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クレイ群雄譚(クロスエピック)

第2章 ブルーム・フェスにようこそっ!

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第2章 幕間2 嘘つきのマーメイド

 こういうの、万事バタンキューって言うんだよね、たしか。
 ちがったっけ?
 瞬間、敵の空対空ミサイルが炸裂し、ミチュの視界は真っ白に染まった。
 オートの防御フィールドが間に合っていなければ、頭ごと吹き飛んでいただろう。

キャラクターデザイン:kaworu Illust:刀彼方

 間イッパツ!
 ミチュがガッツポーズをしたその瞬間、頭の中にけたたましいアラート音が鳴り響き、続いたのは女性の機械音声だ。
『——エマージェンシー、エマージェンシー。バッテリーが不足しています』
 それに被せるように、お腹がグゥウッと鳴った。防御フィールドはエネルギーを使うのだ。
「お、お腹すいたぁ……」
 足底のジェットエンジンが見る間に勢いを失い、やがてプスッと間抜けな音を立てて停止した。
「やだやだやだっ!」
 空中でバタフライをひとつふたつみっつ。
 いける。
 いけない。
「きゃああぁあぁぁあぁあぁ!」
 悲鳴は蒼天に抜けていき、ミチュはきりもみしながら落ちていく。運が悪いことに、真下は岩肌が剥き出しになったブラントゲートの雪山だった。
 特殊合金製の人型機動兵器(バトロイド)とは言え、高度四千メートルから落下すればただじゃ済まない。
 演算処理装置(のうみそ)だけでも破損しなければ希望が見えるが、それも厳しいかもしれない。
「エイッ、エイッ!」
 ジェットエンジンを叩いてもうんともすんとも言わない。お腹は相変わらずグゥグゥ鳴っている。
 いよいよ万事バタンキュー!
 こんなことなら、とっておきの徹甲弾をケチケチせずに使っておけばよかった! そうすればドローには持ち込めたかもしれないのに……
 えーん、悔しい~!
『——エマージェンシー、エマージェンシー。高度が下がっています。ただちに高度をあげてください』
「もうっ、それができたらやってるよ~ッ!」

「あたたっ……」
 ミチュは頭を押さえてしばらく呻いていたが、やがてパッと身を起こした。
「うそ、生きてるっ!」
 奇跡だった。破損は外部装甲の歪みで済んでいる。
 なんでなんで?
 キョロキョロと辺りを見渡して、自分が墜落した場所は岩石が剥き出しの雪山ではないことに気がついた。ガラスドームで覆われた建物のようだが、灯りはなく真っ暗だ。
 見上げれば、天井には人一人ほどの大穴が空いていて、ミチュの顔にパラパラとガラスの破片が降ってきた。
 ミチュが壊してしまったらしい。
「あっちゃ~」
 謝らなきゃ、と思ってもあたりは真っ暗で人の気配らしきものはない。
 暗視モード・オン。一気に視界が明るくなる。
 建物には何百もの椅子が整然と並べられていた。そのすべてに埃が降り積もり、赤いベロアの座面には虫食い穴が空いている。もうずいぶんと使われていないようだ。
 椅子たちが見つめる先には広いステージがあって、そこには球体と金属の筒でできた機械が静かに佇んでいた。ミチュの背丈よりも大きく、何に使う物なのかさっぱりわからない。
「こんにちは~おじゃましてま~す」
 ぺこり、とお辞儀をして機械の先輩にご挨拶してみたものの、もちろん返事はなし。
 しめた!
「ふっふっ、これなら怒られる心配はないもんね~」
 天井におっきな穴を開けたことは内緒にして、このまま逃げちゃおう。
 ミチュが好きなのは弾幕をぶっ放すこと、ミチュが嫌いなのはガミガミ怒られることだった。
 不思議な機械に背中を向けて、抜き足差し足、出口に向かって歩き出したそのときだ。
 ポロロン♪
 軽やかなメロディが響いた。 
「わーっ、ごめんなさい! 嘘ですっ、そんなことしませんっ!」
 慌てて振り返ると、ステージ上の金属の筒がゆっくりと回転しながらメロディを奏でているのだった。その中心で球体が柔らかな光を宙に投射している。
 ポロロン、ポロロン……♪
 どこか懐かしい音色と共に、浮かびあがったのはマーメイドの立体映像だった。薄く漉いた雲を幾重にも重ねたようなドレスがゆらゆらとなびき、散りばめられた宝石がまばゆく輝いている。
 ミチュは言葉さえ出ないまま、驚きに目を見開いた。
 これまでミチュにとってきれいなものと言えば、火薬が轟轟と燃え上がる青や、敵が一面に倒れ伏した大地の黒だった。
 それなのに、どうしてだろう。
 柔らかに流れる衣装の空色をきれいだと思う。美しくたなびく黒い髪をきれいだと思う。何よりもマイクへと視線を落とすそのかんばせに目を奪われてしまう。
 どんな天才技術者がアンドロイドを作っても、これほど美しい瞳を形作ることはできないだろう。どんな天才彫刻家が大理石を彫っても、これほど愛らしく唇がほころぶことはないだろう。
「きれい……」
 やがて——
 三千年の時を超えて、マーメイドが歌い始める。
 ライブによって、世界から銃声がなくなるとすら言われたその歌を。
 
 

 ストイケイアの港町・スキピアリの人々は沸き立っていた。数週間も前から浮かれきっていて、今日なんてもう誰の足も地面についてはいられないほど。
 いつもは岩のように厳めしいオヤジも、慎ましやかな奥様も、手に手を取って踊り出す。
 リリカルモナステリオのクジラがやってきた!
 ライブが間もなくはじまるぞ!
 寄港が決まったのは三ヶ月前のことだった。リリカルモナステリオの人々とクジラが相談し、そう決めたのだという。
 こんなに誇らしいことがあるだろうかと、スキピアリの人々の胸は感激でいっぱいになった。
 決まった翌日から、石畳の道へのポイ捨てはひとつ残らずなくなった。玄関ドアを塗り替えるためにペンキが飛ぶように売れた。窓という窓には植木鉢が飾られ、色とりどりの花が風に揺れた。伸び放題だったポチの毛もタマの毛もしっかりトリミングされ、ふわふわの尻尾は誇らしげだ。
 リリカルモナステリオのアイドルたちがライブをするのにふさわしいようにと、海沿いのステージはどれも新築のように綺麗になった。
 もちろんチケットは大変な争奪戦だったが、みんなどうにか手に入れたのだろう。街ゆく人々の顔は残らず輝いている。

 本当に?

「——アハハ、やだぁっ! そんなお世辞、聞かないんだから!」
「お世辞なもんかよ。リリカルモナステリオのアイドルなんかより、ティーアちゃんの方がずっと可愛いって」
「やだぁっ!」
 鈴を転がすような……と言うにはいささか喧しい笑い声は、ルクシェ・クリーニング店の看板娘ティーアのものだ。
 受付に立つ彼女の声は溌剌と響き、その裏にある針子室まで届いた。コンパクトな一室には、シフォン生地のドレスや鳥の羽根飾りのついた帽子などが所狭しと飾られており、さながら宝石箱を開けたかのようだ。
 そこで一人の少女が黙々と針に向かっていた。澄み切った海のような髪は華やかだが、前髪は長く伸び目元を覆ってしまっている。薄い唇は生真面目に引き結ばれていた。
 少女の名前をノクノと言う。

