「待って~!」
ノクノが必死に呼びかけても、トコトコと前を走って行くスミレの花は、ちっとも聞き入れてはくれなかった。
トコトコトコ、スミレは右へ。ノクノが必死に手を伸ばし、指先が触れ、捕まえた! と思ったとたん、スミレはスルッとすり抜けトコトコと左へ。
追いかけっこをしているうち、スミレはついにアリーナを横切り、出入りのドアの隙間からドームの中へと入っていってしまった。
「そ、そんな……」
ノクノは途方に暮れたが、すぐに意を決してスミレの後を追いかけた。
重いスライディングドアを開けて通路に走り込むと、スミレはもうずいぶんと先を走っており、その小さな背中が曲がり角に消えていくところだった。
——わぁああぁぁ……
アリーナの歓声が遠くから聞こえてきて、胸がドキンと跳ねる。
早く捕まえないと失格になっちゃう!
ノクノの焦りを知ってか知らずか、スミレは右へ左へと自由気ままに駆けていき、ちっとも捕まってくれる気配はなかった。
元気いっぱいのスミレとは違い、ノクノは体力がないことに関しては自信がある。すぐに足取りは覚束なくなっていった。
「も、もう無理……っ」
ぜいぜいと息を切らしつつ通路を曲がると、なぜかスミレが廊下沿いのドアの前で立ち止まっていた。小さな葉を手のように動かして、ドアノブの下にあるパスワード入力キーボードをカチャカチャと動かしている。
「…………」
スミレはリズミカルにキーボードを叩いては、上手くいかないようで首をかしげ、またカチャカチャと夢中でキーボードを叩いていた。
ノクノは小さく頷く。
チャンス!
(そーっと、そーっと……)
ノクノは自分に言い聞かせながら、抜き足差し足でスミレの背後に忍び寄った。距離はついに二メートル、泥棒猫たちを捕まえた要領で飛びかかろうと構えた、そのとき。
——ピッ
軽やかな電子音がしてドアがスライドし、開いたドアの隙間からスミレは部屋の中へと入ってしまった。
ドアの上には『コントロール・ルーム』の文字がある。
「あぁ、もうっ……」
迷っている余裕はなく、ノクノは飛び込むようにしてコントロール・ルームへと足を踏み入れた。
照明の落ちた室内は暗く、何に使うのかわからない巨大な機械がまるで迷路のように立ち並んでいる。その表面に設置された幾百のスイッチが暗闇のなかでぼうっと赤く光り、まるで野生動物の目のようだった。
ぞくり、と思わず震えて身体を掻き抱いてたのは、その不気味さに夜闇を思い出してしまったせいだ。
(大丈夫、大丈夫)
自分に言いきかせ、ノクノは暗がりに目をこらした。
スミレはキョロキョロと部屋の中を見渡していたが、そこかしこにあるスイッチに悪戯をする気はないようで、そのままコントロール・ルームの最奥へとまっすぐ進んでいく。
突きあたったところでは機械と機械のあわいにひと二人分に満たない空間ができており、スミレは頷くような仕草を見せるや、その小さな身体を滑り込ませた。
腰を下ろしつつ、ふぅ、とほっと息をつくような仕草は生き物のようだった。
落ち着いたところを見ると、どうやらもう逃げる気はないようだ。歩み寄りながら、驚かせてしまわないようノクノはそっと声をかける。
「あの……そっち行っても、いい……?」
「…………」
強い反応がないことを肯定と取って、ノクノは一歩、また一歩と近づいていき、ついにスミレの隣に座り、身体を丸くしつつ膝を抱えた。
床の近くには冷えた空気が流れており、わずかに埃っぽい香りがする。
暗闇が、震えるスミレとカーペットとが擦れサラサラと鳴る音を際立たせていた。
あぁそうか、とノクノは理解する。スミレがノクノの前から逃げ出したのは、からかいたかったわけでも、追いかけっこで遊びたかったわけでもない。
ただ落ち着ける場所を探していただけだった。
「……怖いよね」
ノクノも同じだった。
この暗闇から出たら、痛いほどの視線と歓声に満ちたアリーナがあって、それはきっと世界で一番恐ろしいもののひとつだ。
ノクノなんかがいる場所じゃ、ない。
このまま姿をくらませてしまってはどうだろう。十分に時間が経ったタイミングで、スミレを追いかけていたから仕方なく、と申し訳なさそうな顔をして戻ってくるのだ。
きっとフェスの審査はずっと進んでいて、当然ノクノは落とされてしまっているだろう。
もう視線にも歓声にも晒されなくていい! 身の程に釣り合った結末だ。
「——ッ」
ノクノは抱えた膝頭を強く強く握りしめる。
そうやって低きに流れようとする弱い心を踏みとどまらせてくれるのは、いつだって春桜色の風だった。
「でも……ねぇ、よかったら一緒に頑張ろう……?」
下手くそに微笑んだのは、スミレのためではなく自分のためだった。
しかしノクノは不器用で、笑顔も言葉もどうにも嘘っぽくなってしまう。それでもどうにか気持ちを伝えたくて——くよくよと考えるよりも先に、薄く開いた唇から歌がこぼれだした。
それは貝から生まれて間もないころ、見るものすべてが恐ろしくて震えているノクノに、優しいマーメイドの姉妹たちが紡いでくれた子守り歌。
——怖いものはあたしがぜーんぶやっつけちゃうから!
