カードファイト!! ヴァンガード overDress 公式読み物サイト

小説

Novel
クレイ群雄譚(クロスエピック)

第3章 光さす墓碑

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第3章 6話 濃霧と沈黙

 部屋の扉が閉まる、バタンという音でロロワは目を覚ました。
 入ってきたモーダリオンの手にはビストロ皿があり、テグリアのパウンドケーキがいくつか乗っている。昨日の晩餐で余ったものだろう。
「朝ごはんもらったんですね」
 モーダリオンは白いタイル敷きの床に腰をおろし、フォークをケーキに突き立てた。
「いや、どうせ俺に食事は出ないだろう。厨房から失敬してきた」
「怒られますよ?!」
 テグリアの物腰は穏やかだが、規則に厳しい性格であることは付き合いの浅いロロワにもわかる。
「?」
 モーダリオンは不思議そうに首を傾げ、
「気付かれなければ怒られることもないだろう。一度もバレたことはない」
 隠密能力の無駄遣いである。
「一度も……って、いつも兵舎ここの厨房に侵入してるんですか?」
「11年ぶりだがな。間取りが変わっていなくて良かった」
 11年。
 微妙にキリの悪いその数字に、確かテグリアが師を喪ったのもそのぐらいだったな、とロロワは思い出す。
「こちらには何の用だったんですか?」
「もちろん任務だ」
 モーダリオンは頬をパンパンにさせてもごもご言う。
「来なくて済むなら、それに越したことはなかったんだがな」
「付き合ってもらっちゃってすみません」
 ロイヤルパラディンの面々に厄介者扱いされつつも、ロロワに付き添ってくれているモーダリオンは案外責任感が強い。
 しかしモーダリオンは「あぁ、違う」と小さく首を横に振り、
「雑草は根を断たないといつまで生えてきて鬱陶しい、という話だ」
「……?」
 要領を得ない台詞に、ロロワは怪訝な表情になってしまった。
 しかしモーダリオンはそれ以上説明を付け足す気は無いようで、黙々とケーキを飲み込んでいる。
 ロロワは“雑草”という言葉を拾って問いかけた。
「モーダリオンさんってガーデニングするんですか?」
「する。うちの庭は今リコリスが見頃だ。そろそろ季節は終わるがトリカブトも綺麗だぞ」
「なるほど……ってどっちも毒花じゃないですかっ」
「俺の毒は手作りの温かみが売りだからな」
「自家製クッキーみたいに言わないで下さい」
 無駄話をしているうちに、寝起きでぼんやりとしていた頭も冴えてきた。
 ロロワが着替えを済ませて部屋を出ると、ちょうど回廊の先からテグリアとラディリナがこちらに歩いてきた。
 朝の鍛錬をしていたのか二人の肌には汗が滲み、前髪が額に張り付いている。
 半歩先をいくテグリアに、ラディリナが尋ねた。
「本当にもらっちゃっていいの?」
 かざしたのは銀細工の髪飾りだった。
 蝶の羽が模られ、その中心にはつやつやとしたカボションカットの宝石がある。朝露の滴りを思わせる爽やかな碧色へきしょくに輝いていた。
 テグリアはピンクの組紐で髪を結い直し、頷く。
「えぇ。私にはデザインが愛らしすぎる気がして、ずっと仕舞いこんでいたのです。使って頂けたら品も喜びます」
「大切にするわ」
 ラディリナはポニーテールの結び目に髪飾りのピンを通した。赤みの強い彼女の髪の上で、碧色はいっそう密度を増したようだ。
 ふふ、とテグリアが堪えきれないように笑みをこぼし、ラディリナが小さく首を傾げる。
「なに?」
「いえ、もし妹がいたらこうだったのかと」
「アクセサリーや服のお下がりをあげたり……とか?」
「はい。身近に年少者がいれば日常だったのかもしれませんね 」
「えぇ。まぁ、私も一人っ子だからわからないけれど……」
「だろうね」
 合流したロロワが思わず口を挟むと、ラディリナからは「あ?」と険を帯びた威嚇があった。
 その足で食堂に入り、ロロワとラディリナは団員たちに混じって朝餐を取ることになった。
 本日のメニューは、雑穀がぎゅっと詰まった焼きたてバゲットに、カリカリのベーコンエッグ——ベーコンは本ほど厚い——というもの。目玉焼きの真ん中にナイフを入れると、半熟の黄身がとろりと流れだした。
 朝食を取らず、昼夜の二食で済ます人々も多いなかで、さすがロイヤルパラディンの兵舎という豪華さだ。
「健康な身体は、良い睡眠と良い食事から生まれるものですから」
 と、向かいに座るテグリアは三つ目のバゲットに手を伸ばしている。
 ベーコンエッグのおかわりを勧められたロロワは丁重に断った。必ずしも食事を必要としないバイオロイドのロロワは、食が太いほうではない。
 ラディリナとモモッケはテグリアに張り合うように二つ目のベーコンエッグに挑戦したが、それでもテグリアの健啖ぶりには敵わず、途中で諦めフォークを置いたのだった。
 食事を済ませた三人が正面門に向かうと、テグリアの軍馬であろう月毛の馬と、ニグラとアルブが手綱を引かれて待っていた。
——モーダリオンに。
 鎧をまとい準備万端なその姿に、テグリアはすぅと静かに目を細めた。
「その役、私は部下に指示しましたが」
「アルブは気難しいからな。若い騎士の髪が毟られるのは哀れだろう」
「お気遣いどうも。では、あなたはこのままお帰りください」
「アルブをリップモに返す約束がある。そういうわけにもいかないだろう」
「…………」
 テグリアは、ふぅ……と気を落ち着かせるための深い呼吸をひとつ。それ以上の口論は無駄だと判断したのか、モーダリオンから手綱をひったくる。
 ロロワは再びモーダリオンとニグラに騎乗し、テグリアの馬のあとに続いた。
 重い門扉が開くと、真っ直ぐな大通りが街の果てまで続いているのが見える。門をくぐると、往来を行き交う人々の喧噪がロロワを包んだ。
 そこで、ふとロロワは顔をあげ、
「……あ」
 と小さく声を漏らした。
「忘れ物か? 戻るなら今だぞ」
 背後のモーダリオンは引率の教師のようなことを言う。
「あぁ、いえ違うんです。気にしないでください」
「ならいいが」
 常足なみあしながらニグラたちの歩みは早く、振り返れば、兵舎の正面門は雑踏にまぎれて見えなくなっていた。
 結局挨拶しそびれてしまったな、とロロワは思う。
 団員の行き交う回廊や、訓練場、そして晩餐や朝餐の食堂など、案内される先々で彼女の姿を探したが、結局見つけることはできなかった。
 もしまた兵舎を訪れる機会があるなら、こう尋ねなければ ——

