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小説

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クレイ群雄譚(クロスエピック)

第2章 ブルーム・フェスにようこそっ!

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第2章 12話 ヒトガタの望み

 リリミとララミの胸には、オモチャに詰められていた物と同様の爆弾が差し込まれていた。
 数は5本を超えている。もし爆発すれば、この一角は吹き飛ぶだろう。
 もちろん、それを起動させる彼女たちも無事では済まない。いくら生身の生き物より丈夫なワーカロイドとはいえ、ヒトの形が残れば奇跡だ。
「……自爆。何のために」
 ラディリナの問いに、冷えたまなざしの双子は黙している。
「あなたたちの目的は、あのトロフィーでしょう」
「であれば、どうする」
「止めるわ」
 双子人形の表情がわずかに変化する。
 嘲笑だった。
 どこからともなく取り出されたのはジャグリングクラブとフラフープだ。握りこむと、ぼう、と燐火のような光が溢れ出る。
 双子はラディリナたちを一瞥し、サーカス道具を放った。
 軌道は首を断つための直線、躊躇いなく命を狙う一閃だ。
 しかしラディリナは瞬きなくそれを見極めると、髪一筋すら与えず避けきりながら、あえて前に踏み込んだ。
「ラディ!」
 叫んだロロワが、駆ける彼女に向かって棒状の物を投げる。1メートルほどの樫の木棒だった。木材の中でも高い硬度を誇る。
 炎剣にはほど遠いが、チャンバラをするには十分だ。
 ロロワが生み出したそれを、振り返ることなく空中で掴み取ったラディリナは、勢いをさらに加速させ、中段からララミの胴を抜いた。
 だが、浅い。
 ララミはかすかに揺らぐも、前に反動をつけ、肉薄したラディリナを狙ってジャグリングクラブを振るった。
「……っ!」
 飛びのいたラディリナのドレスの裾が焦げ、チリリと黒煙を上げた。
——力は拮抗、両者再び距離を取る。
 剣を構えるラディリナを冷ややかに見やり、リリミとララミはささめいた。
「ただのアイドルではないようね」
「リリカルモナステリオの生徒じゃないみたいだ」
「一般の戦士崩れがフェスで紛れ込んだのでしょう」
「あぁ、自分の前途に見切りをつけてアイドルになるつもりだったんだ」
「きっとそう。愚かな裸虫らちゅうが身の程も知らず」
 無遠慮な物言いに、ラディリナは言い返す。
「戦士崩れじゃないわ、戦士よ! ドラグリッターよ!」
「ハッ」
 リリミがせせら笑った。
長虫ながむし使いが何を偉そうに」
 長虫とは蛇の俗称である。
「な、が、む、し~っ?! 蛇ごときと気高いドラゴンを一緒にしないで!」
「……蛇差別?」
 ロロワがボソリと呟くと、ラディリナは勢いよくかぶりを振った。
「差別じゃないわ。何故だかわからないけど大嫌いなだけ。何故だかわからないけど!」
 力強く吐き捨てながら、再びラディリナは木棒を手に双子へと迫る。
 リリミもフープを放った。
 ラディリナの剣はモモッケと共に在って初めてその真価を発揮する。武器の威力も練習用の木剣以下に落ちた今、本来の力の一割にも満たないだろう。
 フープによるリリミの斬撃の苛烈さに、かわすのが精一杯で武器は届かない。
 避け切れなかった刃先がラディリナの二の腕を掠め、細かな血飛沫が空気を染め上げた。
「ラディ!」
 ロロワも植木鉢から蔓を生み出してラディリナの援護に回ったが、それでも本来の力には到底満たなかった。 
 ロロワの力は植物たちの生命力を借りたもの。発泡煉石による用土では木棒と細い蔓を生み出す以上のことはできなかった。
 せめて剣さえあれば——二人が考えることは同じだった。
 最終ステージが始まろうとしているのだろう。壁一枚を隔てた会場からは断続的に歓声が聞こえてくる。
