テグリアが微笑んでいる。
ポルディームでケーキを作っていたときと同じ、見ているこちらの心が安らぐような温和な表情だ。なのに、どうしてだか近寄ることができない。ラディリナの内にある生き物としての本能が、警報を鳴らしている。
近づくな、近づくな、もし近づいたら——“死ぬ”。
思うことは皆同じなのだろう。
ラディリナとモモッケ、ロロワのほかにも、武器を手にした大勢のオモチャたちがテグリアを遠巻きにしているが、一定の距離から近づけずにいた。
エバは居ない。
『お菓子の国』に繋がるこのゲートに至るまでに「良いことを思いつきました!」と勝手な方に行ってしまったのだ。ハートルールーたちは慌ててそれを追い、戻ってこない。
自らを取り巻く黒山の人だかりなど存在しないかのように、テグリアは遠くに視線を投げている。
「……オブスクデイトはどこに?」
「なんであいつがいることを知って……あぁ」
ラディリナは台詞の途中で理解した。
テグリアから譲り受けた髪飾りは測位装置という話だったが、盗聴能力も有していたのではないか。仮にそうであれば、会話の相手がオブスクデイトであることを突き止めるのは容易かっただろう。
そこからケテルサンクチュアリの神聖魔術と科学によって、半日のうちにここに辿り着いた——
最悪、とラディリナは心の中で吐き捨てた。
食べ物ならまだしも、宝飾品まで警戒しなければいけないなんて、嫌になる。
「あいつなら勝手にどっか行ったわよ。方向は真逆。迷惑だからそっちで勝手にやって。さよなら」
「もちろん、あの男には正義による罰を。けれど私の目的はここにもあるのです」
テグリアはロロワに目を向けた。
「えっ」
異様な視線に押され、ロロワは一歩後ずさる。
「あっそ」
ラディリナは隙なく剣を構えつつ、テグリアに言葉を投げつける。
「あなた、ケテルサンクチュアリの正規軍騎士団長でしょう。ダークステイツの民間企業に乗り込んで来ていいわけ?」
「民間企業……ですか」
テグリアは意味深な微笑みを崩さず、殺気立つオモチャたちを見やった。彼らの手には、ピンクの透明樹脂でできた水鉄砲やカラフルな火吹き戻しがある。
「“水鉄砲型ウォーターカッター”、“吹き戻し型火炎放射機”……どれも我が国に出没する山賊や海賊から押収された武器です。オモチャのような見た目ながら破壊力が高く、我々も手を焼いていたのです。その生産元がこちらなのでしょう? ずっと対処したいと思っていました。これも良い機会でしょう」
「あー……なるほどね……?」
暴言から生まれたラディリナも、とっさに良い反論が浮かばない。
オモチャたちと言えば、水鉄砲を隠し視線をあさっての方へ向け、白白しくピューピューと口笛を吹いている。
「……オモチャを武器にする山賊が悪いのよ。オモチャに罪はないと思わない?」
どこかで聞いたような苦し紛れの抗弁を無視して、テグリアが大剣を構えた。
駄目元だったが、やはり口での説得は不可能らしい。
「でしょうね!」
ラディリナは地面を蹴り、テグリアとの距離を維持しながらゲートを抜けた。その先には『お菓子の国』——広大な動植物園が広がっている。
ドラゴンエンパイアの山岳地帯で育ったラディリナとモモッケにとって、戦いの場はコンクリート敷きの『オモチャの国』よりも緑溢れる『お菓子の国』の方が都合がいい。それは植物の力を借りるロロワにとっても同じだろう。
意図を察したようで、ロロワもラディリナのあとに続いて『お菓子の国』へと入った。
「——逃がしませんよ」
雑木林に踏み込むのと同時に、魔力を帯びた斬撃が空気を引き裂いて駆けてくる。首だけで振り返れば、狙いはもちろんロロワだ。
ラディリナは身体を旋回させ、斬撃を横様に払った。
(——重い!)
予想外の手応えに、眉頭が歪む。
どうにか直撃は避けたものの、柄を握る手は雷に撃たれたように痺れている。
その衝撃も収まらないうちに、
ゴォオォオォォッ!
と鼓膜を破らんばかりの大音声があり、地面がぐらぐらと揺れた。
前傾しそうになる身体でそちらを見れば、15メートルあまりの小麦山が横一文字に切り裂かれている。
テグリアの斬撃のせいだ。
「はぁっ?!」
なんて力!