キャラクターデザイン:kaworu Illust:刀彼方

 彼女は一見すると人間(ヒューマン)のようだが、身につけた真珠貝の髪飾りに彼女が生まれた海の香りを感じることができる。彼女はトゥインクルパウダーという魔法のアイテムによって尾びれを人間の足に変えたマーメイドだった。
 ノクノはガラスビーズに糸を通し、手元の布に縫い付ける。もうひとつガラスビーズに糸を通し、縫い付ける。開け放った窓からは陽光が差しこんで、オクタゴンカットのビーズがキラキラと光った。
 サイドチェストの上には時代がかったレコードプレーヤーが置かれており、わずかにノイズを混じらせながら音を紡いでいた。
 海底で瞬く星の砂のような、足下を錦に染める紅葉のような、白く凍った冬の霜のような、どこか懐かしいメロディ。
 ノクノは結んでいた唇を開き、メロディにかすかなハミングを重ねた。
「ルル……ララ……」
 それは陽光に溶けてしまうほどの細鳴(さな)りで——たちまち店の方から流れてくる喧騒でかき消えてしまった。
「なぁ、今からデートしようぜ。いいだろ?」
「ダメダメ、今日はずっーと仕事なんだよね。ライブだからってパン屋も塗装工もみーんな浮かれて休みにするって言うのに、クリーニング屋は引き渡しで大忙し! こんなギリギリに取りにくるなっての。いいわ、チケット取れなかったぶんお金浮いたと思うことにするから」
「なぁ、頼むよ」
「ダメダメ。さぁズボンはお預かりしました。五日後にお越しくださーい」
「チェッ」
「はい、次の方。あらルイ、昨日ぶり。またシャツを出しに来たの?」
「こんにちは、ティーア。今日も可愛いね。アイドルさんが一足先に来たのかと思った」
「——アハハ、やだぁっ! そんなお世辞、聞かないんだから!」
「お世辞なんかじゃない。アイドルよりもティーアの方が可愛いんだから。そうだ、これはリリカルモナステリオの願書。せっかくクジラが来たんだ、本当に考えてみたらどう?」
「え、マジ? でもワタシがアイドルになっちゃったら、もう会えなくなっちゃうかもよ?」
「そいつぁ困ったな。そうだ、今のうちにオレとデートなんてどう?」
 と、受付はいつものように看板娘のティーア目当ての男たちで大繁盛のようだ。
 彼女はストイケイアにはやや珍しいサキュバスだった。頭上で団子に結った髪は金糸を紡いだようで、ボタンを大胆に開けたシャツからは豊かな肢体が弾けんばかり。真っ赤な唇も、思わせぶりな仕草も『そそる』らしい。
 クリーニング1枚分の値段で彼女を口説けるのだから、ルクシェ・クリーニング店はいつだって男たちが列を作っている。
 もちろん、店にやってくるのはわざとらしく汚したシャツ1枚を持ってくる男たちばかりではない。
——カランカラン!
 ドアベルが鳴って、クリーニング店にやってきたのはゴージャスな身なりをしたエルフの女だった。深い紫色の髪を編み上げ、大きなつばの帽子には羽根飾りがクジャクのように広がっている。美人であることは間違いないが、身なりがあまりに華美なせいで、若々しさやフレッシュさからはやや遠い。
 女はカツカツとヒールを鳴らしてティーアの前に立ち、合成樹脂製の札を差し出した。
「クリーニング婦さん、リメイクに出したドレスを受け取りたいのですけれど」
「ララベルラ様お待ちしておりました! こちらになります。ご確認くださーい」
 にっこり微笑みながらティーアが差し出したのは、厚いシャタンのドレスだった。濃紫の生地には黒い絹糸でびっしりと刺繍が入り、その上から芥子パールのビーズが散りばめられている。背の高い彼女が着ればゴージャスに映えることだろう。
 手に取ったドレスを広げつつ、ララベルラは疑わしげな目を向ける。
「本当に仕上がっているのかしら? 二日で直るなんて信じられないわ」
「もっちろん、うちの針子は優秀ですし、ララベルラ様のためなら馬車みたいに働かせて貰いますよ!」
「あらそう。感謝しますわ、馬車さん」
「どーも!」
 ティーアはニコニコしている。
「ありがとうございます! そうだ、お持ち込みのビーズの余りはどうなさいますか?」
「いいわ、処分してくださいな。私、針仕事はしないことにしていますの」
 ビジューのついたララベルラの長い爪が、裸電球にキラッと光る。
「かしこまりました! 準備をしますので、しばらくお待ちくださいね」
 ティーアが丁寧にドレスを包んでいる間、ララベルラは店内を見回しながらトントンとヒールを鳴らしていた。ふ、と物憂げな吐息をひとつ。
「ライブに間に合って良かったわ。今から着ていきますの」
「!」
 ティーアがパッと振り返った。
「もしかして、Astesice(アステサイス)のライブが取れたんですか?!」
 Astesice(アステサイス)と言えば、沢山のアイドルが活動するリリカルモナステリオの中でも一際人気が高いグループだ。六人のマーメイドたちによって構成され、全員が大変な人気を誇っている。
 この地で開催されるライブのうち、一番大きな会場『フィオーレ』で最後に出演するのがAstesice(アステサイス)だった。
「まさか! あれは本当にプレミアチケットよ。来世の分まで運を使いきったって無理ですもの。けれど私の『ジュエルチケット』も悪くない。あなたは?」
「……一枚も」
「そう、残念ね。せっかくスキピアリに住んでるっていうのに、ご愁傷様」
 ララベルラがふふんと鼻を鳴らす。
「お気遣いありがとうございます!」
 ティーアはニコニコと微笑んだ。

