早く歌ってみたい、早く踊ってみたい——いくらそわそわしたって、練習する場所を確保できなければどうにもならない。
リリカルモナステリオで歌やダンスの練習ができる場所は多く、空き教室や体育館、音楽室など。
けれど指揮者が演奏をまとめあげるオーケストラならともかく、ペアのダンスはやはり鏡で振りつけをチェックしながら練習したいところ。思うことはみんな同じで、鏡のある体育館の予約はいつも争奪戦だ。
なんとノクノたちのクラスが体育館を予約できたのは、朝の5時という、草木もまだしっとりと朝露をつける頃だった。
——ガラガラガラガラ!
体育館の金属ドアが横に開いて、ミチュがピョンと飛び込んできた。
「一番乗りー!」
早朝とは思えないハイテンションのミチュに対し、俵担ぎされたノクノはまだほとんど夢の中、ゆるく船をこいでいる。
荷物のように「よいしょ」と下ろされ、ノクノはあくびをしながら目をこすった。
「ふぁ……」
後頭部には寝癖がひとつふたつ。貴重な練習時間なのだとわかってはいても、眠いものは眠いのだった。
ノクノはむにゃむにゃ言って、
「じゃあ……とりあえず一回通してみよっか……」
ステリィから送られてきた音源はふたりとも携帯液晶端末に落としてある。持ってきたスピーカーと端末を同期させ、音量は最大に。
ミチュが再生ボタンをポチッと押した。
「ミュージックスタート!」
そのメロディは体育館の清らかな静寂を一気に塗り替える。
テンションの高い伴奏が響くやノクノの眠気も吹っ飛んで、パチッと目を開けた。
『“——ハイ!”』
二人は掛け声を重ねハイタッチ、BPMは一気に170、地面を蹴って顔は正面へ。
「“起きちゃって! やっちゃって!”」
歌はミチュ、左手を上げ、素早い手振りでリズムを刻む。
「“飛んじゃって! 跳ねちゃって!”」
歌はノクノ、振り付けはミチュと鏡合わせだ。
ステップを踏みながらふたりは左右に離れ、観客席があるはずの前方を数えるように指さした。右手に左手に、それぞれマイクを握りながら顔を寄せる。
『“うちらが登場
どこだ? ここだ!
ド・レ・ミ・ファ・空だ!”』
——“星灯りのマーチ”は“星灯りの指揮者ステリィ”がそれを冠する通り彼女の代表曲だった。
例えば小洒落たレストランのBGMで、例えば生家の片隅にあるオルゴールで、例えばお昼を告げる鳩時計から流れる音楽で——そのメロディは生活に寄り添っており、多くの人々が耳にしたことがあるだろう。
星のまたたきを思わせる愛らしい曲、というのが楽曲に対するポピュラーなイメージだが、フェスで使われたバージョンはポップでBPMも早いキラーチューンだ。
——楽しい!
曇りがちなノクノの顔に、澄んだ海のような笑顔が広がる。
傍らを見れば、夏のひまわりのような満開のミチュの笑顔。
アップテンポな音楽に併せた振り付けは、ノクノはまだ付いていくのが精いっぱいだけれど、ミチュのステップは初めてとは思わないほど軽やかだ。
やっぱりこの曲にしてよかった、とノクノは内心何度も頷いた。
だってミチュの運動能力はずば抜けている。体力測定のボール投げでは驚異的な距離を飛ばし、長距離走や短距離走では記録的なスピードを叩き出した。
それに(ちゃんと充電しておけば!)どれだけ踊っても息一つ切らさないスタミナは、他のアイドルたちにないミチュの長所だ。
ほら、ミチュはガラクタなんかじゃない!
脳内でノクノはデスファンブルにべーっと舌を出した。
彼女から受け取れなかった分の楽譜はノクノが耳で新しく起こした。ステリイの自筆譜は才能のある人の常なのか、殴り書きのように荒々しく、読譜するのに慣れがいる。それに比べてノクノの書く楽譜は端正で、まるで楽譜本を印刷したかのように読みやすい。
ならばステリィの原本は不要だったのだろうか?
それは違う、とノクノは思う。ステリィによる手書きの楽譜には、音符以外にも様々な情報——手書きのメモが残されていたから。
サビに入る直前の盛り上がる箇所には赤文字で「着火!」と 殴り書きがあり、ウキウキする箇所には小人たちのイラストが踊っている。
一見すると子どもの落書きにしか見えないが、じっくりと読譜すれば彼女が楽曲やステージに込めた思いがありありと伝わってきた
ノクノはひとつ、目を閉じる。 “くじ運最悪”な彼女たちがステージを彩った、かつての星の瞬きに思いを馳せる。
と、少し上の空になった瞬間——
「アッ!」
ノクノの顎にミチュの手が1HITしたのだった。
思わずふらふら……とよろめいたノクノに、ミチュの手が激しい追撃をかけてくる。
「“踊ってステージ!”」
「イッ」
2HIT。
「“走ってトラック!”」
「ウッ!」
3HIT。
「“映してスクリーン!”」
「エッ!」
4HIT。
立て続けにコンボが決まる。制止しようにも、ミチュは踊るのに夢中でノクノのことなんて見ちゃいない!
