まだ夢の中にいるのではないか?
現実逃避じみた疑心がよぎったが、ここはまぎれもなく現実だ。
オブスクデイトは壁に立てかけた大剣を取る。しかし振り下ろすよりも先に、少女の鋭い声がかけられた。
「病人と戦うつもりはないわ」
ラディリナは床上で片膝を突き、すぐに斬りかかれるよう臨戦態勢を取っている。
こちらの動き次第では戦いも辞さない、そういうことだろう。
(……失態だな)
悪夢に魘されていたとはいえ、平時のオブスクデイトであれば、他人に侵入された瞬間に気づいていた。
それがエバの声に叩き起こされるまで覚醒しなかったのは何故か——
自らの胴腹に意識を向けると、焼鉄で躙るような痛みがある。トゥーリで受けた傷が、治り切らず残っているのだ。
これほど長いあいだ傷に苛まれたのは初めてだった。
ほとんどの毒は効かず、身に受けた傷は治療を受けずとも治った。野生の獣のような生命力だと誰かが言った。
しかしトゥーリでの傷は世界樹の加護を受けても治りきることはなく、腹からじゅくじゅくと黒く爛れた傷を広げ続けている。
それはまるで、呪いのように。
嘲笑うかのように鼓膜の奥で呪詛が響いている。
そんな今、ラディリナと剣を交えるのは得策ではなかった。彼女が病人と戦うつもりがないと言うのであれば、乗るのが賢い選択だろう。
オブスクデイトが大剣から手を離すと、ラディリナもまた注意深く手を下ろした。
「トゥーリではごめんなさいとか、ちょっとくらい申し訳なさそうにするなら可愛げもあるでしょうね」
「…………」
オブスクデイトはただ押し黙る。
意思と反した謝意を表す器用さを、男は持ち合わせていなかった。
「はぁ~……」
ラディリナは聞こえるように溜息をつく。
やがて諦めた様子で、向かいに円座している人物を指した。
「で、この子は誰?」
サイバロイドの少女だ。
かつては水着と見紛うような薄着姿だった彼女は今、白いファーのコートをすっぽり被っていた。ドラゴニア大山脈の積雪地帯に住むという噂の雪人に似ている。
モコモコだ。
寝台から板床に降り、オブスクデイトは答えた。
「エバだ」
「本人もそう名乗ったわ。でもそう見えないから訊いているんでしょう」
「今は冬だろう。寒い」
「……格好のことじゃなくて。ふざけてるの?」
剣呑なムードが漂いかけた、そこに——
「あっ、オブオブとラディがケンカしてます! いっけないんですよー!」
底抜けにあどけない声が響き、たちまち剣呑な空気を吹っ飛ばしてしまった。
モコモコのエバは両手をブンブンと振り上げて、半身をピョコピョコ上下させている。その仕草ひとつ、頬を膨らませる表情ひとつ、どこをとってもエバではない。
過日のエバはわざと天真爛漫に振る舞うことはあったが、その奥には隠し切れないほどおぞましい好奇心が潜んでいた。
今のエバは違う。
まるで“子どもに戻った”かのように、どこまでも幼かった。
ゆえにラディリナは「この子は誰」と尋ねたのだ。
「4足す9は?」
ラディリナがエバへと問いかける。
「そんなの! 天才のエバちゃんには楽勝です!」
ふふん、とエバは鼻を鳴らし、自信満々で両手を広げた。
「いち、に、さん……きゅう、じゅう……あれ、指が足りません……?」
指を何度も数えては「おかしいですねー」とエバは不思議そうにしている。
ロロワはオブスクデイトに訳を問うた。
「エバさんは……僕と戦かったせいで?」
トゥーリでエバと対峙した記憶が蘇ったのだろう、瞼は物憂げに伏せられている。
オブスクデイトはひとつ、首を横に振った。
「いや、これが“生来のエバ”だ。やがてはこうなった。お前と戦いはきっかけに過ぎない。トゥーリでの姿は、そうだな……彼女自身が望んだ“理想のエバ”か」
「あれが理想?」
ラディリナの声が尖ったが、オブスクデイトは黙ることで肯定に代えた。
人格はどこに宿るのか——オブスクデイトは浅学にして知らない。
知的好奇心のままトゥーリの街を壊滅させたエバ。
あのときの彼女を“本質”だと言えば“今”の否定になるだろう。しかしあれを“過ち”だと断じるのもまた“今”の否定になる。
