ソルレアロンは瞑想のまどろみから醒めると、椅子から身を起こした。
近習たちの間に驚きがさざなみのように広がっていく。大賢者とはこの寺院に座して不動の存在だからだ。
天道の大賢者ソルレアロンは、この国の名だたる賢者がそうであったように巨人である。
その歩みにも物腰からも溢れんばかりの理性の輝きが漂う。
優雅にしかし常人には追いつけぬ速さで去る大賢者に、近習の賢者たちは文字通り必死に付き従った。
あってはならないことだが、つい先日、このサンクガード寺院には盗っ人らしき賊が侵入する騒ぎが起きている。しかも犯人はまだ捕まっていないのだ。ケテルサンクチュアリのみならず世界から尊崇を集める大賢者の身に、万が一のことがあってはならない。近習たちは連日気が休まる時もない日々を過ごしていた。
「Chronojet」
ソルレアロンは賢者棟の奥院にある＜始まりの間＞で足を止めると、秘密の名を唱えた。
息が詰まるような静寂。
だが、大賢者の表情は微動だにしない。
停滞はほんの数秒だったであろうか。結局、（かつてヴァーテブラ森の予言者が唱えた時のように）この寺院の最奥に突如異界からのものが出現することはなかった。続けて、大賢者は手にした杖で突き当たりの壁に複雑な紋様を描いた。いかなる仕掛けか杖の軌跡は青白く輝いて残り、ややあって消える。
この＜始まりの間＞の存在を知る者は彼を除けばほとんどいない。悠久の歴史を誇るサンクガード寺院でも最も古いものの一つで、並みの賢者や魔女にとってはこの一画に立ち入ることすら畏れ多い行為である。
キィ……。
何もない壁からありえない音が聞こえた。金属がきしむ音だ。
遠巻きにこの出来事を見ていた近習たちは驚愕して顔を見合わせる。この壁が何らかの反応をしめすことなどこの数千年、いやそれは万あるいは億の桁かもしれないが、ともかくいかなる伝承にも残されていない奇跡である。
「以後、この部屋に」
大賢者の声は低かったが、その一音一音に秘められた偉大な力ゆえに誰一人聞き漏らすことはなかった。
「何人も立ち入ることなかれ。これより常に監視をおき、どのような動きも漏らさず報告するように」
近習はいずれも低頭して拝命した。
「鳳凰……私の小鳥。夢の告げる通り、あやまたず辿り着いておくれ」
ソルレアロンが壁に投げかけた呟きは、しかし今度は誰も耳にも届くことは無かった。
Illust:kaworu 最初、“幼き未来”を抱いたクロノジェットは時の河に乗って“その先”へと跳んだ。天輪聖紀つまりシベールにとっての現在である。
クロノジェット・ドラゴンたち12人はギアビースト──ギアクロニクルを構成する一種族──でありながら、十二支刻獣の名を帯びる時の戦士である。ギアクロニクルはその成り立ちから「時空の歪みを修復すること」を生業としている。時と空の複雑にして繊細な構造を知る彼らギアクロニクルには、ひとつの行動規範がある。それは……。
歴史に介入しないこと。歪める側にならないことだ。
シベールは、先に被弾した時にクロノジェットが図らずも解放した知識の一端を垣間見ていた。
時を大河と見るならばギアクロニクルは、逆流し氾濫しかねない歪みを正し、本来の流れに戻すことに命と自身の存在を賭けている。
クロノジェットたちは時の外に身を置いて、（意図せずに正しい歴史の流れに向かうよう）世界を正しているからこそ時の護り手であり得るのだ。仮に自分を呼ぶ声に応え、どこかの時間軸いずれかの場所に焦点が合った時、それは実体化・実在化して意識的な介入となってしまい、自分自身が“時間”の歪みともなりかねない。ギアクロニクルは文字通り、超然としてただそこに有るからこそギアクロニクルたり得るのである。
（そうか。だから安易に名を呼ぶことを禁じられていたんだ）
シベールである思念は自分に課せられていた戒律に、初めて深く得心がいった。
賢者とは観る者。時と空の制限から離れられた時、初めてこの世界を正しく認識することができる。
それは彼女シベールを予言者として育ててくれた人物の言葉でもあった。
惑星に降り注ぐ流星雨の中、十二支刻獣とそれに追いすがる“翼あるもの”の交戦は短いが、激しいものだった。故にこの一瞬、科学や魔法や遠見に秀でた観測者がたまたま流星雨を見上げていたならば、彼らの戦いを惑星軌道上に吹き荒れる“嵐”として感知し得たかも知れない。
