ふわりと白衣をひらめかせ、エバはオブスクデイトとモーダリオンのあいだに立った。
モーダリオンは「ふむ」と呟いて、わずかに興味の色を見せた。
「お前がエバか」
雪人のようなモコモコの服はとっくに脱ぎ捨てられ、今のエバはオブスクデイトと出会ったときと同じ、薄着に白衣という装いだった。
エバは袖のあまった右手を高々と掲げた。
「はい、エバちゃんって呼んでくれてもいいですよ♡ ……んん−?」
エバは片眉をひょいと持ちあげ、モーダリオンの顔面をしげしげと見た。
「あなたの顔、どこかで見たことがありますね」
「まぁよくある顔だからな」
「思い出しました! 科学ジャーナル“ウィズソフィア”で見たんです。あなたの名前、もしかして——」
エバが口にしたのは、オブスクデイトの知らない名だった。少なくとも「モーダリオン」ではない。
モーダリオンの無表情が、思いがけない名を聞いた、というようにまばたきされた。
「それは俺の本名だ」
「やっぱり! あなたの肩書きはグレートネイチャー総合大学の毒性学博士でした。32年前の論文タイトルはそう、“壊死性因子の魔力充填下培養”」
「その通りだ。あれは自分でもよくできた論文だった。こうして聞くのは案外嬉しいな。ちなみに今の通名はモーダリオンだ、よろしく」
「あらら、そうなんですね。前の名前も悪くなかったですよ?」
モーダリオンは軽く頷いた。
「俺もそう思う。だが隠密の仕事で本名を使うのは差し障りがあるだろう? 本名を使うやつは後先考えないバカだな。そこに居るのを筆頭とする」
モーダリオンは蹲っているオブスクデイトを顎先で示した。
オブスクデイトはかつてモーダリオンに「別に本名のままで良いだろう」と言われたことを思い出していた。
「そうか。ということは、お前はあのエバか」
エバは両袖を口元に当て、瞳をキラキラと輝かせた。
「え〜? もしかしてエバちゃん有名人ですか?」
「畑違いの俺でも名前を知っている程度にはな。4年前、“ウィズソフィア”の巻末で特集を組まれていたのはお前だろう」
「わ、うれしいです!」
エバの喜びはまったくの演技という訳でも無さそうだった。
オブスクデイトを罵倒するときは冷たい皮肉に満ちている表情が、今はほのかに赤らんでいる。
「……でも、どうして」
と、エバは声を密やかにした。
「あなたの論文は32年前が最後でした。名前がサーチにかからないので、てっきり死んだものだと。なのに騎士なんてやってたんですね。賢いあなたがどうしてそんなバカなことを?」
エバは舞うように両手を広げた。
金色の瞳は好奇心の光に満ちきらめいていた。
「研究より楽しいことなんて、この世界に無いのに!」
しかしモーダリオンの美貌は凍りついたように動かない。
「まぁ、その考えも理解できるが……ずっと研究をしていると変わったアプローチを試したくなるものだ。それが案外向いていることもあるしな。お前も長命種だろう、研究以外のことをしてみるのもオススメだ」
モーダリオンは博士だったころを思わせる仕草で、人差し指をあげた。
「どうせ時間は充分ある」
「え?」
エバはきょとんとして、やがて堪えきれないというように天を仰ぎ、高らかな笑い声をあげた。
「——アッハ!」
オブスクデイトからは彼女の背中しか見えず、その表情は窺えない。
エバ身体を折り、肩を震わせ笑い続けている。
「そうですね。あなたの言う通り、外に出ると発見がいーっぱい! じゃんっ、見てください!」
エバが取り出したのは黒い背表紙の本だった。
開くと、グリーンやピンクでぐちゃぐちゃに塗り潰されたイラストが現れた。はた目には子どもの落書き帳にしか見えないだろう。
モーダリオンはちょっと首を傾げた。
「それは?」
「これは私の可愛い“天才のエバちゃん”が、起きていられない私のために探検の報告してくれたものなんです!」
「なるほど?」
事情を掴んでいないモーダリオンは、傾げた首をもう一方にかたむけた。
エバは本をめくり、“天才のエバ”によって描かれたことを読み取っていく。
「ふむふむ、このあたりには大きな観覧車があったみたいですね、大きなジェットコースターも!」
「そこに居るのが全部壊したな」
と、モーダリオンはオブスクデイトを視線で示す。