ゆえにオブスクデイトは、あの姿に“エバ自身の望んだ理想”と名をつけるのだ。
しかし当の本人はオブスクデイトの気も知らず、靴を脱ぎ足の指まで使って4足す9を数えている。
と、そのときだ。
おもむろに、部屋の隅で座していた黒馬が立ち上がった。さして広くない部屋ではかなりの存在感で、全員の視線がそちらに向かう。
「——ニグラ」
オブスクデイトは驚きの声を漏らす。瑠璃紺に燃えるような鬣を見間違えるはずがなかった。
ロロワも驚きにまなこを丸く開いて、
「ニグラを知ってるんですか?」
「昔、俺の軍馬だった」
「あぁ、だから! ニグラに道を任せていたらここに着いたんです。オブスクデイトさんを追ってたんだね?」
ロロワの問いかけにニグラはブルルと鳴いて頷くと、まっすぐオブスクデイトに近づいていった。
「……久しいな」
かつて共に戦場を駆けた軍馬、ニグラ。
出会ったときニグラは1歳、オブスクデイトが14歳。それから11年の時を共に過ごした。
言葉数が多いほうではないオブスクデイトの意図を、誰よりも正確に察し応える賢い軍馬だった。
ケテルサンクチュアリを離れたとき、ニグラは置いていった。追われることになる自分と行動を共にするよりも、正規軍の軍馬として生きてこそ彼は幸せだろう判断したからだ。
こうして再びダークステイツの地で会うことになるとは、夢にも思わなかった。
すでに壮年期を過ぎているが、黒い瞳に満ちる知性と生命力はあのころと変わらなかった。
オブスクデイトは手をハムハムと甘噛みするニグラをいなしつつ、もう一頭の白馬に視線を向ける。
「お前は……アルブか」
アルブもニグラに続いて立ち上がり、オブスクデイトに向かって噛みついてやるとばかりに歯を剥き出し威嚇する。
かつてジラールの軍馬だったアルブは絵に描いたような問題児だった。
ジラールとニグラにしか心を開いておらず、女性であればどうにか騎乗することもできたが、子どもと男には触れることすら許さなかった。
中でもジラール、ニグラと親しくしていたオブスクデイトを宿命の敵と決めていたため、何度髪を食いちぎられそうになったかわからない。
その憎しみは、10年以上の時を経た今なお変わらないようだ。
オブスクデイトは手でアルブを制止する。
「……待て、待て。わかるな?」
この狭い中で暴れられるのは正直、困る。
アルブもわかっているのか、威嚇で耳を伏せながらもそれ以上は近づいてこなかった。
オブスクデイトはニグラの鬣を撫でながら、文机のチェアに腰かける。
改めて見ても、30㎡に満たない部屋のなかで軍馬二頭と5人——それも一度は死闘を繰り広げた間柄だ——が顔を突き合わせている様子は異様である。
悪い夢ではないかと思うものの、オブスクデイトは平静を装った。
「で、どうしてお前たちはニグラと一緒にいるんだ」
「それが——」
ロロワはリリカルモナステリオからケテルサンクチュアリ、そしてダークステイツに辿り着くことになったあらましを語った。
「——それで迷い込んだのが “ハッピー常闇村”だったんです。歓迎されたんですが、何だか様子が変で……事情を訊いたら、真っ黒な騎士とサイバロイドの女の子に村長が倒されたって。これ、オブスクデイトさんですよね?」
「あぁ……」
オブスクデイトはわずかに呻く。
記憶を辿るまでもなく、その日のことはありありと思い出せた。
エバが好き勝手に進むのについて行くうち、迷い込んだのが“ハッピー常闇村”だった。
城壁に近づきながら抱いた嫌な予感は、村内に入って確信となった。あたりには幾千という人々の感情が、濃い瘴気となって漂っていた。
満ち満ちていたのは“憎しみ”や“嫉妬”といったネガティブな物だけではない。
たとえば、排泄物のなかに漂うバラの香が怖気を誘うように。
たとえば、吐瀉物の上での舞踏する姿がおぞましいように。
ネガティブな感情の中に、“愛”や“慈しみ”と呼ばれるものがない交ぜになっているせいで、それはいっそう醜悪な瘴気を成していた。
これは世界にとって害となるものだ。
そう判じたオブスクデイトは、首魁が姿を現した瞬間に剣を振るっていた。
ロロワが、あぁ、と相槌を打つ。