「ここは我らが！先へ！」
跳べと、クロノボレー・ラビット、クロノタイマー・レグホン、クロノドーズ・シープが叫んだ。
彼らは戦士である。勝算のない無謀な交戦などしない。偶然だが、この3人は特に足が速いメンバーである。
いざとなれば逃げて逃げて逃げまくれ！クロノジェットは号令を飛ばした。
頷く戦士たちを見つめながら、再びクロノジェットと8人の戦士は跳んだ。
Illust:モレシャン 銀河英勇ボールド・サロスは困惑している。
転送ビームのきらめきと共に、荒寥とした大地の上に出現した5人と1頭。
その組み合わせがあまりにも異様だからだ。
ここはブラント月──かつては世界を脅かす脅威となった遊星ブラントが神格と融合し、惑星クレイ第2の月となった衛星──、その表面である。
大気は薄く、重力も弱い。
もともとはリンクジョーカーの母星として、彼らの生態に合った環境だったために、惑星クレイの地上生物のほとんどは装備無しではものの数分も生き長らえることはできない。
ちなみに今、この衛星表面の一画は四輪車に乗った幼児、銀河英勇ピュアリィ・アグノが展開するバリアによって、空気も圧力も重力さえもクレイと変わらないものに調節されている。
『ブランド月へようこそ』ピュアリィ・アグノの思念が全員に伝わった。
「協力、感謝する」と封焔の巫女バヴサーガラ。
「……」
ディアブロス “暴虐”ブルースとその後ろに控えるリペルドマリス・ドラゴンは無言である。
「それにしても転送された先がブラント月とはね。僕らだけでは絶対に不可能なことだ」
と絶望の精霊トリクムーン。結果としてブルースを代弁することになっている。
「希望の峰から我らのA.E.G.I.S. 基地へ。そしてA.E.G.I.S. からブラント月への転送。しかも……」
サロスは赤い戦闘服の腕を組んだ。
仕事には謹厳実直で知られる彼でさえも、気になる点の多い任務だったのだ。
「今回は人員・時間・地点には厳密な指定があった。大袈裟ではなく秒単位、ミリ単位での」
『そして君はちゃんと守ってくれたね、サロス』と幼きアグノ。
「魔術も強大なものほどそうした正確さを求められる。意外に思われるかもしれぬが」とバヴサーガラ。
「だが銀河英勇の瞬間転送は、いつもこれほど簡単に使わせてくれるのか」
トリクムーンはまたも一同の疑問を代弁した。
「言いづらいことだが……」
『部外者の場合、かかる費用も手続きも大変なものなんだよ。依頼は魔宝竜ドラジュエルドとケテルサンクチュアリの上位オラクルグループから。時空的地点の割り出しはグレートネイチャー総合大学。資金はブリッツCEOの呼びかけで各国から出てる』
アグノはにこにこ笑いながら、幼児の外見からは耳を疑うような事情通ぶりを思念で伝えてきた。
「私もヴェルストラと我が国の財界人からの依頼を受けたのだ。介添人として是非にとな」
バヴサーガラはブルースの無言の問い（お前はドラゴンエンパイア代表として来たのか？）に答えた。ちなみに《世界の選択》以降、バヴサーガラが陰に日向に続けている惑星クレイ世界安定への献身的な貢献を認めドラゴンエンパイア国籍を与えたのは竜皇帝その人であり──ブルース同様、同盟者となればこれほど頼もしい人物もいない──、一方のブリッツCEOヴェルストラは封焔と天輪の巫女の熱烈なファンとしても知られている。
「各国総出の超国家プロジェクトか」とトリクムーンが肩をすくめる。
『その石碑が関わることになると国の壁はあまり高くないみたい。ことは神格のお告げについてだから』
アグノは、四輪車に座った幼児とは思えない大人びた世界情勢の解説をする。
その思念に促されるように一同の視線は、目の前のモニュメントへと注がれた。
メサイアの碑文。
見かけは、大地に埋め込まれた石版である。
だがこの銘文を記したのが（今はこのブラント月と一体化として眠る）神格メサイアであり、またその内容がはるか未来への希望と警告を刻まれた預言であると知れば、ただの月面の遺跡と見ることはできなくなる。
