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小説

Novel
クレイ群雄譚(クロスエピック)

第1章 誰が為の英雄

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第1章 11話 白の研究所(ブラン・ラボ)

 この国では、闇は最高密度の白だった。

 天で編まれた六花はやがて地上に降り注ぎ、希望も絶望もへだてなく染め上げる。それは潔癖な悪魔のごとき白。

 雪片は鋭く、刃よりも凶悪に牙を剥く。風は獰猛に吹き荒び、亡霊のように響いている。

 間もなく夜、雪原は完全な闇に包まれるだろう。

 ただ中を男が進んでいく。物々しい濃紺の鎧に身を包んだ騎士だ。目から鼻先までは兜に覆われ、唇を固く引き結んだ表情は厳めしい。

 薄暮の中でも際立つのは、彼が携えた大剣だった。鍔(ガード)から剣身(ブレイド)にかけて漆黒の翼が伸び、中心では虹色の魔法石が煌めいている。

 漏れ出でる魔力に呼び寄せられたのだろうか。

 突如として雪原が跳ね上がり、姿を現したのは、打ち捨てられたのであろう錆びたバトロイドだった。身の丈は優に五メートル、配線が露出したアームを振り上げる。

「ギィイイィイィ!」

 男は一瞥し、黒剣を大きく横薙ぎにした。バトロイドは一瞬にして鉄クズと化し、雪上に降って地響きを立てる。

 間近を鉄片が掠めてなお、男の表情は凍りついたように動かない。薄く開いた唇から白い吐息のみ立ち上っている。微かな呼吸音さえ雪に喰われ、そこには男を責め立てる亡霊の絶叫だけが響き続ける。

——どうして、どうして……

——どうして、お前は……

 重い歩を進め、やがて男が辿り着いたのは白く無機質な建造物だった。巨大なキューブが無造作に積み上げられたような建物に窓はなく、光も漏れ出でる気配がない。人並外れて夜目が利くこの男ではなければ、雪原の中に巨大な施設があることすら気づけなかっただろう。

『——何者だ』

 ノイズ混じりの声がどこからか降ってきた。監視機構がどこかに設置されているのか。

「……オブスクデイトだ。ここで、傭兵を募集していると」

『あぁ……”あの女”の。了解だ』

 意味ありげな含み笑いと共にキューブの壁面が横にスライドし、殺菌灯の青い光が雪闇に溢れた。足を踏み入れたオブスクデイトを迎えたのは、五十歳ほどのヒューマンの男である。グレーヘアはポマードで神経質に撫でつけられ、糊の効いた白衣も病的なほどシミひとつない。

「ハロルドだ。こちらの副所長を務めている。よろしく」

「オブスクデイト。経歴はすでに書類で送った通り」

「書類? まぁ、どうでもいい」

「……どうでもいい?」

 ぞんざいに依頼できるほど、手付金は安くなかったはずだ。怪訝に思うオブスクデイトに、ハロルドという男は芝居がかった仕草で両腕を広げた。

「君が屈強なのは見ればわかる! なに、赤子の手を捻るように簡単な仕事だよ。着いてきてくれ」

 白いモルタルの廊下を抜けると、強化ガラスの窓の向こうに実験室と思わしき広い部屋が見えた。白衣を着た男女が行き交う姿は、子どもが絵に描いたように『研究所』らしい。

 その中で屈強な鎧姿は場違いだが、気を使ったのかいないのかハロルドは振り返った。

「ロイスデリア国立研究所——通称『白の研究所(ブラン・ラボ)』。”悪戯をしたら白の研究所(ブラン・ラボ)に連れていくよ!”ってね。世間では子どもを攫って怖いことをする悪の研究所ということになっているんだ。私も子供の頃は散々脅されたものだよ。君は知らないかね」

「……いや」

「そうかい。しかし実態はこの通り、真面目な研究所だよ。取って食いはしないから、安心してくれていい!」

 ハッハッハッ! ハロルドの笑い声が響く。大仰な身振りも溌剌とした表情も、研究者というよりやり手の実業家だと言われたほうがしっくりくる男だ。

「主として研究しているのは虚無(ヴォイド)に対抗する戦力。我がブラントゲートの技術の粋だ! 例えばこのセクターでは怪獣の開発を行っている」

 ハロルドは左手に見えてきた研究室を指し示す。ドーム状の広い天井を持つそこには『第三セクター 第二実験室』と刻まれたサインボードがある。

 液体の詰まったボトルが並ぶ一角、数列が流れる液晶ディスプレイ——何に使うのか見当もつかない機械が立ち並ぶなか、淡緑色のショートカットの少女が足早に歩いていくところだった。こちらの姿に気がついてペコリと頭を下げる。

「彼女はアルキテ。怪獣開発に並外れた才能と熱意があってね。お陰で怪獣の核を生産する新たな技術が生まれた。もしこのまま研究が進めば、怪獣を人工的に量産することも夢ではないね」

 年齢はまだ十代だろう。慎ましやかな顔立ちだが、瞳の奥には知性の光が煌めいている。そのあとを三メートルはあろうかという怪獣が、のっしのっしとついていく。頭頂部から突き出た雷状の角と側頭部の電波望遠鏡が特徴的だ。

「あれは電波怪獣ウェイビロス。アルキテの初期作品で、電波を操作することができる。体格は小柄だが人によく懐いていてね、あぁして研究を手伝ってくれているんだ」

「……なるほど」

 気の利いた言葉を返せれば会話も弾むのだろうが、雑談や世間話はオブスクデイトがこの世で最も苦手とするものの一つである。ハロルドもそれを求めるつもりはないらしい。

 ここは怪獣の幼体の保管場、と巨大なガラス筒状の培養器が並ぶ部屋を通り抜け、やがてシンプルなドアが等間隔に立ち並ぶ一角に出た。

 ハロルドが足を止めたのは『D-23』と書かれた部屋の前だ。ノブのない白いドアには、手のひらほどの黒いパネルがついている。

「この部屋に女が一人いる。彼女が部屋の外に出ないように二十四時間見張って欲しい。食事は彼女と共に、シャワー室やランドリー室は中にあるからそこで済ませてくれ。睡眠も中にある仮眠ベッドで。寝ている間はこちらで見張るが……生体認証でしか開かないドアになっているから、まぁ気負う必要はないさ」

