埃と蜘蛛の巣にまみれた出窓を降りると、石造りの大階段が奥へと続いている。神殿を守護すべき近衛兵も、市街の救出に出ているのだろうか気配を感じられない。
——ドク、ドク、ドクッ
耳がそのまま脈打っているのではないか、そんな錯覚。見つかればもちろんつまみ出されるだろうし、下手をすればもうこの街にはいられない。
でも、決めたんだ。
ロロワは石造りの壁に耳をつけ、目を閉じる。半径七メートル以内に人の気配はないようだ。しかし二時の方向に、足音が二つ、鎧が鳴るガチャガチャという音もする。
そちらを避けて左の通路に進めば、居住区らしき一角と、騎士たちが控えるための間がある。さらに歩みを進めるとチャーチベンチの連なる礼拝堂に出た。
その前を足早に通りすぎようとしたロロワだったが、礼拝堂に飾られた『それ』に思わず目を奪われた。
礼拝堂の奥にはゆらめく松明に照らされたステンドグラスがあり、鮮やかな緑の葉を広げる世界樹が描かれている。きっと真昼ならさぞかし美しく光ることだろう。巨大な木の根元には、トゥーリらしい街並みがあり、世界樹からの果実や宝石が降り注いでいる。
しかしロロワの目に留まったのはそこではなく……
「……ドラゴン?」
複数の首を持つドラゴンが世界樹に纏わりついている。鱗は夜のように深い青、瞳は爛々と光る赤。ステンドグラスであってもそのまなざしが奸邪な色を帯びていることは間違いがない。
何かこの世界樹の成り立ちに関わる事件なのだろうか?
無闇に胸が騒ぎ、ロロワは導かれるように手を伸ばし——指先が鉛のリムに触れる。
瞬間、耳奥で響いたのは奇妙な音だった。油の切れたブリキの絡繰(カラクリ)を無理に動かしたような、耳障りな不協和音。
『ギ、ギギギ……ギチ……ギギ……』
そうまるで、巨大な歯車が動き出したような。
「な、に……?」
どこから聞こえているんだ、と辺りを見てもそれらしいものはなく、自分の頭の中に直接響いてきているとしか考えられない。
どうして今幻聴が……?
思い当たる理由もなく、耳を押さえて俯いた——と、そのときだ。
「おいそこ、誰だ!」
今度こそ幻聴ではなく現実の音。振り返れば、回廊から礼拝堂に繋がる扉口に武装した男が立っている。
「何者だ。名乗れ!」
斬りつけるような詰問と共に、剣に手をかけながらこちらに寄ってきた。胃がすくむ、上手く呼吸ができない。それでも意を決してモザイクの床を蹴った。
瞬時に間合いが詰まり、近衛兵が剣を抜くよりも先に脇を駆け抜ける。
目指す先はただひとつ——世界樹の根本。自分が三千年の間、眠っていた場所。
「世界樹礼拝堂より、不審者一名! バイオロイドの少年だ!」
絶叫が石造りの聖域に響きわたる。静謐な場が、俄かに怒号で染め上げられた。
世界樹は聖域の後方正面に聳え立つ。そこに出るためには長い回廊を渡りきる必要があり、近衛兵たちもロロワがそこを通ることは承知していることだろう。
聖域内の人員は少なくなっている。ラディリナなら正面から突破するのかもしれないが、ロロワにそんなことはできない。
一旦身を隠すかと視線を巡らせ目に留まったのは、半開きになった木扉だ。真っ暗な部屋を覗けば、粉っぽい匂いの中、麻袋が積まれている。どうやら麦やワインの保管庫らしい。ロロワは麻袋の隙間に身体をねじ込ませ、頭を引っこめた。
ロロワを探すざわめきが聞こえる。その足音は十を優に超えている。このまま隠れおおせても、やがて朝になる。その間に街に出ているはずのテグリアたちも戻ってくるだろう。聖域から逃げ出すにも出口は遥か遠い。
万事休すか、と思われたそのときだ。
「いたわ! 南のテラス!」
年若く、凛とした女の声が聞こえた。
それに導かれ、近衛兵たちはこちらに向かうのをやめ、逆方向——きっとそちらが南のテラスだろう——に駆けていった。
胸を撫でおろしながらロロワは隙間から抜け出し、再び回廊を駆ける。
ようやく辿りついた先は、聖域の中央に聳え立つ世界樹の間だ。目が覚めた晩は状況を理解するので精いっぱいで、それをきちんと見る余裕などなかった。