無神紀から周囲と地下の調査が行われ、天輪聖紀の今はこの一画は屋根の無い神殿のような造りとなっている（これはもちろん数十万kmもはるばる宇宙の旅をして参拝に来る者たちのためだ）。
「それで、悪魔の宅配便としては」
今まで沈黙していたブルースが口を開いた。トリクムーンがちらりと悪魔を顧みる。互いに無表情なので両者が交わした視線が苦笑なのか微笑なのかは判らない。
「ここが終着地とするならば、誰に渡せばいいのか」
少しの間、沈黙があった。
「すべての事は時と空のはじまりから定められている。特に今からここで起こる出来事は、他にも大きく影響するとケテルのオラクルたちは予言している」とバヴサーガラ。
『ここには必要な時、必要な場所に、必要なものがそろっている』とピュアリィ・アグノ。
「では、ここからはキミの思うとおりにするといい。友よ」とトリクムーン。
ブルースは頷いて、碑文が祭られる神殿へ繋がる長い道と歩みを進めた。
運命力の塊である虹の魔石をかざしながら。
“幼き未来”を抱えたクロノジェットは今度は遡行へと移り、天輪聖紀から“N-C境界”（予言者や学者はすべての記録が消滅しさしものギアクロニクルでさえ着地不可能となる、無神紀の終わりから天輪聖紀の始まりまでの時空断絶をこう呼んでいる）を一気に超えた。
無神紀。惑星クレイにとって停滞の時代である。
夜の面の上で行われる戦いの中、シベールはクレイの地上の灯が天輪聖紀よりもはるかに暗いことに気がついた。むろんこの時代にシベールはまだ生を受けてはいない。だが修業時代、瞑想と幻視の中で過去を観たことはある。先の《世界の選択》でも猛威を振るった“絶望”はこの無神紀の闇の中、地上に生きる者すべての不安の中に育まれたのだとシベールは知った。
また、ここでも十二支刻獣はその人数を分かつことになる。
クロノビート・バッファロー、クロノスピン・サーペント、クロノクロウ・モンキー。
いずれも軍団の中堅を張るメンバーである。
クロノジェットは4獣合身したバッファローの右脚を叩いて見せた。お前たちはオレと一体だ。死ぬなよ。
そしてクロノジェットたちはまた時の大河に飛び込んだ。
ここで、十二支刻獣と指揮官クロノジェットは歴戦の勇士らしい戦法を見せる。
シベールはここまでの時の跳躍を（予言者として学んだ歴史の知識から）、起点を聖竜紀の終わり【クレイ歴2100年代初め】として→次に未来に天輪聖紀【クレイ歴5000年代初め】→大きく過去へ無神紀【地上に降りたわけではないので判らないが後期にあたるクレイ歴4000年代か？】と認識していた。
これは追う敵“翼あるもの”も──虚無の先兵が時間の位相を感じられる存在ならば──同じはずである。過去→未来→過去と。追われる獲物の行動を予測すれば、次は未来へと振り切るのが自然だ。
その前提として、時の大河は地上の水の流れ同様、未来には流れに身を任せても辿り着くが、過去は逆らって這い上がる大変なエネルギー消費を伴うこと、そしてこれはギアクロニクルであっても例外では無いことを理解する必要がある。
だが、クロノジェット・ドラゴンはここであえてパワーが要る遡行、すなわちさらなる過去へ跳躍を挑んだ。
“幼き未来”を左腕にクロノジェットと残り5人は惑星クレイを見下ろしながら、一息ついていた。
時は無神紀の中期くらいらしい。クレイ歴3000年くらいということになる。
クロノチャージ・ユニコーン、クロノエトス・ジャッカル、クロノダッシュ・ペッカリー、クロノセラピー・ハムスター、そしてクロノファング・タイガー。
「どうやら捲いたかな」とタイガー。
「いいや」「いいえ」
クロノジェットとシベールの返答が重なった。もちろん後者は誰にも聞こえるはずもないものだったが。
「やつらの混乱は一時的なものだろう」
「このまま逃げ続けられるのか」とタイガー。
「いいや。どこにいても追ってくる。この“幼き未来”の正体を知れば、まして逃しはしないだろうよ」
「では……」
「ここからは単独行動にさせてもらう」
タイガーと4人の十二支刻獣は一斉に声をあげた。無謀だと。最後の一人になるまで、どこまでも一緒だと。
「いまから説明する。オレにいい考えがある。任せろ」
仲間にクロノジェットはニヤリと不敵に笑ってみせた。