 無慈悲にもその声援を受けるようにして、双子人形の絢爛たるドレスのあわいから溢れ出る、クラブ、リング、ビーンバッグ。特殊強化磁器セラミックの指から放たれて、胸躍る千紫万紅に輝きながら絨毯敷きの環状廊下を飛び交った。
 指一本でも触れたなら臓物にまみれる残酷ショーは、その本質とは裏腹に見惚れてしまうほど美しい。
 床を蹴るステップはまるでバレエのフラッペ、フープを扱う手つきは華麗に手具を扱うよう。
 ただ人を殺すための立ち居振る舞いが、これほど優雅に見えるものだろうか。
 ただ人を殺すための立ち居振る舞いが、これほど眩く見えるものだろうか。
 ふと華やかな光景に遠い昔の記憶を刺激され、ロロワは軽く眉を寄せた。
「曲芸をする球体関節人形……君たちは、ペイルムーンのナイトメアドールだよね?」
「——」
 リリミとララミが動きを止める。
 ロロワはその勢いを助けとして思考を巡らせた。
「あれはもっと大きなワーカロイドだったし、君たちはずっと小さいけど……うん、間違いない。君たちはサーカスのナイトメアドールだ」
「…………」
 双子人形は不快と訝しみがないまぜになった表情を浮かべる。
 なぜ、そんな遥か昔のことを? 
 そう言いたげだった。
「僕は天輪聖紀いまのことはわからないけど、3000年前のことなら少しわかる。ペイルムーンって言ったら、惑星クレイのみんなが知ってるすごいサーカス団だった」
「それが、どうした」
「僕は一度だけそのショーを見たことがあるんだ。当日チケットで端っこの席だったけど……凄かった。多分、人生で一番楽しい夜のひとつだった。サーカスが終わって帰るお客さんの顔は輝いてて……怖い噂も聞いたけど、それでもみんなサーカスを楽しんでいたんだ」
 ロロワは双子人形をまっすぐに見る。
「君たちだってきっと同じなんだろう。こんなことすべきじゃない。君たちの技術で人を傷つけちゃいけない——」
『五月蠅い!』
 ロロワの高説を遮って、リリミとララミが叫ぶ。取り澄ましていた顔には、にわかに半狂乱の相が浮かんだ。
「——サーカスがなんだ」
「——歓声がなんだ」
 斬り裂くような鋭さに、ラディリナとロロワは動けない。
「“プリマドールになるの”」
「“プリマドールになるんだ”」
「“私たちの空中ブランコで”」
「“僕たちのジャグリングで”」
『“みんなを幸せにする!”』
 声を揃えた双子は、鼻を鳴らしてせせら笑う。
「所詮、自己愛と自己顕示欲に耳障りの良い理由をつけている、下賤の鬼にも劣る汚物」
「サーカス人形もアイドルおまえたちも所詮同じ穴の狢」
 その鋭さは、敵ばかりではなく彼女たち自身さえ傷つける不安定な揺らぎを持っている。声はどこか上すべりし、真白い歯は震える、足には力が入りきらない。
 それでも二人はその名を呼んだ。
 するすると垂れてくる一筋の細い糸に縋るようだった。
『——タマユラさま』
 ゴウッ!
 武器に纏わせた燐火が、牙を剥く獣のように燃え上がる。
 青絨毯を火柱のようにめらめらと燃やし、殺人フープがラディリナたちへと迫った。
 真正面から受ければ、目は溶け皮膚は焼け落ちるだろう。しかしその軌道を予期したかのように、ロロワはラディリナの腕を掴み引き寄せた。
 ロロワの目の良さと直感の鋭さはラディリナをも勝る。それは時に、未来を予期しているようですらあり、彼女はロロワの長所を素直に認めていた。
 しかし所詮彼女が持つのは木棒一本で、そこにロロワの目と蔓があったところで、やがて攻め負けるだろう。
 多少の負傷を覚悟した捨て身の突進にも勝機はゼロではない。しかし運に身を任せるようなやり方は彼女の信条に反している。
 ラディリナは素早く思考を巡らせた。
 このサーカス人形たちの目的は煌結晶を有するトロフィー“祈りの献花フラワー・オブ・ウィッシュ”だ。
 しかしこの大観衆の中、正面からの奪取は不可能。ゆえに混乱に乗じて掠め取ることを計画しているのだろう。