呆れ混じりのひっくり返った声が出た。
断たれた中腹から衝撃が伝わり、たちまち小麦は真っ白な雪崩と化した。
小さな波は瞬く間に化け物じみた大波となり、麓のラディリナたちを飲み込まんと牙を剥く。
飲み込まれる!
「ピュイッ!」
真横から飛翔したモモッケがラディリナの肩を掴み、そのまま上空へと滑空する。
間一髪。小麦の雪崩は轟音を立ててラディリナの靴底を舐め、そのまま叢草を飲み込んだ。
「ありがとう、モモッケ!」
「ピィッ!」
しかし小柄なモモッケの力では、ラディリナと長時間飛ぶことは難しい。
ひらりと宙返りをして地面に着地すると、その耳に素っ頓狂な声が聞こえてきた。ロロワだ。
「何これ?!」
トゥーリでそうしたように、ロロワは植物の力で雪崩から逃れたようだった。地面から伸びる蔓に身体を支えられ、中空に浮かんでいる——が、その植物の様子がおかしい。
ロロワが生み出す植物は、温暖なトゥーリではラフレシアが現れたように、その土地ごとの特徴が出る。仮にブラントゲートの氷雪地帯だとしたら、ほとんど能力を発揮することはできないだろう。
つまり——『お菓子の国』で生み出される植物はすべてお菓子植物となる。
ロロワに巻きついている蔓植物は、蔓は緑色のグミ、葉は薄いチョコレートで出来ていた。強度に難があるようで、それ以上はロロワを支えきれず、へろへろとくずおれていった。
駆け寄りつつラディリナは目を眇める。
「……ずいぶん弱いわね」
「でも、美味しいよ……? ほら」
ロロワがチョコレートの葉を差し出した。
反射的に端っこを噛んでみれば、ミルクの味が濃く、カカオの香りが華やかに鼻孔へと抜けていく。
「美味しい……け、どっ!」
スイーツを楽しんでいる場合ではない。
密林の奥から白い光が撃っ放たれ、ザッ! と草叢を吹き飛ばして風穴をあける。
直撃までは刹那。
「っ!」
防いだのは、ロロワが生み出した身の丈ほどのクルミだった。
岩と見紛うほどに剛健なそれが、斬撃に穿たれ、無数の欠片となって爆散する。瞬時に飛びすさったロロワの頬を破片が掠め、血滴が赤い線のように走った。
砕け飛ぶ破片越しに、低く茂る林を掻き分けテグリアが突っ込んでくるのが見える。
「させない!」
ロロワは地面に手をついて、無数のグミの蔓を放った。しかしテグリアは大剣を振るうと、虫でも払うように切り捨てる。
ばらばらと無残に落ちてくる蔓を、まるで恵みの雨のように浴びながら、テグリアは諸手を広げて歌いあげた。
「あぁ、なんて素晴らしい。この力があれば、この剣も更なる力を得ることでしょう!」
確か、テグリアはドマ山でも似たようなことを言っていたような。
ラディリナは勢いよくロロワを見た。
「そんな力あったの?」
「知らないけど?!」
ロロワは勢いよく首をブンブンと横に振って否定した。
ラディリナは得心して「あぁ」と吐き捨てる。
「つまり乙女の血を浴びれば若返る的な……おまじないより馬鹿な与太話を信じてるってわけね」
侮蔑をたっぷり込め、ラディリナはテグリアに向かって言葉をぶん投げる。
「だーれに吹き込まれたんだか知らないけど!」
「誰に、誰に……モーダリオンといい、皆奇妙なことばかり訊くものですね。すべて、我が正義のもとに。ですが、この正義の前に立ちはだかるのならば、あなたもまた悪でしょう」
「はぁ? 私が悪なら、生きとし生けるもの全て悪だけど」
言い放ち、ラディリナは堂々と胸を張る。
ロロワは感服して「わぁー」と声をあげている。
「私が悪の道を選ばないのはどうして? いけないことをしては大人に叱られて、善悪の分別を身に着けてきたから。そうして子どもは大人になるものでしょう」
強い語調でラディリナは断言する。