その丈は十メートルを優に超え、天にまで伸びるようだ。老樹であるためか、その根にも幹にも灰色の瘤が発症し、生命力に満ちているとは言い難かった。常緑樹のようだが、枯れてまばらになっているのが目につく。
生命力の源であることは間違いないが、胸騒ぎを覚える姿だ。
ロロワが埋まっていた場所は窪みが残ったままになっていてすぐに分かった。オリヴィも自分と同じように眠りについているとすれば、探すならこの辺りだろう。
ロロワは腰の細剣を抜き、土に突き立てた。けれど片腕がなく力が入らないせいで、わずかに地面の表面を削るのみ。早くオリヴィに辿りつかないと、早く、早く。いつまた近衛兵たちが来てもおかしくはない。
気ばかり急いて、顎先を汗が滴り落ちる——するとそのときだ。
「……はぁ」
後ろから溜息が聞こえ、ハッと振り返るとラディリナが腰に手を当てて立っていた。
「結局来たんじゃない」
その声は、先ほど「南のテラス」と叫んでいたものと同じだと気づく。
「助けてくれた?」
「何言ってるの? 私に都合がいいようにしただけ」
とラディリナはロロワと目を合わせない。
「私は聖域で捕まってたのよ。しばらく頭を冷やせってね。ま、抜け出してやったけど?」
そう言ってラディリナはふふんと自慢げに鼻を鳴らし、モモッケは羽をパタパタさせる。
そしてラディリナは自らの剣を抜き、ロロワの隣に並んで土に突き立てた。ロロワは思わず目を丸くしてしまった。
「あ、ありがとう」
「私の勘がここって言ってるだけ。この前はハズレだったから、今度こそ当てるわ」
見た目は小柄で華奢でも、さすがはドラグリッターと言ったところか、ラディリナが地面をひと突きすれば土くれが吹き飛び、大きな穴が開く。対してロロワは子どもが土遊びをする程度のことしかできなかった。
そのナリで、ここに何しにきたの。
そんなキツい言葉も覚悟したが——
「そこの根のところはあなたには無理でしょう。もっと右手からいきなさい」
「う、うん」
的確なラディリナの言葉に従いつつ、ロロワは思わず言ってしまった。
「ラディは無駄だって言わないんだね」
「言わない」
断じた言葉は強く、まるで彼女自身に言い聞かせるようだった。
「私がこの世で一番嫌いなのは、〝無駄だって言われること〟なのよ」
「それは、どうして」
「…………」
しばしの沈黙があり、ラディリナは忌々しそうに口を開く。
「私の村はドラゴンエンパイアの奥深くにあるドラグリッターたちの村。年頃になればドラゴンたちと共に旅に出て、一人前のドラグリッターになるまでは帰れない。
ドラゴンは人間(ヒューマン)よりも遥かに長命な生き物だから、ドラグリッター見習いたちは長く生きた強いドラゴンを共にすることを選ぶわ。その方が自分に都合がいいから、楽をして一人前になれるから! でも私はモモッケがいいの。モモッケの心は、どんなドラゴンよりも気高いもの」
ラディリナはぐっと拳を握る。
「〝子どものドラゴンを選ぶなんて無駄〟〝お前なんて一人前のドラグリッターになれない〟——もう聞き飽きた! モモッケは偉大なドラゴンよ。一人前になれないのは彼のせいじゃない。人間(ヒューマン)の寿命が短いのだって、私のせい。
だから煌結晶(ファイア・レガリス)で私が強くなればいい。そうすれば、二人で最高のドラグリッターになれる」
「ピャアッ!」
ラディリナの肩で、モモッケは力強く鳴いて小さな炎を吐く。ラディリナは地面から顔を上げ、ロロワを真っすぐに見た。
「あなたはこの世界で何がしたいの」
「何、って……」
突然の問いに答えることが出来ない。口ごもることしばらくして、ようやく言葉を作る。
「僕はオリヴィとまた会えれば、それで」
「オリヴィオリヴィ! そうやって、いつまでも人に何か決めて貰って生きていくの?」
「それ、は」
「今は天輪聖紀。人の祈りによって創られた時代よ。。だったら自分の手で切り開いていくしかない。あなたはどうしたいの!」
「僕、は……」
勢いに押されて口を開いたものの、溺れかけの魚のようにパクパクとさせることしか出来ない。だって何もない。この過酷な世界で『生きていくこと』以上の望みなんて、自分なんかが持っていいはずがない。
