「——そしてこれが、その宝具というわけです。って、もう壊れちゃったんですけどね」
そう言ってエバが取り出したのは、黒い魔石の嵌った宝具だった。かつては青かったというが今はその光を失い、暗く濁っている。けれど人を惹きつける不思議な魅力は残っていた。
思わずロロワは手を伸ばす。
「これ、触ってみてもいいですか?」
「どうぞどうぞ。減るものじゃありませんから」
差し出された宝具に指先が触れるか触れないか、という瞬間だった。
——パチィッ!
爆ぜるような音がして宝具に弾かれた。
静電気を幾倍にもしたような、強烈な痛み。同時に触れたところから宝具に光が走り、黒化していた魔石が青い光を放った。
しかし息を呑んだのも束の間、蛍火が尽きるようにすぅっと消えていってしまった。
「びっくりしたぁ……!」
ロロワは宝具に弾かれた手を行き場なく上げたまま静止した。
なにも悪戯なんかしてないですよ、滅相もない!
「……ふむ」
エバは考えこんで、ロロワと宝具を交互に見た。そして一瞬にして距離を詰め、鼻先が触れるほどの至近距離で覗き込んでくる。
「ふーむ、んんんん?」
「あ、あの! 近い! 近いです!」
柔い肌——具体的に言うなら胸部だ——がふくふくと触れているというのに、エバは一切頓着する様子はなかった。
爛々と光る瞳は尋常ではない。異様な興奮の中に、こちらを観察する絶対零度の理性がある。実験体のマウスに向けられる視線と寸分変わらないのだろう、と思わせるような。
身動きも取れずにいると、エバは不意にニコッ! と微笑んだ。
「この宝具、ロロワさんに差し上げます。どうぞ!」
「いいんですか? 大切なものなんですよね」
「この数年、何をしたってうんともすんとも言わなかったんです。それがまた光った! ロロワさんの元にあれば、また何かを見せてくれるのかもしれません」
「それは期待が重すぎるんじゃ……」
「さぁ!」
「……ハイ」
押し付けられるようにして宝具を受け取った。つややかな表面からは、無機質な冷たさが伝わってくる。しかし撫でても突ついても、再び光る様子はなかった。
エバは乗り出していた身を戻し、辺りを見渡しながら「さて」と呟いた。
「ちなみに、ここに煌結晶(ファイア・レガリス)って落ちてませんでした?」
「は?」
眉を顰めたのはラディリナだ。
「落ちてませんでしたけど……多分」
突然の質問の意味がわからず、ロロワは真正面から答えることしかできなかった。エバはテーブルに頬杖をついて物憂げな息を吐く。
「ですよねぇ。足が生えてどっかに行っちゃったんでしょうか?」
「というと……?」
「……見たんです」
エバは声をぐっと低くする。
「煌結晶(ファイア・レガリス)は膨大な魔力を内包する物質……なら単純な話です、強大な魔力をサーチすればいい。じゃーん! 『白の研究所』謹製、魔力磁針(マジック コンパス)。魔力がこちらでわかりまーす!」
エバが取り出したのは、無数の歯車が組み合った方位磁石のような機械だった。
ラディリナが前のめりになる。
「あなた、それで力の気配を見たのね?」
「はい!」
「じゃあそれを辿っていけば……!」
「でもこれ、壊れちゃったんですよね~」
「……駄目じゃない」
「駄目なんです~」
あちゃーとエバは大仰に手で顔を覆った。
