戦斧を握るハウンドの手に力がこもり、瞳が昏い光が射して——セザを見た。
瞬間、脳裏に浮かんだのは、巨大な獣のイメージだ。ダラダラと涎を垂らし、獲物を追いつめ牙を剥く、猟犬の姿。
刹那に汗が噴き出す、鼓動が速くなる。
「そういうつもりじゃ……」
もたもたと言い訳をするセザの脳天に戦斧が迫ってくる。
「っ!」
バランスを崩しつつ身体をよじると、斬撃が前髪を掠めた。
空間を突き進み、石壁に深い一文字の傷が刻まれる。
圧倒的な一撃。もしまともに食らえば、セザのもろい頭蓋なんて形も残さず粉々になる。
顔を引きつらせていると、ハウンドが感心したように呟いた。
「避けたか。勘がいいな」
「……まぐれだよ」
「謙虚だな」
「よく言われる。友達に欲しいタイプだろ?」
「友達?」
戦斧を構えながら、ハウンドが眉根に影を刻んだ。なにか考えこむような表情。
「さぁ、どうだろうな。友人はいない。いたこともない」
「……悪い」
「いや、気にするな」
「じゃあ一つ、気の良い俺と友達になるってことで、ここを通してくれたりは……」
ハウンドはひとつ鼻で息を吐く。わかりづらいが、きっと笑ったのだろう。
「——獲物と友人になる猟犬がどこにいる?」
「あぁ、そうかよ。残念だポチ公!」
吐き捨てきるよりも先に、斬撃がセザを目がけて空を駆けた。
間合いは取っている。しかし直接当たらなくても、セザの胴をまっぷたつにするくらいの威力はあるだろう。
一旦引くしかない。
シカが逃げる要領でジグザグに距離をとれば、足元で地面が砕け散る。
と、二十歩もいかないうちに攻撃が止んだ。
仁王立ちのハウンドが冷めた目でセザを見ている。
「逃げる獲物は狩られるだけだぞ。向かってこい、俺の罪印はここだ」
ハウンドが長髪を掻き上げると、隠れていた右のこめかみ露わになって、そこに黒い文字が見えた。
目を凝らすと、『357』と読み取れる。罪印だった。
「……なんのつもりだ」
罠だろうか。
怪訝に思っていると、ハウンドはセザのガラスナイフに視線を向ける。
「そいつで刺せば罪能を消せるんだろう?」
「わかってるくせに、ずいぶん余裕だな」
「余裕? 当然だろう、俺とお前では力が違いすぎる」
「……どうかな。あんたの罪能、ずいぶん少ないみたいじゃないか。見かけ倒しの小悪党なんじゃないか?」
虚勢を張ると、ハウンドが眉根の皺を深くする。
「? 弱点を教えてやっているのになぜ攻撃してこない? ……あぁそうか、怯えているのか」
ハウンドは勝手に納得し、戦斧を握っている右手を左肩に伸ばした。
「もう一つハンデをやる」
ハウンドの全身は黒い鎧に覆われている。黒鉄はぶ厚く、銃弾すら弾き返しそうだ。
肩もごつい鎧に覆われており、その表面は松明を映して光っている。
そこをハウンドは鷲掴みにした。指の力で黒鉄が歪み、ギギギッと耳障りな金属音が響く。
いきなりの行動にセザはただ戸惑うことしかできなかった。
「どうするつもりだ」
距離を詰めることも、離れることもできずにいると、そこに異様な音がした。
ブヂィッ
ハウンドが太い枝でももぐように、左腕を引き千切った。
そのままぞんざいに放り投げ、腕が地面でバウンドする。それを追うように血が噴き出し、宙に小さな弧を描く。
「は……?」
予想外の行動に、驚くよりも引いてしまって開いた口が塞がらない。
ハウンドは眉を顰めている。
「……痛いな」
「普通に痛いのかよ!」
「俺もお前と同じただのヒューマンだ。当然痛覚はある」
何を当たり前のことを、という反応だ。
「……ただのヒューマンが腕をもぐかよ」
あんたみたいな化け物と一緒にしないでくれ、というのが正直な気持ちだった。
「そうか」
浅くうなずきつつ、ハウンドが血が噴き出す肩口を一瞥した。
「すぐに失血で死ぬだろう。死ねば腕は元に戻るが……俺は二度もハンデをやる気はない」
ハウンドは残った右腕で戦斧に力を込めた。
その刃は分厚く鉄塊じみていて、ハウンドの言う『ただのヒューマン』は持ち上げることすらできないだろう。
それを、ハウンドは右手一本で軽々と振り上げた。
「——俺が死ぬまでに俺を殺せ」
気圧されて頬が強ばる。それでもセザは無理やり笑った
「死んで後悔するなよ」
「させてみろ」
ハウンドが戦斧を薙ぎ払い、薄闇に白刃の光が散る。
脳天を狙う一撃に、あえてセザは踏みこんだ。
髪を幾筋か持って行かれたが、そのまま壁面すれすれに回りこむ。
ハウンドが振るうのはギロチンじみた巨大な戦斧。一撃は重いが、代わりに小回りが利かない。
ガキンッ!