メープルさんはどちらに?・・・・・・・・・・・・
 
      *

 領都を出て3時間ほど駆けただろうか。
 地元でドマ山と呼ばれているそこに辿りついたのは、昼中をいくらか過ぎたころだった。
 空には厚い雲がたちこめ、太陽は暈をかぶって薄暗い。そのせいかあたりには濃い霧がかかり、五歩先すらぼんやりとしか見えなかった。
 テグリアが下馬したのに合わせてロロワたちも下馬すると、ついに雨が降りはじめた。頬をそっと撫でるような細い雨が、霧をより濃くしていく。
 テグリアを先頭に、体調の悪いロロワ、ラディリナ、そして最後にモーダリオンという順で山を進んで行く。
 勾配はなだらかだが、身の丈の倍ほどある岩がそこかしこに転がり、その合間に生い茂る草むらのせいで足場が悪かった。
 薊、葵蔓、酸漿草ほおずき——秋の野草かと思いきや、葉は捻れ、花は毒々しい極彩色に色づき、本来あるべき姿とは異なっている。
 恐らく、この“場”が植物たちを変質させてしまっているのだろう。
 でも、どうして?
 ロロワが草花に目を凝らしていると、ふと、わずかな眩暈を感じてよろめいた。
 うっかり草むらに足を取られたせいだと思ったが、「……ううん、違う」とすぐに首を横に振る。
 飛行艇から投げ出されたときにも似た平衡感覚の失調は、よろけたせいとは思えなかった。
 まるで空間そのものが揺らいでいるかのような——歪に膨れた泡のなかに突っ込んでしまったかのような違和感がある。
 前を行くテグリアが「そうだ」と思い出したようにロロワを振り返った。
「14年前に激戦があった場所ですから、このあたりは時空の歪み が起きやすいのです。お気をつけくださいね」
 それだけの説明で、はいわかりました、と頷くのはさすがに難しい。
「……何が起きるんですか?」
「私も異世界現象の専門家ではないので、はっきりとは言えないのですが……“飛ばされてしまう”のだそうですよ」
「どこに?」
いつか・・・どこか・・・に。『因果の泡』と呼ばれる現象です。その法則性は柩機カーディナルや異世界現象研究所でも解析できていないとか」
「えっと、つまり……」
 恐る恐る結論を促せば、テグリアは首をひとつ縦にして、
「はい。いつ、どこに飛ばされるかはわかりませんから、どうか気をつけて下さいね」
「気をつけるってどうやってよ」
 質問を挟んだのはラディリナだ。
 しかしテグリアは曖昧な微笑を浮かべ、ロロワとラディリナの口元は引きつってしまった。
「もちろん、事故を起こさないために私が来たのです。こうして巡邏を行っていますから、滅多なことでは『因果の泡』は起こりませんよ」
「ならいいけど……」
 そうは言ったものの、ラディリナの口ぶりはいつになく不安げだ。
 テグリアの視線はロロワの胸に向かった。
「ロロワさんのお加減はいかがですか?」
 ロロワは自らの胸を軽く撫でてみる。
「少し良くなったような……そうでもないような……?」
「適当ね」
 と、背後からラディリナのツッコミが入った。
 古戦場のためか、それとも時空が揺らいでいるためか、この場には奇妙な魔力が漂っている気がする。
 噎せるような霧と相まって、どろりと濁ったような、それ。
 少なくとも陽の気でないことだけは確かだ。
 無駄足だったと自分にもテグリアたちにも思わせたくなくて、“良くなったような”と見栄を張ったが、胸の痛みは強くなっている気がする。
 だが、強くなっているということは、治癒のための手がかりもここにあるのではないか……
 そこに希望を見出すほかに、もはや解決策はない。
「では巡邏をしていきます。お付き合いくださいね」
 テグリアは剣先で前方を示す。霧が濃く、気を緩めたらすぐにはぐれてしまいそうだ。
「ロロワさん、ラディリナさんは私と右方に行きましょうか。あと」
 テグリアは背後に着いてきていたモーダリオンを一瞥し、
「あなたは左方を。では」
 打って変わった冷淡さで、斬るように言い捨てる。
 そのままさっさと右方に進んでいってしまうテグリアに、慌ててモーダリオンは駆け寄った。
「おい、巡邏はお前の仕事だろう」
「一飯の恩ぐらいはあなたでも返せるでしょう」
「…………」
 朝ごはん泥棒は黙りこみ、テグリアは畳みかける。
「それに、これは第四騎士団そちらの残務でもあるでしょう」
「まぁ……そうか」
 モーダリオンが頭をぞんざいに掻くと、指の間からつやめく髪束が流れこぼれていく。
「腕っ節がいるのは俺の仕事じゃないんだが……」
 ぼそぼそと言っているモーダリオンを置いて、3人は歩みを進めていった。
 そこに寄り添うようにテグリアの軍馬、そしてニグラとアルブもついてくる。ニグラくらいはモーダリオンの方についていくのかと思いきや、アルブと一緒にいることを優先させたようだ。
 実質3対1ではなく、6対1ということになる。
 さすがに哀れだと思ったロロワだが、わずかな逡巡の後に自らの身の安全を優先した。
 あたりは霧が濃く、目のいいロロワですらテグリアの背中を追うので精いっぱいだが、彼女は時空の歪みを感じることができるらしい。
「——あちらです」
 そう言って一行を導き、時空の歪みと思われる空間を見つけて剣を振り下ろした。
 柄に嵌まった虹色の石が輝き虚空が両断されると、たしかに歪んだ泡のなかを行くような感覚が和らぐ気がした。
 同時に胸の痛みが引いていくのを感じつつ、ロロワは問いかけた。
「ここで何があったんですか?」
 周囲に隙なく視線を巡らせながら、テグリアは口を開いた。
 