そのとき、ガラガラガラ……と体育館の扉が開いて、ハーゼリットとメディエールが入ってきた。
「おっはよー!」
「おはようございます」
声を重ねる二人の前で決まる5HITめ。ノクノはミチュのお尻アタックにやられてドーン! と吹き飛んだのだった。
「ミチュが元気なのってすごくいいと思う! 思うけど……」
そう言ったのはハーゼリット。
「元気すぎると、二人のダンスでは大変になってしまうのかもしれません……」
と言ったのはメディエール。
吹っ飛ばされたノクノが彼女の膝に横たわると、額をパンダがヨシヨシしてくれた。
「ありがとう……」
朝の空気に冷えたパンダが額の熱を取ってくれて気持ちいい。
ノクノとミチュ、そして合流した二人も合わせ、四人は作戦会議を開くことにしたのだった。
議題は『ミチュのダンスを最高にする方法!』
「うぅ……そうだよね……!」
ミチュは頬を両手で押さえ絶叫のポーズ。
ハーゼリットがまるでステリィのタクトのように指をピシッと立てた。
「まずは、ペアのノクノをちゃんと見ることが大切じゃないかな」
「うん……」
「そのためには歌とダンスに夢中になりすぎず、冷静になることが大切だと思います」
メディエールはまるでシルフォニック のようにタライを落とす仕草をする。
ミチュも真面目にふむふむと頷き考えこんだが、やがて演算処理装置のある頭がプシュウと音を立てる。
「ね、ね、レイセーになるためにどうしたら良いと思う……?」
ハーゼリットとメディエールは顔を見合わせた。
そして、
「やる気を出しすぎない……?」
「力を入れて頑張りすぎない……?」
と答えを絞りだす。
「やる気を出しすぎない……頑張りすぎない……」
ミチュは自分に言い聞かせるように小さく呟き、力強くコクッ! とした。
「わかった!」
ミチュは勢いよく立ち上がり、拳を振りながら、オー! と気合をいれた。
「頑張りすぎないように頑張るぞー!」
やっぱりダメかも……とノクノが思ったのはこれが一回目のことだった。
「ノクノを肩車して踊ってみるのはどうかな? そしたら当たらないよ!」
「ミチュ……」
これが二回目。
「歌詞を書いた眼鏡をかけるのはどうかな? そしたら歌詞飛ばないよ!」
「ミチュ……」
これが三回目。
以下略。
そうして光陰は矢のごとく過ぎ、けれどミチュのエンジンは矢のスピードなんかに負けていない。
「行っくよ——————!」
ゴォオォオォォッ!
エンジンを鳴り響かせながら、ミチュはノクノを俵担ぎして廊下を駆けていく。その勢いに驚く生徒たちを後ろに置き去りにして前へ前へ。
明日はついにクラスオーディション当日。どうにか練習したいと思っていた放課後に、第二音楽室がパッと空いたのだ。
ステリィが担当している合唱が行われるのは主に第三音楽室で、川辺で歌う少女の絵画が飾られているため『ローレライ室』と呼ばれることもある。ステリィの研究室やノクノたちの教室から近いのもこちらだ。
対して今回の第二音楽室はデスファンブルが受け持っている声楽の授業が行われており、彼女の研究室のすぐ隣にある。上半身は人間(ヒューマン)、下半身が鳥類という姿の女性が海で歌っている絵画が飾られており、『セイレーン室』と呼ばれることも。
一秒も無駄にはできないと、予約を取るなりミチュはエンジンを吹かした。普通の生徒ならば辿り着くのに5分から10分はかかる特別教室棟も、ミチュのスピードにかかれば瞬きの間だった。しかしその速さと引き換えに、乗り心地は最悪だ。
俵担ぎをされるのにも慣れてきたノクノはどうにか悲鳴を堪えたが、しがみつくので精いっぱいだった。
そして力の限り祈る。
「交通事故が起きませんように……! 交通事故が起きませんように……!」
リリカルモナステリオの廊下には信号機も標識もないんだから!
「アハハッ、誘導ミサイルが飛んでくるわけじゃないんだよ、ぶつかんないよ!」
ミチュは笑うが、ノクノにはちょっとよく意味がわからなかった。
「交通事故が起きませんように……! 交通事故が起きませんように……!」
そうしてノクノはしがみつくのと祈るのに大忙しで——
ふわり、と。
手にしたファイルから楽譜が滑り落ち、廊下に舞い落ちたことに気付けなかった。
何とか無事にセイレーン室に到着し、ノクノはいつものように「よいしょ」と下ろされた。
黒板の前にはグランドピアノがあり、その周りには実技発表のための広めのスペース。そこからやや距離を取って木造の机と椅子が並んでいる。
ノクノが掛け時計を見上げれば、時刻は16時38分、練習時間は17時までだ。一分一秒も無駄にすることはできない。
ミチュはすぐさま音楽プレイヤーを起動した。
「よっし、やろ!」
まだまだ胸のドキドキは収まらないものの、ノクノはどうにか頷いた。
「う、うん!」
そしてふたりは最後の確認を行っていく。
振りつけが飛びがちだったところ、声が裏返ってしまいそうだったところ。ひとつひとつ確認をすると、20分なんて時間はあっという間だ。
ふたりがハッと顔をあげたときには、17時まで残り5分になっていた。
「じゃあ、最後に一回通してみよう」
そう言ったノクノに、ミチュは元気いっぱい「うん!」と応える。
プレイヤーの再生ボタンを押して、ミュージックスタート!