 ドスドスドス、と暴力的な足音が近づいてきて、針子部屋の扉がバンッと開いた。
 部屋にいたノクノの肩がびくりと跳ねる。
 そこに眉をつり上げたティーアが入ってきて、自らのシニョンキャップをむしり取って壁に叩きつけた。結われた金の髪を乱しながら、地面の上にどっかりとあぐらをかく。 
「はぁー、腹立ッッつマウント女! 次来たら袖に針仕込んでやる!」
「だ、駄目だよ」
 怒られるのは針子のノクノなのは間違いないのだから。
「じゃ、呪いかけるわ。着ているうちに髪の毛がごっそり抜けちゃう呪いのドレス!」
 それでも腹の虫が治まらないらしく、ポケットから取り出した細いタバコに火をつけ、深々と吸い込んだ。
 大口を開けて紫煙を吐き出しつつ、部屋に流れるノイズ混じりのレコードに片眉を上げた。
「ヤバ、ノクノ、またこんな古い曲聴いてるワケ? もー、頭までカビちゃうって」
 レコードから針をあげて、携帯液晶端末をタップする。
「今のトレンドは……これ! Astesice(アステサイス)の新曲っ」
 軽やかなイントロが流れ、六人のマーメイドたちが歌を紡ぐ。長年絶大な人気を誇り、トレンドを作り続けているのも頷ける、魅力的な一曲だった。
「うん、素敵だね」
(だけど、私は……)
 ノクノは所在なさげに佇むレコードをチラと見て、反論の言葉を飲み込んだ。
 それに気づかないティーアは「そうそう」と呟いて麻の小袋をノクノに差し出した。
「で、これは余りのビーズ。マウント女はいらないって。欲しいんでしょ?」
「うん! ありがとう!」
 両手で包むように受け取って、ノクノは唇を綻ばせた。ララベルラはこのあたりの名家のお嬢さんで、リメイクのため持ち込んでくる布やビーズはいつも質が高い。この芥子パールもいくらのものなのかノクノには想像もつかなかった。
「どういたしまして。——じゃあさ」
 ティーアはノクノへとグッと身を乗り出した。
「今からルイとデートに行ってくるから、受付ヨロシク!」
「えっ?!」
 思わず言葉を失った。
「だってルイ、ロジェル商会の息子なんだよ? このワタシが知らなかったとかウソでしょ?」
 ティーアは髪を振り乱す。しかしノクノも必死だ。
「む、無理……受付なんて無理だよ」
 知らない人と話そうとするだけで顔がカァッと熱くなり、唇は震えて上手く言葉が出てこなくなる。ティーアとこうしてまともに話せるようになるまでにも半年かかったのだ。
「だって今日ルミィは休みでしょ。他にいないんだって。ま、ライブ用のクリーニングはもう戻したし、そうそう来ないとは思うけど」
「無理、無理……」
 ティーアはきょとんとする。
「ワタシが頼んでるのに?」
「え、えと」
「ワタシが、頼んでる、のに?」
「う」
「じゃ、よろしく!」
 言い終わるか終わらないかという間に、ティーアは針子部屋からバタバタと出ていってしまったのだった。残されたのは、ドアに向かって呆然と手を伸ばすノクノだ。
「うぅ……」
 抜き足、差し足。
 半開きになったドアの隙間から受付の方へと顔を出すと、ちょうど客はおらず店内に人気がない。ノクノがほっと息をついた次の間だった。
——カランカラン!
 絶望のドアベルが鳴って、明らかにクリーニング客ではない男が入ってきた。脂っぽい茶髪の人間(ヒューマン)で、袖口の毛玉が目立っている。
 前髪をしきりに撫でつけながら、ノクノは受付カウンターに立った。
「い、いらっしゃい、ませ……」
 男はノクノの頭のてっぺんから胸元までをジロジロと眺め、明らかに気分を害した低い声。
「……ティーアちゃんは?」
「……いっ、」
「い?」
「……い、ませんっ」
「あっそ」
「……あ、あ、あの、ご用件は……?」
「ないよ、わかるでしょ」
 男は店の半ばまで入ってくることもなく、その足で去って行った。
——カランカラン!
 ノクノは数秒立ち尽くしていたが、我に返って出入りのドアに『本日休業』の札を掲げた。
「……っ!」
 逃げ帰るようにして針子部屋に戻ってドアを締める。はっ、はっ、と荒い息を吐き胸を上下させながら、止まっていたレコードに針を下ろす。ノイズ混じりの音楽が針子部屋に満ちていく。
 どうにか息を落ち着かせ、よろめくように歩み寄ったのは部屋の最奥にある衣装キャビネットだった。色とりどりに咲く衣装に囲まれ、年期の入った木造扉だけが煤けている。
 鍵を差しこんで、ノクノは宝物にでも触れるようにそっと開けた。
 そこでかすかに揺れていたのは空色のドレスだった。
 雲を漉いたように薄いヴェールが幾重にも重なり、ふわりと優美に広がっている。胸元には大胆なカッティングがあって、細やかなガラスビーズがそれを彩り、まるで夢のように美しかった。
 日常的に着るようなものではない。ちょっとしたパーティに着ていくにしても華やかすぎて、いささか場違いだろう。
 ふさわしい場所があるとするならば——そう、観衆の熱狂に満ちたステージ。
 ノクノは先ほどティーアから受け取った芥子パールを手に取って、しばらくドレスと見比べたのちに頷いた。
 沢山はないけれど、星を散らすようにしたらきっと素敵に違いない。
 長い前髪の間からのぞく瞳は真剣そのものだ。祈るように、ひとつ、もうひとつ、ヴェールへと縫いとめていった。
 毎日の営みの中で、この時間が何よりも好きだった。集中すると視界がすぅと狭くなって、つややかな布とビーズの煌めきだけがすべてになる。それはまるでさんざめくステージに立っているような心地がするのだった。
 ノイズ混じりのレコードが遙か遠い日の音色を奏でている。煌きに身を任せながらノクノは微かに唇を開き、ビーズを縫い留めるように、絹糸で刺繍するように、歌を紡いでいく。
 流行りの曲もいいけれど、この数千年前の音色が好きだった。耳慣れなさに惹かれるのだろうか、柔らかなノスタルジアが心地よいのだろうか。
 好き、という気持ちはいつも理屈では説明がつかない。言葉はけっして気持ちに追いつくことはないから、こうしてノクノは歌を紡ぐのだ。
 誰にも聴かれることのない閉め切った部屋で、そっと。
 と、そのときだ——
 窓から陽光が差し込む床に、ふと黒い影がよぎった。空に鳥か何かが通ったのだろうと、ノクノは気に止めなかったが、黒い影は瞬く間に大きくなっていく。
 違和感があってノクノが顔を上げたのと、ピンクの塊が部屋に飛び込んできたのは同時だった。
「キャアァアアッ!」
 ノクノは悲鳴をあげた。
「ワァァァアァッ!」
 ピンクの塊は歓声をあげた。
 それはノクノと身の丈も年齢もさほど変わらないような少女だった。衣服はすり切れ汚れているが、長くふわふわの髪はピンクで、ビー玉のような瞳もピカピカのピンク。“春”が生き物の形をしているかのようだった。
 しかしただの少女ではない。一見すると人間(ヒューマン)のようだが、巨大なガトリング砲が背中から伸びている。
 背負っているのだろうか? 違う。焼け焦げた半ズボンからすんなりした足が伸び、そこに金属の継ぎ目が見えていた。
「機械っ……!」
 ノクノの驚きは一瞬にして恐怖に変わる。
 ドレスを掻き抱きながら逃げ場を探したが、闖入者の傍らを通らなければ部屋の外には出られない。
 逃げられない!
 わずかでも距離を取りたくて、煤けたキャビネットに張り付いた。
 恐慌をきたすノクノと真反対に、機械少女の方は顔をワクワクでいっぱいにしながら近づいてくる。
「ね、ねっ! 歌聞こえたの。綺麗な歌! あなたでしょう? あ、その空色のドレスもすっごく綺麗! あなたが作ったの? あ、そうだ歌、ねぇ歌ってたよね! すてきだった!」
「……っ! ……つ、っ!」
 怒濤の質問攻めにあいまともに返事もできず、ノクノは必死で首を横に振った。
「えぇ? うーん、変だなぁ」
 機械少女は首をかしげ、
「でも、これあなたの歌でしょう?」
『——音声を再生します』
 機械少女の身の内から無機質な女性の声がして、『ピッ』と電子音。
『ザッ……ララ……ザザ……ラ……ザ、ザッ……』
 砂を擦ったような荒いノイズがしばらく流れ——ブツッと切れた。もちろん歌らしきものはかすかにしか聞こえない。
 機械少女は雷に打たれたようになった。
「ガーン! わたしの録音機能ってポンコツなのかもっ!?」
 少女は文字通り頭を抱えたが、すぐに輝く笑顔をノクノに向けた。
「そうだ! ね、ね。もう一回聴かせて? 録音は駄目でも心に記録すれば大丈夫っ!」 
 ノクノは首を横に振る。相手が機械だというだけで血の気が引くのに、人前で歌うだなんて……そんな恐ろしいこと、想像するだけで足が震えてしまう。
「ねぇ、お願い。お願い~!」
 必死に手を合わせている少女からは敵意らしきものは感じられない。じっと見つめ続け、ノクノはようやく小さな声で問いかけた。
「……あなたは、私を殺しに来た機械じゃ、ないの?」
「あはははは、まっさかー! 戦闘機械(バトロイド)はお休み! わたしミチュ、アイドルになるの!」
 ミチュは堂々と胸を張る。
「アイドル……?」
「そう!」
 ミチュがその場でくるりと回転すると、巨大なガトリング砲も一緒に回転、トルソーをいくつも吹っ飛ばす。
 そんな些細なこと、ミチュは気にも止めなかった。
「歌って、踊って、ドッカーン! ってね」
 ウインクをしながら「ブイッ!」とピースする。
「……殺しに来たんじゃ、ないんだ……良かった」
 拳で胸を押さえ、ノクノは小さく頷いた。ミチュが身を乗り出してくる。
「すてきな歌手さん、あなたの名前は?」
「……ノクノ」
「ノクノ! いい名前!」
 ミチュは興味津々で針子部屋をウロウロしている。元々広くない上に仕立てた服が並んでいる針子部屋なので、彼女が動くたびにガトリング砲に引っかかって物が倒れた。
「あの、用がないなら帰ってもらえますか……?」
「ノクノが歌ってくれたら、帰る」
「…………」
 絶望した。なすすべがない。
 誰か人を呼んで追いだそうにも、みんなこのガトリング砲を見たら逃げ出してしまうだろう。ティーアあたりなら「ついでに店ごと吹っ飛ばしちゃって!」と言うかもしれない。
 それは困る。
 ノクノは14歳のときに海から陸にやってきたが、極力人と接さなくてもいい仕事を探しまわった末に、ようやくこのクリーニング店で住み込みの針子になったのだ。また一から職を探すことを想像するだけで胃がよじれそうだった。
「歌が上手い人なら沢山、沢山います。私なんて……」
「ううん、ノクノの歌じゃなきゃ、嫌」
