バイオロイドの少年・ロロワと、ドラグリッターの少女・ラディリナが逃げ込んだのは世界樹を取り囲む石造りの神殿だ。逃げ場はそこだけ。
片腕の朽ちもげた身体はバランスがとりづらく、足が縺れてつんのめりそうになる。それをどうにか踏みとどまって階段を駆け上がり、長い回廊を走り抜けると、前方から鞭のように鋭い声がする。
「こっちだ!」
慌てて引き返したが、引き返した先からも石床を蹴る複数の靴音が聞こえる。挟まれた。必死で逃げ場を探して、ロロワの目に留まったのは薄く開いた扉の隙間から、かすかに光が漏れてくる一室だった。瞬時に腹を括った。
「来て!」
叫んで、ロロワはラディリナの腕を掴む。彼女もすぐに意図を悟り、そのまま二人で部屋に飛び込んだ。
そこは小さな灯がひとつあるきりで薄暗く、その広ささえわからない。二人と一匹は薄闇の中で、扉にぴったりと身体をつけて息を殺した。
扉一枚を隔てた回廊を、衛兵たちが走っていく音が聞こえる。やがて足音は遠ざかり、ただお互いの吐息音が届くだけになった。
「行った……わよね?」
そう言ったのはラディリナだった。
「うん、多分……」
そう答えたのはロロワ。
「私はもう少し待った方がいいと思うな」
そう囁いたのは知らない男だった。
「……ッ?!」
弾かれたように二人が振り返ると、間近に立っていたのは闇色の祭服を纏ったデーモンの男だった。
――パチンッ
男が指を鳴らすと、ほのかだった室内灯が炎をあげ、煌々と光を放った。そこでようやく、二人が入り込んだのは豪奢な客室だったのだと気づいた。すべらかな臙脂の絨毯の奥には、豊かなドレープを描く天蓋つきの寝台がある。施された金の刺繍は無数の星のように光っていた。
そこに、悠然と構えた男が一人。
人間(ヒューマン)でいえば30歳前後に見受けられるが、デーモンという種族上、実際のところはわからない。一見して細身に見えるが、無駄のない身体つきをしている。手には古びた金細工の施された本があり、埋め込まれた七色の宝石が瞬いている。後光冠(ハロー・クラウン)を戴くかんばせには、突然の闖入者を面白がっている様子さえあった。
「お客さんかな。お茶でもどうだい? そろそろ朝日が昇るから、ちょっと早い朝餐はいかがかな」
「いらないわ」
鋭く返すラディリナの手は剣の柄にかかっている。
「あぁ、蜂蜜酒の方が?」
「いらない」
「そう……あ、」
男は人差し指をピッと立てて、何やら思いついた様子だ。
「ミルク」
「あなたは誰」
言葉をかぶせてラディリナが頑なな調子で言う。男は寂しそうに肩を落としつつ答えた。
「私はケイオス。よろしくね、ドラグリッターの少女」
「ケイオス……聞いたことがある。建国の父ストイケイア師の教えを伝えるために軍からこの街に派遣された人……今はこの神殿で食客になっているって聞いたけど」
「その通り、ここでお世話になっている身だね。それで少女のお名前は?」
「……ラディリナ。こっちは誇り高きドラゴンのモモッケ」
「ピャア、ピャアッ!」
ラディリナの肩から身を乗り出して、子ドラゴン・モモッケが元気に挨拶する。これはこれはご丁寧に、とケイオスもぺこりと会釈した。慌ててロロワも口を開く。
「ロロワです」
ケイオスは土まみれのロロワの風体に目を止めた。ラディリナにゾンビと見間違えられたほど服は風化が進んでいて、今にもモロモロと崩れ落ちそうだ。実は走っているときもあらぬところが見えてしまうのではと気が気ではなかった。
「ロロワ少年はずいぶんと個性的なファッションだね。知ってるよ、そういうのがナウなヤングに流行ってるんだろう? こう見えて私は詳しいからね。うん、とてもいいと思うよ」
元気にサムズアップをするケイオスに申し訳なくなりつつ、ロロワはそっと答える。
「いえ、これは……土に埋まってたので汚れてるだけなんです。もしかしたら、三千年ぐらいの間」
「もっちろん知っていたとも。……三千年?」
さすがに聞き流せなかったのか、ケイオスの黒い瞳が見張られた。
「はい。寝てる間に三千年経っていた、らしいんです。僕にも信じられませんが……」
「数千年の時を生きるドラゴン、不老不死のゴースト……長い時間を生きる種族は多いし、バイオロイドも不老だったね。しかし不死ではない。三千年も生きている者がいるなんて寡聞にして知らないね」
「はい。僕も何が起こったのかさっぱりわからなくて」
「……ふむ」
ケイオスはこめかみに指を置いてしばし考え込み、ふ、と息を漏らして微笑んだ。
「なら、見てみようか――”時よ、奔流のごとき時よ”」
すると、ケイオスの手にあった本が淡い輪光を放ちながら浮かび上がる。そして撫でるように指を横にすべらせると、古びた頁がひとりでにバララッと捲られ、ある箇所でぴたりと止まった。