刃が石壁を叩き、身を低くしたセザの頭上で、火花が弾け飛ぶ。
対して、セザのナイフは小回りが利き、機動力に長けている。
その攻撃は軽く、ハウンドを倒せるとは思えないが、今は的がはっきりしている。
罪印に一発入れれば、勝ちだ。
戦斧をすれすれで躱し、ハウンドの足元へ。下からナイフを突き上げる。
「っ!」
かすめたのはハウンドの顎だった。切っ先はこめかみに届かない。
舌打ちを一つ、戦斧を避けて距離を取る。
まともにやり合えば勝機は無いが、もしかしたら……いけるかもしれない。
確信を抱いて顔を上げると、ハウンドは線状に傷がついた顎をなぞっている。
「ちょろちょろとよく動く……まるでネズミのようだな」
「よく言われるよ。ポチ公、ネズミ取りは得意か?」
「それはネコの仕事だろう」
「無駄飯食いの言い訳が上手いな。こんなに狭くちゃ働けないって?」
「あぁ、そうだな」
と、ハウンドはやけに素直にうなずく。意外だった。
「このまま大人しく通す気になったか?」
「いいや。狭いなら広くすればいい」
そう言ってハウンドは戦斧を大きく背後に振りかぶり——
「……嘘だろ?」
一気に薙ぎ払った。
岩壁が卵の殻のように砕け、あたり一面に爆散する。
もうもうと土煙があがり、ただでさえ暗い視界が灰色に覆われていく。
セザが噎せていると、砕けた壁の奥で、何やら巨大な影が身を起こした。
ハウンドではない。明らかに人とは違う歪なシルエットだ。
思い当たるものと言えばひとつしかなかった。
壁の向こうは処刑用の堕獄獣を捕らえておく空間だったらしい。
ギアァアァァァツ!
