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小説

Novel
クレイ群雄譚(クロスエピック)

第1章 誰が為の英雄

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第1章 12話 時空竜の声

 
 天国は、あるのか。
 地獄は、あるのか。
 惑星クレイにおいて死生観は様々だ。何せ『事実』として幽霊も、降霊術師も、動く死体も、天使も、悪魔も暮らしている惑星だ。死した魂が目に見える形で身近にあるのだから、死生観が多種多様になるのは当然のことと言えるだろう。
 それでも人は来世や転生を信じるし、感覚的に地獄も天国もあるものとして語る。でなければ『地獄行きにしてやる!』なんて決まり文句だって出てこないだろう。
 けれど不信心なラディリナはこう思っていた。
 天国も地獄も、限られた今の人生を適当に生きているヤツの言い訳だ。今を必死で生きれば天国なんかに期待する必要はないし、後ろめたい生き方をしていなければ地獄に怯えることもない。
 そう思っていた・・・・・——今は知っている。
 地獄はこの世にあって、今背後に広がる光景こそが地獄なのだと。
 振り返れば、出来の悪い粘土細工と化した街があるだろう。清らかに輝いていた運河は溢れ、今は下水と区別がつかない。街路には崩れた家屋が満ち、遠目には廃棄物集積場にも見えるだろう。
 世界樹の恵みを受け、美しい街並みを築いたトゥーリを天国に例えた者もいたという。それが、今や。
 
「……っ!」

 ラディリナは歯を食いしばる。
 歩みを止めたら終わりだ、絶望したら終わりだ。今を生きるって言うのは、そういうことだ。
 肩に担いだロロワの身体は、石でも詰まっているのではと疑わしくなるほど重い。意識のある者よりも、死体はずっと重く感じるというのは本当らしい。
 手の力が緩み、落としそうになったところを、背後から飛んできたモモッケが支えた。バランスを崩しそうになる身体を、どうにか持ち直す。

「ありがとう、モモッケ。大丈夫、負けないから」

 ラディリナが目指すは、街を西に抜ける山道だ。
 トゥーリは、南を沈水海岸、世界樹から北にかけて山に囲まれている。ゆえに、崩壊した街から避難するためには海に出るか山道を行くかということになるが、船を持たないほとんどの住人にとっては後者が現実的だ。
 ラディリナが目指したのも、いくつかあるうちのひとつ、トゥーリの発展のため補整された山道だ。そこへ向かう道も地震によって隆起が酷く、足を取られてなかなか進めない。もちろん、彼女とモモッケだけであれば何の支障もなく風が吹くような速さで通り抜けられるだろう。
 それでも重さに挫けそうになりながら、この世の物ではなくなったロロワと進む。エバの手に落ちるのを防ぐだけであれば、海なりに捨てればいいとも思う。
 だがそうしない。理由など明確だ——ドラグリッターとしての矜持、ただそのため。

 やがてラディリナが顔を上げたのは、ざわめく人々の声を耳にしたからだった。
 何台も馬車が往来できるほどの道幅があった道は、岩混じりの土砂で大半が埋まってしまっている。きっと地響きがきっかけとなって山から土砂崩れがあったのだろう。避難する人々で残された細い道はごった返し、ほとんど進めない有様だ。
 この道の先はもう完全に道が閉ざされてしまったのだろうか?

「……違う、これは」

 気づくなり、思考が赤く沸騰する。ラディリナは土砂の間を跳躍すると、人々の頭上を越えて前に進んだ。
果たして、人々が血栓を起こす原因がそこにあった。

「はい、金貨十枚。確かに、じゃあ通って」
「……あなたたち、何してるの」

 細くなった道に立ちはだかっているのは、ストライとルー——酒場でイカサマを仕掛けてきた二人だった。
 二人は剥き身の半月刀をこれ見よがしに振りかざし、通り抜けようとする人々から金を取っている。目を凝らせば、彼らの足元の土に水がこぼれたような黒く湿った跡があった。きっと顔を寄せれば鉄錆の臭いがするだろう。惨いことが行われたのは容易に予想できた。
 ラディリナに気づいたストライは、胡散臭い笑みを共に両手を大きく広げた。