ヘリンボーンのウッドタイルを組んだ床でステップを踏む。
『“——ハイ!”』
ピッタリと息の合ったハイタッチでスタートを切るが、ここからが問題だ。
もちろん、必死に練習を重ねノクノもミチュも上達したけれど、なかなかミスはなくならない。手振りを間違える、ステップの距離が少し遠い、近い、そんな軽いミスならばいいけれど……これまでのド派手なミスを思い出して、ノクノは遠い目になった。
クラスオーディションはついに明日に迫り、ダンスの練習ができるのは今日が最後になる。今、ここで完成させなくてはいけない。
心が弾む“星灯りのマーチ”を踊っているのに、ノクノの胸は重い影に圧し潰されているかのように塞いでいた。
もっと上手に歌わなきゃ、もっと上手に踊らなきゃ……!
心は酷く焦るのに、手も足も、錆びたロボットになったかのように上手く動かなかった。
『“背筋伸ばして
尻尾を丸めて
君と逃げるが大勝利!”』
テンポのいいAメロが終わり、Bメロへ。
ここから飛び跳ねるようだった序盤から、キラめくサビに向かってロマンティックでポエミーなムードを帯びてくる。
ただ元気を爆発させるだけでなく、息を合わせてステージを作っていなかければいけないけれど……
『“ハイヒール蹴っ飛ばして
ほら神様だって眠りについた!”』
伴奏よりも一呼吸ミチュの歌が早く、ハモがずれて不協和音になる。ノクノよりもミチュの振りが早いから、腕と腕がガッとぶつかってしまう。
ミチュ!
視線で訴えても、ダンスに夢中の彼女は全身から『楽しい!』を咲かせていて、ノクノの気持ちに気づかない。
行かないで、待って。
たった2歩の距離、そこにある笑顔が酷く遠い気がする。
私はここに、ミチュの隣にいるよ——
しかし手を伸ばしても触れることすらできないまま、春桜色はすり抜けていってしまう。そうして軽やかに、楽しげに、遥か遠くへと舞い上がって……
「———」
ノクノはやがて、手を下ろす。
デスファンブルが研究室から出たのは、ゴォオォオォォッ! と廊下から響いてきた騒音に、火災などの事件を疑ったからだった。
書きものをする手を止め書類をテキパキと纏めあげると、荘厳な木造扉から早足で外に出た。しかしあたりを見渡しても原因らしいものは見当たらず、彼女の目に留まったのは赤絨毯の廊下に散乱する何枚もの紙だった。
デスファンブルはタイトスカートの膝を突き、その一枚を拾い上げる。年月によって淡く色づいた楽譜では荒っぽい文字が五線譜を飛び回り、その上から桃色と水色の付箋が張られていた。
『思い切る! ノクノ』と水色の付箋に書かれた文字は細く整っている。
『あせらない! ミチュ』と桃色の付箋に書かれたこちらは丸く大らかだ。
長い爪で傷つけないように、デスファンブルは一枚、また一枚と拾い集めていく。
『歌声はっきりと ノクノ』
『息をあわせて ミチュ』
『ジャンプ意識 ノクノ』
『笑顔! ミチュ』
と——最後の一枚を引き寄せたところで、彼女の手が止まった。
そこにはステリィの乱雑な文字でデカデカとメモがなされていたのだった。
『着火!』
デスファンブルの細い瞳孔がぎゅっと細くなる。厳粛なまなざしの底に感情がよぎった刹那——その耳に少女たちの声が聞こえてくる。
「——ね、ね、上手くできた! 上手くできたよ!」
ミスなく無事に踊りきったミチュは、満開の笑顔で傍らのノクノの方を見た。
「うん」
とノクノは答えた。
「あれ……?」
ミチュが首を傾げたのは、傍らに人影はなく、やや離れた椅子にノクノが腰掛けていたからだ。息を切らすことなく、まるで今から座学の授業でも受けるかのような佇まいで、そこだけしんと静まり返っている。
「ノクノ、踊ってなかったの……?」
「うん、途中から」
「あれ~?」
ミチュはもうひとつ首を傾げる。
ノクノは長い睫毛を伏せ、やがてゆっくりとミチュを見ると、沈黙を保ったまま立ち上がり、ゆっくりとミチュに向かって歩んでいく。
その様子にただ事ではない緊張を感じ取り、ミチュは両手で顔をガードした。
「あ、あわわ……ご、ごめんなさ——」
「ねぇミチュ、寂しいよ」
ノクノはミチュの手に自らの手をそっと重ねた。
「え?」
ミチュは指を開いてノクノの方を窺い見る。
——寂しい。
それがノクノの正直な気持ちだった。
もちろんミチュがノクノと距離を取って、踊りや歌を間違えないことに集中した方が、彼女のパフォーマンスは良いものになるだろう。
ノクノも腕をぶつけられることなく、転倒のような大きな失敗を避けられるに違いない。
けれど、そんなのは嫌だった。
「ミチュが私の歌を好きだって言ってくれたんでしょう。ここに連れてきてくれたんでしょう。一人と一人じゃなくて、私はミチュと二人で歌いたいよ」
浅瀬色の瞳に潮が満ちて、まなじりで小さな海になり、ゆっくりと伝い落ちていく。
「一人で行かないで。私のことをもっと、見て」
「——っ」
ミチュは言葉を失って、ただ立ち尽くした。
——と、そのときだ。
コンコン!