——それは14年前のこと。
 ケテルサンクチュアリ南部のドマ山に、突如として強大な力を持つ魔獣が姿を現したという。
 次元魔獣ユビキタスオーガと呼ばれるそれらは、かつて英雄たちに封印された虚無の眷属だった。
 魔獣を封じた『次元の扉』は常に綻びを求め、ついに裂けた場所こそがこのドマ山だったのだ。
 挑みかかった腕自慢たちは残らず命を落とし、骸の回収さえ敵わなかった。
 そこで討伐の任を受けたのが当時のロイヤルパラディン第二騎士団副団長ジラールとシャドウパラディン第四騎士団副団長オブスクデイトだった。
 次元魔獣は無事討伐され、その亡骸から強大な力を持つ結晶が発見された。
 討伐時に両断されたものの魔力の残存量は多く、『遺物』の代わりとして両者の剣に配されることとなった。
 両者の剣——すなわち、ブラスター兵装 。  
 それは古代の英雄の力を蘇らせようとした『β計画』によって生まれ、核として特別な力を秘めた遺物が用いられている。
 両者の剣にもすでに十分な物が配されていたが、シャドウパラディン工廠部門は次元魔獣から取り出された物質がより適していると判断した。
 結果として両者の剣はさらなる進化を遂げる。彼らが副団長から団長の座に登ったのも、この働きが大きい——

「ゆえに、二振りはいわば双子剣。使い手の力量によって真価を発揮することはあっても、剣そのものがお互いを凌駕することはないのです——永遠に」
 テグリアはゆっくりと振り返った。
 しかし濃霧のせいなのか、時空の歪みのせいなのか、彼女の面相は朧にかすんでよく見えず、得体が知れなかった。
「しかし方法はありますよ。きっと、ロロワさんがこの領都に辿り着いたのも、剣の導きによるものでしょう」
 口許が朧にも赤く、うっすらと笑みを含んでいる。
 しらと、赤い唇の間に白い歯が覗いた。
「ロロワさん、私と共に光の道を征きましょう」
 テグリアが大剣を頭上へ振り上げる。
 柄に座する虹色は、ひとつの独立した意思を持つように色鮮やかに燃えあがり、目が眩むほどの光を放つ。
——それは、まるで。

煌結晶ファイア・レガリス……」
 
 トゥーリやリリカルモナステリオで見たものとは異なる色と佇まい。けれど、その圧倒的な力は間違いない。
 鮮烈さに目を奪われ、ロロワは瞬時に反応することができなかった。
 やがて切っ先は天頂に達する。
 厚く立ちこめていた暗雲が裂け、一筋、時明かりが真っ直ぐ降りてくる。
 花弁より柔に、針よりも細く、テグリアの髪飾りがまたたいた。
 それは場違いなほど軽やかで元気で、はっと息を呑むほど鮮烈なピンク色で——
 瞬間。
 泡が歪に膨れてパチンと弾けるように、ここではないどこからか・・・・・・・・・・・絶叫が聞こえてきた。