頼もしく言ってくれたのは末の彼女。
——さぁさぁ、今日はパーティだ!
肩を叩いてくれたのは三番目の彼女。
——怖いよね、怖いよね。
一緒に震えてくれたのは二番目の彼女。
——私たちはいつだって一緒にいるよ。
安心させてくれたのは一番目の彼女。
優しいマーメイドたちは、ただノクノのために優しい歌をくれたのだった。
アイドル、というものは世界中のたくさんの人に歌と笑顔を届けるものだとノクノもわかっている。もちろん憧れる。憧れるけれど、まだまだノクノの声は小さくて、たった一人に届けるので精一杯だ。
けれど、広い世界よりも大きなステージよりも、隣にいるただ一人を笑顔にすることより大切なことなんてなかった。
「…………」
スミレが伏せていた蕾をゆっくりと上げる。
墨染めの闇に青いトパーズが落ちていくように、ノクノの歌声はスミレへと染みていく。
やがてか細い震えは止まった。
ノクノがスミレの葉に触れると、その先が控えめに丸くなり、ひとつの意思を持って返してくれた。
暗がりに溶けてしまいそうな密やかさで、スミレは淡い紫の花を咲かせていた。
ノクノは微笑む。
ありがとう。勇気を出してくれてありがとう。
ねぇ行こう?
恐れまじりに触れあうだけだった手と手を繋ぎ、ノクノとスミレは体温を分け合いながら立ち上がろうとした——そのときだ。
コントロール・ルームのドアが開き、誰かが室内に入ってきた。
「!」
ドームの管理者の人が来たのだろうか。
ここはきっと勝手に入ってはいけないところだった。もしかしたら酷く怒られてしまうかもしれない。
最悪、失格になってしまうかも……
持ち前のネガティブな想像が働いて、ノクノはとっさにスミレを抱きかかえ、物陰のさらに奥へと身を潜めた。
目だけチラリと出して向こうの様子を窺う。
用事を済ませてすぐに出て行ってくれればいいけれど……
入ってきた影は、部屋の電気も付けないまま壁沿いのブレーカースイッチへと歩み寄った。
こんなに暗いのに見えているのだろうか。
幾百のスイッチをつかのま眺め、「違う」とでも言うようにかぶりを振って、別の機械へと向かっていく。
ノクノの目も暗がりに慣れてきており、入ってきたのはどうやら大人ではなく、ノクノよりも頭ひとつ小さな子どもらしい、ということがわかった。
もしそうであれば、ドームの管理者ではなく大人とはぐれてしまった観客かもしれない。どれだけ心細いだろう。早くここから一緒に出て、親元に戻してあげなければ。
声をかけるため物陰から身を乗り出すと、機械を眺めている子どもの背中が、よりはっきりと見えた。
淡紫銀色の髪に、ボリューム豊かなサテンのドレスがよく似合っている。それはおしゃまなよそ行きのワンピースというよりも、ダンスや歌を披露するためのステージ衣装と呼ぶべき華やかさだった。
ただ観客席に座っていてはもったいない、きっと歓声を浴びて大舞台に立っているのが似合う——そう、例えばサーカスだとか。
かつての夜が、突き刺すような鋭さで脳裏に蘇った。
「——ひと、殺し……」
抑えきれなかった言葉が、ノクノの口から溢れ落ちる。
その小さな音さえ聞き逃さず、サーカス人形がこちらへと振り向いた。
深い紫のドレスにフラフープ、ジャグリング・クラブ、どんどん広がる真っ赤な血——路地に転がった、白い首。
美しい月がのぼる夜、サーカスが、サーカスがやってくる。
ノクノを殺しにやってくる。
「——っ、っ……!」
迸りそうになる悲鳴を堪え、ノクノは左手で口を抑えた。スミレを右手で抱き込みながら、必死に逃げ場を探す。
出口のドアはひとつ、あそこから出るしかない!