「この街に大きな反応があるのはわかっていたんです。ひとつはもちろん世界樹のある聖域。ま、その魔力のせいでこの町中が魔力でむんむん、私たちの鼻が利かなくなってるんですけど……そこでこの魔力磁針(マジック コンパス)を見ていたら突然ひとつ大きな気配が増えたんです。それが動くじゃないですか、もうワクワクしちゃって! 辿ってここに来たんです。で、いざこの酒場に入ったら……」
エバが魔力磁針を爪弾くと、揺れていた針がくるくると回りだした。最初はゆっくりと……そして速度を増し、針は壊れんばかりに回転している。
「魔力磁針(マジック コンパス)、ご覧の通り壊れてました」
「あなたが持ってるの、壊れたガラクタばかりってことね」
「うぅ、この天才に酷い言いようですね、プライドが傷つきました……立ち直れません」
エバはよろよろと泣く仕草をする。噓泣きである。
「で、仕方ないのでしばらくこの酒場を見ていたんですけど……無さそうですねぇ」
「そうね」
エバとラディリナの二人は酒場をぐるりと見渡した。真昼間から大変なにぎわいで、ある者はジョッキを掲げて乾杯と叫び、ある者は床に寝そべっている。
「壊れる前から使い物にならなかった、とか?」
そう言うラディリナの視線の先には、半裸で踊り狂っている男たちの姿が。
「壊れちゃったものはしょうがありません、残るは世界樹……聖域ってことになりますよね。もちろん真正面から調べさせてはくれません。ってことは……ふぅ、仕方ありませんよねぇ」
エバが声を潜めて意味深に微笑む。好奇心で異様に光る瞳は、違法な侵入をほのめかしている。
「あぁ、すみません、ラディさんの前で、こんな口にするのも恐ろしいことを。できるはずがないのに!」
「っ! 馬鹿にしないで。私だって聖域に入ってやる!」
煽られたラディリナの声は思いのほか酒場に響いた。
そしてちょうど酒場の前を、神殿の警備である盛夏の花乙姫 リエータが通りがかっていた。
もちろん聞こえていた。
「来なさい。話を聞かせてもらいます」
リエータは銀色に光る長銃を構え、ラディリナに突き付ける。両手をホールドアップしながら、ラディリナは傍らに視線を向けた。
「っ……ちょっと、それならこの女だって——」
すでにエバは忽然と姿を消していた。
「—————ツッッ!」
声にならない絶叫と共に、ラディリナはしょっぴかれて行ったのだった。
「えっと……」
あまりに鮮やかな一幕に、ロロワはしばらく呆気にとられ、ハッと我に返る。
考えてみれば、ロロワは世界樹の根本に三千年の間埋まっていたのだ。オリヴィも同様にまだ土に埋まり続けている可能性はあるだろう。
ロロワはラディリナに起こされた、ならば——
「僕が掘り起こせば……」
低く呟いたそこに、後ろから声をかけられた。酒場と宿の会計を担当している店員の男だ。
「宿泊は今日までだろう、明日からどうする? ここは長期滞在の煌求者が多いからね、まとめて払ってくれれば少しはオマケするけど」
気を利かせた様子でウインクをする店員から、ロロワは慌てて目を逸らした。
「ちょっと……考えさせてください」
「あっそう?」
むやみに気がせいて、行くあてもないのに宿の外に出た。すでに大通りには夕暮れが迫り、人々の足元からは赤い光に照らされて長い影が伸びている。
夕食の材料を求める人々で往来は大変な賑わいで、あちこちから威勢のいい声がかかる。
——これちょうだい
——はいはい、ちょっと待ってね
——お母さん、お母さん
——こちら一山銅貨三枚! お安くしておくよ!