セイレーン室にノック音がして、厳粛な声が響いた。
「……練習時間を過ぎている」
デスファンブルが17時を過ぎた時計を指し示す。そして靴音を鳴らし、ふたりへと歩み寄ってきた。
そうだ、次の予約はデスファンブル先生なんだった!
ミチュとノクノは弾かれたようにピシッと背筋を伸ばした。
「すみません!」
と、ノクノは慌てて机の上に置いてあったタオルを取り、
「楽譜楽譜!」
とミチュも楽譜を探そうとして——見当たらない。
「あれ~?」
きょろきょろ、きょろきょろ。
必死に辺りを見渡して、半分開いたセイレーン室のドアの隙間から、楽譜のファイルが覗いていることに気づく。慌てて駆けよれば、楽譜の入ったファイルがドアに立てかけられているのだった。
「あった!」
きっとセイレーン室に入るときに落としてしまったのだろう。ミチュはファイルをパッと掴む。
ふたりは逃げるようにセイレーン室を出て、中庭に向かった。
中庭と建物を繋ぐ扉が大きなガラス張りになっているため、姿を映しながら練習することができる。練習室を取れなかった生徒たちの知恵だった。
けれど時刻は17時をすぎており、うろこ雲は茜色に染まっている。間もなく夜の帳が下りる。
ミチュは大急ぎでスピーカーをセットして、ノクノの方を振り返った。
「ねぇノクノ、きっと次は上手くできるよ。次は絶対に一人にしないから」
だって、やる気は十分!
ミチュは腕まくりをしてファイルから楽譜を取り出し、突然ムムムッと食い入るように顔を近づけた。
「……あれ? あれあれあれ? これは古いの、これは新しいの……」
「どうしたの、ミチュ」
「ね、ね、古い方の楽譜、数えるから見てて! 1、2、3、4、5……」
ミチュはひとつひとつ指さしながら楽譜のページ番号を読み上げていく。
「——8! 古い楽譜、全部ある!」
ステリィの紛失により発生した欠番は2と4。それも確かにここにある!
しかしなかったはずのそれが、どうして突然現れたのか見当もつかない。ふたりはただただ首を傾げることしかできなかった。
「くっついちゃってたのかな?」
「まさか」
「じゃあ迷子の楽譜を連れてきてくれたとか?」
「まさか!」
う~ん……
どれだけ考えても原因はわかりそうにない。
とにかく、原本が見つかったのは良いことだ、とふたりは自分を納得させて新たな2枚の読譜を始めた。
原本と比べてみると、ノクノが耳で写したものはところどころ間違っていたことがわかり、収穫がひとつ。
しかし何より貴重な情報は、楽譜に直接書き込まれたメモだった。
この2枚目と4枚目は特に書き込みが多く、20年前の生々しい息づかいが聞こえてくるようだ。
ステリィの文字は荒くて癖も強く、反対にデスファンブルの文字は神経質そうに尖っている。ふたりとも、幼いころからその性格は変わっていないようだ。
「むむむ……」
声をあげながらミチュは五線譜を指で辿る。
彼女が暴走しがちな箇所はBパートの終わりで、ちょうど新しく出てきた楽譜にあたる。
指先がそこに辿りつくと、そこには神経質そうな文字でこうメモされていた。
「“じーっと! 私を見る!”……? え? えー? どういうこと?」
ミチュの声は疑問符だらけだが、ノクノにだってちっともわからなかった。
「……“私”って、この字はデスファンブル先生だから……デスファンブル先生を見るってことかな……? 誰が……?」
「ペアのステリィ先生に自分をじーっと見ろって言ってるのかも!」
「どうして……?」
そこはサビに入る直前で、見てくれる人に向かってアピールをするポイントだ。実際、ふたりは前に向かって手を差し伸べる振りつけにしており、メモは一見するとデタラメだ。
けれどその文字は大きな丸で囲まれ、楽譜のなか一番目立っている。誤字の類でないことは明らかだった。
意図はちっともわからなかったけれど、ノクノはそっと提案した。
「とりあえず、やってみようか……?」
*
クラスオーディションを行う場所は第四ホールといって、リリカルモナステリオ内にある小ステージだった
授業で使われるほか、新人アイドルたちのライブにも使われている。キャパシティ300人ほどの小さなホールとはいえ、経験の浅い少女たちにとってはめまいがするほどの広さだった。
「じゃ、クラスオーディション始めてくよ! ふたつ先のペアまで舞台袖で準備よろしくねー」
そう言うステリィは、後方通路で座席の背に肘を突きながら立っていた。
順番の遠い少女たちは前方座席に詰めているが、くじで三番を引いたミチュとノクノの姿はそこにない。
薄暗い舞台袖は、底冷えするような空気が流れていた。そこからミチュとノクノはわずかに震えながらまばゆいテージを見つめている。
「うぅ、緊張する~!」
緊張で今にも走り出してしまいそうなのがミチュ。
「…………」
緊張で表情を強ばらせているのがノクノ。
泣いても笑っても本番はすぐそこ。ふたりは胸をドキドキさせながら手を握り合った。
「よぉし、がんばろーっ!」