「……それだけか?」

「それだけだよ。何せ寝ているとき以外ずっとだからね。大概の人は聞いただけで逃げ出すぐらい過酷だよ」

 自惚れでなく、オブスクデイトは自らの力を百の兵に匹敵すると認識している。訓練されていない下級兵卒なら千を前にしても引くつもりはない。どれほどの相手かは知らないが、ただの女の見張りにする兵力としては過剰だろう。

「だがそう言ってもらえると安心だ。頼りにしてるよ、騎士殿」

 これが『生体認証』なのだろう。オブスクデイトが黒いパネルに触れると、空気の抜けるような音と共にスライドした。

——ピッ、ピッ、ピッ……

——チーン、チーン

 様々な電子音たちがオブスクデイトを迎えた。

 部屋は存外広く、先ほどの研究室群と同じように、何に使うのか想像もつかない機械、器具がところ狭しと並んでいる。

 違うところがあるとすれば、ガラス向こうの研究室は塵一つなく清潔だったが、こちらは妙に生活の跡があることだろうか。

 乱雑に積まれた本や、何ごとか書き散らかされた書類の束、果ては中途半端に飲み物が残ったマグカップに、枝が伸び放題の植木など。

「……植木?」

 研究室という場に不似合いな緑に思わず声をあげていた。一抱えほどはありそうな鉢に生える、男の背丈ほどはある一本の木。枝先には青い実が揺れている。

 そのままオブスクデイトは歩みを進め——床の上で、少女がうつ伏せで行き倒れているのを見つけた。

 黒い光を放つリングがふたつあるところを見ると、サイバロイドなのだろう。かつて惑星クレイを脅かす侵略者として現れ、「メサイア」の意思によってクレイの住人となった種族。

 もしヒューマンであれば、歳の頃はハイティーンだろうか。黒いビキニスタイルの上からオーバーサイズの白衣を羽織っているというミスマッチな組み合わせで、無造作に投げ出された太ももが白くまぶしい。

 この少女が、ハロルドの言っていた女か。見る限りでは監視が必要なほど危険とは思えない。

「……おい」

 声をかけたが、少女はぴくりとも動かない。

 巌のような顔にわずかな動揺を滲ませつつ、傍らに膝をつく。ブラントゲートの広大な雪原を渡ること三日、研究所に辿り着くまでかなりの労力を費やした。監視対象の死亡により初日にして職を失う、ということは避けたかった。

 しかし殺人なら雑談を交わすより容易いが、救命となると弱い。気道の確保か? それとも心臓マッサージか? 

 ともかく仰向けにしようと肩に手をかけたところで少女が呻く。

「んん……もう食べられません~」

 ……少なくとも死んではいないようだ。

 少女はエバと名乗った。

「二日ぶりにご飯を食べたんです。ラボ特製栄養食を三食分。コンパクトなのに何と驚きの2000kcal! で、お腹いっぱいになったらこう、意識がふわ~っと幸せに」

「だろうな」

 空腹に栄養価の高い食事を詰め込めば、抗えない眠気が起こるのは道理だろう。

 少女は床の跡のついた頬をムニムニと揉むと、オブスクデイトの手をぎゅっと握った。わずかに身構えたオブスクデイトだが、少女の立ち居振る舞いは戦闘訓練を受けたものではなく、手を握られたまま注視する。

 少女の金色の瞳がオブスクデイトを映して光った。

「で、あなたは新しい監視役ですか? ヒューマン、男。年齢は……三十四……違いますね、三十五?」

「……あぁ」

 無邪気と言えば聞こえはいいが——嫌な目だ、と思う。虫が共食いする様を、頬を紅潮さて眺める子どもは、きっとこんな目をしている。

 手甲を着けたオブスクデイトの指を、エバは一本一本なぞった。

「立派な鎧、その日暮らしの傭兵にしては立派すぎる剣……大国の正規軍じゃないと揃えられない物ですね。騎士といえばもちろん、ケテルサンクチュアリ」

「……それで」

「闇色の鎧ということはシャドウパラディンですね。そしてその剣、その魔力……噂に聞く新型ブラスター兵装でしょう? 一人の天才によって作られた伝説の剣を、数多の技術によって再現した三十本のうちの一つ! 天才科学者エバちゃんとしてはロマンを感じちゃいます」

——ポーン

——チッ、チッ……

 断続的に響いていた電子音が、言葉の切れ間に響く。

 何を考えている。

 オブスクデイトは意図的に殺気を滲ませたが、気づいているのかいないのか、エバの様子は変わらない。

「……だとしたら」

「新型ブラスター兵装は正規軍の副団長以上にしか与えられない。それを持ってブラントゲートに来るなんて、特別な理由があるに違いありません。例えば国家間の軍事協力……却下。ここに来る意味はないですね。諜報としての極秘任務。うーん、極秘にしては騎士さん目立ちすぎますし、何より向いてなさそう!」

 ブー、とエバは指をバツ印にする。

「では三案目……剣を違法に持ち出した人間が、こんなところに流れ着いた、とか。あのハロルドおバカさんなら違法入国者だって構わず雇うでしょうね~」

 エバは傍らに浮かんでいた液晶端末に指を走らせる。瞬きの間に表示されたのは、画質の悪いオブスクデイトの写真だ。十年以上前のものだが、陰鬱な表情のせいで若々しさは欠片もない。

「罪状は殺人と強盗罪。強盗はその剣の持ち出しでしょうか、殺人は……うーん、内乱とか企むタイプには見えません。もしかしてカッとなって上官とか殺しちゃいました?」

 押し黙ったオブスクデイトの瞼がかすかに動く。部屋には沈黙が満ちている。

「違いますね。騎士さん、衝動的な感情で動くタイプじゃないでしょう? むしろ溜め込んで溜め込んで爆発させる性格ではありませんか? であれば殺したのは身近な方。家族、恋人……違いますね。なら——お友達?」

 表情を動かしたつもりはなかった。生まれてこの方、朴念仁と揶揄され続ける表情筋だ。ポーン——軽やかに電子音が鳴り、オブスクデイトから何を見て取ったのかエバは「アハッ」と笑った。

「当たり! 大切なお友達でしたね、殺したことを後悔しています? そうですか、可哀そうに。目の下にクマがありますね。度重なるフラッシュバック、悪夢を見る。いつも胸が塞ぐような感覚がある。自尊心の低下。自暴自棄になり、まともな暮らしを営めない? 一つの仕事を長期間全うできず、生活資金に困るたびに違法な傭兵業を引き受けている!」