 動かしたいなら戦車でも持ってこい、とでも言わんばかりのかたくなさだ。
 しかしノクノだってそれ以上にかたくなだ。黙り込み、針子部屋には重苦しい沈黙が満ちる。
 やがてミチュがむむむと唸り、
「それなら……こうだ!」
『——音声データを復元します』
 と先ほどと同じ無機質な機械音声があがった。
『ザザッ……ルララ……ルル……ザッ……ル……』
「キャァアアァァァッ!」
 声色と一部のメロディラインがわかるまでに復元された音に、ノクノは絹を裂くような悲鳴をあげた。
 ミチュはうんうんと頷いて、
「うん、もう少しで歌になるかも!」
「やめて、やめてっ!」
 ノクノは無我夢中でミチュをポカポカ叩いた。表面の肌は柔らかいが、その向こうは機械でできているのだろうとわかる硬さだ。びくともしない。
「どうしてこんなことするのっ、いじわる、いじわるっ!」
 涙目で訴えると、さすがに罪悪感が芽生えたのか、ミチュが眉をしゅんと下げた。
「だって、あのときあのホールで聴いた曲と同じだったんだもん……ふん、ふんふふーん。こんな曲」
 ミチュがたどたどしく口ずさんだメロディは、確かにノクノが歌っていた三千年以上前の曲だ。
「それをどこで?」
 ノクノが持っているレコードもオリジナル音源ではなく二千五百年ほど前のカバーだが、それすら状態のいいものは大変なプレミアがついていて、手に入れるのに苦労した。(ティーアに値段を話したら「給料の三ヶ月分超えてんじゃんッ!」と卒倒しそうになっていた)
 電子音源もないため、普通に暮らしていて聴く機会があるとは思えない。
「あのね、任務でバーンって撃たれて、墜落しちゃって。そのときに見つけたんだ」
「レコードを?」
「ううん、こんなおっきな丸いのと、筒みたいなやつで出来た機械。突然きれいなマーメイドが歌ってくれたんだ」
「キネオーブ……」
 ノクノは呆然と呟く。
 それは三千年以上前の映像や歌を記録したもので、数千年の時の中である物は壊れ、ある物は行方がわからなくなり……とほとんど伝説のような扱いになっている。
 それがまだ動く状態で残っているだなんて!
「それ、どこにあったの? どこで見たの?」
 先ほどまでの大人しそうな佇まいからは打って変わって興奮しながら、ミチュの肩を揺さぶった。
「あわ、あわわわ……っ! わかんない、わかんないよ、だってブラントゲートのあのあたりは対魔ステルスが効いてて位置データ当てにならないんだもん……わたし故障してたし……」
「思い出して、絶対に、思い出して」
 鼻息を荒くするノクノに、ミチュは初めて恐れのような表情を浮かべた。
「だってそれ、もしかしたらオリジナル映像かもしれない! カバーももちろん素敵だけど、もしオリジナルが聴けるなら……」
 ノクノは研ぎ澄まされた剣のような瞳で、低く囁く。
「——私、死んでもいい」
「怖い」
「機械なんだから、叩いたら思い出さないの?」
「怖いよぉ……」
 ミチュは震え上がっている。そう、オタクとは時に死すら超越していく生き物なのだ。
 必死で首を横に振るミチュに、希望はないと悟ったノクノはがっくりと肩を落とした。でもミチュがそれを見つけたように、いつか誰かが見つけてくれるかもしれない。幻の存在が実在するとわかっただけでも、人生に光が差し込んだ気がした。
「うん……!」
 ノクノは自分に言い聞かせて拳を強く握りしめる。そこにミチュが言う。
「あ、でもキネループ? キネパープル? の録音データなら残ってるよ」
「——聞かせて」
 万感の想いが籠もった凄みに、ミチュはまた「怖いよぉ」と震えた。
『——音声を再生します』
 アナウンスから、すぐに『ザッ……ザザ……』とノイズが続いた。
「あぁやっぱり……」
 駄目なんだ。
 ノクノは落胆したが次の一刹那、ノイズも音もすべてが失せ——三千年の時を超えて豊かなメロディが溢れ出した。
 決して音質が良くはない。けれどそこには力強い生命の息づかいと、生々しい歌の力がある。ノイズの間から、吐息が抜けていく音が、舌が歯列を叩く音が、そして歌詞に乗った想いが、奔流となってノクノの胸に届く。
「うん、やっぱりノクノの歌声に似てると思うんだよね……って、泣いてる?!」
「……っ」
 これが泣かずにいられるだろうか。泣き止もうと思っても、次から次へと溢れ出してくる。ずび、と鼻をすすりどうにか言葉を作った。
「……音源、焼いてもらっていい?」
「わたしオーディオプレイヤーじゃないんだ……」
「そう……」
 あまりに残念だ。さらに音質は落ちるだろうが、もう一度再生して貰ったものを録音すれば手元に残るだろうか。それとも音質が落ちたものを残すぐらいなら記憶の中で永遠にした方が……
 真剣に考え込んでいるノクノの手には、ビーズ付けが途中になっていたドレスが握られたままだ。
 ミチュはひとつ首を傾げた。
「その空色のドレス、あのマーメイドさんが着てたやつに似てる気が……」
「っ! 気のせい、気のせいだよ」
 オリジナルの音源はなくても彼女の写真は残っている。それをベッドのヘッドボードに飾っていることや、彼女に憧れてドレスを作ってしまっていることは……は誰にも言えない秘密だった。
「そう。でもきっとノクノに似合うね。ね、ね、それ着て歌ってもらえないかな?」
「それは……」
 こんなに素敵な音を聴かせてもらったのに頼みを無下にするというのは、流石に人の道に反するだろう。
 だけれど……
「今はこの耳を自分の歌で汚したくないの。そんなことしたら……最悪、死ぬ」
「最悪、死ぬ……?!」
 あまりに濁りのないノクノの瞳に、ミチュはコクコクと頷いて「大丈夫、待つよ」とこちらも真剣な面持ちだ。
 どうしてこんなに自分なんかの歌にこだわるのだろう。しつこいな、とも思うけれど少しだけ、ほんの少しだけ、嬉しかった。
「でもひとつだけ約束して欲しいの。私の歌を録音したデータは、絶対に誰にも聴かせないで」
「うん! でも……どうして?」
 ノクノは曖昧に笑い「そうだ」と手を打って話題を変えた。
「服、直してあげる。それぐらいなら、私にもできるから」
 ミチュの服は簡素なシャツと半ズボンで、あちこち擦り切れ焼け焦げ穴が開いている。ピンクの長い髪がなければ少年と見まごう姿だ。
「ホントに? やったぁ!」
 ミチュは恥じらうことなく服を脱ぎパンツ一枚になったので、ノクノは慌てて窓とカーテンを締めた。
「直すよりも先に洗っちゃおうかな……でもこれだけボロなら0から作っちゃったほうが早い……?」
 焦げ臭い布を眺めつつ、ノクノがぶつぶつ呟いている最中、ミチュは針子部屋の捜索を再開している。と、クリーニングが終わっていない男性用衣類の間から、白い封筒が覗いていることに気がついた。
 引っ張り出して読み上げる。
「りりかるもなすてりお にゅうがくがんしょ」
 ノクノはボロ布からミチュへと視線を移した。
「あ、ティーアのかな……? リリカルモナステリオでアイドルになるつもりなのかも……」
 ミチュの顔がパッと輝く。
「リリカルモナステリオに行くとアイドルになれるの?!」
「えっと……知らないの?」
 ミチュは首を傾げた。
「リリカルモナステリオ、ストイケイア師の教えに賛同するマーメイドたちが作った、空飛ぶクジラの国でしょ? 知ってるよ。だけどなんでアイドル?」
「えっと……」
 予想外の疑問にノクノは返答に窮した。
 これほど当たり前のことを知らない人間がいるとすれば、秘境に住んでいるとか(例えばドラゴンエンパイアの東部などは昔ながらの暮らしを送っていると聞く)異なる星で生まれたとか、もしくは……三千年前から突然ワープしてきたか、といったところだろうか。
 しかしミチュはどれにも当てはまらない。
「と、とにかく、リリカルモナステリオはアイドルになるための学校が国家になってるの」
「じゃ、そこに通えばアイドルになれるんだねっ!」
 ノクノは首を横に振る。
「ううん、全員がアイドルになるわけじゃないと思う。俳優になる人、写真家になる人、映像作家、舞台演出家……進路は色々かな」
「でもでも、アイドルになれるかもしれないんでしょ?」
 ミチュの瞳がキラキラと輝いた。
「ノクノもなろうよ、アイドル。ノクノの素敵な歌、みーんなに届けなきゃ! 一緒にアイドルになれたらすてきだもん!」
 ノクノは首を横に振った。
「……無理だよ」
「どうして?」
「だって、私は……」
 ノクノが言葉を探して視線を彷徨わせていると、突然店の方からカランカラン! とドアベルが鳴った。本日休業の札をかけたはずだから、客ではない。ティーアが帰ってきたのだ。
「ミチュ、服、服!」
「ふぇ? 別にこのままでも大丈夫だよ?」
「ダメ! とりあえずキャビネットに入ってて……!」
 ミチュをキャビネットに詰め、ノクノは慌てて針子部屋から出てティーアを迎えた——が、ティーアの横にデート相手のルイがいて凍りつく。
「きょ、今日はもう、営業終了です……っ!」
「やっぱ、受付できなかった? ゴッメーン!」
 ティーアはケラケラと笑いながら、ルイに腕を絡ませた。
「ワタシ、ルイとライブ行ってくるわ。マジすごい、今晩のチケット取れたんだって! さすがぁ」
「まぁ……ね」
 クールぶりながらも、ルイの鼻下は伸びきっている。
 この自慢をするために帰ってきたのだろうか? 意図が読めずにノクノが困惑していると、不意にルイの手がノクノの目元に伸びてきた。逃げるのが間に合わず、長い前髪に守られていた瞳があらわになる。
「ふーん。やっぱ結構可愛いじゃん。どう、もう一枚なら手に入るかもだけど」
「はァ?」
 ティーアの声が不機嫌にひっくり返り、ルイの腕に爪を立てた。
「無理無理! だってぇ……ね?」
 ティーアは意味深な低い声でノクノに問いかけ、ノクノも頷いた。
 夜のライブ……きっと華やかで夢のようなステージに違いない。太陽よりもまばゆいアイドルたちが、夜空を真昼のように染めるのだ。
 けれど行けるはずがない。
 そう、決して。
「……うん」
 ノクノの声は小さく、掻き消えてしまいそうだった。
 ルイはぞんざいな手つきでノクノの前髪を下ろす。
「そっかぁ。残念だな」
「じゃあね、お土産買ってくるから-!」
 べったりと寄り添う二人は、夕暮れに染まる街に消えていった。
 間もなくライブが始まるのだろう、店のガラスドア越しに、行き交う人々の群れが見えた。どの顔にも残らず笑顔が咲いている。
 ノクノ以外は。
 だって夜が、夜がやってくる。