「そう、子どもには善悪なんてわからない——メープルだって、沢山叱られなくちゃいけない “悪さをする子ども”だったでしょう」
「……!」
ロロワがハッとした様子でラディリナの顔を見た。
二人の脳裏には『——逃げろ!』と叫んだその声が思い出されている。
「トゥーリで財布をスろうとしたメープルは、あなたの言う悪と正義の二元論に照らし合わせればもちろん悪よ。でもそれを叱るのがあなたの役割だったはずでしょう。それを、メープルが“悪”だから、ケイオスなんかに差し出した——そんな馬鹿なこと言わないでしょうね?」
テグリアと行動にしていたメープル。その彼女は今、ケイオスによって『因果の泡』に囚われている。
ならばメープルの行方についてテグリアは何か知っているに違いない。そう踏んで、ラディリナは鎌をかけたのだった。
しかしテグリアは心底何を言われているのか分からないというように曖昧な表情を浮かべている。
「メープル? 誰のことでしょうか」
「誰って、メープルよ。あなたの部下だった、ピンクのインセクトのメープル。今ケイオスに捕まってるの。こんな馬鹿なことしてないで、メープルを探すのが優先でしょう」
「生憎、メープルという名前の部下はおりませんが……例え、いたとしても」
テグリアの口角が吊り上がり、その陰影が歪む。
「今の私に部下など必要ないのです。私に必要なのは、あの男を殺せるほどの圧倒的な力だけ。ロロワさんの力を得ることで——」
「あぁもう、よーく分かった。アンタの頭がぶっ壊れてるってことはよ————くわかったわ!」
ラディリナが柄を強く握り込めば、飾り紐の玉が涼やかに鳴った。熱を帯びた思考をすぅと冷ましてくれる、澄んだ石の音色。
思考が冷えるほど、荒っぽい台詞が出てくるのがラディリナだ。
「私、壊れたものは叩いて直す派なのよね」
「気が合いますね。私もですよ」
テグリアが踏み込んだ。
大地が爆散し、土くれが巻きあがる。その真っただ中から、テグリアは破壊の具現のごとき一撃を抜き放った。
まさに、桁違いの力。
浩蕩たる海のごとき魔力が噴出し、大地は裂かれ、轟々と竜巻が沸き起こる。ラディリナたちは爆風と煙塵に飲まれ、為すすべなく吹き飛ばされた。
まるで蹴飛ばされたゴムボールのように遙か宙を舞いながら、ラディリナは口を極めて悪態をついた。
「馬鹿、魔力馬鹿、腕力馬鹿……!」
枝木を叩き折って地面に落下し、追ってモモッケが腹の上に落ちてくる。
「ぴゅいっ」
「大丈夫、平気よ」
ロロワも来るかと身構えたラディリナだったが、いつまでたってもロロワは落ちてこなかった。
身を起こし、周囲の林に視線を巡らせてもその姿は見当たらない。
ラディリナはロロワと寸断されたのだ。もちろんその意図はひとつしかない。
テグリアの標的は、元よりラディリナではないのだから。
「——ロロワ!」
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
高々と吹っ飛ばされたロロワが逃げ込んだのは、熱帯雨林の中にある、ぽっかりと拓けた調理スペースだった。
半日前にティティから案内された厨房だ。
床は清潔な白い石が敷かれ、その上には石で組まれたオーブンが二十機と作業台が五台。その脇を走り抜けてロロワが向かうのは、奥に建てられたレンガ造りの倉庫だった。
扉の薄く開いたところから、転げるように駆け込んで、力任せに閂をかける。
「はぁ……はぁ……」
倉庫内にはロロワのほかに気配はなく、暗く静かなうちに荒い呼吸音だけが響いている。闇に慣れ始めた目には、丁寧に梱包され山と積まれたお菓子のシルエットがぼんやりと見えた。
テグリアからは逃げ切れただろうか。
ふぅ——……
ロロワが細く深く息を吐いた——そのとき。
ボゴオォッ!