「それが“村長”だったんですね。一体、どんな人だったんですか?」
「砂時計の頭をしたデーモン の男だったな」
「砂時計の……頭……?」
想像が追いつかないらしく、ロロワは首を傾げている。
「待て」
オブスクデイトは散らかる文机から白紙を取って、記憶に残るその姿を書きつけていった。
ぺらりと掲げる。
「こうだ」
タキシード姿の男だった。
まず特徴としてあげられるのは左右に四本伸びる腕だ。右上腕が長いステッキを、左上腕がツノのついたシルクハットを掲げている。
しかし何より特異なのは、本来頭があるべき箇所に大きな砂時計がはまっていることだった。
ヒトガタの身体に無機物の頭部を持つ異形のデーモン、それがハッピー常闇村の村長だった。
ロロワは感心したように目を瞠った。
「オブスクデイトさん、絵、上手いですね」
異形の姿よりも先に、そこへ言及されるのは予想外だった。
どう返していいかわからず、低く唸るような声が出る。
「……普通だろう」
「モーダリオンと比べたら雲泥の差よ」
口を挟んだのはラディリナだ。
「……あぁ、確かにあいつの絵はダメだったな」
月のない夜の底で暗躍する存在、シャドウパラディン。
闇に包まれた組織ではあるが、内に入れば朧な存在ではいられない。任務があり、報告書があり、詳細を伝えるためには時に絵を描くことも必要になる。
しかしモーダリオンから上がってくるものは、いつも幼児が左手で描いたかのようだった。
オブスクデイトが遠い記憶に目を眇めると、そこに突っ込んでくるのは天真爛漫すぎる声。
「エバの絵もっ、エバの絵も見てくださいっ!」
エバはモコモコ服の内側から黒い塊を取り出した。本だ。表紙はしっかりとした布張りで、ページ数が多く、箱と見紛うばかりに厚い。
周りの視線を集めながら、エバは床の上で力強くページを開いた。
「これはティティです!」
描かれているのは茶色のモジャモジャした二足歩行の生き物。
ページをめくる。
「これはナチュナチュです!」
描かれているのは棒を持った二足歩行の生き物。
ページをめくる。
「これはハートルールー!」
描かれているのは緑色に塗られた二足歩行の生き物。
つまり、どれだけ甘く見ても上手いとは言えないのだが、エバは褒められるのを待って目をキラキラさせている。
そしてこの場でお世辞を言える人間はただ一人しかいなかった。
「わ、わぁ、すごいね。本当に上手い。この本はエバさんのお絵かき帳なの?」
ロロワに褒められ、エバは小鼻を膨らませた。
「違います、これは“交換絵日記”です!」
『オブスクデイト(さん)と?!』
ロロワとラディリナの素っ頓狂な声が響く。
オブスクデイトは顔を顰め、エバはケラケラと腹を抱えて笑った。
「違いますよ! そんなわけないじゃないですか!」
「あ、そうなんだ。そうだよね」
ロロワは表情をゆるめ、ラディリナが尋ねかける。
「じゃあ誰と“交換”してるのよ」
「“大天才のエバちゃん”です!」
「自分と交換日記……?」
怪訝な顔でラディリナはエバ自身を指し示す。
「違いまーす!」
エバはぶんぶんと首を横に振り、ひとつページをめくった。
1枚、2枚、3枚、めくってもめくっても、ミミズがのたうつような文字で埋められたページが続いている。
10頁ほど繰り続けた先に、ようやく別の筆跡が現れた。
「これが“大天才のエバちゃん”です!」
その文字はまるで活字版を組んだかのように美しく、整然と並んでいた。さらに太さが均一で読みやすく、内容がさらりと頭に入ってくる。
『これは だいはっけん ですね!』
『ここ もっと しらべたら おたからが みつかりますよ!』
ミミズがのたうつような“天才のエバ”の文字を、 “大天才のエバ”は正確に読み取り、的確にコメントを返しているようだ。
易しい言葉で書かれているのは、“天才のエバ”に読み取らせるためだろう。
さらに頁をめくっていくと、前方に大きな文字でこう記されているのが見つかった。
だいてんさい の エバちゃん から
てんさい の エバちゃん に おねがい
1 せかいじゅう どんな ところにも いく
2 いっぱい しらべる
3 ぜーんぶ おしえて!