『——逃げろ!』

 それは『世界一の大悪党』の声。
 頬桁を殴りつけられたように、とっさにロロワが足を横方向へ踏み込むと、もぬけた空間に大剣が突き通った。
「……っ!」
 ロロワの命を奪うための斬撃。
「あら」
 致死の一刀にも関わらず、テグリアの言葉はあまりにも軽い。返し様の一閃がロロワの心臓を狙う。
 避けきれない——
 ギィンッ、と破鐘われがねのごとき大音がどよみ、視界に閃光が満ちた。
 ロロワを庇い、間にはだかったのはモーダリオンだった。幾重にも迂曲した細剣によってテグリアの斬撃を受け流す。
 逸らされた一太刀は地面をクレーター状に抉り、土くれを跳ね飛ばした。
 湿った土塊がタールの雨のように降り注ぐ。
 間合いを取るテグリアの片頬は黒く汚れ、笑みは消えている。
「いたのですか——いつから」
ずっと・・・だ」
「……職務怠慢とは感心しませんね」
「今日ぐらい、残業は甘んじて受けてやる。——ニグラ、アルブ、行け!」
 モーダリオンの咆吼に応え、ニグラはロロワの後ろ襟首に食らいつき、鞍の上へと放り投げた。
「っ……!」
 無我夢中でロロワが馬体にしがみつくと、ニグラは霧の中へと駆けだした。
 霧に濁る傍らには、ちらと赤い影が見える。アルブもまたラディリナとモモッケを拾い、ニグラに並走しているのだ。
 くそっ何なの、とラディリナが吐き捨てる声が聞こえてきた。

