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クレイ群雄譚(クロスエピック)

第3章 光さす墓碑

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第3章 3話 ふたつの碑

 リップモはケテルサンクチュアリの中でも温暖で美しい海に恵まれ、夏には観光客で賑わう。
 沿岸には白亜の家々が立ち並ぶが、そのほとんどが豊かな上流階級の人々の別荘であり、本宅は天空の首都ケテルギアにあるという。
 日々の生活にあえぐ地上の人々にとって、リップモでのバカンスなど夢見ることすら出来ない天上の遊行だ。
 今の季節は秋、バカンスのシーズンは終わっている。海温はやや低く、ロロワたちが流された砂浜に観光客がいなかったのはそれが原因だろう。
 ロロワたちが解毒にてんやわんやしているうちに、モーダリオンはどこからか一頭の黒馬を引いてきた 。
「俺の馬だ。名はニグラ。ロロワは俺の前に乗れ」
「……そうやって、ロロワを殺るつもりじゃないでしょうね」
 ラディリナの視線は斬りつけるかのように鋭い。
 毒を盛られたことでモーダリオンへの心象は最悪らしい。
「まさか。病人を乗せるなら、揺れが少ない方が良いだろう」
「確かにいい馬だわ」
 と、ラディリナはニグラを見やる。
 さすがは騎士団長の馬と言うべきか、逞しい体躯もつややかな毛並みも、路傍で車を引いている騾馬とは雲泥の違いだ。
 甲冑のような漆黒の馬具を着けており、顔は兜に覆われているが、隙間から見える瞳は穏やかで知性に溢れている。
「でも、それなら私がニグラに乗ってもいいでしょう」
「いや、俺以下の騎手を乗せるのはニグラへの礼を失している。無理だ」
「は? ……私があなた以下?」 
 唖然とするラディリナは、あまりの暴言に自分の耳が信じられないといった様子だ。
 ニグラの青いたてがみを撫でながら、モーダリオンは素知らぬ顔をしている。
「事実だ」
「……っ!」
 ラディリナは反論のため唇を戦慄かせたが、誇り高きドラグリッターであるがゆえに実力を見誤った発言はできないのだろう。
 相手はシャドウパラディンの団長、さすがに馬術で張り合って勝てる相手ではない。
「……ドラグリッターはドラゴンと共に在る者。馬術を必要としないわ」
「そう、お前が恥じることはない。ラディリナの馬も調達しないとな。ロロワ」
「は、はい」
 促されるままモーダリオンの前に騎乗したロロワだったが、徒歩のラディリナから立ち上る殺気は肌を炙るほど強烈だ。
「う~ん……」
 撃たれた患部とは別に、ズキズキと頭痛がした。心因性のやつだ。
 神秘的で美しい容貌によって誤魔化されそうになるが、このモーダリオンという男は恐らく——メチャクチャ無神経だ。
 つまり、ラディリナと絶望的に馬が合わないタイプ。 
 予期しない方角に増えた悩みの種にロロワが頭を抱える最中も、ニグラは規則的に歩を進めている。
 砂浜を出て、海岸沿いに舗装された石敷きの街道へ。いくらか行ったところで、晴天に映える白壁の家々が姿を現した。
 丸く作られた屋根は澄みきった青で、空と溶け合うかのように美しい。家先にはテラコッタの鉢が飾られ、秋の花々が風に揺れている。窓を開け放しているのか、どこからかアコルディオンの音色と子どもの笑い声が漏れ聞こえてきた。
 もし『天国』を夢想し形におこしたなら、この光景になるだろう——そう思ってしまうほどすばらしい町並みだ。
「イメージしてた通りの“ケテルサンクチュアリ”って感じです」
 ロロワが独りごちるように呟けば、背後に騎乗するモーダリオンは「あぁ、リップモはな」と低く唸る。どこか含みのある言い方だ。
 それに気づかないロロワがあたりに見惚れていると、白亜の町並みのどこかから、かすかに動物の鳴き声が聞こえてきた。
 甲高い『ヒヒーン』、これは……
「馬?」
 首を傾げた瞬間、そちらに身体ごとグラリと傾いて馬上から落ちそうになる。ニグラが突然進行方向を変え、鳴き声がした方に向かって歩き出したのだ。
「ニグラ?」
 怪訝なモーダリオンの声も届かない様子で、ニグラは確信に満ちた足取りでそちら向かう。