「えーん、それは残念です。でもでも、この工場にあるのは遊園地だけじゃないんですよ? とっても美味しいお菓子の国も! “天才のエバちゃん”のオススメは……ふむふむ、爆発ポップコーンに、ぶっ飛びクッキー、電気キャンディ、嘘泣きヌガー、ぜーんぶステキですね♡」
「そうか、良いことを聞いた。せっかくダークステイツまで来たんだ、この任務が終わったら土産に持って帰ろう」
モーダリオンは毒食みを打ち振るい、横に薙いだ。
溢れた毒が線を描いて放たれ、コンクリートの地面を溶かして異臭をまく。剣を振りあげ、モーダリオンはエバへと歩みを進めた。
エバは「ぶぅ」と頬を膨らませる。
「もう、せっかちさんですね。悪の騎士の手にかかり、儚く散っていく可哀相なエバちゃん! 最期なんですから、オススメはちゃーんと聞いてくださいよ。“天才のエバちゃん”の一番のオススメは——」
エバは両手をメガホンの形にして、声を張りあげた。
「みんなだーいすき、ナッツ・バタフライ!」
その瞬間だった。
「ボボボッ! ナッツ?!」
どこかから素っ頓狂な大声と、ズシン、ズシン、という地響きが聞こえてきた。
「……なんだ」
モーダリオンは歩みを止めて振り返る。
そこに、瓦礫を蹴散らして現れたのはオモチャ怪獣ブレイビロスだった。
キョロキョロとあたりを見渡して「エバチャン!」と目を輝かせる。
「いっきますよー! ブレイビロス!」
エバは片足で背伸びをすると、何かをブレイビロスへぶん投げた。
見当違いの大暴投だった。
それはモーダリオンの遙か頭上を通りすぎ、ブレイビロスからもずいぶんと遠いところに飛んでいく。
しかしブレイビロスは諦めなかった。
「ボボボッ、ボボボッ!」
でっぷり太ったお腹を揺らして全力疾走し、なんと暴投に追いついた。
大きく開けた口で受け、ゴクンと飲みこんだ。
ズシンッと華麗に着地したブレイビロスは、満足げにお腹を撫でようとして——手が止まる。
塩化ビニールの黒い顔は、みるみる真っ赤になっていく。
「ブレイビロス、歯医者さんにはちゃーんと行ってくださいね♡」
エバは蛍光色の薬品瓶を振り、ウインクをひとつパチッと投げた。
刹那、薬品を飲みこんだブレイビロスは耳を劈く悲鳴をあげた。
「ボ————ッ!」
口から赤い業火が迸り、空気を裂いて駆けていく。
猛火が向かった先は、街路沿いに並ぶ火吹き戻しだった。
燃え盛る炎が木をまるごと包みこむ。
——まさか。
エバの意図を悟り、オブスクデイトは目を見開いた。
火吹き戻しの葉からパチパチパチッと炭酸キャンディのように軽やかな音がして、五色の火花があがった。
夢のように美しい光景は、一瞬のことだった。
ぼうっ! ぼう、ぼうっ!
マグマが噴くように次々と火柱があがり、焔はまたたく間に広がっていく。
隣の木へと燃え移り、燃え移り——業火がその舌を伸ばしたのは、天井につくほど巨大なマスコットバルーンだった。
モーダリオンは事態を凝視している。
その横顔に向かいエバが笑いかけた。
人差し指をくちびるに添え、無邪気な質問をひとつ。
「さぁ、ここで運命の二択です♡ 燃える? 燃えない?」
モーダリオンは梔子色の目を見開く。
「——嘘だろう」
閃光が周囲を満たした。
熱波は爆散し、遊園地すべてを巻きこんで地獄の大炎となった。
火吹き戻しから無数の火柱があがり、日よけテントはごうごうと燃えあがる。火の粉が雨のように降り注ぎ、メリーゴーランドは涙するように溶け炎のなかに消えていく。
灼熱が堕としたのは、合成樹脂製のアトラクションだけではなかった。
傾いていたジェットコースターは火に呑まれ、飴細工のように崩れていく。
ついに世界を引き裂くような軋みをあげ、真上から巨大な鉄柱が降ってきた。
「……っ!」
回避のためモーダリオンは地面を蹴ったが、三歩も行かないうちに振り返った。
「おい、何をしている!」
絶叫の先には、崩れ落ちて地面に膝をついているテグリアがいた。
彼女はまるで魂を失ったかのように呆然として、微動だにせず、身に迫る鉄柱にも気づかないようだった。
「……クソ」
モーダリオンは吐き捨て、テグリアに向かって身を転じた。
鉄柱がコンクリートを叩き割り、砂礫混じりの熱波が二人を飲みこんだ。