「”永き記憶が我が目に映せ”」
刹那――本から極彩色の光の帯が溢れ出す。ねじれ、絡み合い、やがて虚空で光の像を結んだ。それは黄金の穂をつける、一面の麦畑だ。あまりに見覚えのある光景に、ロロワが思わず驚きの声を漏らす。そうだ、ここは自分とオリヴィが旅をした麦畑に違いない。
無意識にその像へと手を伸ばしたが、瞬きの間に、それは荒れ果てた大地へと転じていた。
「三千年前のことだ。麦などを名産とする、何の変哲もないこの地に、突如として大いなる厄災が訪れたそうだ。原因はわからず、草木は白い灰となり朽ち果てた。もう駄目かと思われた……しかしそこに世界樹が芽吹き、瞬く間に大樹となって朽ちた大地を癒したそうだよ。それがこの街が栄えたきっかけのようだね。世界樹を守るために作られたのが我々のいるこの神殿にあたるね」
「それと彼にどう関係があるの」
ラディリナの問いに、ケイオスがひとつ頷いて、さらに指をすべらせる。豊かに茂った世界樹の遠景が切り替わって、その根本が映しだされる。よく目をこらすと、なにやら人らしいものの姿がある。肌は木のように茶色く節くれだち、一見して樹木のドリアードのように見えたが……
「きっと厄災に巻き込まれたんだろうね。世界樹の根本には一人の木化(もくか)したバイオロイドの少年が眠っており、人々がどう手を尽くしても目を覚ますことはなかった。やがて少年は雨風に晒され土に埋もれていき、その姿は消え、人々の記憶からも忘れ去られた、ということのようだ」
本を閉じ、ケイオスがロロワへと微笑みかける。
「それがロロワ少年というわけだね」
「……たぶん、そうです」
「ようこそ、三千年後へ! 私もそんな歴史の証人に会えるだなんて嬉しいよ。あ、クッキーは食べるかい。お腹は空いてないかな?」
「いえ、大丈夫です」
「そう……」
ケイオスは端麗なかんばせをしょんぼりと曇らせたが、すぐにパッと顔をあげた。
「あぁ、そうだ。土まみれのままではいけないね」
パチン、とケイオスが指を鳴らすと、ロロワの身体が青い燐光に包まれた。またたく間に身体にこびりついていた土くれは清められ、ざらついた不快感が消える。もちろんもげた左腕が回復するわけではなく、触れてみると断面が枯れた木のようにささくれ立ったままだった。
「うん、可愛くなったね。でも服はさすがに朽ちているようだ……ミカニはいるかな」
「――はい、ここに」
突然部屋の薄暗がりから声がして、ぼぅっと浮かび上がるように一人の男が現れた。
種族はエイリアン、年齢は人間(ヒューマン)なら20の半ばだろうか。白い髪に、鍛えられた長身は白いスーツに包まれている。眼鏡の奥の瞳は感情に乏しく、薄蒼の虹彩も相まって『氷のような』と評するのがふさわしい。身体に対して不釣り合いなほど大きな手を包むレザーの手袋だけが鈍い黒艶を放っている。
「彼の衣服を準備してあげて欲しいんだ。もちろんイケイケなやつをね」
「畏まりました、ケイオス様」
ミカニと呼ばれた男は、深く一礼をするとそのまま音もなく姿を消した。もちろんゴーストではないので「去った」というのが正しいところだが、あまりにも気配が希薄なのでロロワの体感では「消えた」という表現になる。
「ミカニは私の腹心の部下でね。素晴らしく仕事ができるんだ。身辺の警護、スケジュールの管理、掃除、洗濯、あとはスモモのジャムを作るのが上手い。あ、そうだ」
「いらないです。ありがとうございます」
男が何を言うのか察して先んじて辞退すると、ケイオスはしょんぼりとうなだれている。どうにかしてロロワとラディリナにお茶を振る舞いたいようだ。そんな気分ではないしそんな場合でもない、というのが正直なところだった。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「三千年前、僕はオリヴィというオリーブのバイオロイドと一緒に旅をしていたんです。彼がどうなったかはわかりませんか。例えば僕みたいに土に埋もれていったバイオロイドがいた、とか」
「私の歴史書(ヒストリー・レコード)は数多の記憶を記してあるとも。けれど歴史は大河であって細流までは記しきれない。すまないね、その彼のことはわからないね」
「そう、ですか……」
三千年の時が経っているのだ、すでに死んでいるとみて間違いないだろう。
けれど実感が沸かない。諦めきれない。なにせ、オリヴィと笑い合ったのはつい昨日のことにしか思えないのだから……
複雑な気持ちを隠し切れず、ただ視線を足元に向けていると、肩に大きな手の感触がある。顔を上げると、ロロワの肩に手を置いたケイオスが、力強く頷いた。