ロロワの真上、クッキー製の天井に亀裂が走る。
驚愕が追いつくよりも先に、凄まじい力で叩きつけられた大剣が、ゴオォォン! と倉庫ごとロロワを両断した。
圧倒的な破壊に飲まれ、お菓子の山は箱の形さえ残らないほど木っ端微塵に砕かれる。
充溢する清らかな魔力、そして叩き割られた無数の瓦礫がロロワを轢き潰さんと迫り来る。常人であれば、そのおぞましい光景に絶望し、すべてを諦めてしまうことだろう。
——しかしロロワの目には、くぐり抜けるためのわずかな間隙が『見えた』。
「うわ、わっ……!」
つんのめり、まるで無様に転げるような動き。しかしそれこそ助かるための最適解だ。
ロロワは降り注ぐ瓦礫を紙一重で避けきると、光さす外へと駆け抜けた。地面を踏み、やや行って振り返れば、倉庫はまるで鉄球クレーンの直撃を何度も受けたように叩き壊されている。
この様子では襲撃したテグリアも、瓦礫によって無傷とは思えないが——
するとそのとき、天井の残骸であろう一際大きな瓦礫が持ち上がったかと思えば、爆ぜるように吹き飛んだ。
その衝撃によってガラガラと瓦礫が崩れていくが、下から姿を現した彼女は、まるでそれが砂埃か何かのように払い除けてしまった。
「こんなところに隠れたところで無駄ですよ」
唇には、シカ狩りを楽しむ貴族のように無垢な微笑が浮かんでいる。
彼女からすれば、もう罠に追い込んだようなものだろう。あとはじっくりと丁寧に息の根を止めるだけ。テグリアはロロワに向かい、ゆっくりと足を踏みだした。
と、その背後で何か小さな物が動く気配があり、シュッとかすかな風切り音がする。
それは真っ直ぐにテグリアへと飛んで行き、手首にぶつかってメキャッと砕けた。衝撃によってテグリアの身体がわずかに揺れる。
例えイノシシに正面からぶつかられたとしても、微動だにしないであろうテグリアが、だ。
「……?」
テグリアは不思議そうに目をパチパチと瞬かせ、砕け落ちた物体を見つめた。
サイズは手のひらよりもやや小さい程度、破片はこんがりと焼けたキツネ色で、粉の残る手首からはバターの芳醇な香りが漂っている。
「……“ぶっ飛びクッキー”、ですか」
呟きが終わらないうちに、背後からシュシュシュッ! と複数の風切り音があった。10や20では効かない、夥しい数のクッキーがテグリアを狙い『ぶっ飛んで』くる。
静かに、ふぅ、と吐息をひとつ。
テグリアは微笑を捨て、弾幕のごときクッキーたちへと剣を向けた。
その隙に熱帯雨林へと逃げ込んだロロワは、小さなガッツポーズを取った。
「——よし!」
これこそ、ロロワがぶっ飛びクッキーの倉庫に逃げ込んだ理由だった。
ぶっ飛びクッキーは開封者の元へと『ぶっ飛んで』いく。捕まり、食べられるまで『ぶっ飛び』続け、その威力は石頭のロロワを昏倒させたほどに強烈。『ぶっ飛ぶ』機能と相まってさながら追尾式ミサイルのようだ。
さすがにテグリアを倒すほどのダメージとするには厳しいが、攻撃の妨害には十分な効果を発揮することだろう。
ロロワが逃げ込んだ先ではラディリナが待っていた。感心したように頷いている。
「なかなかいいアイディアね」
「気絶した甲斐はあった……かな?」
「えぇ、運んだ甲斐があった。畳みかけるわよ!」
「あぁ!」
好機に乗って、ラディリナはテグリアの元に疾駆する。前衛のラディリナ、モモッケに、それを援護するロロワという陣形だ。
テグリアは自らに向かってくるラディリナたちへと目を向けた。その一瞬の隙にも容赦なくぶっ飛びクッキーは殺到し、大剣や腕にボコッボコボコッとぶつかって砕け落ちる。
「……っ」
かすかに呻き声を漏らし、テグリアは大剣を頭上に掲げた。
クッキーには構わずロロワたちを攻撃するつもりだろうか?
それを阻害するようにぶっ飛びクッキーが剣を撃ち、切っ先がわずかにぶれた。妨害は明確に効いている。
——いける!
ぶっ飛びクッキーの軌道を避け、ラディリナが身を低くして地面を蹴った。
するとそのとき、不意にテグリアの手がゆるみ、すっぽ抜けたように剣が頭上に飛び出した。
「自棄になったの?!」
「——いや、違う!」
ロロワの絶叫でラディリナも気づく。
テグリアはあえて、手放したのだ。
ボコボコボコッ!