それはあたりの焔煙を巻きこみ、凄まじい勢いで膨れあがると、地面を砕きながらオブスクデイトへと牙を剥いた。
身体は動かない。もはや逃げることは不可能だ。
俯きかけた鼻先に、からかうように軽やかに、白衣がひるがえった。
目前に彼女が立っていた。
爆風に混じった火片がエバを舐める。髪は焦げ、白衣の裾が溶けていく。
それでもエバは両手を広げ、熱波の波が途切れるまでそこに立っていた。まるでオブスクデイトを庇うかのようだった。
ありえない、と男は思った。臨死の幻覚ならば自分のセンスを疑うところだ。
あまりに現実感のない光景に、そう思ったのが表情に出ていたらしい。
煤けた頬で振り返ったエバは、ムゥとむくれて頬を膨らませた。
「なんですか、その不満そうな顔は? こういうときは“ありがとうございますエバちゃん”と泣いて感謝するところですよ? はい、どうぞ?」
「…………」
どうやら幻覚ではないようだが、ならば別の疑問が湧いてくる。
「……お前はエバだな」
エバはふふんと嗤う。
「あるときは無邪気に駆け出すキュートガール、あるときは天才科学者、その名もエバちゃんです♡」
「……なぜ来た」
エバ自身に戦闘能力はない。モーダリオンの前に姿を晒すこと、それ自体が無謀だった。
もしモーダリオンの気まぐれが無ければ、ブレイビロスを呼びよせるための時間稼ぎすら許されなかった。殺されていた。
自分が処刑される隙にこの工場から抜け出すことが『賢い手』だったはずだ。
しかしエバはいつもの人を翻弄する笑みを浮かべ、
「さぁ?」
と言っただけだった。
そしてエバはオブスクデイトの右腕を取る。
「グズグズするのは終わりです、行きますよ!」
無茶なことを言う、と男は思った。
しかし、もう一歩さえ動けないと思っていたのに、魔法の糸で操られるように膝が動いた。
エバはオブスクデイトの手を引いて、まるで踊るかのように燃え盛る火の海をあゆんでいく。
焼け爛れるテントが篝火のように、エバのからだを紅蓮に染めている。
「ずっと考えていたんです」
エバはごきげんな声をあげた。
「私の頭にはほんの小さなマギカライト結晶片が入っています。おバカさんのオブにわかりやすく言うと、動かないアタマに電池を入れているようなものですね」
エバは自分のこめかみをコツンと叩いた。
「もちろん電池が切れればおしまい、元に戻るというわけです。それが私にかけられた“魔法”の正体」
エバは独楽のようにくるりと回り、オブスクデイトを見た。
「それなら、もう一度電池を入れれば良いと思うでしょう? ですがマギカライトはミクロンの誤差でも脳に致死のダメージを与える力があります。再施術は現実的ではありませんでした」
私が生きたまま手術が成功したのは奇跡なんです。
そう言ってエバは笑った。
「今“私”がいられるのは、ただの残滓。ほら、切れた電池を手のひらであたためると少しだけ動くでしょう? 笑っちゃいますね」
取り繕った笑みに自嘲がにじんだ。
「ですが大天才のエバちゃん諦めません、なら別の機構を作ればいい!」
エバは手を差し出した。
そこには、小指の先にも満たない小さな黒い板が乗っている。
黒雲母の一片のようだが、オブスクデイトには見覚えがあった。
かつてトゥーリで男たちの脳に組みこみ、その思考を操ったもの。
エバに「オブで実験してもいいですか?」と訊かれ、嫌だったので丁重に断った代物でもある。
「……自分に使ったのか」
「もちろん、これはエバちゃん専用品です! でも動かすためには問題がひとつ。繊細な魔力エネルギーを加える必要があって……だから“天才のエバちゃん”にお願いしました。沢山探検すること、すべて記すこと! ——ようやく見つかりました」
エバが取り出したのは、淡いライムグリーンに光る紙片だった。ずいぶんと古いようで、向こうが透けて見えるほど薄くなっている。
その端に、エバはそっとキスをした。
風に朽ちるように紙が崩れ落ちていく。
「この“手紙”が、このオカシな工場の正体です」
エバの瞳のなかにかすかにライムグリーンが灯ったが、水におちた火の粉のように消えていく。
感傷のない瞳で、エバは燃え盛る遊園地を見渡した。ふいごで風を吹きこまれたかのように、いっそう猛烈な炎が湧きおこる。