煌めく笑い声、鮮やかな子どもの泣き声、野菜を切る小気味よい包丁の音。
極彩色の生命力が、音の形をして空っぽなロロワの身体に流れ込み、過ぎていく。過ぎていくだけだ。空っぽは空っぽなままで、満たされないまま乾いた音を立てる。
何を見るわけでもなく視線を巡らせていると、ふと目に留まったのは道端に停められた木製の幌馬車だ。藤かごの中にはパンが積まれており、焼きたてなのか風に乗って香ばしい小麦粉の匂いが漂ってくる。
腕ほどはありそうはバケット、砂糖をかけたシナモンロール、ドライフルーツを散らしたマフィン——煌めくその色彩に魅せられて、思わず引き寄せられた。
まだ銅貨ぐらいは残っていたかな、と懐に手を入れようとしたそのときだ。
「おい!」
幌馬車の奥から矢のような怒声が飛んできて、ロロワの身体に突き刺さった。荷台に座った強面の男がこちらを睨みつけている。
「あんた、盗っただろう」
「えっ? 見てただけ、ですけど……?」
慌てて両手を上げて無実を訴える。男は上から下までロロワを睨めつけると、チッと舌打ちをした。
「あっそう。紛らわしいことしないでくれよ!」
そんなことを言われては、もう買い物どころではない。カッとなって言い返すような気力も残ってはいなかった。
わずかによたつきながら幌馬車を離れ、再び喧騒に身を任せる——と、そのときだ。
足元の地面がグラグラッと縦に揺れ、ロロワは思わず姿勢を崩した。また、地震か。
耐え切れず膝を突くと、その頭上から小石が降ってくる。なんだと見上げれば、立ち並ぶ煉瓦造りの建屋がわずかに欠けて落ちてきているのだった。
さらに地震は強くなる。どこかで硝子が割れたのかけたたましい音がして、断続的な悲鳴が続く。建屋の屋根から素焼き瓦が滑り落ち、間近の地面で爆ぜた。もしも頭にでも直撃したら——ただではすまない。
悪い予想は、いっそう悪い形で裏切られた。
すでに大きなヒビの入っていた煙突が倒れ、屋根の上で転がると、加速をつけて落ちてきた。その真下には、焼きあがったばかりのパンの山がある。
間に合わない。それでもロロワは考えるよりも先に駆けだしていた。自分の身体で、パンを覆うように包み込む。
ロロワが思わず目を瞑った次の瞬間、巨大な爆発音があたりに響いた。
目を開ける。間近に迫っていた煙突が空中で砕け散り、粉塵となって四散していた。
なに、が。
反射的に手で顔を覆って、降り注ぐ砂塵を避けながら辺りを見渡すと、その向こうに見覚えのある男がいる。
「ミカニさん!」
男は隙なく拳銃を構え、頭上から降り注ぐ瓦礫を撃ちぬいている。
やがてミカニはパンを庇っているロロワの前で歩みを止めた。その時には、長い地震もようやく収まっていた。
身を起こすロロワへと、ミカニは冷ややかな視線を向ける。パンなんかを庇ったのがそんなに馬鹿みたいだったろうか、まぁそうだよね……とロロワが内心で思っていると、ミカニは太ももに吊られたガンホルダーに銃を仕舞った。鮮やかな動作だった。
「ミカニさん、ありがとうございました」
「礼は不要。ケイオス様の命令だ」
「あ、はい……」
取り付く島もない様子にロロワはたじろいでしまう。彼の種族はエイリアンだが、機械であるバトロイドのほうがよっぽど人らしいだろう。
忠実なる側近は、しどろもどろになっているロロワに頓着するはずもなかった。
「街の巡回は本題ではない。バイオロイド、ケイオス様から伝言を預かっている。見ろ」
ミカニが取り出したのは、手のひらに乗るサイズの小箱だった。金彩の施された上蓋を開けると、中には小さな紙片が入っている。ロロワが覗き込んだ途端、くるくると舞い上がった。ぼうっと紫の炎に包まれ、宙に浮かんだのはケイオスの顔だった。
『やぁ、ロロワ少年。三千年後の世界を楽しんでいるかな? そうだ、ラディ少女とは上手くやっているかな。困ったことはないかな。気になって連絡をしてしまったよ。何かあればミカニに遠慮なく言うといい。残念なことに表情筋は死んでいるが、能力については私のお墨付きだよ』