 陽のさす方へ道なりに進むと、辿り着いたのは立派なホワイトアイアンのゲートに囲まれた屋敷だった。周りに立ち並ぶ屋敷と比べても一際立派で、思わず感嘆の声が漏れてしまう。秋バラの咲き誇る生け垣の隙間からは、青々とした芝の庭が見えた。
 そこでニグラはようやく足を止め、ブルル! と鼻を鳴らすように嘶いた。
 応えるように生垣からひょっこりと顔を覗かせたのは、目が覚めるほど美しい白馬だった。
 ニグラが鼻先を白馬に近づければ、白馬もどこか親しげにニグラに顔を寄せる。背に乗せているロロワたちのことなど忘れてしまったかのようだ。
 後ろからついてきたラディリナは、フッと鼻を鳴らしてせせら笑った。
「誰が私以上の騎手なんでしたっけ? ずいぶんとニグラに舐められてるみたいだけど」
 ラディリナの嫌味はモーダリオンの耳には届いていないようだ。男の視線は屋敷を囲うアイアンゲートに刻まれた鳥の紋に向かっている。
「ツバメ……」
 梔子色の目を眇め、沈黙する。
「えーと……?」
 戸惑うロロワが為すすべなくニグラのたてがみを撫でていると、不意に、見知らぬ女性の声がした。
「あら、立派なお馬さん!」
 一同がそちらに目を向ければ、ツバ広の麦わら帽を被った初老の女が、門扉の前で目を丸くしていた。
 庭仕事をしていたのか、荒いリネンの上下は黒い土で汚れていた。肌は陽に焼け髪はパサつき、どう見ても貴族の奥様という身なりではない。この屋敷の使用人だろうか。
 女は足早に近づいてきて、申し訳なさそうに腰を折った。
「すみません、うちの子……アルブが噛んだりは?」
「それは全然!」
 慌ててロロワは手を横に振る。
「珍しい! アルブはなかなか偏屈で。みーんな髪の毛の先だの、袖の端だの、ムッシャムッシャやられてるの」
 女の言葉を理解しているかのようにアルブ——純白の馬は不満げに高く鳴いた。
「だが、いい馬だ。よく手入れされている」
 とモーダリオンが褒めると、アルブは頷くように首を縦に振る。
 女は「良かったわね、アルブ」と声をかけ、
「綺麗な騎士様にそう言ってもらえるなんて、うちの馬丁も喜びますよ」
 女は陽に焼けた顔でにっこりと笑い、手で屋敷を指した。
「良かったら中にどうぞ。お茶でもいかが? 焼きたてのクッキーもありますよ」
「ぜひ」
 やや食い気味でモーダリオンが提案に乗る。ラディリナは柄の先でモーダリオンの薄い尻を小突いた。
 外からも屋敷の広さは推し量れたが、門扉をくぐり、中に入ると予想を超えていた。
 芝の整えられた広大な庭があり、屋敷はその遥か遠くにある。モッコウバラのアーチを抜けた先では、噴水がキラキラと輝いていた。
 ロロワが目を奪われていると、遠くで庭の剪定をしていた男と目が合って、お互いに小さく会釈する。
 先をいく使用人の女は、満開の白バラを一輪摘んでニグラのたてがみに挿した。ニグラに寄り添うように歩んでいたアルブのたてがみには、赤いバラを一輪。
「もう夏は終わっちゃったでしょう。旦那様たちはとっくにお帰りだし、もう暇で暇でねぇ。お客さんは大歓迎なの」
 ロロワたちが案内されたのは、庭にしつらえられた瀟洒な東屋ガゼボだった。白い木造屋根の下にはアイアン製の丸テーブルとチェアが置かれており、気持ちのいい風が吹き抜けている。
 そこに腰掛けてロロワたちが待っていると、しばらくして、トレイにティーセットを載せた女が戻ってきた。
 スズランのレリーフ皿に焼きたてのクッキーが並び、華やかな金彩のティーカップからは湯気がやわらかに立ち上った。
「留守中は自由に使っていいと言われているの。どうぞ」
 朗らかに勧められても、ロロワはどう手をつけていいものかわからず戸惑ってしまった。
「ど、どうも……」
 それはラディリナとモモッケも同じようだ。
 こんな高価そうなカップをもし壊してしまったら……
 三人揃って硬直してしまったが、そんなことには一向に構わずモーダリオンはクッキーを齧った。優雅な仕草でティーカップに口をつける仕草はちょっと腹立たしくなるほど絵になっている。
 リップモでバカンスをしていたほどだ、モーダリオンは上流階級の出身なのかもしれない。 
 ティーカップの華奢なハンドルをつまみ、ロロワは恐る恐る紅茶に口をつけた。途端、胸に痛みが走って激しく噎せる。
「ごほっ、ごほっ!」
 盛大に紅茶をこぼしつつ、震える手でティーカップをソーサーに戻した。
 割らなかった、セーフ!