「諦めることはない。もしかしたら少年と同じく土の中に埋まっているかもしれないし、今日明日にも目を覚ますかもしれないよ。なにせ、君が眠りについた理由も目を覚ました理由もわからないんだろう? ストイケイア師ならきっとこう言ったよ。ネバギブ!」
「はい……えぇ、そうですね」
ただの冗談めかした慰めだとはわかっていても、その優しさに救われた。下手な笑顔を作って返す。
「よし、ロロワ少年の事情はわかったよ。それで、ラディ少女はどうしてここに、こんな時間に? 一応ここは世界樹の神殿、禁域だと思うけどね」
二人の会話を他人事だと思っていたのか、不意をつかれたラディリナはぎくりと顔をこわばらせた。
「き、気づいたらここに……?」
「ずいぶん器用な夢遊病患者のようだね」
「うぐ、ぐぐ」
さきほど自分がロロワに言った言葉が跳ね返ってきて唸っている。どうやら嘘をつくのが下手な性質(たち)らしい。彼女の混乱が伝わったのか、モモッケが左右の肩をぐるぐると回ってピャアピャア鳴いている。
ケイオスは人差し指を立てて「当てようか」と言った。
「” 煌結晶(ファイア・レガリス)”、だろう?」
「知ってるのっ?!」
ラディリナは勢いよく身体を起こして、すぐに「あっ」と口を押さえた。ふふふ、とケイオスは笑っているが逃げを許さない圧がある。
それを見ているロロワと言えば、二人の会話がさっぱりわかっていなかった。ふぁいあ……なんだって?
「煌結晶(ファイア・レガリス)――繁栄と厄災をもたらす巨大な力、そう言われているね。もちろん、私だって実際に目にしたことはないから、それがどんなものなのか、どんな形をしているのか、詳しくは知らないよ。けれど色々と噂にはなっているようだね」
「わたしはこう聞いたわ。煌結晶(ファイア・レガリス)はその巨大な力によって、得たものの望みを何でも叶える。そしてそのひとつが、この世界樹の根本に埋まっているんだって」
「なるほど。どうりで最近衛兵たちが出ずっぱりだと思ったよ。どうしてそんな噂が出回ったのか、見当もつかないね」
ふぅ、とケイオスが溜息をつく。
「それでラディ少女もこんな夜更けに忍び込んで、なんとロロワ少年という大物を掘り当てた、と」
「だって、人が埋まってるなんて思わないでしょう? それに……地面が光ってたの! これだ、って思ったのに……」
「光って?」
思わず反応したのはロロワだ。聞き過ごせない。
「シイノトモシビタケなら光るんだけど、ナナカマドは光れないよ。ありえないよ」
「光ってたの」
頑ななラディリナの言葉に首を傾げることしかできない。アイデンティティに関わるだけに、譲れないところだ。
「眠ってたんだから、魔力も使ってないし……何かの見間違いじゃないかな」
「緑の閃光よ? 見間違うわけが」
するとそのとき会話を遮って、コンコン、と音がする。場の全員が目を向けると、緑色の布を抱えたミカニが表情なく壁を指でノックしていた。
「ケイオス様、衣服の準備ができました」
「さすがミカニ、早いね。さぁロロワ少年、夜もあけたし、着替えたら街に出ようか。若人を導くのも私の仕事だ」
「じゃあわたしはここでバイバイね。さようなら」
さっと背を向けて出ていこうとするラディリナの肩を、ケイオスが力強くつかむ。微笑みは揺らがない。
「ラディ少女、私はこれでも多忙でね、三千年前の客人をもてなしきれるか自信がない。その点少女がいれば安心だ。これも何かの縁、ロロワ少年の面倒を見るべきだと思わないかな」
「嫌」
「衛兵さーん、衛兵さーん、ここに侵入者がー」
「う、うぐぐ……」
「さ、話はついたね」
絶対に話はついていない、と思いつつ着替えているロロワは聞こえないふりをした。
ケイオスの客室から出ると、すでに朝日で空が白んでいる。鳥の群れが空を渡っていくのが見えた。
そこに複数の足音がして、回廊の向こうから現れたのはロロワたちを追っていた衛兵たちだ。銃剣を下げた一人が、こちらへと歩み寄ってきた。
「ケイオス様、このあたりに賊がおりませんでしたで……この二人は? 客人のリストには……なかったかと」
鋭い衛兵の視線に、ケイオスは「おっと」と声を漏らした。
「うーんと、そうだ」
ケイオスがピッと人指し指を立てる。
「私の隠し子だよ」
「――ッ!」
あまりの不本意さでラディリナは飛びかからんばかりだが、ロロワがとっさに口を塞いだことでどうにか罵詈雑言を防いだ。
「思春期でね、必殺技はうるせぇクソおやじ」
「は、はぁ……そうですか……ご心労お察しします」
「――ッ! ……ッ!」
ともあれ、三人は聖域を抜けて街に出た。