 エバはオブスクデイトの顎先にそっと触れた。指先は蝋でできているかのように冷たい。

「アルコール中毒者の顔ではないですし、異性への反応も希薄。酒に溺れることも女に溺れることもできないでしょう? もう縛る軍規なんて無いのに真面目なんですねぇ。かつての日々の、出来が悪い模倣のように生きているんでしょう?」

 ポーン、ポーンと電子音が重なる。オブスクデイトは押し黙って答えない。

「当たり! もー、嘘がつけない誠実な騎士さん! 天才エバちゃんには全部手に取るようにわかっちゃってすみません? 図星を突かれて怒らないなんて……あ、もしかして内臓まで見透かされて興奮できる性癖です? やだ、変態さんですねぇ。じゃ・な・い・な・ら・私の監視なんてやめて、回れ右してリタイア、なんてオススメですよー?」

「……これを返す」

 流れを遮ってオブスクデイトは手甲を嵌めた手を差し出した。中には剥がされ縒れたシールがある。

「何か測っていたのだろう」

 エバが最初にオブスクデイトの手を握ったとき、手甲の内側に貼りつけていったものだった。薄いシールは普通であればなかなか気づけない代物だが、男には造作もない。何のつもりだと様子を見ていたが、こちらを伺いながら電子音に耳をそばだてているエバでおおよその予想はついた。

「あらら、気づいてたんですね」

 エバはシールをつまむと、白い室内灯に透かして見せた。中心にはゴマ粒大の何かが埋め込まれている。

「“感情に伴う魔力量の測定装置”。私は嘘発見器、なんて呼んでます。都合が悪いことを言い当てられると気持ちが高ぶって魔力が上がり、装置が反応してポーン! いかがでした? 当たってました?」

「……さぁな」

「つれない。でも気づかれていたなら無効データですね。ざんねーん。あ、監視なんて止めにする方はどうです? 考えてくれました?」

「任務の不履行は主義に反する」

 少女は「ゲーッ」と呻いて舌を出した。オブスクデイトに装置をかけたのは、実験データを取るためが半分、追い出すためが半分といったところだろうか。要するに嫌がらせをするために背景を晒したわけだ。

「騎士さん、お名前は?」

「……名前ならもう」

 表示された指名手配写真で、とっくに名前は知っているだろう。しかし少女は「わかってないですね」と言うように首を振る。

「名・前・は?」

「……オブスクデイト」

「私はエバ。エバちゃんって呼んでくれていいですよ。よろしく? オブ」

 後から知ったが、少女の監視についた者の半分は初対面で半分以上が辞めるそうである。あれだけ露悪的に話されれば無理もない。残りの半分も、ほとんど間を置かずに辞めていくらしい。だろうな、と思う。

 エバという少女についてオブスクデイトが知ったのは以下のようだった。

 年齢は十八、ブラントゲートの第五ドームで育った。

 研究所内で小規模ながら充実した研究室を与えられ、そこから一歩も出ることなく実験に没頭している。

 研究の内容については詳しく知らない。研究者という生き物がそうなのか、彼女がそうなのか。軽い気持ちでした質問によって数時間膝詰めで語られて以降、触れないようにしている。

 うっすら覚えているのは、魔法エネルギー体がどうの、ファイアレガなんたらがどうの……オブスクデイトの人生で聞く機会のなかった単語ばかりだった。

 オブスクデイトの仕事は彼女を監視し、研究室から一歩も出さないこと。監視、とは言っても特別なことは何もない。研究室の出入り口に直立し、ただエバの様子を眺めているだけだ。

 物言わぬ無機物、柱のように振る舞っていればいい……そう思っていたが、エバの方がそうさせてはくれなかった。

 明らかに命に危険が及ぶ爆発実験を繰り返して倒れる。

 その華奢な身体で運べると思えない機械を押して潰れそうになる。

——自分は無機物、と言い聞かせ無視を決め込むのにも限界があった。

「……俺の仕事は、お前を監視することだが」

「知っていますよー」

「監視対象の保護は職務に入らない」

「それはもちろん!」

「だが、監視対象が死んだ場合は職を失うだろう」

「確かに!」

 顔を上げもせずしゃあしゃあと言い放つエバは、通算三十時間ほど高速演算機から吐き出された数字と格闘し続けている。

 サイバロイドは三千年以上前に惑星クレイに降り立った。侵略者として惑星クレイを脅かした頃は感情を持たぬ無機質な存在であったというが、現在クレイに住む者たちは人と変わらぬ情動と共に暮らしを営んでいる。ゆえに食事も睡眠も量に差はあれ必要とし、三十時間の稼働は限界を超えている。

 ……そろそろスイッチが切れたように気絶する頃合いか。

 注視していると予感は的中した。エバはチェアの上でぐらぐら揺れ、デスクに突っ伏せばいいものの、そのまま右に崩れ落ちたのだった。落ちる先は固い床である。頭を打てば最悪死ぬ。

 宙に踊った彼女の身体を間一髪で抱き留めると、オブスクデイトは溜息をつきながら仮眠ベッドに放り込んだ。

「……俺の仕事はお前を監視することで、保護は職務に入らない」

 繰り返した言葉を聞く者はいない。

 エバは研究対象であれば理性的論理的に見られるようだが、自分を客観的に見る能力が完全に欠けている。

 オブスクデイトは格闘術や剣術に人生を費やしてきた。ゆえに浅学菲才の身であり、彼女を評価するすべを持たないが——良くも悪くも普通でないのは確かだ。

 実験で汚れた衣類を自動洗濯装置に突っ込んで、裸のままうろつき始めたときは頭を抱えた。羞恥心というものはないのかと訊けば、酷く怪訝な顔をする。

「羞恥心は、何かしらの失敗、失態を恥じて感じるものですよね? 薬液の爆発は正常な反応でした。今服を着ていない状況は失敗失態に当たらないと思いますよ?」

「……そうではない」

 オブスクデイトは言葉を選びながら、エバは自分と種族は違うが、体つきにおいてヒューマンの女性と大きな差はなく、その裸体に対して性的興味を感じる男は多い。性的興味は加害に繋がりやすく、それを避けるため女性は恥じ入って服を着るのが一般的だ、と懇々と説教をした。