 ということは、彼らに自爆させ、その隙にトロフィーを狙う別の人間がいる可能性がある。
 ゆえに勝利の条件は大まかにふたつだ。 
 一、協力者を捕獲する。
 協力者がいなくなれば、双子たちだけではトロフィーを得られない。ならば双子が行動する意味もなくなり、諦めて投降するに違いない。
 二、この双子から爆弾を奪う。
 これは簡単。協力者の有無は不明だが、双子に勝利し爆弾を奪い取ればすべては丸く収まる。
——笑ってしまうほど机上の空論だった。
 どちらの手段を取るにしろ、ラディリナたちが双子人形を遥かに上回る力を持っている必要があるのだから。
「ちっ……」
 苛立ちに舌打ちする。
 モモッケさえいたなら、こんな相手に遅れを取るはずがない。
 かつて戦った黒暗の騎士はこの二人とは比べものにならないほど強かった。認めるのは癪だが、あの男の剣であれば双子人形など一太刀で砕け散るだろう。
 穏便に済ますだけの力量差によって勝利することは不可能、ならば第三の道がある。
 それは爆弾をこの場で爆発させ、双子と爆弾を同時に処理すること。
 環状通路の壁は厚く、ここで爆発させれば恐らく客席への被害はない。通路の被害は甚大な物になるが、人的被害に比べればあまりに軽い。
 もちろん、物音や被害の程度次第でフェスの中止もあり得るが、最悪の事態——多数の死傷者が出ることは避けられる。
 燐火を扱っているところを見ると熱には強く作ってあるのだろうが 、胸部への強い物理衝撃があれば爆弾は起動するかもしれない。
 もしそうなら、致命傷でなくとも一撃さえ通ればいい。
 遠距離攻撃ならばラディリナよりもロロワの方が向いている。
「ロロワ、防御は私が引き受けるわ。あなたは蔦で双子の胸を突いて」
 しかしロロワからなかなか返事はなく、ようやく恐る恐るといった声が戻ってくる。
「そうしたら彼女たちは爆発してしまうんじゃ……?」
「は?」
 開いた口が塞がらないとはこの事だ。
「こいつらに生きて欲しいなんて言うつもりじゃないでしょうね」
 ラディリナがロロワと出会い、行動を共にするようになって半年近くが経っている。その間にもこの少年の性分については嫌というほど思い知っていた。
 つまり、うんざりするほどのお人好しの理想主義者。
 目に留まるものすべてを救おうとし、もちろんそれは不可能で、自分の力不足にいつもウジウジと悩んでいる。
 世界樹という超越的な存在がヒトの形に収まるとそんな面倒な生き物になるのだろうか?
 生憎、ラディリナは定命の存在であり、功利主義的な選択をすることにためらいがなかった。
「ならいいわ、私がやる。あなたは手を汚す必要は無い。せめて防御を」
 ロロワのことは認めている。
 エバによって崩壊した街で逃げ惑う人々が一命を取り留めたのはロロワのお陰だ。
 命の力が形を成したこの存在。彼が手を汚さないのならば自分が手を下そう。
 戦士として生きると決めた人生だ、綺麗事だけでは高みに登ることはできないと承知している。
 ラディリナは赤いオーラを纏わせた木棒を双子人形へと突きつける。
「私はこのお人好しとは違うわ。あなたたちを殺す」
「長虫の女、よく喋る」
「道化は黙って踊るもの」
「だから長虫じゃ——」
 ラディリナが踏み込む。
「ないってのよ!」
 摩擦の熱で、絨毯が燃え上がった。
 肉薄するラディリナに向かい放たれたのは、ビーンバッグ——ジャグリングで用いられる玉だった。もちろんただのジャグリング道具ではなく、空中で次々に爆発し熱波がラディリナを襲う。
 しかし双子人形は戦場で戦う戦士ではなく暗殺者なのだろう、一撃一撃には致命傷を与えるほどの威力はない。
 皮膚が焦げるのは覚悟の上で、爆風を推進力にして双子へと駆ける。
「——ツアァッ!」
 裂帛の気合いと共にラディリナの木棒が空を斬る。
 まっすぐに胸を狙った。しかし木棒はララミの脇から肩を斜めに裂いたのみで、爆弾にはかからない。