「うん……!」
ペンを走らせていた手を止めデスファンブルが顔を上げると、研究室の時計は予定時刻を差していた。
厚い本を閉じ、背後のブックシェルフに丁寧に収めてから研究室を出る。
第四ホールまではやや遠く、デスファンブルは廊下を足早に歩き出した。
その横を、少女たちはスキップのように軽やかに駆け抜けていく。いや、駆け抜けていこうとして、デスファンブルの姿に気づいてそーっと歩き、通り抜けるやすぐにローファーを鳴らして駆けだした。
もちろんそれに気づかないデスファンブルではない。
注意をするか、やめておこうか。
振り返ったデスファンブルの視線の先で、少女たちは顔を寄せ合い、鈴を鳴らすような声で笑っている。
デスファンブルの背丈が伸び、ばら色の頬のころが終わっても、この学園の光景は変わらないようだった——
リリカルモナステリオ に入学すると、初めての「寮友」はくじ引きで決まる。やがて自然に部屋替えが行われていくものだが、学園に馴染むまでは初めての「寮友」と暮らすのが通例だから、相性が悪ければ目も当てられなかった。
寮友はどんな相手なのだろう……と緊張してしまうのはデスファンブルでさえ例外でない。
そうして入学初日、強ばる手で自室のドアを開けたのだった。
さほど広くない寮室には天蓋式のベッドが二台と古めかしい木造のデスクが二台、やや離して設置されている。
先に入寮していた寮友が、ベッドから身を起こしてこちらを見た。
思わず息をのむ。
神秘的な佇まいの少女だった。
深いネイビーの髪に銀髪が幾筋か混じり、まるで天の川が鮮やかな夏の夜空のよう。
こぼれんばかりに大きな鈍銀色の瞳がデスファンブルを映し、やがて長い睫が微風をおこしながら瞬きする。
けれど神々しいほどの雰囲気は一瞬にして、ガキ大将のように粗野な笑顔で台無しになった。それはもう見事なほどだった。
「や! ぼくはステリィメロディアルーシャ。うちの親、せっかく三つ考えたのに無駄にするのはもったいないって、ぜーんぶくっつけたからこんな名前なんだ。長いだろ、ステリィでいいよ」
「あなたの大切な名前でしょう。ステリィメロディアルーシャ、そう呼ばせてもらいます」
真面目腐ったデスファンブルの返答に、少女は少しキョトンとして、すぐに「アハ!」と破顔した。
「ありがとう! で、君の名前は?」
「デスファンブルと申します」
「うーん。じゃ、長いしデシィって呼ぶよ!」
……名は体を表すというが、ステリィメロディアルーシャ——ステリィはデスファンブルの知る中でもっとも“ダラダラと”した人間だった。
朝はギリギリまで寝ており、デスファンブルの尻尾に何度も強打されてようやく飛び起き、寝癖がついたまま授業に出る。
共用の部屋を散らかしたまま片付けようとせず、書きかけの楽譜は雪崩を起こす。そして雪崩で埋まったベッドの隅で小さくなって寝ている。
デスファンブルが無理矢理片付けなければ、のちに彼女の代表曲となった『星灯りのマーチ』はベッドフレームとマットレスの隙間でクシャクシャになり消えていただろう。
だらしないだけではなく、破天荒でもあった。
担任のシルフォニックの誕生日だからと学園前の中庭で火を起こし、バーベキューよろしく肉を焼いて、養生したばかりの芝を焦がした。デスファンブルが消火しなければすべて燃え尽きていただろう。
新しいヴァイオリンの材料にするのだと、リリカルモナステリオのどこかにあるとされる世界樹を探して暗渠に忍び込んだ。結局非常用の地下水が貯められているだけで、ステリィはもちろんのこと、連れ戻そうとしたデスファンブルまで泥まみれになった。
音をサンプリングして使いたいのだと、空鯨にクシャミをさせようと試みた。もちろんこれもデスファンブルが阻止した。
担任のシルフォニックに金ダライを落とされ、ふくれた餅のようなたんこぶをこさえるたび、ステリィは言うのだ。
「だって校則に書いてないしさ!」
彼女のせいでリリカルモナステリオの校則は三十ほど増えた。
デスファンブルが校則を隅から隅まで暗記したのは彼女のせいである。
校則には触れずとも、これで成績が悪ければ退学を免れないところだが、極めて優れていたのが腹立たしい。
一位 ステリィ
二位 デスファンブル
という並びを初めて見たとき、デスファンブルは自分の目が壊れたのではないかと思った。目が正常ならば脳の方だ。
アハハと脳天気に笑うステリィの姿に、デスファンブルが一層勉学に励んだのは言うまでも無いが……結局一度としてデスファンブルが彼女に勝つことはなかった。
やがてブルーム・フェスのクラス選考で、デスファンブルがステリィと組むことになったのは、完全に面倒を押しつけられた形だった。
クラスメイトからの評は以下である。
「だって彼女、あなたに懐いてるし、あなたの言うことなら聞くでしょう。三つに一つくらいは」
少ない。
しかしデスファンブルは声を大にして言いたかった。
十に一つ聞いたら奇跡だと!