 ノクノが針子部屋に戻ってもキャビネットから出てこないと思えば、膝を抱えたミチュはぐぅぐぅ眠っているのだった。
 扉を開け、どうしたものかとノクノが思案しているとビクリと跳ねて目を覚ます。
「ハッ、狭くて暗いこの感じ格納庫(ハンガー)に似てて眠気が……」
「眠いならベッドを使えばいいのに。いいよ?」
 針子部屋の隣にノクノが寝起きしている小さな部屋があり、シングルサイズのベッドも置いてある。
「ううん、ここがサイコーなの。ムニャムニャ……」
「それならいいけど……」
 再び眠りに落ちていくミチュを視界の端に入れつつ、ノクノはミチュの服を繕っていく。清潔に洗ったあとに、穴の空いたところには可愛らしいアップリケをつけることに決めた。ずいぶん前に安くなって衝動買いしたものの、あまりに可愛すぎ持て余していた物を見つけたのだ。
 一針一針、丁寧に縫い付けていく。
 しばらく夢中で打ちこんでいたノクノが、ふと現実に戻ったのは、窓の外からドォン……という音が聞こえてきたからだった。カーテンを下ろしているため見えなかったが、すぐにノクノは音の正体に気づいた。
「花火やってるのかな」
 きっとステージの演出なのだろう。
 と、ミチュを見やってノクノは硬直した。
 眠っていたはずのミチュがキャビネットの中で身を起こし、鋭い視線を窓の外に向けていたからだ。ガトリング砲の銃口も窓に狙いをつけている。
 ドォン、パラパラ……ドォン……
 次々とあがる花火の音に、ミチュは肩の力を抜いてタハハ~と笑った。
「なーんだ、花火かぁ。間違えちゃった」
「う、うん」
 背筋の凍るような緊張感はすでに跡形もなく霧散している。けれどどう反応していいかわからず、ノクノは手元に視線を落とした。
「ライブ、ノクノは行かないの?」
「チケットないから……」
「じゃあさじゃあさ、わたしが連れてってあげるよ! びゅーんって飛んでじゃえばチケットなんていらないでしょ? ほら行こ!」
 キャビネットから出てきたミチュはスポンと服をきて、そのままノクノの袖を引いた。ノクノは抗ったが、もちろんミチュの方が力が強く、椅子から前によろめいた。
「いそご、いそご、花火終わっちゃう!」
「ねぇ、私はいいの、一人で行ってきて」
「二人の方が絶対に楽しいよ!」
 ミチュが窓を開けると、冷たい夜風がびゅうびゅうと吹き込んでノクノの髪を煽る。長い前髪によって狭まっていた視界が不意に開け、夜の街並が広がっているのが見えた。
 室内灯に慣れた瞳には、夜の街は恐ろしいほど真っ暗に感じられた。街路灯は化け物の眼、おぞましいほど続く闇は底なしのはらわた。
 嗚呼、ここでもし身の毛もよだつグロテスクが行なわれていたとしても、すべて跡形もなく呑み込んでしまうに違いない。
「……あ、」
 砂粒が零れるように儚い声を上げて、ノクノはその場に膝から崩れ落ちた。
「はっ、はぁっ……はぁっ……」
 息を吸っても吐いてもまともに脳へと回っていない心地がする。
「ノクノ、ノクノ!」
 怖い、怖い、嫌だ……
 視界が闇に染まっていくなかで、ミチュの声だけが明るかった。