なるほどね、とラディリナは呟いた。
「だから、この“大天才のエバちゃん”に調べたことを報告してるってわけ?」
「そうです!」
一点の曇りなく溌剌としているエバとは反対に、ロロワの顔色は優れなかった。
抑えた声を漏らす。
「彼女は何のために……?」
オブスクデイトはトゥーリでのエバを“理想”と呼んだ。かすかに残る“理想の残影”は、どうしてエバに報告させようとしているのだろう。
ロロワがまた1頁めくると、本の冒頭に出た。
そこだけきっちりと糊づけされた袋とじになっており、大きな赤文字で注意書きがある。
『だいピンチ のときに みること!』
気になる。
ロロワが紙を光に透かして中身を覗こうとすると、エバに頭をポカリと叩かれた。
「ダメです! 今は大ピンチじゃないのに」
「あ、そうだよね」
「ワルイコ、ワルイコ! ワルイコはオモチャに連れて行かれちゃえ!」
ポカポカポカ!
心は子どものようだが、身体は大人のエバのものだ。
本気で殴られるとかなり痛い。
「ごめん、ごめん!」
身を捩って逃れると、うー、とエバは唸って拳を止めた。
「じゃあ、ロロワとラディがエバちゃんと探検するなら許してあげます」
ロロワとラディリナは揃って怪訝な顔になる。
「探検ってどこを?」
「さ、行きますよ!」
エバは強引にロロワとラディリナの手首を掴み、力任せに引っ張った。
「ちょっと!」
立たされたロロワとラディリナは、そのまま引きずられるようにして出入りのドアに向かった。
バタンッ
勢いよく木製のドアが開いて、カラフルな光がロロワの視界を染めあげる。
光に目が慣れると——そこにはおかしなおかしな光景が広がっていた。
時刻は6時間ほど遡る。
生贄になってくれと縋りつくラララポココたちを振り切ってハッピー常闇村を出たロロワたちは、再びニグラが進むのに任せ、夜闇に佇む建造物を見つけた。
丸いドーム状のそれは街ひとつを覆うほど巨大で、左右に目を向けても果てが見えないほどだった。
装飾らしいものは正面でピカ、ピカと明滅している電飾看板だけだ。
ロロワはゆっくりと読み上げる。
『おぞましい
ハートルールーのハッピー・トイズ』
「丁寧な自白ね。やめましょう」
ラディリナは力強く断言して、手綱を引いてアルブの方向を変えた。ロロワは慌ててラディリナを呼び止める。
「ちょっと待って!」
よくよく目を凝らせば、電球が切れており一部見えなくなっているのだ。
本来の文字はこうだった。
『たのしい おいしい おぞましい
ハートルールーのハッピー・トイズ』
ラディリナはゆっくりと首を横に振った。
「むしろさらに胡散臭いわ」
「……たしかに」
幸せいっぱいハッピー常闇村の例からもわかるように、やけにキラキラした言葉で身を飾っているのは何か後ろめたいことを隠すためだと推測できた。
入りたがるニグラ、躊躇するロロワとラディリナ、ニグラの進みたいところに行けと暴れるアルブで揉み合いになっていると——
おもむろに、金属製の正面ドアが静かに開いた。しかし目を凝らしてみても、真っ暗で内部の様子はわからない。
ロロワとラディリナは顔を見合わせた。
進むことも戻ることもできずに立ち尽くしていると、奥から無邪気な声が響いてきた。
「あ——っ! お馬さんがいますっ!」
「っ?!」
驚き、目を向けたその先で、白くてモコモコの生き物が嬉しそうに飛び跳ねていた。
——というのが、ロロワたちがエバと出会い、誘われるまま家にお邪魔し、寝起きのオブスクデイトを驚かせることになった経緯である。
ドーム内に入ったとき照明はほとんど落ちており、足元すらよく見えなかった。朝になり照明が点いた今、ようやくその全貌がわかったのだ。
ロロワが呆然と呟く。
「お菓子の国……?」
お菓子、お菓子、またお菓子。
地面、壁、天井、目に見える物すべてがカラフルでファンシーなお菓子によってできていた。