「——この馬鹿! 突っ走らないでって何度言ったらわかるの!」
体育館に流れていた楽曲を止め、デスファンブルは思わず叫んだ。
ステリィがフェスのために作った“星灯りのマーチ”は踊り出したくなるようなポップでキュートな曲だった。ステリィが用意したデモ音源を聞かせてもらったとき、デスファンブルはキャッチーなメロディに一瞬で魅了された。
一年次でこれだけ作曲できる生徒は、いかにリリカルモナステリオとはいえそうそう見かけない。「だらしない」「破天荒」というステリィの評価を、少しばかり見直そうかとデスファンブルが思った矢先、練習を初めてすぐに問題にぶち当たった。
小気味よいBメロからサビに差し掛かるあたりで、毎回ステリィは調子に乗り始めるのだ。ダンスの振りが大ぶりで激しくなり、歌にも異様な熱が入る。
このまま彼女の好きにさせたら、“星灯りのマーチ”はアイドルソングではなく、勇ましいディアブロスガールズの応援歌になってしまう!
デスファンブルが肩を怒らせていると、ステリィは憎たらしく鼻で笑った。
「君がついてぼくに来れてないだけだろー?」
デスファンブルも力の限り憎たらしく、ふんと鼻で笑い飛ばした。
「あなたについていきたい人なんて誰もいないでしょ」
「はぁ~?」
ふたりは険悪に睨み合い、やがてデスファンブルは深い溜息をついた。
「こうしましょう」
人は否定を瞬時に受け入れることはできない。
例えば「大きなクッキーを食べている自分を想像するな 」と言われても、脳内のイメージを完全に消し去ることは難しい。だから、もし『突っ走るな』といくら言ったって、きっとステリィには無意味だろう。
デスファンブルは楽譜を引っ掴むと、ペンを取り、サビの直前に神経質な文字でデカデカと『じーっと! 私を見る!』と書き込んだ。
ステリィが首を傾げる。
「なんでデシィを?」
「やってみて」
「こう?」
じ————っ!
音が聞こえてしまうほど大げさにステリィはデスファンブルを見つめた。
「そう!」
突っ走っていってしまうなら、その勢いを殺すことが大切だ。きっとこれで、熱くなってデスファンブルを置いてけぼりにする彼女も、少しは冷静になることだろう。
大きな事故を防ぐためには、少しぐらいテンポを崩しても仕方ない、とデスファンブルは判断した。
ステリィはちょっと唇を尖らせたが、
「ふーん。わかった」
十に一つはここで効いたらしい。
デスファンブルが内心胸を撫で下ろしていると、ステリィはイタズラっぽくニヤッと笑った。
「じゃあこっちは……」
ペンを取り、ステリィはサビの半ばに大きな文字で『着火!』と書き込んだ。
「ぶちかましちゃえ!」
ブルーム・フェス当日——
出番を待つ舞台袖で、デスファンブルは神経質に楽譜を見返していた。ふと顔を上げてステリィを見れば、鼻歌交じりに白紙の楽譜を埋めている。その横顔に気負いはなかった。
「あなた、緊張しないの……?」
「緊張?」
と、ステリィはそう問われたこと自体が想定外だったのか、ひょうきんに眉を上げた。
「だってぼくがこけたって君が手を掴んでくれるし、歌詞が飛んだってまぁ、君が歌ってくれるし?」
それを聞いて、デスファンブルは親友にしかわからないほどわずかに笑った。
「……この馬鹿」
ふたりはステージへと歩き出す。煌々たるスポットライトが、鮮やかにふたりを照らす。
『——ブルーム・フェス最優秀楽曲賞はステリィ!』
アナウンスに続き、フェス会場に割れるような拍手が沸き起こった。
はにかんだ笑いを浮かべながらステリィがステージに立ち、花束を受け取る。まだまだ子どもめいた一年生の身体に花束は大きすぎ、ステリィは軽くよろめいた。
けれど彼女の隣に、それを支える人間はない。
デスファンブルは多数の出演者たちと共に舞台の袖からステージへと視線を向けていた。喜ぶでも悲しむでもなく、静かに凪いだ瞳だった。
舞台袖で出演者たちは小声で囁き合う。
「すごかったね、ステリィの曲。もう耳から離れないよ」
「そういえば、ペアの子は一緒じゃないんだ?」
「ペア?」
「いたでしょ。あのトカゲの……」
「あぁ。いたかも。えっと……」
彼女たちはしばらく首を傾げ、やがて言ったのだった。
「——名前、何だっけ?」
デスファンブルが学園を辞めたのはそれから間もなくのことだ。
*
第四ホールに重い遮音ドアの開く音が響く。後方通路のステリィが振り返ると、デスファンブルがホールに入ってきたところだった。
そのまま階段を降りて前方席に向かおうとするので、ステリィが強く手招きすると、やや逡巡した様子を見せたが、やがて諦めたようにステリィの横に立った。
ステリィは揶揄って言う。
「センセ、お忙しいから来ないかと思った」
「まさか」
「さぁ、始まるよ」
一組目はハーゼリットとメディエールで、曲は“ネコとんじゃった”。
ネコのステップを思わせる、ニャンとも軽やかなメロディでふたりはダンスする。
「“ネコとんじゃった、ネコとんじゃった、お空にとんじゃった”!」