悪魔ブルースは屋根の無い神殿の門をくぐった。
門といっても境界を示す石が重ねられたものだが、その質素な構造とここに祭られているものの偉大さは何ら関係が無い。
なお、この悪魔の分のバリアはもちろん幼きアグノが一人分を確保して空気や圧力、重力から護っている。
これはただの渡し物。
だが、これほどの手間と時機を窺うということは、届け先は容易に出会えない物か人であるはず。
そしてそれを運ぶのは、虹の魔竜以外としては異例なほど魔石と長く共にあった己、他の誰でもなくこの悪魔ブルースでなくてはいけないのだろう。
「……」
ブルースは石版の前まで進むと、祭壇に虹の魔石を置いた。
その瞬間、神殿が震えた。
薄い大気ではあり得ない振動。いやそれは魔石が引き起こした何かではなく、巨大な質量が実体化する前触れのようだった。
仁王立ちするブルースの前に、銀色の巨人が神殿に出現した。
“これは虹の魔石か”
「そうだ」とブルースは手を差し伸べた。
“石版が我を呼び、異界からこの時この場所この位相へと導かれた。神告改訂の刻、魔石を捧げよと。そして今ここにお前がいる”
「俺はただの運び手にすぎない。が、どうやら今回の仕事はこれで終わりらしい」
“では礼を言わせてもらおう。我が名はオルフィスト。柩機の主神オルフィスト・レギス”
「俺はディアブロス “暴虐”ブルース」
オルフィストは巨大な手でブルースから魔石を受け取ると、メサイアの碑文にかざした。
宇宙的なエネルギーが神殿に収束してゆく。それは湧き上がる光とそして奇妙な振動だ。
“異常だ……何かが反応している。ブルース、この後に解放されるエネルギーは恐らく時空をも超える規模となるであろう。何が起こるかはわからないが。もう外したほうがよい”
とオルフィスト。ブルースは逆らうこと無く身を翻すと仲間の元に駆けた。ブルースはギャロウズボールの王者、走ることは本能である。このあとの爆発を予感させるエネルギーの収束から走り去り、駆け抜けるのに一瞬の迷いも停滞も無い。
「事なれり」と駆けてくるブルースを見つめながら、バヴサーガラは呟いた。
「この悪魔の届け物には何の意味があったのか」トリクムーンの疑問もまた独り言のようだった。
「さてな。史上最強クラスの虹の魔石の力、その解放は例えば新たなる神格の覚醒さえ促すかもしれぬ。それがこのブラント月の上で行われたことに恐らく深い意味があるのだろう。宇宙的な規模の儀式とはそんなものだ」
「それはこれから起こる事では無く、過去のことかもしれないということか」とトリクムーン。
ブルースは一行に合流した。彼方に聳える神殿のエネルギー収束は限界を迎えているようだった。
『そう。全てこれでよし。帰ろう』
ピュアリィ・アグノは赤い戦闘服のサロスとリペルドマリス・ドラゴンに頷いて見せると、四輪車のコンソールから帰還のコマンドを入力する。転送ビームのきらめきが5人と1頭の姿を消し去る瞬間、幼きアグノの言葉がブラント月の薄い大気を震わせた。
『さよなら。そしてお帰りなさい、……』
──ケテルサンクチュアリ。地上の都セイクリッド・アルビオン。
AFG商会貨客飛行船は天上騎士団にエスコートされて急降下し、サンクガード寺院の前庭にほとんど減速せずに着地した。
「ホラ、行きなさい」「がんばれ～！♡」「後のことは任せて」
3人の戦う修道女の声援を背にアバン、ガデイ、フィリネは門前での拝礼もそこそこに、このケテルサンクチュアリ最古の寺院へと駆け入った。
「こちらです。急いで！」
そんな子供たちをたしなめることもなく秘書官が廊下を案内する。
途中、巨人が座す大きな部屋（言うまでもなくここは瞑想の間である）を通り過ぎようとしたとき、秘書官は非礼を詫びるように走りながら低頭して顔を背け、三人も頬杖をついて微笑む男性にぎこちなく頭を下げた。その慈愛に満ちた笑みも後光のように全身を照らす知性の輝きも、世界に名高き天道の大賢者ソルレアロンは生きていながらまるで彫像のようである。
「こちらです。1時間前から反応があって」と秘書官。
息をきらした3人は顔を見合わせる。
「ここが奥院」とアバン。
「あいつらが忍び込もうとしたのが、ここ？」とガデイ。
「そう、ここだと思う」とフィリネ。