 そこにできた隙を狙って、リリミが左方からラディリナへフープを放った。
 避けられない!
 と、ぐんと背後に引き戻される感触があって、にわかにラディリナの身体は宙に投げ出されていた。
 フープが髪の先端を掠めたものの肉には届かず、ラディリナは後ろに飛びしさる。膝を崩しつつ絨毯に着地して振り返れば、蔦でラディリナを引き戻したロロワが肩で息をしていた。
「死ぬつもり?! 爆発したらラディリナまで巻き込まれる!」
「あんたを信用してるのよ」
 言葉とは裏腹な表情で、ふふん、とラディリナが鼻を鳴らす。
 双子人形が爆発すれば巻き込まれる可能性が高いが、致命傷にならないと踏んだのはロロワがいるからだ。
 土壇場の一瞬で、この少年は自分を守るだろうと判断した。
 誰も彼もを救いたい。それは平時の理想論だが、極限の一瞬でこの少年は自分を優先して救うだろうと、踏んだ。
 信用と言えば聞こえがいいが、すごした時間を逆手に取った形である。
 ロロワの顔が複雑な感情で歪む。
「だからって無茶はやめようよ?!」
 無茶とは、勝算がないから無茶と言うのだ。
「うるさい。行くわよ」
 無情に切り捨てて、ラディリナが再び向き直った——そのときだった。
「リリミ、ララミ!」
 場にそぐわない、たおやかな女の声がした。
 四者の視線がそちらに向かう。
 髪を振り乱したタマユラが、通路に呆然と立ち尽くしていた。
「何を、しているのですか。危ないことをしているのではありませんか? やめなさい!」
 この女、どこかで見たことがある。
 ラディリナは思考を巡らせてすぐに「ドラゴンエンパイアの審査員の……」と呟き、ロロワも「あぁ」とすぐに理解したようだ。
 ドラゴンエンパイアのお嬢様とサーカス人形。なかなか繋がりが読めないが、タマユラの制止を見るに人形たちへの『協力者』ではないようだ。
「タマユラさま……」
 リリミとララミは行き場をなくした子どものようになったが、やがてひとつ唇を引き結び、強く首を横に振った。
「聞けません」
「タマユラさまの指示であろうとも」
「どうして!」
 タマユラの悲痛な絶叫も、もはや双子人形には響かぬようだった。
 リリミの指先から、透明な糸が放たれる。
 それは環状通路に左右にかかり、タマユラと双子人形の間を決定的に隔てた。
 愛する主へ背を向けて、リリミとララミは滔々と告解する。
「私たちは嘘つきのサーカス人形です」
「無垢なプリマ・ドールのふりをして」
「喝采を浴びながら」
「大人を殺しました」
「子どもを殺しました」
「臓物は、月明かりに照らされて煌々と光っていました」
「ぬらぬらと血まみれになった手で宙を舞い」
「ぬらぬらと血まみれになった頬で半月の笑み」
「嘘つき」「嘘つき」「嘘つき」「嘘つき」
 腐った肉に白い蛆が湧くように、自嘲と自責の言葉がボコボコと湧き上がる。
——嘘つき。
「私たちを助けてくださりありがとうございました」
「僕たちを愛してくださりありがとうございました」
「屋敷の医者は、間もなく世界が終わると言いました」
「幾年も保たないだろうと」
 しかし告げられた事実に、タマユラはひとつ、まばたきをした。
「……そう」
 すべてを承知している、静かな瞳だった。
 嫌だ、と双子人形は絶叫する。
「まことの願いはただひとつ」
「タマユラさまに生きて欲しい」
「そのためなら犠牲など些末」
「千のアイドルでも」
「万の観客でも」
「私たち自身でも」
「僕たち自身でも」
『タマユラ様を愛しているから』
 ためらいのない双子に、タマユラは怯んだように言葉に窮した。 
「リリミ、ララミ……」
 近寄ろうと足を踏み出したタマユラの頬に赤い線が走り、つつ、と血が滴った。
 双子人形に寄ろうとすれば、糸によって首が落ちるか四肢が落ちるか。
「それ以上近づかないでください」
「嫌です!」
「私の命を差し上げます」
「僕の命を差し上げます」