「——あらあら、困りましたね」
 霧に消えていく二つの影を打ち見、テグリアはモーダリオンへ剣の切っ先を向けた。
 男が握っているのは身の丈ほどもある細剣。それは歪にくねる異様な様形で、刃から濃紫の粘液がとろりと垂れている。
 男が血振のように剣を薙ぐと、繁る秋草が溶け落ちた。
「邪魔をしないで頂けませんか?」
「なぜ彼らを攻撃する。身元はこちらで調査済み、問題ない。ドラグリッターのラディリナとモモッケ、そしてバイオロイドのロロワ。彼は天輪聖紀に目覚めた“世界樹のバイオロイド”だ」
「もちろん存じています。でなくてはあの力は無いでしょうね」
「一層理解に苦しむな。世界樹の力は生命の恵みだ。彼の力はこの惑星が生み出したひとつの奇跡、害することは許されない」
「——害など」
 見当違いの糾弾に、思わず肩が揺れてしまった。
「生命の恵みの体現ならば、正義の剣となることこそ正しい姿でしょう?」
「なるほど」
 得心した様子のモーダリオンは人差し指の先でこめかみをトントンと示す。
お前も・・・ここをやられているようだな」
「……どちらが」
 言い切るよりも先、地面を蹴り上げる。
 モーダリオンの胴腹を薙ぎ払うが、そこに男の姿はなく、奥に転がっていた大岩が両断され左右に分かれて弾け飛んだ。
 俊敏に避けられた、というよりも吹き消すように姿が消えている。まるでゆらめく蜃気楼を相手にしているかのような奇妙な手ごたえだ。
 馬手を振り向けば、霧に溶けこむように佇んで男がこちらを見ていた。梔子色の瞳には殺気の気配はなく、ただ冷静にテグリアの有様を観察しているようだ。
「まったく正気にしか見えないのが厄介だな」
「逃がすものか!」
 跳躍し間合いを詰め、続けざまに二撃三撃を叩き込むも——間に合わない。
 モーダリオンはそのまま霧の中に姿を消し、掠ることすら叶わなかった。
 逃げたのだろうか?
 予想はすぐに外れ、掴み所のない声がどこかから聞こえてくる。
「さすがの馬鹿力だな。俺の腕はお前と違って繊細なんだが」
「首を飛ばせば頭の方も繊細な作りに変わるでしょうか」
「繊細すぎて困っているんだがな。アイスを落として三日落ち込むし」
 間近に潜んでいるはずなのに、どうしたことか、男の気配は一切掴めなかった。
 耳に届く声すら、前方から呼びかけられている物なのか、それともすぐ傍らから囁かれている物なのか、判断がつかない。
 姿も、声も、思惑も、そのすべてが霧闇のなかにある。
 あぁ、これがシャドウパラディン第四騎士団の団長——強く噛んだ歯がギリッと鳴った。
 第四騎士団は国内諜報を行う部隊であり、同じく正規軍のテグリアにすら全貌を掴ませない、謎多き集団だ。
 オブスクデイトのあと副団長であったモーダリオンが団長の座につき、今の組織となったという。
 オブスクデイトが汎用型ブラスター兵装を所持したまま国外逃亡したために、団ごとに二振りあるはずの兵装はモーダリオンの持つ一振りのみである。
 しかしその能力に関する情報は一切耳に入ってこない。
 武闘派のオブスクデイトに対しモーダリオンは痩躯であり、異なる戦闘スタイルであることだけは想像がつく。
 所詮は夜闇に潜み、寝首を掻く者たち。真正面から対峙すればテグリアに分があるだろう。
 だが霧がその影を覆い隠す今、息がかかるほど間近まで肉薄されたとして気づけるだろうか?