“必ず探してね、ボクを”
フィリネはその言葉だけを支えに、消えたシベールのことを思い続けてきたのだ。
──数時間前。
ケテルサンクチュアリへと向かう飛行船の中。厳罰の騎士ゲイドの大剣グンデストルップの力の前に、シベール誘拐未遂の黒幕、商人3人はあっさりとすべて自白した。
“司祭”を名乗る人物からの指示を受け、ヴァーテブラ森の予言者を掠うこと。
そしてケテルの地上の都、サンクガード寺院の一室まで連れて行き、その壁の前で亡き者とすること。
そうすれば《新しい世界にとって望ましくないもの》の目覚めを妨げることができるのだと。
「望ましくないものだと？」とドゥーフ。
「友よ。悪人は常にもっともらしく真逆のことを言うものだ」とゲイド。
さっすがゲイド兄ちゃんとガデイは横でうんうん頷いていた。
「つまり世界にとって望ましいものが、シベールの存在によって目覚めると」アバンは感慨深げ呟いた。
「亡き者にするってどういう事ですか！あなたたち最低よ！」
フィリネは激怒した。それは大人である商人を震え上がらせるほどだ。
「い、いや……ただ殺しても意味はないと」
「奥の院にあるものは、とても意味のあるもの……」
「いやそうじゃない。意味のある地点なのだと……言っておられました。必要な時、必要な場所に、必要なものをそろえなければ現れないと。これは現在・過去・未来に渡って連動する宇宙的な秘儀なのだとも……こ、これで全部です、本当です！」
お願いですから呪わないでと怯える大人たちは今、ゲイドの魔剣の力ではなく、11歳の女子の気迫に負けたのだ。加えて商人は職業柄、フィリネの指にいまや燦然と輝いて見える指輪の意味も知っていた。やはり魔女は怒らせて良いものではないのだ。
「だがこれではまだ糸口にもならぬ」とゲイド。
「つまり必要な時、必要な場所に、必要なものがそろえばいいんだ」と修道女あまれってぃ。
「それって繰り返してるだけでしょ。でも案外、それが答えそのものなのかも♡」と修道女かっさてっら。
「シベールはその扉と、そしてあななたちに紐付いている。たぶんね」修道女すぷもーね。
「フィリネ。どうするかは君が決めろ」とドゥーフ。
「寺院へ。万分の一でも可能性があれば、シベールに会うためならなんでもします」
とフィリネ。大人たちは微笑み、彼女の友アバンとガデイは力強く頷いた。
そして一同が今後の方針を決めた折も折、ゲイドが持つ水晶玉にサンクガード寺院から緊急連絡が入ったのである。
場所と時は再び現在のサンクガード寺院奥院に戻る。
「シベールはこの寺院で育った。私にとっては我が子同然なのだよ」
後ろからかかった深みのある声にアバン、ガデイ、フィリネは思わず飛び上がった。
「誰より優秀で、幼くしてドラゴンエンパイアのヴァーテブラ森に引き取られた。それは偉大な予言者になるための修行の一環でもある」
巨人の大賢者は奥院の床に膝を折って、子供たちに対していた。その姿に秘書官が跪いている。
「ようこそ、アバン、ガデイ、フィリネ。ケテルサンクチュアリの子供たち」
3人は今度こそ揃って、ぴょこんと正しく低頭して礼をした。
「その扉が見えるね？」
3人は振り返って驚愕した。見れば不思議な紋様が浮き出た壁に、いつの間にか“扉”が出現している。
「これは……」とフィリネ。
「定められたすべての条件が揃った時にのみ現れる。この寺院の謎の一つだよ」
「魔法ですね」「すっげぇ！」とアバンとガデイ。
「まぁ私としては本当に素直な子供にしか見えない魔法の扉、というお伽話の方を信じたいがね」
大賢者は微笑んだ。知性と理性の頂点を極めると、人は威風堂々でありながら優しくもなれるものらしい。
「シベールとその扉との縁は、彼女が予言者として最初の儀式の時だ。この奥院には他にも多くの扉がある。大きなもの小さいもの、古いもの新しいもの。そのいずれにも神秘が隠されている」
フィリネは神秘の扉と聞いて、北方の地下──今は入り口が閉ざされているはずの──死せる修道僧の庵を思い出した。ここで大賢者の瞳が自分をじっと見つめているのに気づき、次の言葉に思わず赤面してしまう。
「誰にも自らの内に秘める事がある。小さな出来事からこの惑星を揺るがす真実まで様々に」