人生を自分の手で切り開けるのは、その手に力を持つ人だけなのだから……
彫像のように固まってしまったロロワの頬に、そっと触れたものがある。上から舞い落ちた世界樹の葉だった。枯れ葉が枝から離れたのだろう。先端に宿った生命力の残滓が頬に移って、わずかに温かい。
そして次の刹那——
『ギ、ギギギ……ガチンッ』
突如として歯車が嚙み合った音が鳴り響く。現実のものではない。たゆんでいた糸がピンと張るような気配がして、耳の奥底から声が聞こえてきた。
『ザ、ザッ…………、ぃげ、ろ……』
油の切れた歯車音の奥から、かすかに人の声がする。ロロワは耳に手を当てて、おぼろな声の糸を探る。
「誰、ですか……?」
『……、ザ……ザザッ……ろ、』
「何を言ってるんですか。もう一度」
鼓膜に干渉する魔術の類だろうか。けれどノイズが酷くて聞こえない。
目を閉じる。植物が日光へと枝葉を伸ばすように、根が水を求めるように、わずかな音を掴みあげ——聞こえた。
『……にげ……ろ』
「逃げろ?」
ロロワが聞き返したそのときだ。
「……逃げろ? やめてください、せーっかく来たのに」
少女の声がして、そちらを見ると、エバが立っている。聖域を吹き抜ける風が、彼女の白衣を大きく広げている。唇には不敵な笑みを刷き、金色の瞳は双子の月明りを映し炯々と光っていた。
「ロロワさんに朗報です! お別れしたあと知りたくなっちゃって!」
エバはご機嫌な様子でクルッと一回転して見せ、歌うように風に声を乗せた。
「あなたの探し人は世界樹のバイオロイド。三千年の昔、人型を失い世界樹としてこの地に根付いた——腕のように広げた根で何かを守るように。さて、何を守っていたのでしょう?」
エバが懐から取り出したのは魔力磁針(マジック コンパス)だ。端に振り切った針はカタカタと小刻みに動き、ロロワには壊れているようにしか見えない——が。
「ねぇ、あなたの魔力、ずっと異常でしたよ」
『——逃げろ!』
クリアになった声が耳奥で叫ぶ。けれどロロワが行動を起こすよりもエバが口を開く方が早かった。
「——オブ」
衝撃。
背中から突き上げられ、前に身体がガクッと傾ぐ。違和感に視線を下におろすと、ロロワの胸から巨大な剣が突き出ていた。
「——え?」
背後から身体を貫かれ胸まで貫通しているのだ、と認識した瞬間に痛みが追いついた。
「———っ! か、は、ぁ……っ!」
喉奥から血潮がせり上がり、たまらず吐く。倒れこもうにも、オブスクデイトの剣に貫かれて身動きがとれない。
エバがロロワへと歩み寄ってくる。その足取りには動揺も迷いもなく、怜悧ですらある。
エバはロロワへそっと手を伸ばした。剣の先端に引っかかっていたのは、黒い石のついたペンダントだった。
彼の胸を飾っていたもの、ロロワが探していた、それ。
「オリ、ヴィ……?」
オブスクデイトがロロワの胸から剣を引き抜き、それ以上は言葉にならない。溢れ出た血に口を塞がれ、そのまま膝から崩れるように地面に倒れ伏した。視界がぶれるほどの強烈な痛みが身体を駆けているが、悲鳴さえ出ない。
「——初めまして、煌結晶(ファイア・レガリス)。そしてさよなら、ロロワさん」
どこまでも無垢なエバな声が、ロロワの視界に涅色の帳を下ろした。
*
ラディリナは突然のことに、身動きが取れなかった。
オブスクデイトはその巨躯にも関わらず、気配もなくロロワとラディリナの背後に忍び寄り、ロロワの背中を貫いた。
その殺戮の意味を正しく理解できたのは、エバの手に落ちた黒いペンダントが突如として翠色の光を放ち始めたからだ。熟したオリーブの実のような石が形を変えていき、複数の鉱物結晶体が連なったような宝具と化す。
煌結晶——旧時代の運命力を宿したもの——ラディリナは人間(ヒューマン)であり、魔力を感知することはできない。けれど生き物の本能として、その力に圧倒され思わず後ろによろめいた。
ひとつ、生唾を飲み込んだ。
あぁ、これが。
感嘆と共に湧きあがったのは、まるで恋焦がれるような所有欲だ。これを私のものにしたい!