ふわふわの猫の手をつけたハーゼリットとメディエールが猫さんの手でタッチした。
二組目はリルファと、クラスメイト二人の合計三人によるユニット。
リルファはジャイアントであるため寮室は一人部屋が割り当てられている。そこで隣の部屋の二人に合流し三人でユニットを組んだのだった。
曲名は“ガールズ・ビー・アンビシャス”。リルファの肩の上で、クラスメイト二人が軽やかにダンスする。
そして三組目が——
「お、来たね!」
ステリィがワクワクと身を乗り出した。
ステージに出てきたミチュとノクノの衣装は星の刺繍が入った白いチュールレースのドレスで、スカートの裾には金色のパイピングテープが施されている。
それはステリィたちがかつて身につけた衣装を思わせるもので、見るなりステリィは身体を折って笑い出した。
「アハハ! あの子たち、気合い入れてくれたなぁ」
対してデスファンブルは渋面を作る。
「……私への阿諛追従なら逆効果だが」
「それは違うな、断言するよ。本当にまっすぐなふたりなんだ」
ハイテンションな伴奏に勢いを乗せて、ミチュとノクノは元気にハイタッチする。
『“——ハイ!”』
「うんうん、良いね」
出だしは好調、歌もまずまず。ミチュの歌は音程を取れるもののノイズが多いことが課題だったが、アップテンポなこの曲ならばさほど気にならない。
技巧を聞かせるバラードでもないため、お世辞にも優等生とは言えないミチュの歌声がむしろ親しみを感じさせ耳に馴染む。
ステリィは顎に手をやり、鈍銀色の瞳に二人を映す。
「さて、問題はダンス……」
元気いっぱいのミチュのダンスに、奥手なノクノが合わせようとしている。ノクノの振りに物足りなさもあるが、二週間でここまで持ってきたのは、ひとえに彼女の努力によるものだろう。
だが——
「ちょっとズレてきたかな」
スタートでは気にならなかった、ミチュのダンスが鋭く、わずかに早いという問題が、Bパートが半ばに入るタイミングでステリィの目にはやや気になる差になってくる。
「“散らばった今と今
消えないで拾い集めて”」
笑顔で手拍子するクラスメイトたちはまだ気づかない刹那の差、それが致命的になるまであと数フレーズか——
「“空っぽの手と手 ひとつに繋いだら
一瞬が光り出した”」
ステリィが予感した、Bパートからサビに入ろうとしたその瞬間。
じ——っ!
音が聞こえてしまうほど大げさに、ミチュがノクノを見つめたのだった。ノクノもミチュを見つめ返す。
そしてミチュはニヒッと、ノクノはほころぶように笑って歌声を重ねた。
『——“行こう”!』
すれ違いそうになった一人と一人が、もう離れないようにと体温を分け合いながら、星灯りの夜空を進んでいく。
ステリィはゆっくりと目を見開いて、呟いた。
「……あぁ」
それは遠い昔、色鮮やかなステージで見た光景だった。そしてもう、永遠に手に入らないもの。
『星灯りの指揮者ステリイ』——彼女の脳裏に、かつての出来事が蘇る。
日も高く昇ったというのに、部屋のカーテンは締め切られ、その合わせから白い光がわずかに漏れてくるだけだった。
電灯の切れた寮室には机とベッドが二人分置かれているが、殴り書きの楽譜が乱雑に積まれた片方に対し、もう一方には何も置かれていない。大量の付箋がついた参考書も、ノートも、ステージで笑い合う“くじ運最悪”な少女たちの写真も、最初から存在しなかったかのように消え失せている。
薄暗い部屋で、ステリィはベッドに腰掛けたまま虚ろな視線を床に投げていたが、やがてアハハと笑い出した。
「あーせいせいした!」
立ち上がり、やけに広くなった部屋の中心で一回転すると、夜空色の髪がふわりと広がった。
「“リリカルモナステリオ 生徒心得 学則を良く守り規律ある生活をすること”」
「“リリカルモナステリオ 罰則規定 規定を遵守できなかった場合はHR後に反省文を書くこと”」
ステリィは真面目くさった顔つきで口うるさい彼女の真似をしたあと、大きくバンザイした。
「もうガミガミ言われないって最高ー!」
ふとデスクに目をやれば、積まれた楽譜の一番上に“星灯りのマーチ”があることに気づいた。
“星灯りのマーチ”はステリィがデスファンブルのために作った曲だ。もっと歌もダンスも技巧を凝らし、難易度をあげて観客をアッと言わせることはいくらでもできた。しかしデスファンブルは座学には強いが本番に弱く、到底複雑なステージはこなせない——そう判断したし、間違っていなかったと思う。
楽譜には練習のたびに増えていったメモが、音符が見づらくなってしまうほど沢山、生き生きと書かれていた。
『ハイタッチ!』
『リズム注意!』
『着火!』
「——ッ!」
ステリィは衝動的に楽譜を掴み、ゴミ箱に叩きつけようとして——
やがて力を無くしたように手を下ろし、床に散らばった楽譜をいつまでも見つめていた。
少女たちは噂する。
「——ねぇねぇ、大ニュース! ステリィ、アイドル志望やめて指揮者志望に転向するんだって!」