 しかしなおも痛みは収まらず、ごほごほと噎せながら身をよじる。
 女は白いナフキンで紅茶のシミを拭き取って、心配そうにロロワの肩に手を置いた。
「ごめんなさいね、お口に合わなかったかしら」
「いえ、そうじゃなくて……ちょっと怪我をしてて」
 ロロワは負傷を隠すためにマントの前を閉じていた。
 どうにか息が整って、弁明のためにマントを開ければ、無残な上衣の焦げ穴と治りきらない傷口が露わになった。
 女はハッと息を呑む。
「いけないわ。お医者様を呼びましょう」
「大丈夫です。普通の方法じゃ治せない傷なんです」
「まぁ……力になれなくてごめんなさい。そうだ、せめて私たちに出来ることをさせて」
 そう言って、女はロロワのために清潔な替えの衣服や靴を用意してくれた。
 使用人たちによってアイアンテーブルに積まれる衣服の山に、ロロワは慌てて首を横に振る。
 糊の効いたシャツに、厚手の下衣、そして牛革でできた外套まで。誰かのお古なのか真新しいものではなかったが清潔で、ロロワには分不相応な高級品であることは身に着けずともわかった。 
「こんな良い物、もらえません!」
「良いのよ、奥様もお許しくださるわ。元々、坊ちゃんが成長されてサイズが合わなくなったのを残してあっただけだもの」
「坊ちゃん?」
 ロロワが聞き返すと、女は今日で一番の笑顔になった。
「えぇ、アルブのご主人よ。そうだ! もし良ければ、坊ちゃんに挨拶してもらえるかしら?」
「ぜひ!」
 お茶を済ませてから東屋を出て、ロロワたちは女についていった。
 庭を抜け、屋敷をぐるりと裏に回っていく。海が近いためか、わずかに潮の香りがしてきた。
「あっちよ」
 先頭に立ちながら、女は頬を上気させ『坊ちゃん』について語った。

「坊ちゃんは子どもの頃から素晴らしいお人柄だったの。ご家族から使用人、もちろん飼っているアルブやネコたちまで、坊ちゃんのことが大好きだった」
「そう、思い出した! こんなことがあったわ。天空の屋敷には使用人も住んでいて、その子どもたちが坊ちゃんの持ち物を酷く羨ましがったそうなの」
「そしたら坊ちゃんはすっかりあげておしまいになったのよ。細工の綺麗な時計だとか、ペン先が金で出来た万年筆だとか……最後には立派な外套まで! 丈夫な坊ちゃんが風邪を引いたところを、私は初めて見ましたよ」
「——坊ちゃんはそういう方でした・・・

 裏庭に出た。
 気持ちいい風が吹いている。そばは小さな崖のようになっていて見晴らしが良く、白い柵の向こうにはリップモの青い海が一望できた。
 そこに、まるで海を見守るようにして墓碑は建っていた。
「11年になります」
 女は微笑む。
 名と没年が記された台座の上には、見上げるほど大きな石剣の像が建っている。純白の大理石を掘り出したもので、柄には飛び交うツバメの意匠が細やかに施されていた。
 供花が置かれていなければ、墓碑ではなく何かしらの芸術作品ではと勘違いしてしまうほど威厳が満ちている。
 女はその前に膝をつき、用意した木綿布で墓碑を磨き上げていった。
 落ち葉を払い、彫られた文字ひとつひとつを辿っていくように丁寧に、丁寧に。
 そうして一日と欠かすことなく手入れがされてきたのだろう。11年の年月など感じられないほど碑は白く輝き、わずかな曇りさえなかった。