 

   

「——美しい月がのぼる夜、サーカスがやってきたの」
 ミチュが入れてくれたホットミルクは煮え立つほど熱く、ノクノは毛布に包まりながらふぅふぅと息を吹きかけた。
「陸にあがったのは久しぶりだった。“夜に歌っていけないよ、恐ろしいものがやってくるから”——強く言われたのも忘れてしまうぐらい、月が冴え冴えと輝いていて……私、あの曲を歌ってしまったの」
 だから——恐ろしいものがやってきた。
 そう言うノクノの声には怖れに満ちている。
「帰りの夜道で私、双子のサーカス人形を見たの。深い紫のドレスにフラフープ、ジャグリングクラブ、どんどん広がってく真っ赤な血——路地に転がった白い、首」
 マグカップを握る指が病的に震え出す。
「サーカス人形たちがこちらを見る。綺麗な四つのアメジットが目があった。どうやって逃げ出したんだろう。わからない。きっと、まだ、ずっとずっと私のことを探してる。歌を辿って、私のとこまでやってくる……」
 ミチュはキャビネットの中で沈黙したまま、感情的に昂ぶっていくノクノの台詞を聞いていた。
 誰に言っても、馬鹿にされるに違いないことはノクノ自身が一番わかっている。これはもう3年近く前の話で、それだけの月日が経っているのに夜道もまともに歩けないだなんて!
 もし歌うことをやめられたなら、楽になるのかもしれない。夜道も平気で歩けるのかもしれない。
——なのに。
「歌うのをやめられない、自分が大嫌い……っ!」
「それでも……わたしはノクノの歌を聴けて、良かった」
「……ッ!」
 ミチュの言葉は苦いのに、それでも胸にじわりと浮き足立つような気持ちが広がってしまうのだから、ほとほと自分に嫌気がさす。
 そんなこと言わないで欲しい。私の歌なんて、道の石ころよりも価値がないのだと言って欲しい。
 ねぇ、喉なんて潰してしまえと言って、どうか。
 どうか——
 やがてすぅすぅと寝息が聞こえてきて、ノクノは静かにキャビネットの扉を締めた。
 手慰みに空色のドレスとビーズを取り出す。こうしているのが一番心が落ち着いたから。スパンコールをつけ終わったら、ほとんど完成と言ってもいいだろう。
 完成したところで着るあてもないけれど……とノクノは自嘲気味に笑った。
 ティーアがクリーニング店に帰ってきたのは、日付も超えようという頃だった。そのまま帰ると思っていたので、ノクノはびっくりしてしまった。
 カランカランという音に、空色のドレスを手にしたまま固まってしまう。
「凄かった、ホントに凄かった!」
 酒気をぷんぷんさせながら、ティーアは針子部屋に入ってきた。ファンデーションもアイメイクもどろどろになっているが、気にならないほど興奮しているらしい。
「はい、これお土産。限定パケのフラワーキャンディ、クジラデザインの髪飾り、光るうちわ3枚セット、オルゴール」
「あ、ありがとう」
 どっさり受け取ってノクノは目をしばたかせた。酔いが回っているせいもあるだろうが、今日はずいぶんと気前がいい。
 どうしたのだろう? と様子を窺っているとティーアは高らかに宣言した。
「——ワタシ、アイドルになる! もう決めた。アイドル最高!」
「入学試験、受けるの?」
 ノクノは入学試験のための書類封筒にチラリと目をやった。
「もちろん。この街でライブがあって、試験もあって、もうこんなの運命じゃん! ……明日これで行っていいと思う?」
 今日のティーアの服は黒いレースが大胆に透けたもので、サキュバスとしての彼女の魅力を最大限に引き出しているのは間違いない。が、アイドルにふさわしいかと言えばやや疑問となってくる。
「……ちょっと胸出すぎかも」
「だよね」
「他に持ってる?」
 クリーニング店の制服はクラシカルなメイド服風で清楚だが、彼女の私服といえば胸、脚、露出! といった感じでいつも目のやり場に困るのだ。
「あーもう! 客のでちょうどいいのない? 一日ぐらい借りたってバレないって。これはダサい、これは超ダサい、ゴミ袋かぶった方がマシ! あぁもう、ちょっとぐらいマトモなのないの?」
 ティーアは手当たり次第に検分しつつ、針子部屋を奥へ奥へと進んでいく。やがてその手が煤けたキャビネットの扉にかかった。
 いけない!
「ま、待って!」
 何の後ろめたいところもないとはいえ、勝手にミチュを泊めたのが知られたら怒られるかもしれない。
 キャビネットの中でミチュのガトリング砲が壁とこすれる音がしたので、さすがに起きたのだろう。ごまかすためにノクノはえほんえほんと咳き込んだ。
「ならあんたも衣装探し手伝って、よ……」
 勢いよく振り返ったティーアの目が、ノクノの手中にある空色のドレスへと向いた。
「……それは?」
「え、」
 ノクノは予想外のことにドレスを背後に隠そうとしたが、ティーアがドレスを取り上げる方が早かった。高く掲げて裸電球の明かりに透かし、まじまじと呟く。
「……綺麗。これ何なの? 受けつけた覚えないんだけど」
「それは……」
 答えに窮して目が泳ぐ。どうにかそれらしい嘘を取り繕った。
「前からお客さんが取りに来なくて。どうしようかなって困ってたとこなの」
「ワタシが働く前からなら、保管期限はもちろん切れてる……」
 うん、と頷きティーアは宣言した。
「ワタシがもらっちゃってもいいよね!」
 ガッタン!
 キャビネットの扉が勢いよく開きかけたのを、ノクノが慌てて押さえる。それでもキャビネットの中身はガッタンガッタンと暴れている。
 ティーアは怪訝な目を向けた。
「……なに?」
「最近立て付けが悪くなってるの。直しておくね」
「あっそ。じゃ、これはワタシが貰っちゃう! こんなドレスを着てステージに立てたら……最高だろうなぁ」
 ティーアはドレスを身体に当てながら、くるりと回った。ふんだんに使われたチュールレースが、霞が広がるように舞う。
 ノクノはまぶしそうに目を眇めた。
「うん、きっと似合うよ」
「あとは、まぁこの辺も借りてこっかな」
 ティーアは吊してあった客の衣装をパパッと見繕い、麻のランドリー袋に突っ込んでノクノに差し出した。
「これ、明日持ってきてよ。イェン広場のところからクジラに飛行艇が出るんだって。よろしくね」
 ノクノはやや首を傾げた。
「いつもの荷物持ちの人たちは……?」
 彼らはティーアの荷物を持つことを生きがいにしており、そのポジションのために苛烈な戦いが繰り広げられている。その名誉をノクノが奪ってはいけないだろう。
「バカッ、アイドルの入学試験に男連れで行くワケないじゃん? 朝の7時、絶対に遅刻しないでよ」
「う、うん」
「じゃっ!」
 嵐のようにティーアが去ってドアがバタンと閉まり、キャビネットからミチュが飛び出した。
「何で黙ってたの? ドレス、あの子のになっちゃったよ!」
「……いいの」
 ノクノの台詞はどこか自分に言い聞かせるようだった。
「ティーアは綺麗だし、一生着られることがないよりは、彼女が着てくれるほうがずっと……」
「ノクノが着るのが一番だよ。あのドレスだってノクノを待ってるのに!」
「——いいって言ってるでしょ!」
 迸った大音量に一番驚いたのはノクノ自身だった。口元を押さえてよろめく。喉の底のあたりが辻風に切りつけられたかのようで、かすかに血の味が滲んだ。
 小刻みに揺れる肩をどうにか落ち着つかせ、ノクノは口を閉ざす。ミチュもまた、それ以上何も言わなかった。
 クローゼットの扉が軋みながら閉まる。その奥に、秘密の宝物はもうなかった。
 