「わかりやすいですね。総論は理解しました」

「助かる」

「各論として、オブは私に対して性的興味を感じるんですか」

「感じないが」

「では問題ないですねっ!」

 頭を抱えた。

 性的興味の有無ではなく、社会的通念から外れた存在が視界に入ることでオブスクデイトの気が散り、職務に支障が出る。配慮のため服を着て欲しい。

 切実な訴えの末、エバはようやく服を着た。

 オブスクデイトを悩ませたのはそれだけではない。

 研究室の中には生活に必要な設備は併設されている。食事についてはすべての栄養要素が取れるという栄養食が備蓄され、外に繋がる孔から定期的に補充されているが……これが堪えた。

 彼の感覚では、サプリメントを固めただけの無味のキューブは食事と呼べない。

「食事なんて所詮脳への餌やりじゃないですか」

 とは栄養キューブを口に運ぶエバの言葉である。

 大概のことでは耐えているオブスクデイトだが、思わず反論していた。

「厳しい規律の下にある軍では、極端に娯楽が乏しい。ここでの仕事も同じく娯楽に乏しい。その中で食事の味は大きく士気に関わる。無視はできない」

「オブの士気は私に関係ありませーん。辞めたければ辞めてくださーい」

 残酷である。どうしたものか、と考え込んだところで、エバが何ごとか閃いた様子で手を打った。

「そこまで言うなら仕方ありませんっ! 私が作ってあげますね、味」

 嫌な予感がした。彼女がはしゃいで無事に終わったことがない。

「……結構だ」

「もう、遠慮はなしですよ。化学なら任せてください! 舌が溶けるような甘みから頭が爆発するような辛味まで、分子の合成で作り出してみせます!」

「……結構だ」

 命の危機を感じるほどの『辛み』の実験台にされた果てに、ようやくオブスクデイトは食堂の使用を許可されたのだった。

 食堂はラボの出入りに近い左方にあって、研究者たちで賑わっている。しかし白衣を纏った男女の中で、いかつい鎧姿のオブスクデイトは完全に浮いていた。チラチラと怪訝そうな視線が飛んでくるのには気づきつつも、無表情はそのままにオブスクデイトは列に混じった。

 列を進んでいくと『本日のメニュー』と記された液晶が浮かんでいる。Aセットはラガ肉の甘辛煮、Bセットはリーニ風クリームシチュー卵付き……こちらのメニューまで無味な栄養食めいているのでは? という心配は杞憂だったようだ。男は一番腹の膨れそうなものを選んでトレーを取る。

『ゴ利用、アリガトゴザイマス』

 コック帽をかぶったワーカロイドがペコッと頭を下げ、オブスクデイトも小さな会釈で返した。

 数百人でごったがえす食堂だが、オブスクデイトのついたテーブルだけ人が寄りつかない。当然だろう。軍で見習いだった頃も、飯を不味くする顔、スリムになりたいご婦人に貸し出せば一儲けできる、と太鼓判を押された身である。

 だが自分のせいで他の席を混雑させているのなら心苦しい。さっさと済ませよう、早食いなら軍属時代から習慣にしている——バゲットを口に放り込んだとき、前方から声がかかった。

「きみ、もしかしてエバの監視の人?」

「……むぐ、」

 詰まりそうになるのを飲み込んで「あぁ」と返す。

 声をかけてきたのは、初日に見た淡い緑のショートカットの少女だった。ヒューマンなので十六、十七、と言ったところか。

 垂れ目も丸い頬も年齢以上に幼く、壮年のオブスクデイトから見れば子どものようだが——普通の子どもには似つかわしくない点がひとつ。傍らに怪獣を連れているのだった。

「ぼくはアルキテ。ねぇ、エバは元気にしてる?」

「元気すぎるな。さっきは実験が成功した喜びの歌を二曲聞かされた」

「ふふ、変わらないな。よかった……あっ、この子はウェイビロス」

 アルキテの倍ほど背丈がありそうな怪獣は、電波望遠鏡のついた頭を丁寧に下げた。

「ゆんゆん、はじめまして。ウェイビロスです」

「オブスクデイトだ」

 一人と一匹はオブスクデイトの向かいの席について、かつてエバと同僚だったのだと語った。

「ぼくたちは十三歳……だったかな? ウェイビーはそのとき創った怪獣なんだ。」

「……若いな。研究よりもまだ遊んでいたい年頃だろう」

「怪獣よりも素敵なものなんてないよっ!」

 声を張り上げた自分自身に驚いたらしく、アルキテは小さな咳払いをひとつ。そして相槌を挟む隙さえ与えぬ早口で語りだす。

「ず——っと怪獣が大好きなんだ。海底からやってきた発破怪獣ボバルマイン、星屑を糧とする宇宙怪獣ドグルマドラ……生態はまだ謎に包まれていることも多いけど、一番大切なことは一目でわかる。怪獣は、何もかも破壊する圧倒的な力が生き物の形をしたものなんだ。純粋な破壊は世界で一番美しい。そう、もう奇跡なんだよ。どこまでも美しい、かっこいい、創りたい……」

「そ、そうか」

 好きから”造りたい”に至るのは、やはり彼女の思考も逸脱している。

「だけど初めて創ったウェイビーは不安定で……あるとき電波で研究所のシステムをめちゃくちゃにしてしまった。所長から活動停止……ううん、殺処分を命じられてしまったんだ」

 電波障害は深刻で、研究所内のセキュリティを八時間に渡り破壊したという。『白の研究所(ブラン・ラボ)』は宇宙や上空からの攻撃に備え、優秀な対魔ステルスを張り巡らせているが(オブスクデイトが徒歩で雪原を渡る羽目になったのもこのせいだ)完全に消失。さらに心臓である科学データベースのセキュリティまで最低ランクまで落ちた。クラッカーによってすべてを奪われてもおかしくはなかった。

 異変の原因を調べ怪獣の活動停止を目指すよりも、殺処分が迅速な処置だ——そう判断された。

「そこを助けてくれたのがエバ。危険を顧みず身体ごとウェイビ―の口に突っ込んで、原因を取り出してくれた。ウェイビーの不調はその日のご飯が合ってないのが問題だったんだ。つまり辛いマンガン電池じゃなくて甘いアルカリ電池がウェイビーの好物だった。人だって辛いものを食べたら暴れだしたくなるだろう?」

「……そういうものか」

 ウェイビロスの前には洗面器ほど大きなサラダボウルがあって、拳サイズの電池が盛られている。パクッと美味しそうに丸呑みした。

「事件が終わって、エバは赤いマールクの果実をくれたんだ。部屋で育ててるのがちょうど実をつけたんだって。だから甘い木の実は今でもウェイビ―の大好物だ。辺境のラボにはなかなか新鮮な果物が入ってこないのが残念だけどね。それからずっとエバはウェイビーの命の恩人だ。……会いたいね、ウェイビー」