 あぁ、と思い出したように女は声をあげる。
「坊ちゃんはリップモがお好きだったから、奥様がこちらにもお墓を作られて、本当のお墓は天空ケテルギアのお屋敷にあるんですよ。でもね、いいの」
 女は手を止め、唇に淡い微笑みを浮かべながら俯いた。
「きっと私たちの想いこそ、坊ちゃんの墓碑になるんでしょうから」
 ずいぶんとしんみりとした空気が漂い、一行の後ろから着いてきていたアルブとニグラのブルル……という鼻音だけが秋風に混じって消えていく。
 それに気づいた女は声を弾ませた。
「だからね、あの服は受け取って欲しいの。坊ちゃんの心は消えることなくある。それを私たちが伝えていかなくてはね」
「——では」
 突然口を挟んだのはモーダリオンだった。
「失礼なお願いになるが、アルブをお借りできないか。もちろん、病人のロロワを領都に送り届けたら、御礼と共にお返しする」
 女の返答は早かった。
「はい、どうぞ」
 動揺したのはロロワで、思わず話に割って入った。
「そんな簡単にいいんですか? いや、僕が言うことじゃないんですけど……!」
 いくらこの屋敷が裕福だとはいえ、アルブは大切に育てられた馬だろう。きっと何かあれば責められるのはこの人だ。
 しかし女は太陽のごとく朗らかに笑った。
「坊ちゃんなら、きっとそうなさいますから!」
 墓碑はさんざめく陽に照らされ、白く光っている。

      *

 屋敷を出てしばらく街道を行き、夕暮れ頃、一行は森林地帯に入った。
 密に繁る木々が日差しを遮り、あたりは日没前とは思えないほど暗い。陽がないだけで気温はぐんと下がるらしく、生臭い空気で腑の底まで冷えた。
 不気味に淀む森の中、モーダリオンの声が怜悧に響く。

「ケテルサンクチュアリは天空と地上に分かれていることは知っているな? 首都ケテルギアは富み、それと比較すれば地上は貧しく余裕がない」
 バウワウ! バウワウ!
 バウワウ! バウワウ!
「もちろん天輪聖紀に入り、様々な変化が訪れた。希望は絶望に打ち勝ち、地上からは新たな風も吹いた。ケテルサンクチュアリは確実に良い方向に向かっている——が、変化という物は剣で患部を断つようには訪れない」
 バウワウ! バウワウ!
 バウワウ! バウワウ!
「——つまりケテルサンクチュアリでは、まだまだこういうのは日常茶飯事だ」
 バウワウ! バウワウ!
 バウワウ! バウワウ!
 モーダリオンの高説に応えるように魔獣がけたたましく鳴いた。
 追われている。
 ロロワが馬上から振り返れば、3メートルと離れていない目と鼻の先に、涎を垂らして追ってくる魔獣の姿があった。
 数にして10。しかもどんどん増えている。
「説明はありがたい、ありがたいですけど……今! それ話す必要あります?!」
「必要なかったか。すまない」
「謝って欲しいわけじゃなくてっ」
「ごめんね?」
 手綱を操るモーダリオンは首をコテンと傾ける。
「可愛く謝って欲しいワケでもないですっ!」 
 ロロワの絶叫に応えるように、魔獣たちがバウワウと鳴いた。
 紙一重まで肉薄されつつ森を駆けていると、やがて荒れた道が開け、麓に村が見えてきた。煉瓦造りの家々がポツポツと建ち並び、そこを守るように木造の柵が組まれている。
 あそこまで辿り着けたら!