「おやお嬢ちゃん、また会ったね。ここから先に行きたきゃ金貨十枚……いや、嬢ちゃんなら二十枚だよ。借りがあるからね」
「火事場泥棒……いえ、もっとタチが悪いわね、下衆」
「そりゃあどうも。このまま煌結晶が手に入らなきゃこっちも大赤字なんでね。稼がせてもらうよ」
「あなた聞こえないの? それとも自分だけは大丈夫だと?」

 余震は続いている。耳を澄まさなくても、建物が崩れる音や山の木々が軋む音が聞こえてくる。この道だっていつすべて埋まってしまうかわからないのだ。

「逃げろって? 命を賭けてこそギャンブラーってもの、ギリギリまで稼がせてもらうよ。で、ロロワくんはお嬢さんに担がれてお眠かな? ん……? その怪我……はは、ご愁傷様だね」

 作り物のようだったストライの笑顔に、怖気立つほどの愉悦が走る。赤い月を反射してギラギラと光った。

「よし、大サービスだ。ロロワくんを置いていけば通そう。知り合いの降霊術師ぶよぶよの水死体は飽きたと言っていたからね。死にたてのバイオロイドなら片腕がなくても値がつきそうだ」
「いいわね。その死霊術師さん、私にも紹介してもらえる? エルフとヒューマンの死体、一体ずつ売りたいの」
「……ふふ、ふははは!」

 けたたましい哄笑が夜を裂く。ストライは涙さえ流しながら身体をよじった。

「……モモッケ」
 
 ロロワをモモッケに託し、ラディリナは剣に手をかける。
 相手は二人、しかし実力は比べるべくもない。木偶のルーは話しにならず、ストレイもトリッキーな術を得意とする元奇術師だろう。卑怯な手で不意を突かれるならまだしも、正面からの戦いで自分の剣が後れを取るわけがない。
 だからこそ、ここから逃げるよう忠告したのに——ラディリナの慈悲に気づくはずもなく、ストライは喜色を満面に讃え、朗々と謳い上げた。

「皆々様御照覧あれ! ここが本日のショーステ——」

 しかし、ストライの口上が最後まで述べられることはなかった。
 響き続けていた地鳴り音が俄かに激しくなり、突如として崩れ落ちてきた大岩が男を襲ったからだ。傍らに立っていたルーも為すすべなく下敷きとなる。
 悲鳴さえ聞こえなかった。

「——下がって!」

 爪先を掠られながら、ラディリナは反射的に飛びのいた。本能的な危機察知能力がなければ死んでいただろう。
 間を置かずして落ちてくる大小の礫を、剣で防ぎながら後退し——やがて収まったときには、細くともわずかに残っていた道は完全に岩と土砂で埋まってしまっていた。もうここからは街の外に抜けられない。
 ようやくここまで逃げてきたのに。
 誰ともなくあがる呻きには、泥のような疲労と絶望が混じり合っている。

——どうする。

 モモッケとロロワに腕を回しながら、ラディリナが唇を噛んだそのときだ。

「もう、皆さん逃げるなんてダメじゃないですか」

 場にそぐわない、浮かれ調子な少女の声が響き渡った。

「——この街は大きな試験管。マウスは多ければ多い方がいいんですから!」

 オブスクデイトを共としたエバが、身を寄せ合う群衆に向かってスキップ混じりに歩いてくる。
 その手の内で煌結晶はぞっとするほど限りない美しさで光り、残忍なほどの無垢によって人々の命に手をかけていた。

    *

 孤独を気高さと名づけたまま死んでいけたらよかったのに。
 厚顔無恥な図太さも、うっとりするような自己憐憫も、ロロワは持ち合わせていなかった。
 欲望を問われて燃え始める火口もなく、自我はゆるゆると泥濘に溶けていく。世界の本来の姿が虚無でしかないのなら、このまま失われていくのは自然なことだろうと思った。
 泥濘に蕩けていく思考に、遠い日の記憶がひとつ、またひとつと灯っては、燃えさしのロウソクのように消えていく。

 生まれて間もないころは朝露しか飲まなくて困らせたっけ。
 妙に動物に好かれるたちで、いつも追いかけ回されているロロワを、オリヴィはいつも大笑いしながら眺めていて助けてくれなかった。それでやけに逃げ足だけは早くなった。
 騎士に憧れてオリヴィに剣を教えてもらったことがあった。筋は悪くないと褒められたけど、結局鳥にも剣を向けられなくて笑われたな。
 宿のない晩、針で刺すような鋭さで雨が降ってきて、ボロ布の下で二人身を寄せながら、朝までしりとりをしたことがあった。ようやく晴れた朝焼けに欠伸を噛み殺すオリヴィの肩は濡れ、ロロワよりずっと冷えていた。
 