壁はピンクのマジパン、天井はヌガー。ブルーの飴細工で作られたお花の照明がキラキラと光っている。
振り返れば、先ほどまでロロワたちが話していたのもお菓子の家だった。
壁は巨大なクッキーで屋根瓦はパステルカラーのマカロン、上からはとろりとチョコレートがかかっている。窓ガラスは板状に伸ばしたレモンキャンディで、陽光を溶かしたように淡く色づいていた。
そんなお菓子の家々が、クッキーの道沿いにずらりと立ち並んでいる。サイズは犬小屋ほどの小さなものから、集合住宅のように大きなものまで様々だ。
信じられない思いでロロワが立ち尽くしていると、フロランタンのドアがバタンと開き、小さな生き物たちが次々と飛び出してきた。
棒立ちのロロワの脚を避け、ちょこちょこと駆けていく。
そこに、エバは元気いっぱい挨拶をした。
「おはよ、オモチャさんたち!」
あちらからも元気いっぱい挨拶が返ってきた。
「おはようエバちゃん!」
「おはよ、エバちゃん!」
「エバちゃん、おはようなんだな」
ピョンピョンピョン、元気に飛び跳ねたのはウサギのぬいぐるみで、前脚を振ったのはヒツジのぬいぐるみ、頭からこけてしまったのはロバのぬいぐるみだ。
よく見れば、続々とお菓子の家から出てくるのはぬいぐるみだけではない。
ゴム製のアヒルや、木製の汽車、ドレス姿の着せ替え人形など、様々な種類のオモチャたちが群れを成してクッキー・ストリートを歩いているのだった。
彼らはロロワやラディリナを見上げて、
「オトナだ」
「オトナだ」
「オトナがいる」
とブツブツ言う。それは不審者を見咎めるような、やや険を帯びたものだった。
対して、ラディリナの傍らで羽ばたくモモッケには「コドモだ!」とはしゃいだ声があがった。
「ご機嫌いかが、コドモドラゴンさん!」
「ステキなしっぽだね、コドモドラゴンさん!」
口々にかけられる声は親しみに満ちている。
モモッケを子ども扱いされることを嫌うラディリナも、あまりに嬉しそうなオモチャたちの様子に口を出せないほどだ。
オモチャは動かず、話さないもの。
そんなロロワの常識に照らし合わせれば異常な光景だったが、ここは魔の統べる国、ダークステイツ。
常識なんて通じない、とロロワは小さく首を横に振る。そして膝を折り、オモチャたちへと尋ねかけた。
「みんなはどこに行くの?」
「アタシ、オモチャの国!」
「ボクはお菓子の国!」
「何をしに?」
ロロワの質問に、ペンギンのぬいぐるみが勇ましく答えた。
「お仕事をするためさ!」
「みんな、お仕事するんだね」
ということは、このぬいぐるみの大移動は通勤ラッシュなのだ。
エバがその人波に乗るように進んでいくので、ロロワたちも後ろからついていくことにした。
クッキーの大通りをしばらく行くと、やがて大きな壁によって隔てられた突き当たりに辿り着いた。
ジンジャーブレッドの壁には開け放しの大扉があり、壁の向こうに繋がっているようだ。
それぞれの扉にはピカピカと電飾で光る看板があり、行く先を示していた。
右は『オモチャの国』、左には『お菓子の国』とある。
「うむむ……今日はどちらに行きましょうか……」
エバが腰に手を当て唸っていると——どこからか少年の声がした。
「もう、エバちゃんったら、悩むことなんてないじゃん!」
スタッ、と華麗な着地をきめて、エバの前に現れたのは枯れ草色のテディ・ベアだった。身の丈は60センチほどで、抱きしめるのにちょうど良い大きさだ。
エバはぱぁっと顔を輝かせる。
「ティティ!」
「ぜーったいお菓子の国がいいに決まってるでしょ☆ 行こ行こっ!」
ティティはふわふわの手でエバの腕をぐいぐいと引っ張った。
と、枯れ草色の身体のなか、左腕だけライムグリーンのベロア素材によって出来ていることにロロワは気づいた。
千切れてしまった左腕を繕ったのだろうか?