 ぞっ、と。
 首筋に刃を添えられるような戦慄が、背筋を走っていく。
 嬲るも刎ねるも男の手の上——
「踊るものか!」
 テグリアは大上段より一撃を放った。
 真っ直ぐに光の斬撃が駆け、霧を一陣消し飛ばす。しかし手応えはなく、一瞬晴れた視界もすぐに霧に覆われてしまう。
 そこにありがたい忠告が飛んできた。
「勘が当たらないのは日頃の行いが悪いせいじゃないか? ゴミ拾いから始めてみるといい」
「それでしたら、すでに」
「ふむ、感心だな」
 声に殺気はなく、ただダラダラと世間話をするかのようだ。
 視界の悪いこの状況はモーダリオンに利があり、形勢はあちらに傾いている。
 にも関わらず、攻撃してこない理由は何だ。
 ロロワたちが逃げるための時間稼ぎだろうか。
 だが、それは弱者の判断だ。テグリアを戦闘不能にできれば、時間稼ぎも必要なくなるのだから。
 痩躯の通り、モーダリオンの力はテグリアより遥かに劣っているのだろうか 。それとも、ただ索敵能力を買われて団長の座に就いたのだろうか。
 仮にそうならば、迎撃を怖れて攻撃してこないのも説明がつく。
『こいつはモーダリオン。……うちの副団長だ。これでも実力は確かなんだが』
 しかし幾千と反芻した記憶が、モーダリオンを弱卒と断じることを許さない。
「——ならば全力で叩き潰すだけ」
 “勘”と嘲られようとも、手数で勝れば良い。ネズミ退治は隈なくやっていくことが肝要だろう。
 膝丈に茂る秋草を踏みにじり、四方に駆けながら無数の斬撃を放った。
「外れだ。少し右を狙ってみるといい」
「良い線だな。今のは少し肝が冷えた」
「全然違う。ちゃんと狙え」
 霧が裂け、地面が抉り散り、大岩が砕け落ちていく。霧や雨滴を含み、エメラルドグリーンの飾り布が黒染めになってテグリアに纏わりつく。
 地面はぬかるみ、一歩また一歩とテグリアの体力を奪ったが構ってはいられない。
 しかしいくら駆けずり回ったところで、モーダリオンの断末魔は聞こえてこなかった。
「まぁ、遊ぶのはここまでにして本題に入ろうか」
 勘に障る冷淡さで、男が切り出した。
 テグリアは苛立ちに目尻を歪めながら、男の気配を探り続ける。
「“巨躯アンノウン”——俺たちはそう呼ぶ存在がいる。実に情けないことに“わからない”がゆえにその名が与えられているわけだが」
「諜報部隊の名が泣きますね」
「そう言うな。相手は長命種俺たちが生まれる遥か前からいるんだ。神格無き時代、世界が無数の混乱と絶望に包まれる中、そこにはまるで傀儡師が糸を繰るようにそいつの影があった。
 正体も、目的も不明。ただ間違いなく在る、欲望を煽り立て厄災を成すもの——我々シャドウパラディン第四騎士団は、国に潜む魔手を決して許さない」
 モーダリオンの言葉に、埋火うずめびのごとき怒りが滲んだ。
「お前の欲望は操られている。その正体を明かせ」
「操られている? まさか」
 赤い唇が、うっすらと笑みを含む。
「これは私の、心からの欲望のぞみなのですから」
 テグリアは圧倒的な正しさでもって一切の罪を許さない。悪はすべからく悪でしかないのだから。
 それこそが、11年の年月で研ぎ上げたテグリアの望み。
 男から、はぁ……と重い溜息があった。
「優れた詐欺師は騙されていることにさえ気づかせない、か……これは駄目だな。何も出てこないなら仕方ない。無駄足か」