 希望によってロロワの瞳に光が宿る。それとほぼ同時に、背後に迫っていた殺気がふっと和らいだ。
「……?」
 怪訝に思ったロロワが振り返れば、魔獣たちとの距離がさきほどよりも開いている。足取りは鈍くなり、猛々しかった顔にはっきりと躊躇いがよぎっていた。駿足を駆るニグラとの距離は見る間に離れていく。
 グルル……
 魔獣たちは憎々しげにロロワたちを睨んでいたが、やがて諦めたように踵を返し、森に戻っていった。
「どうして……?」
 突然の幕切れにロロワが呆気に取られているうちに、ニグラとアルブは麓の村へと駆け込んだ。
 すでに太陽は地平線に沈み、村は山の影にすっぽり覆われている。
 夕餉の支度をしているのか、家々の煙突からは灰混じりの煙が立ち上っていた。その壁は剥離が放置されており、傾いた木造の柱が目につく。荒涼とした風が吹き、ガラスの割れた手堤カンテラが頼りなく明滅した。
 牧歌的といえば聞こえはいいが、絢爛なリップの街並みとは打って変わって、こちらの村はずいぶんうらぶれている。
 石塊が剥き出しになった道をロロワたちが進んでいると、村の近くまで迫っていた魔獣の気配に気づいたのか、厩舎小屋の牛や騾馬が足を踏みならして騒ぎだした。
 その異常な事態に気づいたのだろう。
 民家の扉が開いて往来に出てきたのは、濃い髭を蓄えた人間ヒューマンの男だった。
 年齢は五十そこそこだろうが、薄汚れた肌のせいで六十近くに見える。手にはずいぶんと年季の入った猟銃が提げられていた。
 男は落ち窪んだ目で睨むようにロロワたち一行を見る。
「何だあんたら」
 と、モーダリオンの鎧に目をとめた。
「あんたは……騎士さんか」
「あぁ。病人を領都に運んでいる。一晩泊めて欲しいんだが、この村に宿屋はないか」
「こんな片田舎に宿屋なんてモンがあるように見えるか? 痛い目を見たくなきゃ、さっさと出ていくんだな」
 男は手にした猟銃を持ち上げ、いつでも撃てるぞ、と脅してくる。
 アルブは苛立ったようにブルルと鼻を鳴らし、下馬したラディリナも不快そうに顔を顰めた。
 リップモほどの厚遇を期待したとは言わないが、ここまで警戒されるとは思わなかった、というのが正直なところだ。
 モーダリオンはニグラから下馬すると、軽く目礼をして男に近づいていった。
「それは失礼した。贅沢は言わない、空き家でも案内してもらえたら嬉しいんだが」
 言いつつ、モーダリオンは男の手に何かを握らせた。
 チラリと見えた硬貨の色は銀だ。
「あぁ、おぉ……」
 途端に男は態度を軟化させ、構えていた猟銃を肩にかけた。
 うーんと唸って顎に手をやる。
「空き家、空き家ねぇ、そんなもん——あぁ」
 男は何事か思い出した様子で、眉間に皺を寄せて苦々しげな表情になった。
「“化け物”が住んでいた家なら、ある」
 案内する道すがら、男はその“化け物”についてぶつぶつと、悪夢を思い出していくような口調で語った。

「ガキの時からおっかないヤツだったよ。うちのイヌも、ネコも、あいつに殺された。家畜を腹から裂いて腸から食ったし、ちょっとでも逆らったら大人にだって容赦がなかった。ギラリとこっちを睨む、あのおっかない顔……うぅ、思い出しても震えがくる」
「あいつを最後に見たのは、もう二十年も前になるか。ある晩、山の方から魔獣の鳴き声が響いてきた。縄張り争いの声じゃねぇ、発情期でもねぇ。何かとんでもない物にやられていく断末魔の悲鳴だった。地獄だ。ようやく長い夜が明けて、オレたちは村の者総出で震えながら見に行った」
「魔獣の死骸が、山みてぇに積まれてた。山、山だ。例えとかじゃあなく、山。千に届こうって数が、残らず腹を裂かれて、はらわた垂らして、死んでんだ。その前に、あの化け物が手を真っ赤に濡らして、ギラギラとした黒い目で立ってた」
「村の連中は魔獣が村に寄りつかなくなって喜んでたが、オレみてぇな猟師はおまんまの食い上げだ。山の魔獣は残らず殺されちまって、増えるまで二十年! 出て行ったあいつが生きてんのか死んでるのか知りたくもねぇが、オレは死んでてくれと思うね」

 語り終えた男が口を閉じるのとほぼ同時に、ロロワたちは目的の空き家に着いた。
 化け物が住んでいた場所。
 男のおどろおどろしい語り口によって身構えていたロロワだが、思わず拍子抜けしてしまうほど『普通』だった。
 村の中でも奥まったところにあるその家は、伸び放題の樹木に覆われており、そのまま飲み込まれ掻き消えてしまいそうなほど弱弱しい佇まいだった。
 黒土の瓦は半分以上が落ちて、地面で砕け散り砂利に混じっている。木造の扉は建て付けが悪いのか隙間風でびゅうびゅうと鳴り、投石でもされたらしく窓ガラスはすべて不自然な穴が空いていた。