 蛍火のように淡い記憶の中にも、いくつか鮮やかに光るものがある。
 三千年前——当時のユナイテッドサンクチュアリの北を旅していた頃だった。岩が剥き出しになった悪路を進んでいると、その先の山間で青白い稲光のようなものが閃くのが見えた。いくらか遅れて落雷のように強烈な音が届いたが、自然現象ではないという直感があった。
 ロロワは危険だと思った。オリヴィは心躍る見逃せない事件だと思った。
 走りだしたオリヴィを制止することはできず、まもなく見えてきたのは廃墟となった神殿だ。かつては木で造られていたはず屋根は跡形もなく、白い大理石の柱と梁だけが荘厳な姿を残している。
 柱に隠れつつ中を窺うと、大きく開けた神殿内に一体のドラゴンが立っていた。青と金に彩られた身体は、野性的な身体を持つドラゴンたちの中では無機的であり、怜悧な印象を受ける。しかし戦旗のようになびく赤は、どこか煤けたように曇り、彼が疲労していることが伺えた。

『クロノジェット・ドラゴン……』

 オリヴィは呆然とした口ぶりだが、ロロワはその名を知らなかった。ただのドラゴンのように見える。
ロロワが怪訝な顔になったことにオリヴィは気づいたらしい。

『俺も伝聞の伝聞のそのまた伝聞でしか知らないが……クロノジェット・ドラゴン——他の時空からやってきて、時間と空間を操れるらしい』
『それがどうしてこんなところに?』
『俺に聞くなって。おい、あれを見ろ』

 ロロワたちが隠れているところから離れた柱の奥から、ぞろぞろと出てきたのは武装した人々だ。下級騎士のなりをしたヒューマンがいれば、杖を手にしたエルフがいる、荒く削った棍棒を持ったドラゴンがいる。共通点は一切なく、ただ力のない足取りで、クロノジェット・ドラゴンに向かっていく様は異様だった。
『目に力がない。おかしい』
 オリヴィの呟きに、ロロワも頷く。
『何かに意識を乗っ取られているみたいだ』

 あぁあぁあぁ……
 おぉ、お、おぉ……
 人々は亡霊のように呻きながら、それぞれの武器をクロノジェット・ドラゴンに向けた。剣から斬撃が放たれる、杖から魔力による雷が走り、棍棒が力任せに振り下ろされる——
 しかしクロノジェット・ドラゴンは動じなかった。宙を切るように手を振るうと、虚空で鮮緑光の魔法陣が輝く。すべての攻撃は陣に阻まれ届かない。
 それだけではなかった。無数の時計を描く魔法陣から真白き光が放たれ、肉薄した人々の身体を包み込んだのだ。
 攻撃する意思のあるものではなかった。武器を向けていた人々はそのままばったりと仰向けに倒れたが、その顔は穏やかで——憑き物が落ちたかのようだった。
 ふむ、とオリヴィは顎に手を当てている。
『クロノジェット・ドラゴンは時空間の歪みを修復するもの……あいつらは時空間の歪みに意識を飲み込まれていたのか? ともかくこれで一件落着——ってわけにはいかないようだな』
 笑みを納めたオリヴィの視線の先、クロノジェット・ドラゴンの前に現れたのは一人の騎士だ。いや、騎士『だった』者——と言ったほうが正しいか。かつては栄光に輝いていたであろう鎧は、幾百年も雨風に晒されたように朽ち、赤く錆びたところから崩れ砂になる。それを纏う者も、風化した岩石のような手で刃の零れた剣を握っていた。
 歪んだ時空の果て生まれた『何か』は、碧落まで届くほどの咆哮をあげると、滅びの剣を大上段に掲げ、クロノジェット・ドラゴンへと疾駆する。
 防ぐために翳した魔法陣は両断され、光の破片となり飛散する。きっと時空の歪みを直すための連戦だったのだろう、疲労が現れていた。
 切っ先がドラゴンの頸を狙って振り下ろされる——。
「……っ!」
 たまらずオリヴィが剣を抜いたその瞬間だ。——カチ、と何かが噛み合ったような音が響き、クロノジェット・ドラゴンの周囲に黄金の歯車のごとき魔法陣が浮かび上がる。その空間から姿を現したのは輝く一体のドラゴンだった。その金錫から放たれた力によって腐蝕の騎士が吹き飛ばされ、十歩の間合いで膝を突く。