宙に放たれた大剣にぶっ飛びクッキーが殺到し、刃にぶつかり砕けていく。
『テグリアにクッキーを壊させれば、追尾ミサイルのように迎撃できる』——ロロワの予想はおおよそ当たっていた。
ただひとつ思惑と異なっていたのは、ぶっ飛びクッキーの標的はテグリア本人ではなく、包みを叩き壊した大剣だったこと。ぶっ飛びクッキーの弾道から、テグリアはそれに気づいたのだろう。
大剣を手放した今、テグリアはクッキーの攻撃から解放された。
「——ハァッ!」
テグリアは爆発的な勢いで地面を蹴放して、その身ひとつでラディリナへと驀進する。
「嘘でしょう?!」
ラディリナの武装は炎剣、徒手で挑むなど正気の沙汰ではない。
驚愕に目を見開いたとき、すでに女は間近まで肉薄していた。
「——あの男を殺せるのなら、憎い教えすら血肉としてみせましょう」
テグリアの足先がラディリナの鳩尾へと突き刺さる。騎士の矜持など欠片もない、粗野な蹴りだった。
「……ぐうっ!」
巨岩に内臓を抉り潰されたような衝撃。受け身すら取れないまま、ラディリナはモモッケを巻き込んで遙か後方へと吹き飛ばされた。背中からオーブンに激突、砕かれた石煉瓦がガラガラと崩れていく。
「がっ、あっ……!」
断末魔のように開いた口から、血混じりの涎がダラダラ垂れる。
覚醒と失神が、スイッチを弄んでいるかのようにせわしなく入れ替わっている。
——パチンッ
暗転した視界に、フラッシュバックのようによぎったのはトゥーリでの戦闘だった。それは木々に覆われた闇のなか、黒暗の騎士と対峙したときのこと。
炎剣で挑みかかるラディリナに対して、オブスクデイトは剣撃のみならず体術を駆使してラディリナを圧倒した。
鳩尾にめりこんだ蹴りの威力を、ラディリナは今でもはっきりと覚えている。
既視感——いや、それを超えている。テグリアの姿はオブスクデイトに酷似していた。
——どうして。
オブスクデイトがまるで山賊のような粗い手立てを使ってくることは理解できる。男の剣は恐らく自己流で、洗練されていなかった。
しかし、それを野卑だと詰るのはあまりにも的外れだ。遙か高みより迫り来る津波や、大地を覆う竜巻を野卑だと詰ることが的外れであるように、事実として、圧倒的な強さがそこにあるのだから。
対して、テグリアの剣は努力によって美しく磨き上げられていた。騎士としての誇りをかけて貫かれるべきもの——『正しい剣』だった。
きっと彼女はケテルサンクチュアリのエリートで、かの国において研鑽された『正しい』剣技を究めたのだろう。
すべてを恐れず、卑怯を憎み、正々堂々と敵を討つ剣。それはラディリナの信念と重なるものだ。
ゆえに、この決着は剣によってのみもたらされるはずだ。そうでなくてはならない。
剣は騎士の誇りなのだから——
そう、ラディリナは無意識に思い込んでいたのだろう。剣を手放し、身ひとつで肉薄してくるテグリアに向かって抱いた感情は『卑怯』。
羞恥心で消え入りたくなるほどの、稚気に満ちた思考だった。
——パチンッ
スイッチを入れたように意識が現実に戻ってくる。
「——っ」
朦朧の残滓を切り捨てるように、ラディリナは瞬時に身を起こした。衝突によって破壊されたオーブンがガラガラと崩れていく。
彼女の脳天に、黒い影がさした。
見上げれば、テグリアは遙かなる高さへと跳躍しており、ラディリナへと剣を振り下ろさんとしている。すべてを叩き斬ったらしく、無数に飛び交っていたぶっ飛びクッキーの影はもうどこにもない。
怒髪を波立たせ、苛烈な殺気を瞳に宿し、豪風をまとったテグリアは力をその一閃に溜めていく。
テグリアと剣を交わした過日——今日の彼女はあの日とは明確に異なっている。予想外で、野卑で、事実として圧倒的に強かった。
ラディリナの想像など超えてしまうほど。
『つまらないつまらないつまらない!』
『これだからオトナは!』
『実現可能な現実的未来にしか手を伸ばせないキミは、だからオトナなんだ!』
脳内には、ハートルールーの金切り声が蘇っている。
ラディリナは現実主義者だ。常に自分の欠点と向き合い、一歩一歩着実に歩んでいく。
今日の自分は、昨日の自分よりも強い。
明日の自分は、今日の自分よりも強い。
そうして生きてきた。その自負がある。
そして自分自身を正確に見つめ続けるがゆえに、ラディリナは予想外の成長を遂げる自分を想像できない。
——テグリアに、敵わない。
「“断罪する正義の剣”」
テグリアは高らかに宣誓する。これは正義なのだと、この剣で断たれるのは罪人なのだと。そうして命を無慈悲に奪う処刑剣が、ラディリナの命に向けられる。
「……——」
一度『敵わない』と敗北を認めたラディリナの心は、まるで切れた繰り糸のようだった。身体は木偶と化して動かない。
遠くに、彼女を呼ぶロロワの絶叫が聞こえている。
けれど思考には届かず、死ぬのだ、という未来だけが“事実”として肉体を満たしている。
——そこに。
緊迫した状況とはあまりにも不釣り合いな音が割って入った 。
『チャチャチャチャッ!』
——ドシンッ!