「賢者様。それでシベールはこの扉でどうかしたんですか～？」
ガデイは大賢者相手でも自分のペースを変えない。大賢者様だよ！と慌てて訂正するアバンにソルレアロンはまた微笑んだ。
「そう。シベールが初めて向かい合った時、その扉が動いたのだ。そして彼女はその中を覗き、紋様を描き入れた。自分が将来帯びるであろう2つの名、夢に見るであろう導きの獣を。生涯最初の啓示を受けてね」
3人が振り向くと言葉通り、扉にまた別の輝く複雑な筋が浮かび上がっていた。この世界で唯一、大賢者にソルレアロンにだけはそれが古代文字で“ヴァーテブラ森最後の予言者 鳳凰の賢者シベール”と記してあるのが解っていた。
「その鉄筆で」
フィリネはハッとして腰に下げていたものに手を当てた。シベールが消えて以来、形見として肌身離さず持ち歩いていたのだ。偶然持っていたと思えるこれさえも大賢者のいう儀式の条件なのか。
「これで必要な時、必要な場所に、必要なものがそろった」
3人は顔を見合わせた。大賢者が重々しくしかし優しく告げた。
「間もなくだ。備えて、子供たち」
ただ一人、“幼き未来”を携えた4獣合身クロノジェットの時の遡行は、そろそろ限界点を迎えていた。
5人の十二支刻獣の説得には少し時間がかかったものの、彼らは無神紀の中期から跳躍を繰り返し、後に残されていた他の十二支刻獣と合流してランデブー地点で待機することになっている。
シベールは時を数えることも忘れるほどだったが、時の旅人クロノジェット・ドラゴンの感覚が、“現在”がどのあたりかを示してくれていた。
時は弐神紀中期、なんと35億年前もの太古の昔である。
はるか上空から見下ろす地形も──当然、ギーゼ＝エンド湾や魔竜につけられた各地の傷跡による変化もまだ無い──古代の地図に見られる通りの大陸や島々である。
（でも、追っ手はいずれ追いつくだろう。遅かれ速かれ）
クロノジェットが言っていた秘策とは何か。シベールはここに達する前に、5人の十二支刻獣に言い聞かせたクロノジェットの言葉を思い出していた。
「惑星を揺るがす力の解放が行われる。それは“歴史”上の出来事だが、封印されるものが何かを知っていればなぜオレがここを選ぶか、わかるはずだ」
（そうか！）
シベールは惑星クレイ史の授業を思い出した。この時、サンクチュアリ地方に1人の若き騎士がいた。名をフィデスという。そしてこの時代に彼が成した偉業──このあと起こる事──がある。それは“翼あるもの”と同じ性質に属する神格に関わることだった……。
（破壊神ギーゼの封印だ！）
だがシベールの叫びはクロノジェットには伝わらない。
「オレの力では、今はここまでが時間遡行の限界だ。限界いっぱいに時の大河に逆らっている」
（もし追いつかれたら……）
「そこでだ。オレはそこで時間がほぼ停止した空にいて敵を待つ」
（それじゃ見つかるでしょ、簡単に）
互いの言葉が聞こえないはずなのに、シベールとクロノジェットは不思議と会話が成立していた。もしかすると運命が結びつける同士とはそういうものなのかもしれない。
「ヤツらにわざと見つけさせる。するとあの“翼あるもの”は……」
（殺到するでしょうね）
「殺到するだろうよ」
（危険すぎ。でもいいアイデアね）
ここでシベールは回想から覚めた。
「言っていればさっそくお出ましだ」
クロノジェットは前方のはるか先を指した。
惑星クレイの軌道上、見渡すかぎりの空間が“翼あるもの”で溢れかえらんばかりである。
「さぁ、おまえと突っ込むぜ。覚悟はいいか」とクロノジェット。
語りかけた先は輝く“幼き未来”だ。この光の塊が何なのかは、クロノジェットの思考が読める今のシベールでもとうとうわからなかった。ひょっとするとクロノジェットも「守らなければならないもの」という以外詳しくは知らないのかもしれない。最高の守秘とは知らないことだから。
「……いくぞ！」
クロノジェットは渾身の跳躍を見せた。
時間はまた逆行を始めていた。衝撃波で破壊された大陸がみるみる復元してゆく。
クロノジェットは地上へと急降下した。
雲霞のごとく殺到する“翼あるもの”を後ろに引き連れて。
もうほんのわずかで追いつかれると思われたその時、時間が順行となり……
──!!