堕獄獣がどろどろに溶けた頭部を振りたくる。
どうやら縛めが解かれたらしく、手始めとばかりにハウンドへ牙を剥く。
それは男は冷たい瞳で一瞥した。
「獣風情が邪魔をするな」
振り向き様の一閃が、堕獄獣の喉を捉える。
刃の切れ味は鈍く、肉は轢き潰された汚泥のように弾け飛んだ。
びちゃ、びちゃびちゃっ……
黒い肉片が雨のように降りそそぎ、立ちこめていた土埃を払っていく。
「…………」
ハウンドはこめかみに張り付いた濡れ髪を律儀に払い、あたりを見渡した。
壁が無くなったことで場は拓け、ずいぶんと動きやすくなっただろう。
しかしあたりには瓦礫と堕獄獣の肉が山のように連なって、視界はむしろ悪くなっている。
ハウンドは眉を顰めた。
セザの姿が消えている。
化け物かよ。
というのが瓦礫に身を隠しているセザの率直な感想だった。
地上に出たら一生関わりたくない相手だし、当然今この瞬間も関わりたくないが、それは許されないらしい。
勘弁してくれ。
機動性の利がなくなった今、身を晒してやりあうのは自殺行為だろう。
たった一撃、ハウンドに食らわせてやればいい。
そのためには不意を突くのがセザに残された手だてだろう。
隠れているセザを探してやってきたところを、刺す。
卑怯となじられようと構わなかった。
瓦礫を隔てて背後にハウンドはいるだろう。息を殺して気配を辿る。
あたりは恐ろしいほど静まりかえって、自分の耳を流れる血潮の音さえ聞こえそうだった。
そこで——ふと、無性に嫌な予感がした。
しかし予感はするのに原因がわからない。なんだ、間違いなく何か忘れている……
ハウンドには片腕で石壁を粉砕するほどの腕力がある。深く考えもせず、それがハウンドの罪能だと思って身を隠したが……
ハウンドの罪能は“嗅覚”じゃなかったか?
「——“猟犬の天網”」
瞬間、背後の瓦礫が爆ぜ散り、セザは前に叩き出されていた。
しかし紙一重で反応が間に合った。
瓦礫もろとも吹き飛ばされながら空中で身を転じ、闇の向こうに人影を探す。
いた。
回廊にその輪郭が線のように浮かびあがっている。
大人しくやられる気はなかった。
「——“羊の皮を被った羊”!」
ナイフを一閃、斬撃を放つ。
しかしハウンドの方が速い。まばたきをした次の瞬間、男は目前に迫っていた。
「っ!」
胴を狙って迫る刃を、セザはとっさにナイフで受けた。
まさに人間離れした力。
ナイフにメェミーの罪能が宿っていなければ、そのまま体ごとを叩き折られていただろう。
しかし押し勝てるわけもなく、セザは吹き飛ばされていた。
背中を壁に打たれ、片膝を突く。
それでもどうにか顔を上げ、ナイフを構えた。
「さすがポチ公、鼻が効くんだな」
「あぁ。特に罪人はよく臭う」
そしてハウンドはスンとひとつ息を吸いこんだ。
「この臭い……メェミーの罪能か?」
セザは唇を引き結んだが、ハウンドはセザの表情など見てはいない。
首を振り動かし、息を吸い、確信の目でセザを見た。
「お前、罪能を盗るのか」
もはや下手な隠しだては意味がないだろう。
「……だとしたら」
「貧弱な獲物ではラグノーネ様に申し訳が立たないと思っていたが」
ハウンドの口角が、舌なめずりのように歪んだ。
「——ようやく狩りの意味がある」
殺気が噴き出し、ハウンドの姿をより一層けだものじみたものにする。
戯れではない、本物の殺意だった。
「……大人しく狩られてたまるかよ」
手の内は明かした、もう逃げも隠れもできない。正面からこの男に打ち勝つより他に方法は無い。
殺せ! と脳の底で罪人たちが叫び、声が高まっていく。
殺せ、殺せ、殺せ——身を委ねてナイフを奔らせた。
しかしハウンドの刃の方が速い。阻まれ、硬い金属音が無情に響く。
「どうした、もっとお前の力を見せろ」
「言われなくても!」
しかしいくらナイフを繰り出しても、まるで岩に斬りかかっているかのように傷をつけることすらできない。
決死のナイフよりも、名だたる悪人たちの罪能よりも、罪能すら帯びていない片腕のハウンドの方が強い。
攻撃を重ねれば重ねるほど、ハウンドと力の差をはっきりと理解できてしまう。
ガキンッ!