ケイオスはウインクを飛ばしている。褒められているというのに、ミカニの顔はピクリともしない。表情筋が存在しているかすら疑わしい。
映像の中でケイオスは大仰に腕を拡げる。
『せっかくの過去からの客人だ、きちんと時間を取ってもてなしたいところだけどね、なかなか最近忙しくてね。少年も経験しただろう? 地震が多発しているせいで街のあちこちにガタが来ているんだ……それを指揮するのなんて正直めんど……ゴホンゴホンッ』
と相変わらずの調子である。
『朝に一回、おやつの時間に一回、不浄の用の時に一回。目を盗んで脱走しようとしたんだけど、これがなかなか難しいものだね。騎士テグリアにシバかれるし、散々な目にあったよ。それでも私は諦めずに逃げ道を探したんだ。さすが聖域、侵入するのが難しいということは脱出することも難しい!』
「ケイオスさんっていつもこんな感じなんですか? 脱出とか……言ってますけど」
「いつもこんな感じだ」
ミカニの返事は直入だ。ケイオスへの忠義心は彼の適当さによっては何も変わらないということらしい。
『食堂……駄目だったね。鍋でシバかれた。礼拝堂……駄目だったね、本の角でシバかれた。衛兵たちの武器庫……危うく剣とか槍とかでシバかれそうになったから命からがら逃げてきたよ。というわけで、また会えるのはしばらく先になりそうだ。これが出来る男の辛いところさ。それでは、じゃあね。バイバーイ』
終始変わらない軽いノリに、どう反応していいかわからず——しかも何か大切な情報があるのかと思えば何もないようだ——ロロワは複雑な表情になりながら、先を行くミカニについていく。
しかし消えかかっていた紙片の火は最後にパッと燃え上がり、人差し指をピンと立てているケイオスの姿を映した。
『あぁ、そうそう! 脱走には失敗したけどね——、』
続いた言葉に、ロロワはハッと目を見開いた。
「それって——!」
思わず空中に言葉を向けたが、その先で火はフッと消え、ケイオスの姿もまた消えてしまっていた。虚空に伸ばした手が空を掻いた次の瞬間、前を行っていたミカニが立ち止まったためにその背中に激突する。
「うぶっ!」
鉄板を一枚通したかのような硬さだった。跳ね返されてよろめきつつ、ロロワはちょうど神殿に繋がる門の前に来ていたことに気づく。
夕日は落ち切ってすでに夜の帳が下りている。これからミカニは主のもとに帰るのだろう。
「バイオロイド。私はただ、ケイオス様に命じられたことを遂行するのみ。それ以上の耳も、目も、手足も持たない」
「は、はい」
「ゆえに、これはケイオス様からの本日の命令だが。
〝ミカニは、正午から日没まで市内を周回し、ロロワ少年を発見し彼の困りごとのために力を尽くすこと〟。ゆえにケイオス様からの命令の通り、被災現場からの救助を行った」
「ありがとうございました」
「〝その後、伝言を行ったのち聖域に帰還し、入り口付近でしばし——目を瞑り、休憩を取ること。その間、総ての事象について見逃すこと〟以上だ」
もう伝えるべき言葉はない、と言うようにミカニが口を閉じ、氷色の瞳を瞑った。背中を石壁に預け、お手本のような休憩の姿勢を取っている。
ケイオスからの言葉の最後にあったのはこうだった。
『脱走には失敗したけどね——入り口の横の出窓が壊れてるのは気づいたよ。ずいぶんと不用心だ。そこから誰かが中に侵入しても気づけないだろうね』
「本当にありがとうございました」
一礼したロロワの足音が遠ざかっていき、しばしの沈黙の後にミカニは瞳を開いた。その瞳孔に人らしい温度はなく、指先のすみずみまで無慈悲が満ちる。
男は機械的に口を開いた。
「——完了しました」
松明の灯は夜を照らし、その闇を一層濃くしている。不意に、ミカニの足元から伸びる影が形を変えた。細く細く伸び、やがて渦巻状に巻いて蟠る。
「ケイオス様」
無機質な男の声に、わずかに感情の色が乗っていた。