「だからここはもう保たないでしょうね」
「……それでお前は治ったのか?」
オブスクデイトの問いに、エバは煤けた肩をすくめた。
「ちっとも足りません。今だって“私”が消えていくのがわかります。だから……」
エバは何やら思案して口を噤んだ。
彼女はこの炎から逃げるために足を進めているわけではないようで、気づけば燃え盛る“オモチャの国”の最奥まで入っていた。
酸素は薄くなり、熱波を吸いこんだ肺が焦げるように熱い。
エバが何を考えているのかはわからないが、このまま避難しなければ知恵を取り戻すどころか命すら危うい。
オブスクデイトが制止の声かけをしようとした、そのときだった。
ゆらめく炎の向こうから、男の声が聞こえてきた。
「——エバチャン」
ハートルールーが立っていた。
ライムグリーンのシルクハットの上で、オモチャの汽車が『ポッポー!』と汽笛を鳴らす。
奇天烈な恰好の彼がいるだけで、炎がまるで色とりどりの電飾のように見えるのが不思議だった。
そんな彼を取り囲んで、無数のオモチャ達が「エバチャンだ!」「エバチャン!」「もこもこじゃないよ」「だってだってこんなに暑いんだもの!」と大騒ぎしている。
「エバチャンが探しているのはこれだろう?」
ハートルールーはジャケットのフロントに手をかけて、ゆっくりと胸を開いた。
そこはぽっかりと空洞になっていて、ライムグリーンの光を帯びたものがふわふわと浮かんでいた。
オブスクデイトの目には、古びた封筒のように見えた。
「それですっ!」
喜びいっぱいの声をあげ、エバはハートルールーへと駆けていく。
「……まず」
厳かに言って、ハートルールーはエバの肩をがっしりと掴んだ。
「え?」
ハートルールーは身をかがめ、鼻先がくっつくほどの距離で人工紫水晶目をギロギロ光らせた。
「ワルイコだ、ずいぶんイタズラをしてくれたね。見てご覧、みんなアチチになってしまったじゃないか!」
ハートルールーは両手を広げ、周りのオモチャたちを示した。
「見てよ、ぼくのカワイイお尻が!」
そう言ったのは、焦げたお尻をぷりぷりと振るテディベアのティティ。
「なぁ俺、ちゃんと強そうか? なぁなぁ?」
そう言ったのは、熱で先っぽが溶けてしまった銃剣を掲げるクルミ割り人形のナチュナチュ。
それぞれワイワイガヤガヤピョンピョンと、この火事騒ぎの被害をエバに訴えた。
「ワルイコにはお菓子は無しだ!」
「むー」
エバは不満たっぷりに唇を尖らせた。
「コラ、反省してないな! ワルイコはお尻ペンペンの刑だ!」
ハートルールーはさらに目をギロギロ光らせる。
それは取って食うぞと言わんばかりの迫力で、エバが年端もいかない子どもだったなら泣き出したに違いない。
ギロギロ、ギロギロ!
じっくりと脅したあと、ハートルールーはエバの肩から手を離した。
「でもいいよ、イタズラをするのはコドモのお仕事だからね」
「ですよねっ」
懲りないエバが元気に顔をあげるので、ハートルールーはまたギロッと目を光らせた。
「しゅん……」
エバは反省したように肩を小さくして、しくしく、と細い声を漏らした。
間違いなく嘘泣きだろう、とオブスクデイトは思った。
「イタズラ、夜更かし、たっぷりのお菓子——そして宝物探しの大冒険もコドモのお仕事だね」
ハートルールーはぽっかり空いた胸に手を伸ばすと、ライムグリーンの封筒に触れた。
応えるように、光はチカチカと明滅した。
「これはね、かつての主人が“ワタシ”を願った手紙なんだ。
——“おとうさん、おかあさん、イイコにするから、わたしと遊んでくれるお人形をください!”」
ハートルールーは、かつての日々を思い出すようにそっと目を閉じた。
「ワタシも、オモチャも、お菓子も、すべてコドモたちの祈りでできているんだ。そうして工場は動きだし、お菓子は甘く焼きあがる!」
「“祈り”の結晶で、工場を動かしていたんですね?」
エバの問いを、ハートルールーは否定しなかった。
「やっぱり!」
エバは指をパチンと鳴らした。
「“天才のエバちゃん”にはこの工場を隅から隅まで探検してもらいました。ようやく小さな欠片は見つかりました、でも大元がどこにあるのかちっともわかりません。それで、もしかしたらと思ったんです。移動してるんじゃないか……大当たり!」