「ブルーム・フェスに出てた子でしょ。どうして?」
「さぁ。でも、ちょっと残念」
少女たちは噂する。
「——あれ、このピアノ、この曲……知ってる?」
「ううん。誰が弾いてるんだろう?」
「行ってみようよ!」
少女たちは噂する。
「——ねぇねぇ聞いた? 今度ステリィの指揮でコンサートやるんだって。しかも賢者の塔!」
「ステリィってあの一年の?」
「そうそう! チケット、絶対争奪戦だよ~」
「よし、協力しよ!」
少女たちは噂する。
「Astecise(アステサイス)の新曲聴いた? ヒットチャート1位!」
「あ、ステリィが楽曲提供してるやつでしょ? 今カラオケ練習してるんだ~」
「ステリィの名盤集売り切れだって……」
「初めて行ったコンサートはステリィの指揮で」
「わたし、ステリィのオケで演奏するのが夢なの」
「ステリィ!」
「ステリィ!」
リリカルモナステリオの空鯨はその日も悠々と空を泳いでいた。
天気はあいにくの雨。けれど少女たちの表情に曇りはなく、ピカピカのローファーを鳴らして駆けていく。
そこにビシリと厳しい声が飛んだ。
「こらそこ、走らない!」
「わっ、シルフォニック先生! ……はぁい」
「……ったく」
歴史教師のシルフォニックはずり落ちた老眼鏡を押し上げながら、廊下の角に消えていった少女たちへと溜息をついた。
シルフォニックの半歩後ろを歩く女が懐かしげに言う。
「ここは全然変わらないなぁ」
シルフォニックがそちらに視線を向けると、夜空色のローブを纏った女が目をすがめている。
シルフォニックは感慨深げに息をついた。
「“星灯りの指揮者ステリィ”、当代の偉大な指揮者の一人——ダメ元だったのよ。まさか本当に教師になってくれるなんて」
ステリィは三十路に差し掛かる頃で、リリカルモナステリオを卒業後、フリーの指揮者・作曲家として活動していた。
その名声はすでに揺らがぬものになっている。
「まーた、おだてても何も出ませんよ。尊敬する我が恩師シルフォニック先生のお願いを私が断るわけないじゃないですか」
シルフォニックは苦虫を噛み潰したようになる。
「ったく……十五年経っても金だらいの数であなたを超える生徒はいないですよ」
「いやぁ、お陰様で今でも石頭だけは自信がありますよ!」
ステリィはタクトの先で頭をペシンと叩いて見せた。
二人はやがて事務職員室に辿り着いた。教諭以外の職員が様々な事務をこなす大部屋だ。
「来期からの新任は二人。あなたは合唱、もう一人の声楽担当はグレートネイチャー総合大学の紹介よ。大変優秀な音楽学の教授と聞いているわ」
「へぇー。学者サンね」
さして興味はなくステリィは相づち程度に言いながら、シルフォニックに続いて事務職員室に入った。
事務職員たちが座るデスク群を抜けると、革張りのソファに女が腰掛けているのが見えた。
「……——」
ステリィはポカンと間抜けに口を開く。
女の年齢は三十をいくらか超えているだろうか。つややかな緑髪を生真面目に結い上げ、眩しいほどの白シャツと黒いタイトスカートという出で立ちのワービーストが立ち上がり、これまた生真面目に手を差し出した。
「グレートネイチャー総合大学から参りました、デスファンブルと申します。“星灯り指揮者のステリィ”——ご高名はかねがね」
「……デシィ」
「いいえ。デスファンブル教諭とお呼びください。規則ですので」
十五年が経ったというのに、その融通の利かない性質はちっとも変わらないようだった。
驚きは一瞬のこと、すぐにステリィは真面目くさった顔つきで眉に皺を寄せた。
「……あのさ、ひとつだけ伝えたいことがあるんだけど。いい?」
「……どうぞ、ステリィ教諭」
「スカートめくれてるよ、パンツ可愛いね」
「ッ!」
デスファンブルはハッとしてお尻を押さえたが、糊の効いたタイトスカートがめくれているはずはなかった。
ステリィはペロリと舌を出す。
「うっそぴょーん」
「——ステリィメロディアルーシャ!」
デスファンブルのトカゲ尻尾が宙を駆ける。
のちに生徒たちから“デスファンブル制裁”と呼ばれる強烈な一撃だった。
*
ステージに光が降り注いでいる。
遥か高き雲間から白く尾を引く光芒のように、清らかな光が。
それは惜しみなく少女たちへと降り注ぎ、上下する肩も、滴る汗も、荒くなる息遣いも、不安に揺れる双眸も、そのすべてをあらわにする。
幾百幾千の年月が過ぎても、ステージに立つ少女たちだけを照らしだす美しさと冷酷さに、ステリィは眩しそうに目をすがめた。
「君の隣にいられるなら、タクトなんて要らなかったのに」
「——ならば私の選択は間違いではなかったな」
彼女の視線の先で、ステージ上のミチュとノクノは緊張の面持ちで進み出て、手を繋ぎながら一礼した。
ふっ、とひと瞬きの静謐があり——やがて嵐のような拍手が沸き起こる。その万雷までもが至高のステージを形作る後奏であるかのように、永遠のように。
デスファンブルは旧友にしかわからないほど、わずかに笑った。
「見ろ、お前の音楽は美しい」