そのものが別格なの!愛でるの!誰と付き合ってるかなんて問題じゃないの!(あ、リノちゃんはオレ独占ね)」
辺り憚らず悔し泣きしているヴェルストラを見て、あぁこの人も僕らと同じで《ユナイテッドサンクチュアリの華》のことが大好きになっていたんだな、とソエルは素直に感心した。
「まぁいずれにしても親友って最高だよな。いやぁ、全面協力して良かった良かった。それじゃ歓迎会の準備もしなくちゃな。あと病室も」
「え。ヴェルストラさん、いま何て?」
にやっと笑って下を指したヴェルストラの視線の先を見た途端、ソエルは迷わず甲板から身を投げ出した。
満身創痍の師匠、レザエルが上昇してくる所だった。
その隣に一人の悪魔を抱えて。
彼はまだ虚の外を知らない。いわば生まれたばかりの存在だ。彼、ブラグドマイヤーとこれから出逢う世界とはどの様な関わりになるのだろうか。
だがブラグドマイヤーもまた《在るべき未来》を選び、歩き出した。おそらくそれが一番、重要な一歩なのだ。
それは奇跡の運命者レザエルと時の運命者リィエル゠アモルタが選んだ未来。
零の運命者ブラグドマイヤーが白い闇と虚ろな沼を捨て、惑星クレイという新世界に漕ぎ出した瞬間だった。
──強襲飛翔母艦リューベツァール、特等船室。
クリスレインは水晶玉を覗きこみ、静かな嘆息をついた。
大いなる運命の時は過ぎた。
彼女が背負ってきた予言はいずれも未来に悲観的なものばかりだった(うち一つは言うまでもなく、ストイケイアの叡智の結晶“ワイズキューブ”であったが)。
その中で、たった一つ。
大望の翼ソエルの役割に触れたものがあった。ケテルサンクチュアリのオラクルの言だ。
「若者のひたむきな思いが2000年を超える恋人たちの架け橋となった」
そしてまた一人、孤独な魂にも手が差し伸べられ、物語は新たな章へと入りつつある。
『恐れず進みたまえ。未来はひとつではない。この惑星に生きる君たち自身が選び取るものだ』
それは彼女が最初に聞いて以来、いつも心に留めている声だ。
「大賢者ストイケイア。あなたの御言葉あらためて胸に刻み、我々は進んでいきます。未来へと」
クリスレインは祈るように胸の前で手を組み合わせた。その目には光るものがある。
リリカルモナステリオ導きの塔の主は振り返った。寝台へ。
そこには今度こそ、幸せを掴んで欲しい人がいたから。
もうすぐ彼女の愛しい人がここにやって来る。
時空を超えた恋人たちは手を取り合い、2人だけの時間は──充分ではないかもしれないが──与えられるだろう。
「あぁっ!」
だが顧みたクリスレインが見たものは、一度は意識を取り戻し、ソエルを介してレザエルを救う一言を残して、再び微笑んで安らかに眠っていたリィエル=アモルタではなかった。
それは透けていた。
存在が保てなくなっているのだ。
もちろんこれはリィエル自身が予言していたことだ。時間軸が閉じられると未来に属するリィエルの存在もまた。でも、こんな……。
「ダメ!そんな!……残酷過ぎる!」
リィエル!リィエル!!時の運命者!時翔の偉大な成功者!惑星クレイ世界の未来を守った英雄!
消えないで、消えないで!!!
クリスレインは空しく、手を差し伸ばした。
機械仕掛けの天使の身体が消え去りつつある寝台へ。
滅びの運命から世界と恋人を救うという偉業を成し遂げ、いま愛に包まれて旅立つ、ユナイテッドサンクチュアリの華、レザエルの恋人。
時の運命者リィエル=アモルタ。
誰もが彼女を愛した、微笑む天使に。
了
※スノードームについては地球の似た玩具、工芸品の名称を使っている。※
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《今回の一口用語メモ》
調査報告書 『零の虚』、一旦完了について
ケテルサンクチュアリ防衛省長官 殿
同報送信CC 円卓会議 各位
本通信は、この度活動を停止した通称『零の虚』とこれに関わる諸事件について、一応の解決を報告するものである。
諸氏もすでにご存じのことも多いとは思うが、現状について列記してみたい。
①零の虚の吸引力は消滅。瘴気の渦の動きと拡大も停止。
②零の運命者 ブラグドマイヤーは、奇跡の運命者レザエルの保護と監視の下に置かれている。
『零の虚』活動停止直後は我々も、強襲飛翔母艦リューベツァールも総員臨戦態勢で待機していたものの、ヴェルストラCEOの判断により解除されている。リィエル=アモルタ消滅に対するレザエルの心境は察するに余りあるが、動揺は我々が案じていた程ではなかった。少なくとも外見上は。渦の中や戦闘前、本人たちにしかわからない交流があったものと思われる。
③②にともない、ブラグドマイヤーからの聴取をレザエル立ち会いの下、小官が水晶玉ネットワークを代表して行っている。
ブラグドマイヤーは生誕の瞬間から現在まで孤独であったため、コミュニケーションにはやや困難が伴ったがおおむね協力的である。
ブラグドマイヤーの発生と行動、第7の運命者リィエル=アモルタも関わる本案件の結末については、別紙参照のこと。
各国会議において②の同意と、ブラグドマイヤーの罪は問わない決定は承知済み。
ただしこれには各国代表および識者からの信頼が篤い“救世の使い”レザエルの管理と、下記④が条件となる。
④零の虚に取り込まれた生物/非生物に関しては、ブラグドマイヤーより返還が約束されている。
レザエルのコメント「彼はまだこの惑星クレイ世界に生まれ落ちたばかりである」ことから、情操と協調の教育が必要であり、この意味でもレザエルが適任と我々現場も同意する所である。
また、国境を越える被害が出ているため事態の収拾には、今後も関係各国の協調が求められるであろう。
なお現在、小官アゼンシオルと騎士ベンテスタはリューベツァールより離脱し、北部ブラントゲートの山地に野営。本通信では「一旦完了」と題したが特に指示なき場合、同2名は案件を未解決(潜在的な脅威は去っていない)と判断して秘密任務を継続する。
この後、レザエル一行(これまで通り大望の翼ソエルと、そしておそらく教育と謝罪返還を兼ねた「世界漫遊」のためブラグドマイヤーが同行すると予測される)の出立に合わせて、監視連絡任務に復帰する。
なお長官殿におかれてはゾルガ船長、ヴェルストラCEOへの手厚い援助・助言頂き、水晶玉ネットワークよりあらためて感謝の言を預かっており、この場を借りてお伝えする次第であります。
以上、ご報告と各位へ心寄りの謝意を込めて。
ロイヤルパラディン第4騎士団所属 国土防衛調査官 躍進の騎士 アゼンシオル
ケテルサンクチュアリ国土防衛調査官 躍進の騎士 アゼンシオルの調査報告書、初号は
→ユニットストーリー128「奇跡の運命者 レザエル」を参照のこと。
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本文:金子良馬
世界観監修:中村聡
世界観監修:中村聡