必死に思考を巡らせているノクノに、サーカス人形はゆっくりとした足取りで近づいてくる。何気ない動きなのに、まるで張り出し舞台をゆくプリマドンナのように洗練されている。
間違いない、あの晩に見たプリマ・ドールだ。
サーカス人形は陶土をパニエ皿に編み上げていくように、冷えきった声を紡いだ。
「こんにちは」
「よく聞こえなかったの」
「返事がなければわからない」
「嗚呼、人殺し、という声が聞こえたような」
「そう、見てしまったの」
「左様ならば」
「カーテンコールを始めましょう」
サーカス人形が嗤う。闇の中で、三日月に裂けた口が赤い。
「レディース&ジェントルメン。さぁ、手を叩いて、怖がらないで」
サテンのドレスが翻る。レースの重なったところから取り出されたのは、色鮮やかなお菓子や玩具の数々だった。
小さな木馬がある、つぶらな瞳のぬいぐるみがある、アイシングが施されたクッキーがあり、リボンで留められたキャンディがある。
どれもビビッドな蛍光ピンクと蛍光グリーンで彩られ、薄闇の中で異様なほどに光っている。
「さぁ玩具をどうぞ、お菓子はいかが? 子どもはみんな好きでしょう。たのしいおいしいおぞましい、ダークステイツから世界に飛び立つ、“ハートルールーのハッピー・トイズ ”」
また一歩、サーカス人形が近づいてくる。
ここで物陰に隠れても追い詰められるだけ。考えるよりも先に身体が動き、飛び出した。
「どうして逃げるの?」
「っ……!」
あの日見た『死』が皮膚一枚を隔ててそこに迫っている。
歌を捨てられなかったことが悪いのか。
リリカルモナステリオに来てしまったことが悪いのか。
ミチュの手を取ったことが悪いのか。
走馬灯のように記憶が蘇るのを、振り払うようにかぶりを振って、ノクノは無我夢中で床を蹴る。
縦列に並んだ機械を横に曲がった瞬間、機械の角に頭がぶつかり、近くで何かが砕ける軽やかな音がする。
構ってはいられない。
このまま死ぬ。なにも無くなる。ただ、あの恐ろしい闇に包まれていく。
そんなの、嫌だ。
命がけのノクノに対し、背後から迫り来るサーカス人形は、ふわふわと地に足のつかないどこか夢見心地な声で歌っていた。
「——歓声はサーカス人形のため、サーカス人形は歓声のため」
そこまで歌いあげ、つかのま黙し、
「……でも歓声はもういらないから」
さようなら。
サーカス人形は、トン、と軽やかに床を蹴り、一気にノクノへと肉薄する。
出口はすぐそこ、ノクノは振り返らずに駆け抜けるが、間に合わない。
サーカス人形が手を伸ばし、ノクノのうなじへかすかに触れた、まさにそのとき——
*
音もなくドアを開け、気配を殺したリリミがVIPルームに入ると、タマユラの歓声が聞こえてきた。
後ろ手にそっとドアを閉める。
席から立ち上がらんばかりの勢いで着物の袖を乱し、夢中で拍手するその仕草は、いつもの楚々としたタマユラとは大違いだが、だからこそ来て良かったと感じられた。
もちろん、タマユラが歓声をあげているのが自分たちではなく、アイドルとかいう素人と大差ない少女たちであることについては思うことがある。命をかけてステージを作り上げるサーカス人形に比べ、やつらの笑顔の何と安っぽく滑稽であることか。
業腹だ、と言って差し支えない。
けれどもリリミは、タマユラが幸せに過ごしてくれるのならば、それがいかなる手段によって成されたとしても構わないのだった。
再びリリミがタマユラの背後に控えると、すでに控えていたララミが口の動きのみで状況を問うてくる。
(ずいぶん遅かったね)
リリミもまた、音にはせず口の動きのみで言葉を作った。
(見られた。人殺し、と……私たちの素性を知っている者がいた)
(処分はしたの)
(いえ。逃げられた)
(……そう)
ララミはゆっくりと視線を落とし、リリミの指先で止めた。命のよすがとしてブランコを掴んでいた手は、かつてはどこもかしこも傷つき、すり減り、煤けていた。どれだけ磨き洗浄したとしても、関節の玉には落としきれない血の汚れがこびりついていた。
しかし猩々童子によって一度破壊されタマユラに直してもらった今は、ひとつの染みもなく、白く無垢に光っている。
(僕たちは幸せになりすぎてしまった)
(私たちは幸せになりすぎてしまった)
幸せは双子人形をただのサーカス人形にしてしまう。それは胸がむず痒くなるような心地よい喪失感を伴うが、その甘やかな痛みにいつまでも浸っていることは許されなかった。
(……これが残っていたの)
リリミが差し出す。開かれた手のひらの中で、淡いレモン色の貝の破片に混じり虹色のプリズムパールが転がっていた。
(……マーメイドだね)
それは陸にあがったマーメイドが水のない陸上で声を発するため、肌身離さず身につける特別なアイテムだった。これが無ければマーメイドたちは陸上で歌うことはおろか、会話をすることさえままならない。
(えぇ)
逃げる後ろ姿しか見ることはできなかったが、闇の中で華やかに翻ったワンピースは明らかにステージに立つための衣装だった。
リリミはタマユラへと一歩近づきつつ、温度のない人工紫水晶(アメジット)の瞳で会場を見下ろした。そこでは第一の試練をこなした少女たちが次の試練を待っている。
きっとその中に、リリミの手をくぐり抜けていった者がいるに違いなかった。
(大丈夫)
(うん)
双子人形は頷きあう。
レディース&ジェントルメン。
すべてはもう、終わりになるのだから。
作:鷹羽知 原作:伊藤彰 監修:中村聡