攻撃を弾かれ、その勢いで距離を取ると、肩で息をするセザに向かってハウンドが問いかけてくる。
「それだけか?」
その顔色は灰色がかっている。失血が進んでいるのだろう。
意識が朦朧としていてもおかしくないが、腹が立つほど表情は変わらない。
「メェミーよりもずっと弱いな。あいつがなぜ負けたのか理解に苦しむ」
「詳しいんだな。友達はいなかったんじゃないのか?」
「何度か挑まれたことがある。だが負けたことはない。俺が堕獄で罪人に負けたことは、一度としてない」
誇るでもなく、ただ当然のことを告げる口ぶりだった。
「なぜお前はそんなナイフを使っている?」
「あんたみたいな馬鹿力は無いからな」
「違う」
ハウンドが虫を払うようにかぶりを振る。
「メェミーの武器は斧だった、なぜ斧を使わない?」
「罪能を盗るたびにそいつの武器も持ち歩けって? 盗人だって言って回るようなもんだろ」
「……あぁ、そうか」
ハウンドを興味を失ったように目を伏せた。
「だから弱いのか」
「……なんだって?」
「何を持ち、どう戦うか。それは生きることそのものだ」
ハウンドがセザのナイフに目を向ける。
「メェミーは弱者だった。斧を振るう悦びが、弱いメスを捕食者にした」
そしてハウンドは手にした戦斧に視線を移す。
「俺は獣だった。ラグノーネ様によって人の姿を持ち、猟犬となった。
この戦斧を牙として、あの方を害するものすべてを断つ。たとえ、骸の山が俺を罪人と呼ぶとしても。
——お前のナイフは罪の形をしていない」
セザは言い返せなかった。
妹を守るため、セザはガラスの破片を取った。その想いは、やがてダモスの罪印を貫き、罪を奪った。
セザのナイフは、どこまでもセザの罪の形をしている。
セザの罪の形でしかない。
だからといって——
「……諦められるかよ」
ここで項垂れ、首を差し出せたらどれほど楽だっただろう。
そうでないからこんなところまで来てしまった。
「愚かだな」
胸に迫ってくる斬撃を避け、セザは姿勢を崩した。
その勢いでぶつかったのは堕獄獣の肉塊だ。
頭部から前腕まで砕かれ、胸部にあたるらしい肉の断面が剥き出しになっている。
肉は腐ったレバーのように赤黒く、鼻が曲がるような異臭が漂っている。
その中に、セザは黒い石を見つけた。
骨か?
いいや違う、その形をはっきりと覚えている。
肉に手を突っこんで手のひらに収めると、ハウンドがひとつ首を振った。
「……臓珠か。やめておけ、限界汚染を喰った堕獄獣の臓珠だ。耐えられた者は一人もいない」
「へぇ、試す甲斐があるな」
ハウンドの目に憐れみのような色が浮かんだ。
「……仕舞いにしよう」
セザは臓珠を口に含む。
処刑台に刃を落とすように、ハウンドが淡々と刃を振り下ろす。
セザの首に届こうという刹那、腹の底に臓珠が落ちた。
「——セザ」
呼びかけられて目を開けると、知らない少女に覗きこまれていた。
十歳前後だろうか。華奢な年頃だが、それを差し引いても心配になるほど痩せている。
しかしセザを驚かせたのは、彼女の体つきではなかった。
肩まで伸びた髪も、肌も、身につけた服もすべてが抜けるように白く、その特徴はまるで——
「喪色症患者か?」
「違うって。ほら」
そう言って、少女は左頬にかかった髪を摘まんで見せた。
真っ白に見えた頭髪は、そこだけ一房黒かった。そんな色の残り方をしている喪色症患者を見たことはない。
「あぁ、確かに」
「そんなことどうでもいいだろ。ほら、さっさと起きろよ」
手を引かれて立ち上がり、あたりを見渡した。
「ここは……?」
見知らぬ場所だった。
地面にはヘドロのようなものが満ちて、セザを引きずりこもうととぐろを巻いている。
どこにも障害物は見当たらないが、さほど広くは無いようで、胸苦しくなる圧迫感があった。
まるで透明なガラス瓶の中に閉じこめられたまま外を眺めているような奇妙な感覚だ。
どこにも行けるようで、どこにも行けないのだと直感的にわかった。
「“器”だよ。知っているだろ?」