ティティに引っ張られるエバは迷いを見せている。
「でも、オモチャの国にも行きたいし……」
「えー? オモチャの国なんてウルサいしガサツだし、もう最悪じゃーん? お菓子の国は甘くてふわふわであったかくて、もうサイコーでしょ。はい決まり、レッツゴー☆」
「わ、わっ!」
勢いに負け、エバが『お菓子の国』に引き込まれかけた、そのときだ。
高らかなラッパの音が鳴り響き、男の声が割り入った。
「そりゃあ聞き捨てならねぇなぁ。オモチャの国の方が断っ然いいに決まってんだろうが!」
ティティを押しのけて現れたのはクルミ割り人形だった。
身の丈はティティと同じく60センチあまり、黒い兵隊帽に赤い兵隊ジャケットという姿だ。こちらは右腕の袖がライムグリーンの布によって繕われている。
エバはふたたび顔をぱっと輝かせた。
「ナチュナチュ!」
ナチュナチュと呼ばれた人形は、ティティを後ろに押しやりながら力強い語調で言い放つ。
「お菓子は食べちまえば終わりだが、オモチャはビックリドキドキワクワクふわふわ、いつまでもエバちゃんと一緒だぜ? 悩むことなんて一つも無いじゃねぇか」
ティティはピョンとジャンプして、ナチュナチュの側腹部にパンチした。
「ちょっと、邪魔しないでよナチュナチュ!」
「それはこっちの台詞だぜ。今日のエバちゃんは俺たちオモチャの国のモンだ」
「そんなことさせないよ、このポンコツ人形!」
「このボサボサテディ!」
「言ったな!」
「やるか!」
バチバチバチ!
火花が散り、今にも殴り合いが始まろうかという、そのとき。
鐘を鳴らすかのように、朗々たる吟声があたりを包み込んだ。
「ならば、どちらも見て貰おうじゃないか!」
一堂が驚いて顔を向ければ、ドームのはるか高い一点から人影がふわふわと降ってくる。
たちまちオモチャたちは大盛り上がりで、それぞれの楽器や口笛が吹き鳴らし、お祭り騒ぎになった。
無数の音を紙吹雪のように纏いながら、わたあめのように軽やかに、声の主はロロワたちの前に降り立った。
「ようこそ皆さん!」
奇妙ないでたちの男だった。
長身を包むスーツは大きなジグソーパズルをつなぎ合わせたようなデザインで、目がチカチカするほど鮮やかなライムグリーンに輝いている。
同じくライムグリーンのシルクハットの上ではオモチャの汽車が走り回り、ときおり『ポッポー!』と汽笛を鳴らした。
「ワタシはこの工場の工場長、ハートルールー。以後お見知りおきを!」
男は芝居がかった仕草でシルクハットを取ると、恭しく一礼する。
するとスーツの首元から球状の関節がチラリと覗き、ロロワは彼がヒューマンではなくワーカロイドであることに気がついた。
ワーカロイドとは、人工的に造られたロボットのうち、戦闘を目的としないものを指す。
非戦闘用ロボットの形状は多岐に渡るが、彼のようにヒューマンに酷似しているタイプは何かしらのサービスを提供するために造られていることが多い。
例えばメイドとして仕える家事ワーカロイド、ショーを披露するサーカス人形——
そこまで思考を巡らせたところで、ロロワはハートルールーの人工紫水晶の瞳がリリミララミのものと似ていることに気がついた。虹彩に浮かぶ花の模様なんてそっくりだ。
ワーカロイドにはよくあるデザインなのだろうか?
ロロワがそんなことを考えていると、エバがタタタッと駆けていき、ハートルールーへと抱きついた。
「おはよう、ハートルールー!」
「グッドモーニング、エバチャン! 今日はとっても早起きじゃないか。とってもイイコだね」
男はエバの腋下を掴んで持ち上げると、子どもをあやすように高い高いする。
「えっへん、今日のエバちゃんは夜更かしさんなのです!」
「なんだって?! ワルイコにはお菓子は無しだ!」
「む、むむ……ごめんなさい……」
「うん、ちゃんと謝れるのはイイコだね。イイコにはキャンディをプレゼントするよ!」
ハートルールーはシルクハットから棒付きキャンディを取り出して、エバに手渡した。
エバはさっそく包みを開けて、ペロペロと舐め始める。
ハートルールーはニッコリ微笑んでから、ロロワたちへと視線を向けた。
「さてさてさて!」
コツコツ、と革靴を鳴らして近づいてくる。
足を止めたのは、羽ばたくモモッケの前だった。
ハートルールーは軽く膝を折り、丁寧にモモッケと視線を合わせると、目を糸のように細めた。