『クロノスコマンド・ドラゴン……』

 オリヴィが呟く。それはギアクロニクルの技術に革新をもたらした偉大なる指揮官の名。
 浮かぶ歯車の魔法陣からは、カチ、カチ、カチ……と規則的な音が響き、ロロワたちの耳にも届いている。しかし二人の英雄は言葉少なだった。そんなものは些末、不要なのだろう。
 遥か未来からか、それとも他の時空からか——現れたクロノスコマンド・ドラゴンは、クロノジェット・ドラゴンの前で金錫を構えた。
 腐蝕の騎士はいまだ戦意を失わず、シュウシュウと不気味な息を吐く口からは、濁った涎が垂れている。
 ザァと——砂を巻き上げ風が吹き、腐蝕の騎士が大地を蹴った。
 クロノスコマンド・ドラゴンは揺らがない。掲げた金錫から、青き閃光が走って空を切り裂く。そして魔法陣から青き光が溢れ、莫大な奔流となり放たれた。
 腐蝕の騎士の身体は為すすべなく飲み込まれていく。

「やった!」

 顔を輝かせたロロワとオリヴィがハイタッチをしたのも束の間、すぐにそれどころではないと気づいた。桁外れの力は腐蝕の騎士だけではなく、辺りに落ちていた大小の岩や空気を巻き込んで、激しいうねりとなった。

「げっ」

 オリヴィの間抜けな声を最後に、そのまま二人は衝撃に吹き飛ばされ、目を開くと大木の枝先に引っかかっていたのだった。藻掻いたすえに尻から落ちた地面の上で、ロロワとオリヴィはしばらく目を丸くしていたが、やがて堪えきれずに笑い出した。思いがけない九死に一生に直面すると、人は笑わずにいられないらしい。
 それがロロワの記憶の内で数少ない、鮮やかに煌めくもの。
 ロロワが本の登場人物ならば、きっと顔も描かれないような脇キャラクターだ。それでも生きることそのものが歴史となる彼らのような存在に触れられたことは、ささやかでも確かに光る思い出で——目を閉じれば、カチ、カチ、カチ……とあの日聞いた歯車の音が思い出される。
——カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ…………
 まどろみのなか、ふとロロワは違和感を覚えた。違う、これは思い出じゃない。この世界に、この耳に確かに響いている……?
 目を開けると闇がふと、夜明け前に空が白むようにわずか明るくなって、そこに浮かびあがったのはかつて見て魔法陣。精巧に組まれた歯車が浮かび、青く清浄に辺りを照らす。
「は、はは……まさかそんな」
 ついに自分は目を開いたまま夢を見るようになったらしい。思わず自嘲めいた笑いがこぼれたその瞬間、彼方から声が聞こえてくる。
『我が、名……は……』
 砂を流したようにノイズで侵されていたが、その奥に荘厳な知性の響きがあった。
 それはどこかで聞いたような——
 ざらついたノイズがわずか弱まり、声が届く。
『クロノスコマンド・ドラゴン——数多の時空を超えるもの』
「ありえない」
 反射で出たのは拒絶。首を横に振る。時と時空を超える偉大な英雄が、自分に声をかけるはずがない。
『事実だ』
 その揺らがなさは、ロロワの現実逃避じみた疑いを霧散させるのに十分だった。
『何者かに囚われている。意識もどれだけ保つか。だがロロワ、君の姿だけが見えた。囚われ、果てしないほどの時間を過ごした末に見つけた、かすかな……よすが』
 ノイズ混じりの声で定かではない。しかし思い上がりでないのなら……胸が痛くなるような切実さそこにはあった。
『だが黒暗の騎士によって君が殺される未来が”視えた”。私にはどうすることもできず——君は死んだ』
 ロロワの世界はフラッシュするように一瞬白く転じ、やがて目前に映し出されたのは、荒廃した街並みだった。その惨憺たる有様に、しばらくそこがどこなのか理解することができず、崩壊した運河に残る濁った水で思い至る。
『——トゥーリ』
『君の胸に秘められていた力の結晶——この世界では”煌結晶”と呼ぶようだが——それが彼の者の手に渡り崩壊を引き起こしたようだ』
「そう……ですか」
 責任を感じないと言えば嘘になる。自分の身にそんなものがあるだなんて、想像することすらできなかった。知っていれば何か変わったのだろうか……”もしも”に思いを馳せたところで、すべては手遅れだった。
ロロワにはもう、どうすることもできない。
 唇を噛むと再び瞬きのようなフラッシュがあり、映ったのは目も眩むほど強烈な赤。ラディリナの瞳が暁やみの中で怒りを纏い、轟々と燃え盛っているのだった。
「ラディ、無事でよかった……!」
 そのときラディリナの身体が不意に横ざまに崩れ、肩をモモッケが支えられてどうにか姿勢を維持する。
 彼女がいるのは土砂にまみれた山道で、地面はぬかるみまともに歩けない。では彼女がよろめいたのは野路のせいか——違った。決して大柄ではないその身にロロワを背負っているせいだった。
 薄暗闇でわかるほど、背負われたロロワの顔には血の気がない。この世の物とは思えなかった。