「ゆんゆん、ゆん……」

 うなだれる二人だが、オブスクデイトには理解ができなかった。

「会いに来ればいいだろう」

 男に課された任務はエバを部屋から出さないこと。それを邪魔しないのであれば部屋にやってくるのを咎めるつもりはない。

 アルキテはゆっくりと首を横に振った。

「生体認証が通らないよ。禁止されているんだ……もう三年も会ってない」

 研究室に戻ると、エバは宙に投射した数字を指先で操作しているところだった。オブスクデイトは出入口の定位置につき、長い沈黙ののちに口を開く。

「……アルキテという研究者と話した。お前に会いたいと言っていた」

「アルキテ! もう、わたしったら人望ありすぎですね。彼女、元気でした?」

「あぁ」

 エバが青く光る数字をスライドすると、丸と棒で構築された図形が現れる。

「ここから出ずに……三年か」

「そうですよー」

 エバが指先で二回叩くと、図形はみるまに形を変えていく。何ごとかぶつぶつと呟いて、ようやくオブスクデイトを振り返った。

「ちょーっとはしゃぎすぎちゃって怒られちゃって、罰としてここから出るなって言われてるんです。子どもへのお仕置きみたいで嫌になっちゃいますよね」

「いつまでここに居ろと言われている」

 オブスクデイトへの依頼には『任務期間半年以上』と記されており、終わりについては状況次第とあった。戦況の変化に応じて剣を取るオブスクデイトへの依頼として珍しいものではなく、気に留めていなかったが。

「研究論文の査読でインパクトレベルSを取るまで」

「それは難しいのか」

「レベルAで学会がひっくり返ります。でも、レベルSで世界がひっくり返る!」

 積まれた書類を宙にバラ撒き、紙吹雪のように降る中を、スキップ混じりに歩み寄ってくる。

「三年の間でAは二十五本ありました、だけどSはなし。論文の一本はもう結果が出る頃ですね。今度こそ取りますよ。エバちゃんは天才なので!」

 浮かぶ数字を引き寄せて、エバはくるっとその場で回った。彼女の手を離れた文字が、オブスクデイトの胸にぶつかり跳ねる。

「あら~? 可哀そう~とか思っちゃってます? オブは虫さんよりも愚かですね。研究室は最高ですよ、おバカさんたちと話さなくていいですし、必要なものは十分揃いますし、今は世話焼きな玩具まで付いてます」

「世話を焼いているつもりはないが」

「ま、ひとつだけ残念ですね。十日後、アルキテの十八歳の誕生日なんです。ヒューマンは十八歳で大人になるんでしょう?」

「そうだな」

 エバは散らばった書類を踏みながら、部屋の隅で茂る木——これがアルキテの言っていたマールクの木なのだろう——に歩を進めた。淡紅色に熟しつつある果実をピンと指で弾く。

「内緒の計画ですよ? 私は次の論文でSを取ってここから出るんです。何にも知らないアルキテの研究室に行って、覚醒を待つ怪獣の培養水槽の間から顔を出して言うんです。”ハッピーバースデー!”」

 プレゼントはわ・た・し、ってやつですね! とエバはツインテールを頭上でリボンのような形にしておどけてから、豊かな髪で顔を隠した。くぐもった声が漏れてくる。

「アルキテ、私なんか忘れてるかと思ってた……よかった」

 禁止されている通り、エバの研究室を訪れる者は誰一人としていなかったが、破られたのは七日経った昼間のこと。勢いをつけドアがスライドし、足早に入ってきたのはハロルドだった。撫でつけられたグレーヘアは今日も光り、白衣は病的にシミがない。

 出入りに立つオブスクデイトに笑いかけ、胸やけするほど快活に手を挙げた。

「やぁ、騎士様、元気かな」

「変わりない」

 チェアから立ち上がったエバが、弾むボールのように駆けてくる。ハロルドの手をぎゅっと握り、吐息がかかるほど近く肉薄しながら、目を爛々と輝かせた。

「で、で、どうでした? 査読の結果が出ましたよね? Sですよね? 伝えに来たんでしょう?」

「……あぁ」

 ハロルドはチラとエバに目をやって、はぁーと深々溜息をついた。中指のささくれを弄り始める不躾な態度は、オブスクデイトに対するものとは別人のようだ。

「そう、わざわざ・・・・伝えにきたんだよ。私も気づかなかった。君を信頼していたのに、飼い犬に手を噛まれた気分だよ。——君の論文は剽窃だそうじゃないか」

「は?」

 唖然としたエバの声には、いつもの人をおちょくる態度はなかった。

 ハロルドは勿体ぶった仕草でエバの肩を叩き、エバの身体はぐらぐらと頼りなく揺れる。

「もちろん剽窃の罪は重い。君の過去の功績も……これまでのA評価も、恐らく無になるだろうね。一から頑張ってくれ。いや気にすることはない! 君のような天才ならすぐだろう!」

「ひょうせつ、ひょうせつ……」

 エバは力のこもらない音を、耳慣れぬ異国の言葉のように繰り返し、やがて堪えきれなくなって「アッハ!」と笑いだした。

「あぁ、あーあ。そう……」

 エバは肩にあったハロルドの手を、爪が立つほど強く握りしめ、壮絶な顔で微笑んだ。

「私を一生ここから出す気、ないでしょう?」

「まさか!」

 ポーン! ひときわ高く、電子音が鳴り響く。

 オブスクデイトは研究室を出たハロルドを追い、廊下の曲がり角で捕まえた。

「おや、何かな騎士殿」

「話を聞きたい。俺が監視している女について」

 険しい顔つきのオブスクデイトを見返して、ハロルドは面倒げに息を吐きだした。

「話さない——というわけにはいかないようだね。立ち話もなんだ、私の研究室へ」

 導かれたのは研究室が無機質に並ぶうちの一室だ。得体の知れない器具が立ち並び雑然としたエバの研究室とは違い、整理整頓の行き届いたキャビネットが備えられ、中央に据えられた検査機器は埃ひとつない。