地響きをあげ、ラディリナとテグリアの間に落ちてきたのは、巨大な茶色の塊——貝気楼だった。
鏡の館でラディリナたちをその身に映した、まさにその貝気楼である。
ラディリナは驚愕に目を見開いた。
どうしてこんなところに。
あの館からここまでずいぶんと距離がある。ドシンドシンと進んで来たにしても、ずいぶんと骨が折れたはずだ。
そこで思い出したことがひとつある。
そうだ、貝気楼はドラゴンに憧れていた——
「モモッケを助けに来たの?!」
『チャチャチャッ!』
貝気楼が声高に答える。
しかし意気軒高たる勢いを躙るようにして、純白の影が貝の頂を踏んだ。
テグリアの唇にはもはや微笑はなく、瞳は無機物を見るように冷えている。
「——悪は全て罰されなくてはいけません」
「逃げろ!」
ラディリナの絶叫も間に合わない。
無慈悲にテグリアの大剣は振り下ろされ、貝気楼を両断した。
「————ッ!」
貝気楼の岩のように堅牢な外殻も、圧倒的な一撃の前ではひとたまりも無かった。板ガラスを割ったように粉々に砕けて飛散する。
身は両断され、断末魔すらなかった。
今際の吐息だけが白く細い水蒸気となって内から溢れ出す。
それはひとつの意思を持って流れ、砕け落ちてなお寄り添うように、ふわりとモモッケを包み込んだ。
モモッケの周囲に光が満ちていく。
満開の桜花によって夜がほのかに明るくなるような、やわらかな光が。
光はやがて奔雷のごとく迸り、あたりを真白に染めあげる。
ラディリナは、生まれたてのドールたちが言祝がれた、夢と未来への希望に満ちた情景を思い出す。
——貝気楼の夢はドラゴンになることだった。
もちろん、普通であれば到底叶いようもない望みだ。魚が人間にならないように、貝はドラゴンにはならない。
けれど『お菓子の国』では、どんなおかしなことだって起こるのだ。
鮮烈な光の向こうから、声が聞こえた。
それは大人へと羽化する直前の、やわらかな少年のもの。
「——ラディリナ」
モモッケは美しいドラゴンだ。
翼は茜色に照り映える空のように美しく、瞳は生命の躍動を絶やすことはない。放った炎が皮膚に映ると、小さな姿ながらぞっとするほどの猛々しさを帯び、見るたびに惚れ惚れとしてしまう。
身体に対して大きな尾と角は、百獣の王が幼いときから貫禄を備えているのと同じこと。やがて巨大なドラゴンとなることだろう——
もちろんその『やがて』は今日や明日の話ではなく、共にたゆまぬ鍛錬を重ねた未来のことだと思っていた。
雷光に目眩むような心地がして、光の向こうへ呼びかける声が震えた。
「——モモッケ」
ベールが上がるように、光の粒子がふわりと霧散する。
天へと献げるための、聖なる浄火が形を成したようだった。長い尾と翼は赤々と燃え、細かな火の粉が舞う。その熱はどこまでも清らかに澄んでいる。
身の丈はラディリナを越え、空へと伸びる貝真珠色の角は芸術品のような複雑な弧を描いている。
その威風に、これは夢ではないかとさえ思う。
砂漠で蜃気楼が幻を見せるように、貝気楼によって形づくられたこの姿は、触れたら消えてしまうのではないだろうか——
沸き起こった恐怖心が、モモッケに触れることを躊躇わせた。
けれどモモッケはラディリナの畏怖などお構いなしに、その美しい面貌を下げ、柔らかな鼻づらでラディリナの鼻先に触れた。
伏せられた瞼が、花蕾がほころぶように開かれる。
瞳に宿る生命の躍動と柔らかな知性が、ここにある魂が間違いなくモモッケなのだと告げていた。