「僕はもう……死んでいるんですよね」
『あぁ。息はない、心臓も止まっている』
「ならなおさら、僕のことなんて捨てていけばいいのに、どうして……」
『かのドラグリッターがそう決めた』
 
 ロロワが息を呑んで見つめる先、不意に土砂崩れが起こって大岩が道を塞いだ。そこに歩み寄ってくるのはエバとオブスクデイト——ロロワを殺し、煌結晶を奪った二人だった。

「——この街は大きな試験管。マウスは多ければ多い方がいいですから」

 場の人々はエバの言葉を理解できていない。当然だ。今起こっている災いが、目前の少女によるものだと誰が想像するだろう?

「ほら、ハウスハウス!」

 エバはこの場の人々を今すぐ殺そうというつもりはないらしい。ラディリナは剣の柄に手をかけ思案に眉を寄せている。
 人混みに紛れ、エバに見つからないよう息を潜めて去るのを待つか。それとも、ここで死命を決するか——
 そんなラディリナの逡巡を感じ取ったのか、モモッケは寄り添いながら前を見据えている。
 エバの傍らを行くオブスクデイトは激しい闘いを繰り広げた後なのか、血の乾ききらない傷があり、不愛想な顔つきに疲労が混じる。男の武器である大剣は、開けた場所で最大の力を発揮する——この狭い道はラディリナに有利に働くだろう。
 ラディリナは息を殺して時を窺っている。

「マウスさんたちに質問です。皆さんの望みはなんですかー? ハイ、あなた!」

 上機嫌なエバは、拳をマイクのように突き出して、手近な見知らぬ男に声をかける。初老の男は大きな商家の主人と言った佇まいで、首には太い金の鎖を巻いている。前に突き出した腹が、いかにもそれらしい。
 突然のことに男は声を詰まらせて「な、なんだあんた……」と呻いたが、エバは無視して続けた。

「お金持ちになること、素敵な異性をゲットすること?」
「何で答えなきゃいけないんだ」
「仕事で成功して称賛されたいとか?」
「……」

 黙った男に「当たりですね。とっても素敵!」とエバは言い放ち、舞うようにくるりと回る。

「ここに”望みを叶える”特別なお宝があります。三つまで、なーんて魔法のランプみたいなケチなことは言いません。力が尽きるまで無制限! さて、ここでなぞなぞです。”望み”とは何でしょう?」
「あのな、あんたのお喋りに付き合ってる暇はないんだ。さっさとその騎士をどかしてくれ!」
「例えば望みも色々! 今日の食事にも困っていれば、もちろんパンを望むでしょう? パンはあっても天涯孤独であればパートナーを得ることが一番の望みになるかもしれませんね。きっとマウスさんはパンも家族も足りている、ゆえに地位を望んでいる……そんな感じですね?」
「だからなんだっていうんだ!」
「けれどマウスさんみたいに恵まれた人でも、餓えればパンを望みます。こわーい騎士さんたちに命を脅かされたら、避難するのが第一の望みになったみたいに。欲望には段階があって、最も低いものを望みとして自覚する。私の魔法のランプはそれを叶えると仮説を立てました。
——仮説を立てたら検証したくなっちゃうのはしょうがないですよね?」