 そしてサーカス人形はただ一人のためにサーカスの幕を上げる。
「タマユラさまさえ覚えていてくだされば、それでいいのです」
 笑って、手を叩いて、声をあげて。
 歓声を、歓声を、どうか。
 サーカス人形に歓声を。

     *

 日没が近づき、空は茜色に染まりつつあった。
『——ついに最終ステージです!』
 ドームにステリィの実況が響き渡る。
 光のステージは七色に光り、ドームのスポットライトが幾筋もまっすぐに差し込んでいる。そこに寄り添うようにして、鮮やかな桃色の生命を抱くトロフィーが座す塔が立っていた。
 遥かなるステージは、そこに立つに相応しい少女たちを静かに待っている。
『残ったのは10ペア! 最終ステージはついに——歌とダンスで魅せてもらいます! このフェスのために練習を重ねてきた二人は、どんなステージを披露してくれるのでしょうか!』
 一際力強いステリィの声を巨大な歓声が飲み込む。
 会場は熱狂に包まれ、音の波によって天空のステージが震えるほどだったが、ミチュとノクノが耳を傾けているのはそちらではなかった。
 肩に乗った植物プラントからラディリナたちの音声はすべて漏れ聞こえており、リリミたちが語ったことはすべてノクノたちに伝わってきていた。
 簡素な控え室を兼ねた舞台袖の薄暗がりの中で、ノクノは唇を震わせる。
「あの人たち……」
 やはり、かつてノクノが夜闇で見た暗殺者たちはリリミとララミだったのだ。ノクノが心を踊らせたサーカスは、殺人サーカスだった。
 そこからどんな経緯を経て、タマユラという女に仕えることになったのか、ノクノには察することができない。タマユラが良い人なのか、悪い人なのか、それすらも。
 けれど、タマユラの命が間もなく尽きようとしていることと、双子人形が彼女のために行動していることだけは理解できた。
 ノクノを襲おうとしたことも、会場のあちこちに爆弾を仕掛けたことも、自分たちのためではなくタマユラという主のためだった——
 罪の無い観客たちを巻き込む双子人形の行いを、決して許すことはできない。けれど憎みきることもまた、できないのだった。
 月の綺麗な夜、血だまりの向こうに立っていた得体の知れないサーカス人形たち。その影は、どんなときでもノクノの胸底につきまとっていた。
 ミチュやクラスメイトたちと笑い合っているときでさえ、脳の片隅には彼らの影があった。腹をよじって笑っているときですら、心の底から笑うことができなかった。
 きっとそれは得体の知れないものに対する恐怖心だったのだろう。
 幽霊の正体が見えた今、決してすべてとは言えないけれど、トラウマを成していた震撼が和らいでいくのを感じていた。サーカス人形たちもまた、ひとつひとつ感情を持つ生き物だったのだ。
 今はただ、それを教えてくれたラディリナたちの勝利を祈ることしかできない。そして想いを託してくれた彼女たちのためにも、自分たちの成すべきことを全力で成さなくては。
 思いを新たにしたそのときだ。
 ぐぅうぅぅうぅ!
 地鳴りのように強烈な音が鳴り響き、ミチュがテヘヘと頭を掻きながら笑った。
「……やっぱり目を使いすぎるとお腹空いちゃうね」
 ノクノはハッとしてあたりを見渡した。
「充電する場所探してくる!」
「ううん、大丈夫」
 駆けだそうとするノクノをミチュが手で制止する。
 ノクノは少し赤面した。少し考えてみればわかることだ。
 元々、ミチュのバッテリーを充電するためには家庭用コンセントではまかなえないほどの電力 を必要とする。そのため、ミチュは週に幾度か路面電車の格納庫ドックを訪れ充電を行っていた。
 このような場にある電源では足しにならないだろう。
 だとしても、ミチュのために何かできることはないのだろうか? オロオロと視線を彷徨わせるノクノを安心させるように、ミチュはやや無理のある笑みを作った。
「ちょっと休むから、ねぇノクノ、歌って……? そしたら、わたし元気になれると思うんだ」
「……うん」
 ノクノの歌ぐらいでバトロイドのミチュを癒やせるとは到底思えなかったけれど、彼女が望むならどんなことだってしよう。 
 そうだ、あの歌がいい。
 ノクノが憧れ、ミチュが歌と出会った、空色をした懐かしい歌を。
「ありがと、ノクノ。わたし、ノクノの歌大好き……」
 ミチュは薄く微笑みながら、ゆっくりとまぶたを下ろす。

     *

 アンドロイドは夢を見る。
 青い夢だ。
 それは更新中のシステムが人工的に見せるものだとミチュは知っているし、夢とは到底呼べないただの記録データの再生だとわかっている。
 幾百の夜繰り返されてきた再生と停止——そのはずだった。
 ふと、青い闇の底に、針で突いた一点ほどの小さな異物が混じる。やがて黒い一点はインクが滲むように広がり、ゆるゆると夢を侵していく。
 それは男のようで、女のようで、ただ音を組み合わせただけの弦楽器のようにも聞こえるやわい音。泥濘の底からあぶくが立ち上るように、ミチュの青い世界に響く。

——可哀そうに。