「行こう、ラディリナ」
「えぇ、行きましょうモモッケ」
ラディリナはモモッケの身体に足をかけ、その背にまたがった。
まだ伝説に残るようなドラゴンナイトたち——例えばネハーレンのような——と戦場を駆けたドラゴンたちほどの巨体ではない。それでも、ラディリナの小さな身体を乗せるには十分だ。
モモッケは大きく羽ばたき、遙かなる空へと飛翔した。
ぐんぐんと地上は遠ざかり、見下ろすと、貝気楼の割れた欠片を踏んでテグリアが立っている。
彼女をめがけて、モモッケは直落下に近い軌道で滑空した。
示し合わせるための合図など必要なかった。呼吸が自然に重なるように、いつ、どうすれば良いのかが分かる。
喉から迸り出た裂帛の気合いは、自分のものなのかモモッケのものなのか区別がつかなかった。
「らああああああぁぁぁっ!」
炎剣から炸裂する真炎と、モモッケが放つ轟炎が一つの炎瀑布となってテグリアを包み込んだ。
いかに強靭なテグリアといえども無事ではいられない、圧倒的な大火。
勝敗は決したように見えた。
——しかし。
「……どうして」
炎に巻かれても、テグリアは回避のために身を捩らせることも、痛みに絶叫することもなかった。炎の奥に見えるその立ち姿には、戦意や何らかの意思といったものは感じ取れなかった。所在なく、ただぼんやりと立ち尽くしているかのようだ。
骨さえ溶かす高温に包まれているのだ、ありえない。
炎のなか、テグリアはブツブツと何か呟いているようだ。
「———、——」
「——……————」
しかし不明瞭で、燃え盛る炎に飲まれて聞き取れない。
顔は見当違いの空方へと向けられており、まるでラディリナとモモッケなどこの場にいないかのようだった。
*
テグリアが子どもだったころの話だ。
誕生日に貝気楼をもらったことがある。
夢中で覗きこむと、最初に映ったのは純白のウェディングドレスを着た花嫁さんだった。
“憧れ”や“夢”は成長と共に姿を変え、覗きこむたびに見たことのない自分が笑っていた。
お姫様、ロマンス小説のヒロイン、可愛いエプロンを着たお花屋さん、純白の調理服のパティシエ——どの姿もとても素敵だった。
やがて貝気楼は親戚の子どもにプレゼントしてしまって、大人になってから鏡を覗きこんだことはない。
けれど、今もし貝気楼を開いたなら、そこには立派な騎士として活躍する自分の姿が映ることだろう。
そう疑わなかった。
「——悪は全て罰されなくてはいけません」
目前に飛び出してきた巨大な物体。
それが途方もない大きさの貝気楼だと正確に把握する前に、テグリアの大剣は貝殻を両断していた。
霜柱を叩いたような、さくりと軽い手応えがあった。
分厚い貝殻もテグリアの前では薄い板ガラスのようなもので、粉々に砕けた貝気楼はパウダースノーのように飛散する。
貝気楼の表はただの白茶けた貝だが、その内は使用者を映すための鏡になっている。砕け、舞い上がった鏡は、光を反射しキラキラと輝いていた。
——綺麗。
わずか見惚れれば、破片のなかでもとりわけ大きな一片が、テグリアの目前をスローモーションのように落ちていった。
その鏡面が、テグリアの姿を映し出す。
鏡のなかのテグリアは、純白のウェディングドレス姿で微笑んでいた。
「……ありえない」
夢の微笑みとは裏腹に、現実の唇は慄きに歪んでいる。
“花嫁さん”なんて甘ったるい夢は、とうの昔に捨てたはず。ありえない。映るはずがない。映っていいはずがない。
だって、そうでしょう?