 夜が明け、イェン広場には一艇の飛行艇が翼を休めていた。陸とクジラとの行き来を可能にするそれの前で、数十人の少女たちが集まっていた。パッと目を惹くカラフルな衣装によって、そこだけ一足早く春が訪れたかのようだ。
 髪に花をつけたバイオロイドの少女がいる、可愛らしい獣耳のハイビーストがいる、人間(ヒューマン)がいれば、ゴーストだっている。生まれも年齢も問わないリリカルモナステリらしい志望者たちだ。
 間もなく時刻は朝の8時になるが、ティーアはまだ来ていなかった。入学試験の引率であろうデーモンの女性がしきりに懐中時計を確認していることから、集合時間は8時に違いない。
 もしかして、ティーアは寝坊してしまったのだろうか?
 仕事さえ週に一度は寝坊してくる彼女のことだ、ありうる。胸の前で手を合わせながら、ノクノがハラハラと待っていると——
「すみませーん、今日から新作だったの思い出しちゃって~」
 緊張感に欠ける間延びした声と共にティーアが駆け込んできた。その手には新発売のシェイクがあり、ラムネカラーの飲み物がタプッと揺れる。冬の終わりがけとはいえまだまだ寒いのに、麦わら帽に真っ白なワンピースと気合いは十分だ。
 しかしノクノが驚いたのは彼女が遅刻してきたからでも、薄着だったからでもない。ティーアの後ろからピンクの塊が広場に飛び込んでくるのが見えたからだった。
「——ミチュ!」
「えへへ、来ちゃったぁ」
 少女たちの視線を集めつつ、ミチュはクルッと回って見せる。
 ノクノが針子部屋を出たのは6時を少し過ぎた頃と早く、ミチュを起こしては悪いなとそっと出てきたのに。 
 ティーアは二人を交互に見て、怪訝そうな顔になった。
「……だれ?」
「わたしミチュ。ノクノの友達!」
 ミチュはえっへんと胸を張った。
「え、ノクノってワタシ以外に友達いたんだっ?!」
 マジ? とティーアが手放しで驚くなか、引率の教師がパチンと懐中時計を閉じた。
「——時間です。皆さん、船へ」
 ノクノの他にも、少女たちを見送る人々が広場には集まっていた。おそらく家族であろう彼らも共に飛行艇へと乗り込んでいく。受験会場に入ることはできないが、飛行艇の中で直前まで声がけをし励ますことが許されているのだ。
 飛行艇がふわりと離陸すると、少女たちの間には緊張と興奮、そしてわずかに怯えのようなものが満ちた。けれどそれも間もなく霧散して、少女たちはそれぞれ屋根のある客席を立ち、日光が降り注ぐ甲板へと出て行った。
 今日の天気は晴天、風は強いが降り注ぐ日光によって汗ばんでしまうほど暖かい。
 さすが惑星クレイのあちこちからアイドルを志し集ってきた少女たちと言ったところか、華やかに会話の花を咲かせている。
 ね、どこから来たの?
 そうだ、つながろ! あとでメッセージ送るね。
 撮るよ~はい、ピース!
 やだ、目つむちゃった。もう一回~
「あっつい! 最悪、メイク落ちちゃうっ」
 ティーアも麦わら帽子を脱ぎ、結い上げていた金の髪をほどいた。まるで砂金を撒いたように華々しく広がり、風を受けてなびく。
 ここがスキピアリの街ならば、その見事さにどよめきがあがり、詩情に駆られた男たちが歌のひとつやふたつを捧げるところだが——少女たちはそれぞれのことに夢中で気にもとめない。
「……は?」
 生まれてこの方、自分が注目されないという屈辱を受けたことがないのだろう。ティーアは唇を浅く噛み、行き場のない視線を地面に落とした。
「えっと……」
 ノクノはどう声をかけていいのかわからないまま、胸元で荷物をぎゅっと抱きしめた。年期の入った麻のランドリーバッグには、ティーアが選んだ衣装が入っている。この季節にぴったりのツイードのセットアップが一着、白い綿のドレスの上にデニム地の星とスパンコールを散らせたものが一着。どちらも客からの要望を受けてノクノが仕立てた物で、贔屓目を抜きにしても悪くないデザインのはずだ。
 そしてノクノが魂を込めた空色のドレスもまた、小さく畳まれランドリーバッグの底に収まっていた。それはまるで、せめてもの抵抗のよう。あんな大声でもういいのだとミチュに言い張ったのに、自分の往生際の悪さに嫌気がさす。
 そんなノクノの気持ちを知るはずもなく、ミチュは弾むビー玉のように甲板の上を駆け回っていた。手すりから身を乗り出して、クジラの周りを飛んでいる鳥たちを無邪気に指さした。
「ね、ね、こんなにのーんびり飛んでる鳥さん見るの、初めて! そうだ、ちょっと捕まえてきちゃおうかな? 朝食べてないからお腹ペコペコだよ」
 グゥ~とミチュの腹の虫が鳴る。
 バトロイドは動物性たんぱく質を摂取しないので、彼女にとってはちょっとしたボケのつもりだろうが、ノクノにはそれに乗るだけの余裕がなかった。
「やめて、お願いだから」
「えー」
 ミチュが唇を尖らせた、そのときだ。
「あら、おほほ、クリーニング婦さんじゃないの!」
 ざわめきの中でもずいぶんと通る声がして、振り返ると、大きなつばの帽子に巨大な羽根飾りをつけた女が驚きに目を見開いていた。いかにも高価そうな白いバッスルドレスの尻を揺らしてティーアの方に近づいてくる。
「クリーニング婦さんも入学試験をお受けになるのね」
「……ララベルラ様」
 愛想笑いが間に合わず、ティーアの顔は中途半端に歪んだ。
「あらいやだわ、様づけはやめていただけませんこと? この船の上じゃ客もクリーニング婦もないんですもの。おわかりかしら?」
「うんうん、だよねー? お互いがんばろ、ララベルラ!」
 わざとらしいほどの馴れ馴れしさに、ララベルラはやや柳眉を歪ませたが、こちらもすぐに見事な微笑みを作った。
「そうだ、入学試験の内容はご存知でいらっしゃる?」
「毎回かなり変わるって噂じゃん? でも、歌とダンスは当然あるだろうし、あんま気にしてないかな」
「流石でございますわ。私は十年間ほどお教室に通って、先生方からはいつステージに立っても恥ずかしくないとお墨付きを頂戴したのですが、やはり不安で。この謙虚さも私の美徳だとはよく言われるのですが……クリーニング婦さんはどちらの先生に習われたんですか?」
 ティーアは愛想笑いを貼り付けたまま、わずかに固まった。ララベルラはわざとらしく畳みかける。
「クリーニング婦さん?」
「ヤダ、知る人ぞ知る、って先生だから多分知らないだろうなーって思っちゃって。ワタシもコネがなかったら教えてもらえなかったかも?」
「それはそれは、羨ましいことですわ!」
 言葉とは裏腹にララベルラの顔は勝ち誇ったようになり、ティーアの頬は濃く紅をはたいたように赤くなった。
「私の先生は体型の維持も厳しく指導する方で……そのような甘い飲み物も」
 ララベルラはティーアのラムネシェイクにチラッと目をやり、深々とため息をつく。
「最後に飲んだのはいつだか思い出せないぐらいで……本当にクリーニング婦さんが羨ましいわ」
「……へぇー、たいへん」
「えぇ」
 二人が会話を交わしている間にも、飛行艇は上昇を続けている。鳥の群れを抜け、雲を抜け、まもなくクジラの天蓋(ドーム)へと辿り着くだろう。
 すると不意に、気流に煽られたのか飛行艇が波打つように揺れた。
「ウワッ!」
 ティーアの手からシェイクのカップがすっぽ抜け、宙を舞った。
 そしてララベルラの胸にぶつかって、ラムネ色が真っ白なドレスを汚したのだった。
「——ごめん! ホントにごめん!」
「着替えなら沢山持ってきてるから問題ございませんわ。どうぞお気になさらず」
 ララベルラは鷹揚に微笑んだ。
 ティーアは鞭打つように鋭い声を上げた。
「ノクノ、荷物!」
「——ッ!」
 一部始終を眺めつつ、なすすべなくオロオロしていたノクノは、不意に呼ばれて竦んでしまう。
「どうしたのー?」
 とミチュはのんきな声を上げながら近づいてきた。