破壊の竜神ギーゼと聖剣フィデスの激突は、”翼あるもの”を巻き込み、世界をゆるがすほどの爆発を引き起こした。
──天輪聖紀。サンクガード寺院、奥院。
寺院が音も無く揺れ動いた。
大賢者の警告がなかったら地震かと思ったであろう激しい揺れにも、3人の少年少女たちは動じなかった。
扉に向かって正面にフィリネ。右にガデイ。左にアバン。
思えば出会ってからはいつも両脇をこの友達が守り、支えてくれていた。フィリネの胸が温かくなった。
……これから何が起こるにしても、もう何も恐れるものはない。
──ギーゼ封印。そして“翼あるもの”を撃破して数ミリ秒後。
シベールは突然、別れの時が来たのを悟った。
魂が未来に引き寄せられるのを感じる。はるかな過去、限界まで引き絞られた弓のように歪んだ時間から、本来自分が属する時と空へと矢のように解き放たれる、それは自然の摂理なのだ。
（さよなら、クロノジェット・ドラゴン）
十二支刻獣を率いる指揮官は、聞こえていないはずの別れの言葉に、不意に杖を掲げて答えた。いや、クロノジェットは宇宙に向けて、無事を感謝する礼をしたのかもしれない。偶然か？シベールは偶然でも良かった。
やっぱりクロノジェットはお伽話で聞いていた通りの古の英雄だったからだ。
（また会えたら嬉しいな。時と空の彼方。あるいはボクの夢の中で……）
シベールの魂は穏やかに微笑んで、時間の奔流に身を委ねた。
幻視だけの存在であるはずのシベールの手から、《時の宝具》がするりと離れる感覚があった。だがシベールに動揺はない。この感覚には覚えがあったからだ。
懐かしい記憶、そしてつい最近、友達と共有した時間。そこで得られたもの。宝具はその象徴だった。アバン、ガデイ、フィリネが運んだ光の宝具が秘密が眠る《死せる修道僧の庵》に戻されたように。得たときと同じく宝具との別れもまた自然なもの、全てはこうなる運命だったのだ。
そう。これはいつか見た光景。かつて扉の向こうに見たものが正しいとするならば、これから行く先もまた彼女には自明のものだった。彼女シベールはヴァーテブラ森最後の予言者なのだから。
──ふたたび天輪聖紀。サンクガード寺院、奥院。
「今がその時だ。子供たち」
大賢者ソルレアロンの声を聞いた瞬間、3人は太古から封じられてきた扉が大きく開かれるのを見た。
扉の向こうは宇宙、その彼方から急速で近づくものある。
「シベール！」フィリネが叫んで手を差し伸べた。
「シベール！」アバンも友に呼びかける。
「シベール！」ガデイもまた。
少女シベールは扉をこえて飛び込んだ。3人の友の腕の中に。
「冷たい！」「待って、たぶん短時間宇宙に曝されていたんだと思う」「おい大丈夫かよ、意識は!?」
シベール！シベール！少年少女が叫ぶ中、胎児のように丸まっていたヴァーテブラ森の予言者は目を開けた。
「うるさいなぁ、もう少し眠らせてよ」
そのセリフとは裏腹に、瞳を潤ませた少女シベールは3人の手をまとめて握るとこう言った。
「銀髪アバン、黒髪ガデイ、魔女フィリネ。ボクの大事な友達……大好きだよ、みんな」
フィリネはわっと泣き出した。アバンは二人の肩を抱き、ガデイがその肩をつかむ。
4人はひと目もはばからず、いつまでも泣いていた。
天道の大賢者ソルレアロンは静かに立ち上がると、秘書官に後を任せ、瞑想の間へと歩み出した。