 その侘しい姿には確かに二十年分の年月を感じられるが、所詮はただの遺棄された空き家に過ぎず、“化け物の家”と呼ぶほどの物ではない。
「好きに使え」
 きっと一秒でもこの場に居たくないのだろう。男は吐き捨てて去って行った。
「そうさせてもらう」
 ニグラとアルブを木に繋ぎ、ロロワたちは家へと足を向ける。
 木造扉は施錠されておらず、ラディリナの乱雑な蹴りで簡単に開いた。その足で踏み入って、ラディリナは室内を見渡して頷く。
「埃っぽいけど……まぁ、こんなもんでしょうね」
「うん、そうだね」
 村落の中でも貧しかったのか、家はごく狭い。
 板敷きの床には割れた窓ガラスや木の葉、大小の石が散乱して酷い有様だ。足元でネズミがチュウと鳴き、突然の来訪者に慌てて逃げていく。
 それでも『こんなもん』という評価になるのは、ロロワが野宿に慣れており、ラディリナもそれに近い暮らしをしてきたことに起因する
 屋根があれば上等、風が防げるのなら天国だ。
 もちろんこの家に電気は通っておらず真っ暗だが、今晩は月が出ている。一夜を過ごすだけなら問題にはならない。
 奥には質素な木造ベッドが二台あり、毛布がかかったままになっているが、年月のことを思えばそのまま使うのは避けた方がいいか。
 一行は手分けをして蜘蛛の巣や埃を払い、一晩の寝床を作り上げた。
 木造の食卓の上は病人のロロワ、床の上がラディリナとモモッケ、モーダリオンという割り当てだ。
 食事はモーダリオンの携帯食を分け合って、間もなくめいめい眠りについた。
——化け物
 禍々しい言葉の響きが妙に脳裏に残り、痛みもあってなかなかロロワに眠りは訪れなかった。一晩で千の魔獣を殺したというのが本当なら、確かにその言葉が相応しい。
 ここはそれが住んでいた家なのだ。
 びゅお、と吹き込む風がまるで獣の唸り声のように聞こえて落ち着かない。
 起きているのか眠っているのか、中途半端にうつらうつらとしているうちに夜は更け、気づけば空が明るくなっていた。
 チチチ、と小鳥が鳴く声で目を開く。
 モーダリオンと目があった。
「……おはようございます」
「おはよう」
 モーダリオンは鎧も脱がずに床の上で片膝を抱えて座っていた。見開かれた梔子色の瞳がロロワの姿を映し、爛々と光っている。
「……寝てないんですか?」
「いや」
 嘘だろう、と直感的に思う。きっとこの男は一晩中ロロワたちを見張っていたのだ。
 シャドウパラディン第四騎士団長が、睡眠という無防備をろくに知りもしない相手に晒すはずがなかった。
「…………」
 もう目は冴えてしまっている。しかしこのまま自分を見張るモーダリオンと沈黙を共有する気にはなれず、ロロワは食卓から降りて、出入りの扉へと足を向けた。
「どこに行く」
「えーっと、散歩でも」
「そこに古井戸があった。顔でも洗ってくるといい」
「そうします」
 ラディリナに蹴られたせいで傾いだ扉を後ろ手に閉め、ロロワはふぅと息を吐く。
 早暁の空はまだ夜の気配が残り、朝とのあわいを鳥が群れを成して飛んでいく。あたりを見渡すと、モーダリオンの言った古井戸が秋草の茂る先に見えた。石で囲われた上に木造の屋根があり、そこに桶が備えられたいかにもという形をしている。
 朝露に足を濡らしつつ秋草を分け入ると、ふと、古井戸の手前に気になるものがあることに気がついた。
 やや高く盛られた地面があり、そこだけ草が少ない。何かと思えば石が積まれており、その中央には人の頭ほどの岩が転がっているのだった。自然に出来た物とは思えない。
 例えば何かの記念碑、宝物を隠している……誰かの墓。
 岩はどうやら本来は直立していたものが転げてしまったらしく、何かが彫られている側は地面に埋もれてしまって僅かにしか見えなかった。
「ふ、んっ……!」
 指先に力を込めロロワが岩を起こすと、そこにはやはり何かが人工的に刻まれていた。
 しかし手で土を拭い取ってみても、彫られた文字は荒く、上手く読み取ることはできなかった。
 何のための物なのか、誰のための物なのか——到底見当もつかなかったが、そこには確かに見知らぬ誰かの想いがあった。
 ロロワは膝を突き、土で汚れた両手をそっと合わせた。
 と、家の方から目を覚ましたらしいラディリナの声が聞こえてくる。
「ロロワー!」
「今行くー!」
 慌ててロロワは立ち上がり、元来た方へと走り出した。
 やがて風が吹き、石碑はそっと倒れ、草木の落とす影のなかに消えていく。
 それを顧みるものは誰も居ない。