 エバは不意に跪くと、男の手を両手でやわらかに包みこみ、夜闇にも光を放つ煌結晶を握らせた。
 蕩けるような微笑みが咲かせながらエバが横に退き——背後に立っていたオブスクデイトが大剣を振り下ろし、男の身体を袈裟斬りにした。
 果実を握り潰したように血が噴き出し、男の絶叫が響き渡る。

「あ、あぁぁぁっ!」
「アブラカタブラ! ほら、魔法のランプに願ってください、死んじゃいますよ!」

 エバはぐいぐいと煌結晶を押し付けたが、恐怖で錯乱した男は彼女に背を向け、もんどり打つように逃げ出した 。それすら幾秒と保たず——男の身体は吊っていた糸が切れたように崩れ、顔から地面に倒れた。
 二度と動くことはなかった。
 場は恐怖と悲鳴に支配された。しかし逃げようにも後ろは土砂に塞がれている、前はオブスクデイトが立ちはだかる。
 なすすべがない。
 エバは耳を塞いで悲鳴から鼓膜を守りつつ、ぷーっと頬を膨らませている。

「もう、ちゃんと説明したじゃないですか。プレゼン資料必要な感じでした? でも臨機応変とポジティブが売りのエバちゃんなので、次のマウス実験いっきますよー!」

 その口ぶりは、まるで年頃の少女が洋装店ではしゃぐようである。しかしあどけなさが残る丸い頬には細かな血の飛沫が筋を引いている。

「では、そこのあなた! そう、お若いヒューマンのあなた! オブは手加減が下手なので時間勝負です、今度はちゃんと願ってくださいね。実験、スタート!」

 涙を流して身をよじる少年に向かい、オブスクデイトの剣が振り下ろされる——そこに赤き一陣の風が吹き、刃がぶつかる高い音が響く。
 大剣を受けたのはラディリナだった。

「——っ!」
 
 残虐な”実験”を、なすすべなく見ていたロロワは息を呑む。
 剣を受けたのが思考して為された行動ではないのは明らかだった。咄嗟に身体が動いた、彼女の剣士としての魂が本能的にそうさせた——細かな飛沫として散った汗がありありと語っていた。
 巨躯の騎士と若き竜騎士——膂力で押し合えば負ける。
 ラディリナの判断は刹那、力を受け流しそのまま下段よりオブスクデイトの胴腹に刃を放つ。鎧の隙間から皮膚を裂くが——浅い。

「チィッ!」

 舌打ちと共に跳躍し、宙に身体を躍らせ続けざまに斬撃を放つ。魔力を孕んだ赤き閃耀が男へ疾駆した。
 男はエバを背後に庇いながら剣を掲げ、正面から斬撃を受けた。鎧の肩に傷が刻まれたが、皮膚にも至らない。

「もー探しましたよ! こんなところに居たんですね!」

 オブスクデイトの後ろからひょこっと顔を覗かせ、エバがあたりに視線を巡らせた。恐怖で硬直する人混みの中に、モモッケが守っているロロワの姿を見つけ、パッと顔を輝かせる。

「ロロワさん、貰えますよね? 大切に大切にしますから!」
「嫌。絶対に、嫌」

 ラディリナの声は頑なだ。エバは不思議そうに首を傾げる。

「どうして? もう死んでいるんですから、どうしたっていいじゃないですか。それのために命を賭けるなんて……うむむ、不思議です。あっ、復活を信じて亡骸を火葬にできないタイプの宗教観です?」
「違う」
「仮説一はバツ。あ、好きになっちゃったとか? 人は”恋”をすると合理的でない行動もすると研究所の文献で読んだことがあります」
「違う」
「仮説二もバツ……」

 うーん、とエバは首を傾げぐるぐると回している。
 
「何か私の知らない利用価値がある?」
「違う」
「実は親戚だった! ……はさすがにないですね」
「——かつてネハーレンという竜騎士がいたわ」
「ふむふむ」

 エバは興味深そうに口角をあげた。ラディリナの声は淡々としているようで、底には激情が流れている。

「猛将『ドラゴニック・オーバーロード』の部隊に所属し、ヒューマンの身ながら偉大なるフレイムドラゴンと共に空を駆けた。凄まじい力で万の兵を駆逐し、今でも帝国史上最強の竜騎士の名は揺らがないわ」
「それでー?」
「彼が強かったのはなぜ? 剣に優れていたから? ——それだけじゃないわ。この惑星で初めて生まれた知的生命体はドラゴン。ドラゴンはいつだって偉大な力で世界を導いてきた——彼らと真に心を通わせることでのみ青き竜騎士に近づける。誇りこそがドラグリッターをつくる」
「アッハ! 精神論、非合理的ですね。その安っぽい誇りじゃ、冥土の六文銭も払えませんよ?」
「——あと」