「キミが新しいコドモだね、ワタシのオモチャたちがコソコソ話をしてくれたよ、とってもステキなツバサのドラゴンだって! さぁ、ワタシにキミの名前を教えてくれるかな?」
「モモッケよ」
傍にいたラディリナが答える。
「ありがとうオトモダチ」
しかしハートルールーはラディリナを一瞥すらせず、モモッケだけを見つめている。
「キミの名前は?」
——ドラゴンという生き物がいる。
その種族や生態は多種多様であり、乱暴に括って語ることは難しいが、いわゆる“言葉”を話すものは二足歩行のドラゴンが多く、四足歩行するドラゴンのほとんどは“言葉”を話すことができないとされる。
もちろんそれはヒトガタの生き物が言うところの“言葉”であり、彼らにも意思疎通をするための音があり、名がある。
ハートルールーが尋ねているのはまさにそれだった。
慣れない問いかけに、モモッケはやや怯みつつも答えた。
「……ピュピュッイ」
「そう、ピュピュッイクン!」
ハートルールーの笑顔はもはやとろけて崩れんばかり。
それを鼻先がくっつくほど寄せながら、荒れ狂う濁流のように喋りまくる。
「お腹はペコペコじゃないかい? からだはヘトヘトじゃないかい? おいしいゴハンとあったかいベッドを用意しなくちゃね。エバチャンのおうちではちょっと狭いから、すぐに手配するよ。ここはステキな工場だから、いくらでも居てくれていいからね」
目は興奮によってギラギラと輝いている。
不審者である。
ラディリナはその勢いに飲まれていたが、慌ててハートルールーの顎を剣の柄で小突いた。
「ちょっと、いきなり何なの! モモッケから離れなさい!」
「アァッ!」
男は悲劇の運命に引き裂かれたように、大げさな身振りで距離を取る。
芝居がかった仕草で顔を覆ったが、やがて「ゴホン」とひとつ咳払いして紳士らしさを取り戻した。
「失礼。ワタシはすべてのコドモが大好きなんだ。なにせワタシはコドモたちと遊ぶために造られたニンギョウだからね」
「なる、ほど……?」
浅く頷いたロロワだが、彼の姿かたちが子どもたちに好かれるものかと問われれば、はっきり否だと答えるだろう。
サイズが大きすぎ、動きがかなり怖いからだ。
「だけどコドモはワタシのことが大好きではないようでね」
本人にも自覚があるようで、ハートルールーは肩をがっくりと落とす。
「ワタシはコドモが大好き、コドモはワタシを大好きではない……ではコドモが大好きなものって何だろう?」
ハートルールーが首を傾げると、辺りのぬいぐるみやオモチャたちも真似して首を傾げた。
「ナイショの夜更かし、ニンジンの入ってないカレー、それに……ピカピカのオモチャと焼きたてのクッキー! だからワタシはこの工場を作ったというわけ。ダークステイツから世界に羽ばたく、ハートルールーのハッピー・トイズ!」
イェーイ!
ププーッ!
シャンシャンシャン!
オモチャたちはラッパにトランペット、スレイベルをかき鳴らして大盛りあがりだ。
ハートルールーは歓声を全身に浴びながら、モモッケに向かって手を差し伸べた。
「というわけで、ワタシの工場はコドモ大歓迎なのさ。もちろん、そのオトモダチやホゴシャなら、オトナだってね」
ハートルールーはウインクを飛ばしたが、ラディリナは思案に目尻を歪ませる。
「じゃあ……もしモモッケがいなかったら、私たちは?」
「それはもちろん」
ハートルールーはギョロリと目を見開く。
背後で、くるみ割り人形たちが物々しく剣を鳴らしている。
ラディリナは苦い顔になった。
「さすがダークステイツ、イカれてる」
「いいや、イカでもタコでもない。ここはおかしなおかしなオモチャの国さ!」
思想の根本は物騒だが、モモッケがいる限りハートルールーが襲ってくることはないだろう。
おかしいが、おかしさゆえに信用できる。その点に置いて、ハッピー常闇村とは異なっている——
ラディリナはそう判断したようで、一旦剣から手を離した。
ハートルールーの汽車が『ポポッ!』と小さく煙を吐く。
「さて、話を戻そうか。エバチャンの今日の探検は、オモチャの国とお菓子の国の豪華ツアー、これでどうかな?」
キャンディを舐めていたエバが身を乗り出した。
「いいんですかっ?」
「もちろん! ピュピュッイクンにご案内もしないとね。さぁ、まずはあまーい甘い、お菓子の国から!」