大賢者が知っていることが4つある。
ひとつは幼い日にシベールがこの扉の向こうに今の自分の姿を見ていた過去。もう一つはこの扉が古代に《邂逅の門》と呼ばれていた歴史。さらにその扉の向こうが既にただの石壁に戻ってしまっている不思議。
そして最後に……大いなる時を超えてもなお、互いを探し求めた4人の友情は永遠のものであるという現在。もっともこれは、満足げな笑みを浮かべて子供たちを顧みる彼の大賢者ではなくてもわかることだったけれど。
──ギーゼ消滅から100年ほど前の時間。まだ赤黒きブラント月の表面。
4獣合身の型でその側に降り立ったクロノジェットの背後に、12人のギアビーストたちが続いていた。
合流できた安堵、互いを支え合う信頼。ブラント月の表面にやっと平穏な時間が戻ってきた。
クロノジェットさえも長く続いた緊張を緩めた。
……その時。
ギアクロニクルの戦士たちの背後で、まだかすかに悪意の力を完全には失っていなかった凶敵の影が立ち上がったことに、まだ誰も気がついていなかった。
その敵の名は、根絶者。
惑星クレイの生きとし生けるものを滅ぼすべく戦い続けてきた凶敵、宇宙的な“悪意”の巨魁、その最後の残滓である。
根絶。
いまクロノジェットの背後に立ち上がった影と“翼あるもの”は同じものだ。それらの正体はいずれも根絶者の眷属と呼んでも良いだろう。虚無の先兵である彼らは（この宇宙から一時破壊、撤退したように見えたとしても）本質的に不滅であり、その力は異次元に属するものであるが故に何者をも──ギアクロニクルであるクロノジェットでさえも──抗しがたい破壊力をもつ。
即ち、次この一撃で、すべての希望は潰える。
やはり大いなる虚無の前にはどのような挑みも無に帰すものなのか。
──だが、
最後の根絶者よりも速く、それは天から降り来たった。
それは小石のようだった。ほんの小さな。
だがそれは、未来からの大いなる祈りを込めた贈り物、天輪聖紀における最大級の運命力の塊だ。
!!!
”幼き未来”が目を開いた。
柔らかな、しかし爆発的な光と力が一瞬で、根絶者の影を吹き飛ばし、消滅させ、霧散させた。
ついに脅威は去った。
真に覚醒し目を開けるまで無防備な状態であった“幼き未来”を守り抜くという、クロノジェットと十二支刻獣の長い長い戦いはここに終わった。
神格メサイアの生まれたての新たな化身に、円陣を組んだ十二支刻獣が敬意を表して跪く。彼らは感じていた。異なる時代に捧げられた膨大な運命力を受け止めて、”幼き未来”が今、確かな形を取り始めたことを。
褒め称えよ。其は時空竜により再びこの星に成されしもの。新世紀を冠し斯(か)く呼ばれるであろう。創世竜……
Neon Messiah
「見よ、希望の目覚めである！」
クロノジェットが叫んだ。
勝利だ！
十二支刻獣が呼応し歓声をあげる。
ふいに射し込む輝き。
いままで暗闇に閉ざされていたブラントの夜に一筋の光が落ちた。
見ればブラントの地平線に、青く輝く惑星クレイがその姿を現していた。
いまこそ希望の日は昇った。
クレイ歴2100年。
かくしてこの星の新たな時代、新聖紀は新たなる神格ネオンメサイアの覚醒によって遂にその幕を開けたのだった。
Illust:saikoro※註．アルファベット表記、単位は地球で使われているものに変換した。※
世界観設定：中村聡
本文：金子良馬