 オブスクデイトが飾られた人体模型に目を向けると、ハロルドは「あぁ」と声をあげた。

「手先が器用でね、元々脳神経外科をしていたんだ。今でも栄養注射ぐらいは打ってやれるが」

「いや、遠慮する」

「そう」

 空で注射を打つポーズをしたハロルドは肩を竦め「そうだ、あの女の話だったな」と呟いた。深くチェアに腰かけながら、どこか遠くを見るような目をする。

「彼女がこの研究所に来たのは六年前のことだ。子どもながらこの雪原を渡ってきた度胸には驚いたね。で、『白の研究所(ブラン・ラボ)』の研究者にしてくださいと言う。我が研究所は生まれも育ちも年齢も問わないが……致命的な問題が一つあった。彼女は少々……こう、頭が左巻きだった。年齢は十そこそこだったが、二桁の計算が出来ない、図形を見ながら写させてみればめちゃくちゃだ。意欲と行動力はあるんだが、これはもう努力ではどうにもならないんだ。ここの問題だからね」

 そう言って脳をトントンと指で示す。

「もちろん帰るように言った。勝手に出てきたのか、行方不明届けも出ていたよ。だが彼女は絶対にここで研究をすると言う……困ったね。だから私は言ったのさ”賢くなりたいかい?”ってね。

 そして彼女が”出来た”。活躍は目覚ましかったよ。薬学、自然科学、機械工学……特に彼女が興味を持ったのは魔法物理学だった。アルキテと共同で怪獣の核を研究し——あぁちなみアルキテは生まれながらの天才だよ——高山地帯に埋まる核を発掘するシステムを開発。怪獣開発は一気に進んだ。結果は見ただろう?」

 オブスクデイトは頷いた。

 しかしエバの知性や思考能力が人工的に作られたものだとして、長期間軟禁される理由にはならない。少なくとも十三歳の頃はアルキテと共に研究を進めていたはずだ。

「ところで魔法物理学において、魔法は生まれながらにして与えられた”祈り”の力によって起こるとされているんだ。祈りとはすなわち未来……運命選び取るために天から与えられたエネルギー体。その構造や反応を科学的に分析して利用するのが我々科学者の仕事というわけだが……彼女は子どもらしい疑問を抱いた。”魔法はどこから来るの?”」

 オブスクデイトのようなただの人間にとっては、大小量の差はあれど魔法はあって当然のものだった。体内を血液が流れることが当たり前であるように。ゆえに疑問を持つ、ということ自体が直感的に理解しづらい。

「もちろん諸説ある。神経が電気信号を生み出すように、細胞の反応が魔力を生むというもの。体内に視覚できない魔力臓器があるという説もあるし、神格が遠隔で魔力を注ぎ続けているのだという説もある。実に掴みどころがないが、魔法を科学するというのは”わからなさ”を受け入れていくことでもある。納得できない様子の彼女に、ある研究員が言ったそうだ……”身体をおもちゃ箱みたいにひっくり返せたら良かったのね”」

 ハロルドは瞼を伏せ、重々しい息を吐いた。

「あの女の研究室で、綺麗に腑分けされた死体が見つかった。大騒動になったよ。その幽閉中にあの女は、腑分けしたデータを元にして魔力増幅機構に関する論文を出した。実験手段は罪でも、発明に罪はない……そんな言い訳が通ってしまうほど、よくできていた。お陰で翌年の研究費は二割多かったかな。”飼い主”の私は副所長になった!」

 ハッハッハッ! 笑い声は実に快活だ。

「ちなみに、彼女の最新の論文のテーマはこうだ。”感情と魔力、その有効活用について”。一見して凡庸な論文のようだが……彼女が発明したチップを脳に埋め込めば、感情と魔力を人工的に生み出すことができる、と言うんだ。狼たる兵士は強く、子羊たる国民は弱く……ボタンひとつで人を操作できるのだとね。恐ろしいことじゃないか。もしこれをどこかの軍が採用したら……”世界がひっくり返る”!」

 ひっくり返った先には地獄しかないがね、とハロルドは低い声で続けた。

「もちろん、彼女は研究室から一歩も出ていないから実験の伴わない理論にすぎない。だが環境さえ許せば人の頭を開いてチップを埋めて周るさ。……わかるだろう、彼女を外に出してはいけない。私だってただ憎くてやっているわけじゃないんだ。あの女は私の”作品”だ。責任がある」

 ハロルドはオブスクデイトの肩をポンと叩き「そこに朗報だ」と人好きのする笑顔を浮かべながら、部屋の隅に置いてあった合成樹脂のコンテナを持ってきた。中に敷かれた木くずの上を、小さな生き物一匹ごそごそと動いている。

「彼女と同じ時期に同じ施術を受けた実験動物(マウス)だ。寿命は八年ほどで現在五歳。これも抜群の知能の上昇を見せ、三語文までの言葉を理解している。いや、理解していた——という方が正しいがな」

「では……」

「ハッハッ、半年前ほどから一気に知能が落ちた。今は自分で隠した餌の場所も思い出せない有様だ」

 オブスクデイトはコンテナの中に視線を落とす。水を舐めている実験動物(マウス)は酷く儚い生き物で、奔放なエバとはどうしても繋がらない。

「もちろん私だって手術を施した者として責任を感じている。退行を遅らせるために手を尽くすよ。それも含めて、彼女は私の作品なんだ。だが逃れようもなく、いつか彼女は子どもに戻る。騎士殿はそれまでのお勤めだ、頑張ってくれ。せいぜい頭を弄られないようにな!」

 ハッハッハッ、ハロルドは笑いながら自らの頭をコツコツ叩く。

 オブスクデイトは『ハッピーバースデー!』と希望に満ちた軽やかな声を思い出している。

「……もしあの女が研究室から出ようとした場合は」

「当たり前じゃないか、君が殺すんだ」

 首元で手刀を横に引いて、ハロルドは滑稽に舌を出した。

 

 致命的な変化があっても、日々は何ごともなく過ぎる。

 エバは特に挫けた様子はなく、変わらず研究に打ち込んでいた。オブスクデイトも態度はそのまま、ただ無機物としての役目を果たしている。特筆することは何もない、平穏な時間が流れていく——

 と、思った矢先にエバが実験で薬剤をぶちまけた。

 命に別状はなさそうなので静観していると、ランドリールームから帰ってきたエバが全裸だった。そのままチェアの上であぐらを掻き、濡れないよう逃がしていた液晶を引き寄せ、何ごともなかったかのように作業を再開する。