 ラディリナは蔑みの半眼を向けながら、顎で煽って見せた。

「あなたのこと、嫌いなの」
「なっるほど、それなら合理的です!」

 無邪気にウンウンと頷いたエバに向かい、ラディリナの斬撃が駆ける。斬ったのは髪が一筋きり、オブスクデイトがエバを突き飛ばし、ラディリナへと距離を詰める。

「逃げなさい! 今のうちに!」

 ラディリナが怯え硬直する人々へと叫ぶと、誰もが金縛りが解けたようにハッとして、もんどりを打ちながら駆けだした。

「あらら」

 脇を駆け抜けていく人々を、エバはお手上げのポーズで見送った。それは上っ面の道化、焦った様子はない。
 ラディリナは地面を蹴る、オブスクデイトの剣が掠めるも、そのまま突っ込んで喉を狙った。
 オブスクデイトは一太刀にて命を奪う、必殺の大剣。それに桁外れの膂力が乗っている。正面から相手どるのはケテルサンクチュアリの騎士でさえ厳しいだろう。
 ラディリナに勝機があるとすれば——自分の命をベットした、捨て身の猛攻か。
 肉薄にて距離わずか一歩、ラディリナの剣は怒涛の如く燃え、赤き炎の一閃となる。
 首を落とせるか——否、男の剣に弾かれた。
 ラディリナの身体は大きく吹き飛ばされ、大岩に背中から叩きつけられた。

「がっ、あっ……!」

 肺が潰れるような酸鼻の状。
 しかし膝から崩れ落ちそうになるのを、突いた左手で食い止め、小岩混じりの地面を踏む。スッと顔を上げ、立ちはだかる男を見据えた。
 傍目には恐怖など持たないかのようだが——震える唇に、ロロワは彼女の内心を見た。わずかでも判断を誤ればそこに死がある。
 悚然とするだろう、逡巡するだろう、しかし誇りが彼女を形作る。

「——モモッケ!」

 ラディリナの絶叫と同時に、モモッケが炎弾を放った。オブスクデイトに降り注ぎ、緋色の火の粉を散らす。
 間断なく放射される炎弾を弾幕としてオブスクデイトの動きを封じながら、ラディリナは剣に力を込める。
黎明のなか黒緋 (くろあけ)染みていた髪が広がり、なびき、魂が血しぶくような真赭(まそお)に 染まる。

「——ハァッ!」

 裂帛の気合いで天高く跳躍し、炎弾を伴いながら剣を振り下ろす。少女の炎とドラゴンの炎、ふたつが重なり一瀑の炎滝となって男を吞みこんだ。
 だがそれも——

「無駄だ」
「さようなら、おバカなドラグリッターさん」
 オブスクデイトは吐き捨て、エバが嗤う。
 男は炎に身を焼かれながらも受けきって、堕ちるラディリナへと剣を向けた。

「ラディ!」

 ロロワは手を伸ばしていた。しかし目の前に映された光景は所詮まがい物でしかなく、手を差し伸べようとただ空を切るばかり。
 自分はすでに死んでいて、もう何もすることはできない。ただここで一人、ゆっくりと虚無に還っていくことしかできない。
——嫌だ。
 弱い自分は嫌だ、無気力な自分は嫌だ、心を他人に任せるのは嫌だ。
 冷えていた奥底に感情が沸き起こり、やがて大河のごとき奔流となって溢れ出す。それは限りなく無垢な生命(いのち)に彩られていた。

「僕もラディみたいに——」

 人を助けたいんだ。
 瞬間——貫かれた胸からまばゆい緑の光が溢れ出し、やがてロロワの全身を包みこんだ。瑞々しい生気に満ち、どこか懐かしもふわりと香る。陽光を浴びて木々がその身から放つ清浄な冷気、しっとりと自然に還っていく枯れ葉のやわらかさ。
 命が満ちていく。
 歯車の彼方から、厳粛な美しい調べが響き渡る。

『祝福を。そして君に新しい名を——世界樹の若芽、ロロワ』