「ずいぶんと諦めが早いのですね」
 “巨躯アンノウン”など見聞きしたこともないが、ここまで引き際が良いと気味が悪い。
「拷問はそれなりに得意だが、お前の口を割らせるのは面倒そうだ。手間がかからないなら越したことは無い。そうだ、せっかく久しぶりに会ったんだ、昔話でもしておくか?」
「……冗談を」
 吐き捨てたのは、モーダリオンの耳には届かなかったらしい。
「11年になるか。あれからお前の活躍はよく耳にしたよ。エルフで膂力に優れた騎士は珍しいから人の口にも上りやすかったのだろうな」
「同族のシンパシーを感じるとでも?」
「多少はな。まぁ、ダークステイツの連中が地元のギャロウズボールチームを応援する程度のシンパシーだが」
モーダリオンが戦意を失った今が決着をつける好機だろう。
 テグリアは右方に連撃を放ったがやはり手応えはなく、“昔話”だけが投げかけられた。
「お前なら天上騎士団クラウドナイツにも席はあっただろう。地上を選んだのはジラールと同じ第二騎士団に入るためか?」
「……だとしたら」
「クソがつくほど真面目な奴だな」
 モーダリオンは溜息じみた呻きを漏らす。
「俺は真面目な性格たちじゃないから、第四騎士団うちはほどよく休めてちょうど良いんだ。流行りのカフェ に“潜入”してアイスを食べてもいいし、“潜入”捜査先にビーチリゾートを選んでバカンスしてもいい」
 どこまで本気で言っているかわからない台詞だが、恐らく本心なのだろうとテグリアは思う。
「そこで世界樹のバイオロイドが拾えれば結果オーライだ。つくづく俺は仕事熱心だと感心するよ。団長っていうのはもっと左団扇でやっていくものじゃないのか。お前は好んで団長になったんだろう? 変態だな」
「責任感のなさに言葉も出ませんね。団の方々の苦労はいかばかりか。ご愁傷様です」
 何か心に刺さったのか、はぁ……とモーダリオンは深く深く嘆きの息を吐く。
「11年やったが、いまだに部下との付き合い方がわからない。監視烏モニタリング・レイヴンはすぐに副団長オンファに告げ口するし、女性団員たちオニュクスとセレンディスは……」
 しばらく思い詰めたような沈黙があり、やがてしょんぼりとした声。
「影で俺の悪口言ってる」
「間違いなくあなたが悪いでしょう」
「だと思う」
 自覚はあるのか、声はさらにしょんぼりと窄んでいる。
「良い機会だ、団長をやるコツがあれば是非教えてもらいたい」
「特別なことは、何も。ただ光の道を征き、その姿を見せることこそが唯一のすべでしょう。過ぎし日、我が師から学んだことです」
「なら無理だな」
 と、モーダリオンは検討するよりも先に諦めている。
「あなたを団長に置いているシャドウパラディンの正気を疑います。理由がわからない」
「それは単純だろう」
 事実を述べる、そっけない一蹴だった。
「俺が一番強いからな」
「弱兵を率いて意気がるな!」
 テグリアの絶叫が響き渡る。
 その鋭さに引き裂かれたように、霧のあわいに砂粒よりもかすかな気配が滲んだ。
——そこだ。
 確信と共にテグリアは大剣を天にかざす。
 かつて憧れ、焦がれた師ジラール。彼の遺品たる剣を帯びることの責任は、常にテグリアを正義の道へ導いた。
 鍛え抜かれた無双の技が、モーダリオンを両断せんと振り下ろされ——