「…………………」

 オブスクデイトは肉親でも死んだのかというほど悲壮感溢れる様子で瞼を閉じ、眉に深い皺を刻み、雑兵なら失神するほどの気迫と共に嘆願した。

「……言っただろう。俺のために、服を着ろ」

「は——? そんなこと言いましたっけー?」

 一糸まとわぬ姿で、エバはうざったそうに髪を掻く。苛立ちを隠さない半眼でオブスクデイトを振り返り、やがて悪魔のような微笑みをつくった。

「じゃあ勝負をしましょう。オブが勝ったら服を着ます。私が勝ったら三つ願いを叶えてください」

「断る。まず、なぜ願いの数が違うんだ」

「うーん勝負は何にしましょう? そうだ、遥か遠いドラゴンエンパイアの東の地では、”スモー”というスポーツがあるそうですよ。ルールは簡単、手で相手を押して動いた方が負け。立派な騎士様のオブが、か弱いか弱い女の子に押し負けるはずはないですよね?」

「それはもちろんだが断る」

 エバはチェアからひらりと降りて、素足のままぺたぺたと近づいてくる。わざとらしくもじもじと恥じらった演技をしているが、せめて胸部ぐらいは隠してほしい。

「私が勝ったら、一つ目の願いのは」

「聞け」

「アルキテに十八歳の誕生日プレゼントを渡すこと。私が直接渡すのは難しそうですから……」

「…………」

 思わず押し黙ったオブスクデイトに、引き続きもじもじと恥じらいながらエバは囁く。

「二つ目、ウェイビロスに私が育てたマールクの実を渡すこと。なかなか育てるのが難しくて、二年ぶりに実が赤くなったんです。ウェイビロスにあげたら喜ぶでしょうね……」

「…………」

 黙り続けるオブスクデイトの胸に、エバはそっと触れる。金色の瞳はうるうると揺らぎ、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。

「三つ目——私はこの部屋から出られず終わっていく籠の鳥……もちろん恋をすることもありません。オブ、もし私が勝ったらキスをしてくれますか?」

「は、」

 思わず我が耳を疑ったその瞬間、ぐっと胸を押され、右足を後ろについていた。まずいと思うがもう遅い。

「はい、私の勝ちでーす」

「待て、勝負に乗るとは言っていない」

「これをアルキテに、こっちをウェイビロスに。あぁ、ちょうどランチの時間! よろしくお願いします♡」

 いつから用意していたのか、紙袋に入ったプレゼントがサッと出てくる。勢いに呑まれ、オブスクデイトは受け取ってしまったのだった。

「…………」

 少女の健気な願いなら応えてやりたいと思ったのは確かだが、こう易々としてやられると苦い気持ちにはなる。

 紙袋を懐に納めたオブスクデイトが、顔を顰めつつ研究室から出て行こうとすると、背後から軽快な声が飛んできた。

「あ、三つ目の願いは変えますからー」

「……そうしてくれ」

 いや待て、俺が負けたということは服を着ないということか? ハッと気づいて振り返った瞬間、電気駆動のドアが目の前で閉まった。

 その日も食堂は変わらず賑わっていた。トレーを手にオブスクデイトはゆっくりと視線を巡らせて、怪獣を従えた少女を見つけた。ちょうど食堂の隅のテーブルに着いており、向かいにオブスクデイトが座れば(流石にウェイビロスは厳しいが)アルキテの姿は周りから隠れることだろう。都合がいい。

「……前に、座ってもいいか」

「オブスクデイトさん! もちろん」

 重ねて言うがオブスクデイトは雑談の得意な男ではない。無言が流れる中、自然な会話の糸口を探して数十秒、結局すべてを諦め単刀直入に切り出した。

「十八歳の誕生日だと聞いた。おめでとう」

「誕生日……ん? あっ、そうか!」

 手放しに驚いている様子を見ると、本当に忘れていたらしい。年齢的にも性格的にも誕生日に無頓着なオブスクデイトならいざ知らず、うら若い少女がこれだ。脳には隙間なく怪獣のことが詰まっているらしい。

「……エバから聞いたんだね。覚えててくれたんだ、嬉しい」

 アルキテが声を潜めたのは、本来なら伝言さえも避けるべきだから——だろうか。

「彼女からこれを」

 オブスクデイトが取り出したのは、赤く艶やかな果実。エバが研究室で育てた木に実ったものだった。

「ウェイビロスに、と」

「マールクの実! ありがとう! ウェイビ―、ほら。味わって食べるんだよ」

「ゆんゆん、ありがとうございます、オブスクデイト、サン」

「……俺は何も。あぁこっちはアルキテに、と」

 続けて取り出したのは、人工大理石を荒く世六面体に削ったような塊だ。砕いた雲母を散らしたように表面は煌いている。

 受け取ったアルキテは、壊れ物を扱うように両手でそっと包み込んだ。

「記憶の箱……完成してたんだ」

「なんだ、それは」

 危ないものではないようだし、どうせいつものように聞いても理解できない何かだろう、と言及することなく受け取ったオブスクデイトだ。

「エバが子どもの頃に拾った記憶を封じ込める宝具。これさえあれば、五感すべてを再現することができるって——エバに会えるって」

 アルキテの手の中で岩塊がぼうっと青い光を放ち、彼女の身体を包む——ことはなかった。光が何もない空間に投射され、立体的にエバの姿を映しだしたのだ。リリカルモナステリオのライブなどでも使われている映像投射システムだった。

 映像のエバは、溌剌と飛び跳ねた。

『あるときは囚われのプリンセス、あるときは天才科学者、その名もエバちゃんです♡ 記憶の箱……は間に合わなかったので、3Dホログラムでジャジャーンと登場! アハッ、見た目は嘘ぴょんです。騙されました? びっくりしましたー?』

 聴こえるはずもないのに、手を当てて耳を澄ませる仕草でおちょくってくる。

『アルキテ、元気ですか? 私はとっても元気です。オブ……じゃなかった最近の玩具はなかなか壊れなくて飽きませんから! アルキテ、十八歳の誕生日おめでとうございます! もう大人になっちゃいましたね。ずーっと直接顔は見てませんが、アルキテのことだから楽しく怪獣ちゃんたちとガウガウやってるんでしょう? データベース見てますよ、竜巻怪獣サイクロガーデ、火山怪獣ゴウカテラ——新しい子たちも全員イケてて最高ですね』

「……!」

 誕生日を祝われたときの何倍もアルキテの顔に笑顔の花が咲く。恋する乙女のようですらある。

『怪獣のことじゃ絶対アルキテには敵いません。灰色の脳細胞エバちゃんと友達できるのなんて、あとにも先にもアルキテだけ! これでもすっごく感謝してるんです。うぅ……言っちゃいました、恥ずかしい……誕生日だから特別なんですよ? ……大好き』