「それを寄こしなさい!」
刃を抜き、上段でエバへと斬りかかる。
——キンッ!
しかしそれを遮ったのはオブスクデイトの大剣だった。軽く振るわれただけにも関わらず、その膂力によって数メートル吹き飛ばされる。空中で体勢を立て直し、モモッケに支えられる形で転げないようにするので精いっぱいだ。
地面に膝を突いたところからラディリナが顔をあげると、エバは顎に手を当てて何やら思案している。
「煌結晶(ファイア・レガリス)の〝抜け殻〟ですけど、ロロワさんも貰っていきましょうか。オブ、持てそうですか?」
「問題ない」
「さっすが私の筋肉馬鹿ですね!」
「……」
むっつりと黙るオブスクデイトに向かい、ラディリナは剣を構えた。その瞳には炎のような闘志が轟々と燃えている。
「——させない」
この女の手に落ちてしまったら、ロロワの死体がどのような侮辱的な扱いをされるか——想像するのは容易かった。それを許すことはできない。
オブスクデイトとの体格の差は歴然。悔しいことに剣技でも差があることは対峙するだけでわかる。どうしてこれだけの剣士がこんな片田舎に来てるのよ、と内心で吐き捨てる。一対一で敵う相手ではない。
煌結晶(ファイア・レガリス)を奪うことは難しいかもしれない。けれどオブスクデイトは非戦闘員であるエバを庇いながらロロワを抱えてこの場から退くという。
それを許すほど弱兵ではない。
「モモッケ!」
「ぴぃっ!」
ラディリナの合図と共にモモッケがオブスクデイトに炎の息を吐く。男がそちらに気を逸らすのと同時に下段から踏み込んだ。
剣先が男の鎧を胴斬りにしたが、びくともしない。
「弱い、な」
男の言葉は侮蔑ではなく、ただ純粋に事実が口をついたという調子だ。この男からすれば自分の剣など児戯に等しいのかもしれない。
それでも退けない。自分はドラグリッターのラディリナだ。
「はぁあぁっ!」
裂帛の気合と共に踏み込んだラディリナだったが——その動きを止めさせたのは鼻先を掠めた征矢だった。地面に突き立ち、イィインと鳴る。
見れば、弓を構えた近衛兵の一群が駆けてくるところだった。エバは口を尖らせる。
「オブ、ロロワさんは後回しにしましょうか。ま、いつでも取り返せますもんね?」
「あぁ」
「さすがっ」
少女はどこまでも人を食ったような態度を崩さない。
エバは手に入れた煌結晶(ファイア・レガリス)にキスをして、オブスクデイトに抱えられると、悠々と去っていった。
ラディリナは逡巡した。
自分も逃げなければ、そう思うのに——
「あ——もう!」
ラディリナは天を仰いで絶叫し、足を少年の方へと向けた。
ロロワの顔色は蝋細工のように白く、頬に触れると氷のように冷たい。ついさきほどまで会話していた相手が死んだなんて、にわかに受け止めがたかった。
これが、死ぬ、ということ。
ラディリナはロロワの腕を自らの肩に回し、担ぎ上げた。片腕がないせいか細身のせいか、想定よりも軽い。
ラディリナは地面を強く踏みながら、唇を震わせた。
「死んでんじゃないわよ……」