エバの顔は、お宝を見つけた子どもの無邪気な喜びでキラキラと輝いている。
「君が何を望むのか、分かっているよ“大天才のエバちゃん”」
すべて承知している、といった様子でハートルールーは頷いた。
「なら、早く——」
焦れたエバはその胸に手を伸ばした。
彼女にしてみれば、今この瞬間にも“自分”で無くなってしまうかもしれないのだ。焦るのは当然のことだろう。
しかしハートルールーは伸びてくるエバの手をそっと取り、首を横にふったのだった。
「ううん、ダメだよエバチャン」
「どうして!」
エバの絶叫が響く。
もしオブスクデイトが十全であったなら、彼女は一欠片の躊躇も抱かず結晶を奪うようにと命じただろう。
しかし今のオブスクデイトは左腕を失い、傷口からの夥しい出血によって立っていられるのが不思議なほどだった。朝を待たずして死ぬだろう。
大剣は断たれた左腕と共に置き捨ててきた。ハートルールーと戦う術はない。
しかしこの交渉が決裂しエバが襲われることがあるのなら、逃げるあいだの盾程度にはなるだろうと思った。
「それは望みを叶えられずに崩れてしまったろう? なぜかわかるかい?」
ハートルールーは、崩れた紙片で煤汚れたエバの手を見た。
「……わかりません」
オモチャを取りあげられた子どものようにエバはうなだれる。
「もしキミが病気だったなら、きっと治してしまえたよ。動かない足も、お咳コンコンの胸もすっかり治ったんだ」
ハートルールーは特殊陶器の指でエバの頭をやさしく撫でた。
「でもね、エバチャンは病気なんかじゃない。魚が飛ばないように、鳥が泳がないように、キミはキミのままで、とってもステキなエバチャンなんだから」
彼女の向こうにいる『エバ』に語りかける声だった
エバは知らないところに迷いこんだ子どものように、肩をふるわせて立ち尽くしていた。
「それでも……」
幼気な声は『エバ』のものなのか、それとも『彼女』のものなのか、ひどく曖昧だった。
声は揺らぎ、曖昧なふたつの声はひとつに重なっていく。
「私は、すべてを知りたい」
その瞳に満ちるのは、どんな黄金よりも純粋でうつくしい、好奇心の光だった。
「……そう。とてもステキなお願いだね」
わかったよ、ワタシの愛するエバチャン。
ほほえんで、ハートルールーはエバの手にライムグリーンの封筒を握らせた。
そして祈るようにエバの額にキスをする。
「それでもエバチャンたちの願いをすべて叶えることはできない。使える力は半分きりだ」
「どうして……?」
「ワタシたちは“天才のエバチャン”のことも心から愛している。だから半分だけ。どうか許してほしい」
「……そうですか」
エバはそっと俯き、やがて顔をパッと跳ねあげた。
「最高です!」
エバはハートルールーの首に飛びついて、その頬にキスをした。
血が通っていないはずの特殊陶器の頬が、まるで紅をさしたようにぽっと赤らんだ。
「エ、エバチャン!」
「あなたに会えてよかった、大好きですハートルールー!」
もうひとつ頬にキスをして、エバは軽やかにハートルールーから降りた。封筒を手に、オブスクデイトを振りかえる。
「さぁ、探検はおしまいです。行きますよ!」
——しかし。
キラキラと輝くエバの視線の先で、オブスクデイトは崩れ落ちていった。
膝をついたオブスクデイトに、エバはきょとんと目を丸くする。
「オブ?」
「……行け」
エバを睨みつける目にすら、もう上手く力がこもらなかった。
話すあいだにも周囲の火は燃え広がり、その勢いを増している。
ハートルールーの手紙がエバに渡ったことで、工場は火に抵抗する力を失ったのだろう。
エバの喜びようにつられてピョンピョンとスキップをしていたオモチャたちも、大慌てをはじめた。
「エバチャン!」
「はやく逃げなきゃエバチャン!」
「押さない駆けないしゃべらない、オ・カ・シだよっ」
「押さない燃えないチャーミング、オ・モ・チャだよっ」
オモチャたちに急かされながらも、エバは縋るように振りむいた。
「ね、ね、ハートルールー」
しかしハートルールーはゆっくりと首を横に振り、氷のように冷えた声音をつくった。
「無駄だよエバチャン、このオトナの望みは墓碑になることだ。死! あぁ、この世で最も醜く、愚かな望み!」