 力なく、その手から大剣が滑り落ちた。

「……っ!」
 ぬかるみに剣が突き刺さる。
 続けて、地面が抜け落ちたかのような虚脱感に襲われ、テグリアは地面へと崩れ落ちたのだった。
「なっ……?!」
 立ち上がろうにも足に力が入らず、ただ足先で泥を掻くことしか出来ない。上半身すら支えられず両手を突けば、指先に病的な痙攣が走っていることに気付いた。
 何が起こっている。
 すると霧の向こうからモーダリオンが姿を現し、テグリアの目前にしゃがんで視線を合わせた。
「ずいぶん時間がかかったな。象でも気絶する代物だぞ? 慣れない無駄話で口が攣った」
「毒……!」
 息がかかるほどの間近に男がいるというのに、この手では剣を握れるはずもなかった。
 ただ震える唇で言葉を吐く。
「……いつ盛った」
 モーダリオンを兵舎に入れるにあたり、テグリアは警戒のため食事も水もあらかじめ用意してあったもの以外は口にしなかった。
 攻撃も受けていない。毒を盛られるような隙は与えなかったはずだ。
 問いかけに、ふむ、とモーダリオンは考え込み「あぁ、そうだ」と何事か思い出したらしく眉を上げる。
「“美味いものには礼をする”ものらしいから、ケーキの礼に教えてやる」
 モーダリオンは転がっていた小枝を取り、地面にガリガリと絵を描いた。
 三角、四角、そして丸。
 テグリアはしばらく考えてそれが下手くそなケーキの絵なのだとわかった。
「俺は常々不思議に思っていることがある。“毒を盛る”と言うと、液体や粉類の混入をイメージすることが多いだろう。あれは何に起因するパブリックイメージなんだろうな」
 ケーキの上からドクロマークが描かれ、形をなくす。
「毒は食べ物の中だけになく、美しさの中にこそ潜んでいる。大輪の花に、糸車の針に、髪飾りに、黄金の指輪に、バレエシューズに……その輝きは容易く毒の気配を覆い隠し、命に手をかける」
 そして小枝が描いたのは、バルーン袖のロングドレスだった。
 テグリアが昨晩結婚式のために纏っていたもの——
 モーダリオンは、濡れてテグリアの足に纏わりつく飾り布に視線を投げた。
「そのグリーン、とても美しいだろう? うちの新人が調合したんだが、よく流行って結構なことだ。この手のセンスは俺にはない」
「……無差別殺人でもするつもりか」
 このエメラルドグリーンが今ケテルギアで流行っているのだと、ソラウが語っていた。無数の婦人たちが大量殺人の毒牙にかかろうとしているのだ。
 モーダリオンはわずかばかり慌てて首を横に振る。
「あぁいや、勘違いをしないでくれ。着ることはもちろん、舐めようが煎じようがそのままなら全くの無害だ。だが特定の成分と反応させることで死に至る毒となる——今日は良く霧が出ていて助かった」
 テグリアは砕けんばかりに歯噛みする。
 まんまと罠に嵌められたのだ。
「夜会で“ワイン”をこぼされないよう、これからは気をつけるといい」
 枝先でドレスを掻き消して、モーダリオンは立ち上がり、テグリアへ背を向けた。
「……殺さないのか」
 呻くような問いかけに、モーダリオンは肩を竦める。
「殺すだけならもっと楽に済んだんだがな」
 摘花と同じだ、とモーダリオンは肩越しに鋏を模した指を開閉させた。
「……なぜ殺さない」
「理由がない」
「……理由?」
 テグリアの唇が歪にめくれ上がり、凄絶な笑みを作る。
「あの男がジラール様を殺したのには理由があったと言うのか」
 モーダリオンは答えないまま、霧の向こうに姿を消していった。
 今度こそ完全に気配は消失し、そこには身動きの取れないテグリアだけが残された。
「どうして、ジラール様は友に殺されなくてはいけなかったの」
 応えなどあるはずがない——わかっていながら、テグリアは掻き縋るように喉を震わせる。

「どうして、あの男は友を殺さなくてはいけなかったの!」

 霧の帳のうちには、沈黙だけが満ちている。