 顔をほんのり赤く染めたエバだったが、髪を左右に乱して首を振る。いつもの様子を取り戻しながら胸元で指を組んだ。

『だから、ごめんなさい。許さないでくださいね』

 言い終わるか終わらないかという刹那、果実を頬張ったウェイビロスが耳を劈く悲鳴を上げた。

「——ポーッ!」

 全身から白い閃光が走り、火花を散らしながら宙を駆ける。

 オブスクデイトはテーブルに足をかけ、向かいのアルキテの襟首を鷲掴みにするや引き寄せた。腕で包んで彼女を庇いながら飛び離れた瞬間、二人がいた空間を強烈な放電が舐める。

 バツンッ、と太い線が断たれたような音がして照明が落ち、あたりは闇に包まれた。ウェイビロスは絶叫しながら地団太を踏むように暴れ、スパークだけがあたりを照らす。

「ウェイビ―! どうしたんだ!」

 駆け寄ろうとしたアルキテだが、四肢を振り回すウェイビロスには近づけない。食事を取っていた研究者たちも事態に気づき、悲鳴とざわめきが場に満ちる。

 混乱の中、オブスクデイトはフロアに放り捨てられた赤い果実を拾い上げた。エバがプレゼントした物のひとつ——違和感と共に力を込めると、たやすく半分に割れて中から小指ほどの筒が転がり出てきた。

 気づいたアルキテが叫ぶ。

「マンガン電池! 吐き出すんだ!」

 しかしウェイビロスは嫌々をするように身体をよじらせるばかり——胃の底で辛さが暴れているのか。

『異常事態発生、異常事態発生、異常事態発生』

 やや遅れて、けたたましいアラートが鳴り響く中、ギリリとアルキテが唇を噛む。

「エバ……なんで」

 果実の中にウェイビロスが苦手なマンガン電池を仕込んだのはエバに違いない。悶え暴れるウェイビロスの腕からアルキテを庇いながら、オブスクデイトは苦い言葉を吐く。

「お前たちに嫌がらせをする理由はない」

「ううん、嫌がらせじゃない……彼女がすることには意味がある……そうだ、電気系統に障害が起きたらセキュリティが機能しなくなる。電気動力のドアが開錠されて手動で開くようになる。——エバが外に出られる」

「…………理解した」

「ウェイビ―は任せて、僕の怪獣なんだから。でも一度止まった電気の復旧には時間がかかる。だから……エバにどうか伝えて欲しい」

 真っすぐにオブスクデイトを見る瞳は、歴戦の騎士たちに劣らぬほど烈しい蒼に燃えていた。

 

 電気の落ちた研究所の中は、まばらに設置された非常灯が光っているが、満足に歩ける照度には達しない。研究者たちはそれぞれの場で待機することを選んだのか、長い中廊下には人影がない。

 白衣を纏った研究者の少女以外は。

 行く先に立ちはだかるオブスクデイトの姿を認め、ゆっくりと静止した。数年に渡る監禁生活で足が萎えているのか、身体は不安定に揺れている。

「あらら、オブじゃないですか。これで会ったが百年目、そんなにエバちゃんのこと大好きで一緒に居たいんですか? もう、しつこい人ってタイプじゃないですけどぉ?」 

「どうして外に出る。この研究所にいればまだ、」

「頭がおバカさんになるまでの時間稼ぎができる、ですか?」

「……知っていたのか」

「もちろん。アハッ、くっだらない! 強制給餌される知識なんてまっぴら、脂肪肝になっちゃいます。私が欲しいのは、取れたてピチピチの知恵の泉!」

 エバの顔は未来への希望で輝いている。花を摘み、甘いものを頬張るフェアリーのように無邪気で、いっそ可憐ですらあった。

 しかし膝から崩れ大きくよろめくと、冷ややかな壁に身体を寄せた。

「でも残念、ここまで。私の、”私”としての命は終わりです」

「——エバ」

 初めて名を呼んだ。化け物の名だというのに思いのほか軽やかな響きで、そうだこれは少女だったなと思い出す。

「三つ目の願いが残っている」

 エバはゆっくりと目を見開き、唇をわななかせ、嗚咽混じりの言葉をつくった。

「……助けて、オブスクデイト」

「——承知した」

 オブスクデイトがケテルサンクチュアリを出て十年の年月が経つ。指名手配の男を雇う者など、脛に傷を持つ者ばかりだ。かつて正義の名の元に振るった剣は、無辜の血で汚れきっている。

 なぜ剣を握る。なぜ生きる。死は常に甘く囁いた。答える術を持たぬまま、十年の時を過ごした。

 ようやく気づいた。

 正義の天秤は昔日に壊れ、彼女が善だろうと悪だろうと些末な問題だった。オブスクデイトは救いを求める手を取りたかっただけなのだ。

 

 外へ出るなり、鋭い氷片混じりの風がエバの頬を叩いた。いくらサイバロイドといえども過度な寒さは機能に影響が出るだろう。オブスクデイトは無言で自らのマントをかぶせた。

 凍りついた湖のような曇天は、真昼でありながら重く沈んでいる。

 爽快な旅立ちとは言い難いが、エバは先ほどの憔悴などなかったかのような軽やかさで雪原を跳ねるように進む。

「生きてるって感じがしますねっ」

「そうか」

 憔悴したポーズにまんまと騙された、とも言えるが自分の決断に後悔はなかった。決断に時間がかかる愚かさについては自覚がある。ならば一度決めたことは命を賭けて貫くまでだ。

 もうしばらく歩けばエバもはしゃぐのに疲れてオブスクデイトに荷物のように抱えられることになるだろう。それまで好きにさせておこう——思考を巡らせたところで、男は怪獣を愛する少女のことを思いだした。

「アルキテから言付けがある」

「……え?」

「”謝らなくていい。行って。振り返らないで。世界のすべてを知って”——だそうだ」

「もちろん、そのつもりです!」

 ご機嫌なエバはマントから抜け出すと、白衣の余った袖と裾をはためかせ、くるくる円を描きながら舞い踊った。ふと雲間から細く尾を引く光が差しこんで、大気の氷晶をダイヤモンドのように煌かせる。輝きは睫毛の先でパッと散り、瞳の黄金を鮮やかに彩った。

 やがて——エバは独楽が勢いを失うように舞うのを止め、小さく首を傾げたのだった。

「それで、アルキテって、誰ですか?」

Illust:kaworu