 ノクノはティーアの意図を読めないまま、荷物を差し出した。ティーアが手を突っ込む。
「着替えはあっても、ぞうきんは持ってないでしょ? これで拭いて」
 ティーアが差し出したのは空色のドレスだった。
「——え」
 ノクノの顔から表情が抜け落ち、ミチュはピンクの瞳を見開いた。
 燦々と降り注ぐ太陽に、細かなビーズが煌めいていた。コンパクトに折りたたまれているため衣類なのか判別がつきずらいが、漉いた雲のように繊細なヴェールはどう見ても『ぞうきん』からはほど遠く、ララベルラも面食らって眉を寄せた。
「これがぞうきんですって……?」
「そ、ワタシ時代遅れのダサい服はぞうきんにするようにしてんの。ほら、拭かないと。シミになっちゃうって」
「それなら……」 
 ララベルラは躊躇いつつも、差し出されたドレスに手を伸ばした。
 瞬間ひときわ強い風が吹き、二人の手から離れたドレスが宙に躍った。ララベルラが伸ばした手も間に合わず、そのまま遥か空へと舞い上がっていく。
「——あ」
 ノクノはドレスを追って手すりから身を乗り出した。指が虚空を掻く。掴めない。
 ドレスは軽やかに飛行艇から離れていって——
 無我夢中でノクノは手すりに足をかけ、立ち上がり、必死でヴェールをかき寄せていた。けれどドレスはあざ笑うかのように指先をくすぐって、キラキラと輝きながら舞い落ちていく。
 そしてバランスを崩したノクノの身体は飛行艇の外に投げ出されたのだった。どうにかドレスを掴んだものの、もう遅い。
「——キャァアアァッッ!」
 誰かの悲鳴が空を裂く。
 昇っていく飛行艇と反対に、ノクノの身体は落ちていった。
 胸にドレスを掻き抱くノクノの頬を、下からの冷たい風が切る。不安定に投げ出され落ちていく身体と、目下に広がる青い海によって、ノクノは自分がしでかしたことの意味に気づいた。
 間もなく海面に叩きつけられ、やわな身体は干物のようにぺったんこになってしまうだろう。命はもちろんあとかたもなく消え、千々に散った肉はお魚さんのご飯になるのだ。
「……っ」
 ぽろぽろと真珠のような涙をこぼすノクノに向かい、ミチュは言った。
「ね、ね、すっごくいい天気!」
「え?」
 顔を上げれば、そこに幻覚ではなくミチュがいる。ほんの1メートルほど上でノクノと同様に自由落下に揉まれつつ、その目を輝かせているのだった。
 どうして?
 ノクノが呆気にとられていると、ミチュは腕で宙を掻くような水泳のポーズで近づいてきて、ノクノのそばにピッタリとついた。
 ニッコリ笑う。
「やっぱりそれはノクノが着なきゃ!」
「う、うん……」
 あまりに天真爛漫なミチュのペースに流されてノクノもコクコクと頷く。空いている方の左手でミチュの手を握り、必死に縋った。
「ねぇっ、私たち大丈夫だよねっ?」
「もちろん!」
 応えて、ミチュの足底がゴォオォォッと強烈なエンジン音をあげ、白い排気ガスを吐いた。ミチュとノクノの身体が重力に逆らってふわりと浮き上がる。
 さすがアイドルを目指しているとはいえバトロイド、とノクノが胸を撫で下ろすなか、グゥウゥゥ~! と間抜けな音が響いた。
 ミチュは困ったように眉を下げ、空いている左手でお腹を撫でた。もうひとつ、グゥ、とお腹が鳴る。
「うぅ、やっぱ駄目かも……お腹ペコペコ……」
「えっ、えぇぇえぇっ?!」
 プスゥ……、とすかしっ屁のような音があがり、エンジンが完全に停止する。再び二人の身体は自由落下に投げ出され、見る間に海面が近づいてきた。
「——ッ!」
 もはやノクノには悲鳴をあげる余裕すらないが、ミチュは朗らかに言った。
「だから、ね、歌って、ノクノ。そしたらわたし、腹ペコだって吹き飛んじゃう!」
「え……」
 できるはずがない、と思った。
 こんなときに冗談を言うなんて、と正気を疑った。
 けれどこちらに向かって手を伸ばすミチュは変わらぬ朗らかさで、ノクノはふと思ったのだった。 
 ボロボロの衣服でノクノの前に現れたミチュ。花火の音を爆撃だと勘違いしたミチュ。きっと彼女にとって、生命のやりとりは日常の一幕に違いない。
 ミチュはいつだって日常を本気で過ごしている。そのさなかでミチュがノクノに向かってこんな冗談を言うはずがない。
 ただ、ただ、心の底から——
 ミチュはドレスごとノクノの手を握って、お日様のように微笑んだ。
「わたし、ノクノの歌が大好きだから!」
——かつてマーメイドたちで構成されたバミューダ△のライブは大変な人気で、「ライブの日には銃声が消える」とさえ言われたという。
 ノクノは口を開く。薄い唇が風に煽られ、めくられ、戦慄き、儚い吐息は掻き消える。
 それでも、ノクノはひとつひとつ音をたぐり寄せるように音を紡ぎ出していく。三千年以上前、この惑星クレイを満たしたマーメイドたちの歌を。極彩色に弾けた彼女たちの命の歌を。
 この世界で唯一、無慈悲なまでに平等なものがあるとすれば、時間が過ぎゆくことに違いない。神にも、人(ヒューマン)にも、マーメイドにも、バトロイドにも、そして惑星クレイのこの大地にも、時間はほろほろと降り積もる。
 けれど歌だけは、時という無慈悲に抗って鏑矢(かぶらや)のように胸へと届くに違いなかった。
 ミチュは瞳を閉じ、楽しそうに聞き入ってから、そっと囁く。
「——やっぱりノクノの歌が、大好き」
 ぷすぷすとくすぶっていたエンジンが、ブォンッ! と強烈な音をあげ再び稼働する。海面が迫り、真っ白な排気ガスが輪状のさざ波を立てる。
 間一髪のところで二人は浮上し、遥か高くにある飛行艇に向かって飛び上がった。ノクノがミチュにしがみついている間にどんどん海面は遠ざかっていく。
「す、すごい……」
 呟いたノクノに、ミチュが唇を尖らせる。
「ねぇ、もっと歌ってよぉ」
「……もう」
「いひゃい(痛い)いひゃい(痛い)」
 ノクノはミチュの頬を軽くつねりながら(人工皮膚と人工筋肉でできた頬はお餅のように柔らかい)ノクノはシャワー中に口ずさむように、軽やかな歌を聴かせた。ミチュの白い排気ガスもご機嫌に星の形を描く。
 無事に飛行艇に辿りつき、ノクノが甲板に足を下ろすと、ティーアが真っ先に駆け寄ってきた。
「バカ、バカ、バカ!」
 罵りながら、ノクノの身体をぎゅっと抱きしめた。ノクノがその腕の中で、どうしていいかわからずまごまごしていると、ティーアが涙をこぼしながら吐き捨てる。
「ワタシの、ワタシのぞうきんなんかのために、危ないことしないでよっ……!」
「……うん」
 腕から逃れて、ノクノが小さな声で答える。
 すると同じく甲板に足を下ろしたミチュが、ドレスのチュールを握りしめ間接まで白くさせていたノクノの手に優しく触れた。指をほどいてドレスを取ると、ノクノの身体に沿わせてフィッティングする。
 うん、と力強く頷いた。
「このドレス、やっぱりノクノが一番似合うよっ!」
「はぁ?」
 ティーアは侮蔑の笑い声をあげる。
 そうしている間に飛行艇はどんどんリリカルモナステリオの天蓋(ドーム)に近づき、到着は間近。引率の教師が事務的に言い渡す。
「では付き添いの方はここまででお願いします。本日の入学試験参加者38名は降りる準備をお願いします」
「——!」
 ノクノは顔をあげた。
 口を開く。動かない。
 それはたった一言なのに、胸に自ら刃を突き立てるような心地がした。心臓は真っ二つに裂けそうで、歯の根はカタカタと震えた。
——勇気を。
——どうか、勇気を。
 ミチュの手をぎゅっと握ると、痛いほど強く握り返してくれた。
——やっちゃおうよ、ほら!
 言葉よりずっと雄弁な促しに、ノクノはひとつ頷く。
 美しい月がのぼったあの夜から、ずっとずっと嘘をついていた。
 故郷の友に、ミチュに——ううん、自分に。
 もう嘘なんてつきたくなかった。

「私たちも入学試験に参加させてください。私たち、アイドルになりたいんです!」