冷たい誹謗を浴びながら、オブスクデイトは目を眇める。
エバの知能が完全には戻らなかったということは、“天才のエバ”もこれから多くの時間を過ごしていくことになるのだろう。
子どものような彼女が、誰の庇護も受けずに好奇心のまま進んでいくことは難しい。
“天才のエバ”にオブスクデイトが必要であることは間違いないが、それでも天秤は『命』に傾く。
エバは適切な判断を下し、自分をここに置いて避難するだろう。
しかしオブスクデイトの予想に反して、エバはその場から動かなかった。
地上から烈々と立ち昇る猛火は天井へと至り、爛れくずれた灰がぞろぞろと落ちてくる。そこに醜く歪んだ亀裂が入った。
天井が落ちるまであとわずか。
あの質量ではエバではどうあっても助からない、即死だ。
「……逃げろ」
呻いたオブスクデイトの前に「よいしょ」とエバは膝を折った。
こんなときに何かと思えば、小馬鹿にするような表情で見おろしてくる。
「もう、おバカさんのオブは忘れちゃったみたいですね」
エバはライムグリーンに光る手をオブスクデイトへと伸ばした。
地面に突いた男の右手を、理不尽なほどの強引さで引っぱりあげる。触れあったところがまるで命そのもののように熱い。
そして悪魔はうつくしい金の瞳で嗤った。
「——さぁ、私を助けて?」
天井は崩落し、あたりに断末魔のごとき轟音が響いた。
*
ハートルールーのオモチャ工場は、黒い草木が茂る平原に囲まれていた。
そこからさほど行かないところには小高い丘があり、頂上でブルルとアルブが嘶いた。
エバはその背中から身を乗り出し「あらら」と声をあげる。
「ぜーんぶ燃えちゃいましたね」
アリの巣に水を注いだ程度の軽さだった。
彼女の目下には、余燼に赤くくすぶるオモチャ工場が見えていた。夜闇によって細部までは見通せないが、すべてが燃え尽きていることは明らかだ。
彼女の傍らでニグラの手綱を握るオブスクデイトは、オモチャたちの夢の残骸に低い声を漏らした。
「……そうだな」
この燃えようではロロワとラディリナ、それにモーダリオンとテグリアも生きのびているのか怪しいところだ。
特に気に病むわけでもなかったが、喜びの感情もまた、なかった。
「残念です! もっともっと知りたいことがあったのに!」
オブスクデイトの感傷など知るよしもなく、エバはアルブの上でバタバタと暴れている。アルブはちょっと嫌そうな顔をしたが、噛もうとはしなかった。
「お菓子の国が燃えているのが見られなくて残念ですね。あちらの紙片は回収できなくて……そうしたらどんな燃え進み方をするのか、ぐすん、知りたかった……」
「……そうか」
オブスクデイトは眉間に深い皺を寄せた。
ただそれが今日だっただけで、いずれオモチャ工場はエバの手に落ちる運命だったのだろう。
世界はエバに暴かれる。
箍の外れた好奇心によって剥かれ、腑分けされ、引きずりだされた腹わたで智慧は綴じられる。
しかしその好奇心が世界を燃やし尽くすとしても、男は構わなかった。
彼女はこの手を取ったのだから。
「眠くなってきちゃいました……」
エバは馬上で両手をあげ、ふぁーあ、と大きなあくびを放った。
「じゃあオブ、天才のエバちゃんをよろしくお願いしますね。ではまた♡」
アルブの背中のうえで、エバは両腕を枕にして眠りについていった。
時間はさして過ぎなかっただろう。
「むにゃむにゃ……」
寝ぼけた声をあげ、エバが身じろぎをした。
そのままバランスを崩して転げて落ちていくので、あわててオブスクデイトは白衣の襟をつかんだ。
馬上でちゅうぶらりんになったエバは、見知らぬ隻腕の男に目を瞬かせた。
「……おじさん、だぁれ?」
思いがけない問いかけに、男はわずかに逡巡した。
「……俺は——」
11年の時を、男は旧友の墓碑として時間をすごしてきた。それが生きる意味であり、死ぬ意味だった。
しかし男は唇を開く。
出たのは、生まれてこのかた言ったことがないような気障ったらしい台詞で、むず痒さに苦笑いがこみあげてくる。
しかし一度言った言葉を取り消すことなど、できなかった。
エバは少しだけきょとんとしたが、やがて笑顔の花を咲かせ、オブスクデイトに飛びついた。