「私は誰よりも優れた騎士になるのですから」
知らぬうちに、唇が言葉を作っている。
唇は冷えきり、別の誰かがこの身体を使って強く言いきかせているようだった。
この身体を使って、祈りを献げているようだった。
「そう、あの男を殺せるほどの騎士に」
「それこそが、恩師ジラールへの私からの手向け」
「そうでしょう?」
気づけば、天からの裁きのように紅炎が迫っていた。逃げる間もなく、灼熱の炎が身体を炙る。
皮膚は焦げ、肉は溶け、痛みによって思考が焼き尽くされていく。真っ赤な闇となった世界に、あぶくが沸きおこるように、ぽつりと疑心が浮かんだ。
『 わたしは、なにが、したかったのだろう 』
白雪に汚泥が染みてじわりと広がっていくように、ひとつ、またひとつと疑心が浮かんでくる。
『 わたしがつよくなりたいとおもったのは、なぜだったかしら 』
『 つよくなりたかった 』
『 つよくなって 』
『 あのひとを 』
『 いいえ、ちがう 』
『 あのひと に 』
問いかける声は、切実であるにも関わらず輪郭はあいまいでぼんやりとしている。
そうして形をもたずどろどろとした闇のなかに、甘やかなことばが一粒落ちた。
何もかもがあいまいな世界で、その音だけが水琴窟にひびく雨滴のように澄んでいる。
——可哀そうに。
耳に馴染んだその声は、一すじ細く光りながら、するすると垂れてくる糸のように見えた。
慈悲の殻にくるまれた糸は、小さな小さなさざなみを起こす。あいまいな望みが薄皮一枚の柔らかな輪郭に縁取られていく。
——可哀そうな騎士テグリア。
——君はあの男の手によって、清らかな夢さえ奪われてしまったんだね。
——さぁ、その剣でもって欲望を取り戻さなくては。
あぁ、そうか。
何をぐちゃぐちゃと考えることがあるのだろう。
思考を複雑にする必要は無い、思い悩む必要はない。
泥濘は笑ったようだった。
見えないのに、その咢が裂けて、半月の形に歪むのがわかる。
——そう!
——君の手であの男を殺しさえすれば、すべてが上手くいくのだから。
どうやってあの炎から逃げ出したのだろうか。
いつの間にかテグリアは『お菓子の国』を出て、『オモチャの国』を歩いていた。
あたりは酷い有様だ。
色鮮やかなゴンドラが横倒しになりひしゃげていると思えば、その正体は巨大な観覧車だ。下敷きになった遊具の近くで、オモチャたちがギャーギャーと耳障りに騒いでいる。
支柱の折れたジェットコースターは傾き、不安定に揺れている。しかしその上でも、まだコースを走っている車両があるようだ。
——ふと。
予感がして、テグリアは高所からこちらの方へ滑り降りてくる車両へ目を向けた。
「……見つけた」
高速で走るジェットコースターの上で、かの男はモーダリオンと対峙している。
その状況を、テグリアはやや意外に思った。
テグリアを討ったときのように、モーダリオンは影に潜んで気配を消し対象の寝首を掻く。だからこそ『影潜者』の名を持つのだ。
それが今、オブスクデイトと対面での戦闘を余儀なくされている——あまりにも劣勢だ。
戦闘を恐れたモーダリオンは車両から敗走するだろう。しかしそれは失敗に終わり、オブスクデイトによって討たれるだろう。
その瑣事のあと、テグリアがオブスクデイトを殺せばいい。
「あの男を討つのは、討つべきは、私の他にいないのだから!」
身の丈ほどの大剣、その柄に嵌まった虹色の魔石はもはや、ありし日の極彩色を完全に失っていた。
ケテルサンクチュアリが誇る、正義、秩序、それを体現する真白き光は、完全に失われていた。
今や大剣を覆い尽くし刃を成しているのは、迸る怨憎が凝った滅紫だ。空気を焼きながら唸るその声は、万の呪詛を一つとしたかのようにおぞましい。
喉を裂いて、男の名が迸った。
「——オブスクデイト!」
しかし、ひとつテグリアの予想に反した事態が起きた。オブスクデイトと対峙しながらも、モーダリオンが退かなかったのだ。
ひとまたたきにも満たない、刹那の出来事だった。
オブスクデイトに肉薄し、モーダリオンの剣が奔る。
下段から振り上げられた歪刃が、オブスクデイトを捉える。
刃はオブスクデイトの左腋窩から、天へと真っ直ぐに駆けた。
何が起こったのか理解ができないまま、テグリアはゆっくりと足を止め、立ち尽くした。
ドチャッ
鈍い金属音をたて、空から足元へ、何かが落ちてきた。
「————」
見たくない、と思った。けれどテグリアの優れた鼻孔は、瞳よりも先に違和感を捉える。
それは過ぎし日を思い起こさせるような、微かな鉄の香りで——
テグリアはぎこちない動きで顔を下げる。
オブスクデイトの腕が転がっていた。