――これは厄介なことになった。
彼がそう思ったのは、長い眠りにつく直前のことだ。
あたりはまるきりの暗闇である。クロノスコマンド・ドラゴンは油断なく見渡したが、ぞっとするような濃い黴の臭いと、甲虫の這う気配がわずかにあるばかりだ。
歯車のついた杖を振るうと灯がともり、石造りの遺跡があらわになった。途方もないあいだ遺棄されてきたのか、壁は崩れ、天井は朽ち落ち、隙間からは闇空が窺えた。
――今は、いつだ。
記憶ではこうなっている。
今さっきまで、彼は現在と未来を繋ぐゲートを生み出すための実験を行っていた。未来、とは言ってもこれまでに過去へのゲートの技術は確立しており、理論上ではそれを転用するだけのことだった。実験を行う研究所は古代遺跡の中に存在したが、設備としては過不足なかった。
しかし、だ。
実験の最中、予期せぬ白い閃光が身を包み、気づけばここに立っていた。見知らぬ場所だ。あたりに目をやっても、ゲートらしきものは見当たらない。
――失敗か。
問題はない。実験に失敗はつきものであり、原因さえ解明できれば次がある。そうしてこれまで時間と時空を渡る技術の開発に努めてきたのだから。
クロノスコマンド・ドラゴン——のちの世で、彼は以下のように語られている。
時空の修復能力を持つギアクロニクル、彼らの時間移動能力の一部はクロノスコマンド・ドラゴンの研究によって得られた。しかしそのための実験のさなかに彼は姿を消したという。
姿を消した先は、得体の知れない薄暗い洞窟であったというわけだ。
まずは情報収集か、と再び杖に手をかけ魔法を発動すると、宙に歯車をかたどる陣が浮かんだ。青白い光があたりを強烈に照らしながら広がっていき――しかし、それが遺跡から外に広がっていくことはなかった。白くなりかけた薪火が消えるように光は収まって、再び場は闇に包まれてしまう。まるで分厚い空気の膜に覆われているかのように、魔法が使えなかった。
「さて」
漏れた声に、期待や愉快さ、といったものが滲んだのは数多の失敗を超えてきた彼の性質によるものであった。
しかし、彼は知る由もなかった。
ここは彼の存在した世界ではなく、『クレイ』と呼ばれる惑星であったこと。
この世界ではすでにかつて存在した『メサイアの加護』は消え、魔法がなくなってしまっていたこと。
もちろん、魔法が使えなければ元の世界に戻ることは不可能である。
彼は時を越えることも、世界を越えることもできず、力を維持するために眠りに落ちることとなった
*
やがて幾百、幾千の年月が過ぎる。
崩れた遺跡の奥に巨大な質量を伴った、何者かの気配があった。
『――おや』
闇の中に、濁った汚泥の底からごぶごぶと溢れ出すような、おぞましい声が響いた。
『これはこれは、歴史に名高きクロノスコマンド・ドラゴンとは』
ずず、ずず、と地を引きずる音がする。
闇の中から現れ出でたのは、得体の知れない『巨躯』だった。全貌は窺えず、シュシュウという異様な呼吸音だけが漏れ聞こえる。一体や二体ではない。蟠る闇の奥に、鮮紅色の瞳が無数に光っている。
その視線の先にあったのは、長きにわたり眠りについているクロノスコマンド・ドラゴンだった。かつて鮮烈な力を纏った身体からは光が落ち、朽ちた遺跡とひとつになってしまったかのようだ。深い眠りによって意識はなく、身に迫る危機に気づくことすらできない。
『巨躯』は深紅の咢を広げた。クロノスコマンド・ドラゴンを丸呑みするような挙措であった。
『――あぁ、美味い』
ごくり、と喉が鳴り、落ちた。