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クレイ群雄譚(クロスエピック)

第4章 歌が聴こえる

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第4章 7話 摘果

 岩だらけの荒れ山を車が走っている。
 荒野走行向けの車種ならば震動も抑えられただろうが、都市走行用セダンでは衝撃は免れない。車内はシャイカーに入れられたラム酒のように揺れていた。
「だからモモッケに乗って行けばいいって言ったのよ!」
 叫んだのはラディリナだ。
 シートベルトを締めることで、どうにか天井に突っ込まず済んでいるが、代わりに側頭部をリヤドアにぶつけ続けている。
 この車両が白服の男ホワイトマンの特別仕様でなければ、とっくに窓ガラスを突き破って外に飛び出していただろう。
 モモッケは助手席で頭を抱え、身体を丸めている。
 ときおりか細い悲鳴が漏れてこなければ、息絶えたのではと疑わしくなるほど動かない。
 ロロワもまた、文句を言うことすらできなかった。
「わ、わっ、ぐ、うわっ!」
 悲鳴と呻き声が入り交じった叫びが口から溢れた。
 ずいぶん長い間走っているような気がするが、それはロロワの体内時計がそう錯覚させているだけなのかもしれない。窓の外に見える景色はずっと変わり映えのしない荒野で、どれだけの距離を移動しているのかわからなかった。
 阿鼻叫喚のなか、元気なのはただ一人だった。
「ダハハハ! まだまだ到着まではかかるぞ諸君!」
 バトロイドゆえに三半規管が存在しないのだろう。ヒッコリーは、上機嫌でハンドルを握っている。
「嘘でしょ?!」
 ラディリナは目を剥き、ロロワは天井に頭をぶつけた。
「仕方が無い。本官が皆の心を和ませるために、特別に歌を歌おうじゃないか!」
 たんこぶを抑え、ロロワはどうにか声を絞り出す。
「い、いや……けっこう、です……!」
「遠慮することはない。さぁ行くぞ——ガルガ・ガルガ・ガルガティア——」
 英雄の歌が響き、ラディリナが「うるっさい!」と叫ぶ。

「着いたぞ」
 ヒッコリーから声がかかる。
 瞬間、ラディリナとモモッケは車外に飛び出した。
 ロロワはそんな元気すらも残っておらず、震える手でドアを開けた。
 火山地帯なのだろう。あたり一面に硫黄の臭いがたちこめている。腐った卵を思わせる悪臭に鼻を突かれ、ロロワは顔をしかめた。
 殺風景な岩山だった。地面は黄褐色の小岩に覆われ、ひび割れた大岩のあいだから痩せた草木がまばらに生えている。寒々しい風が吹き抜け、息絶えていく獣のようにヒュヒュウと鳴った。
 こんなところに、本当に遺跡があるのだろうか?
 疑問に思ったところで、思い出した。
「あっ」
 慌ててバックドアを開ける。
 荷室の底に、監視烏モニタリング・レイヴンがぐったりと横たわっていた。そっと抱きおこすと、ガァ……と力なく鳴いた。
 後部座席で潰してはいけないと荷室に行ってもらったのだが、さほど効果はなかったようだ。
 気丈なラディリナも車酔いには勝てなかったらしい。車に全体重を預けたまま、虚ろな視線を宙に投げている。
「だ、大丈夫……?」
 恐る恐る声をかけると、ラディリナは濁った目でロロワを見た。
「なんであんたはそんなに元気なのよ……酔いには強い方? 意外ね」
「そんなことは無いと思うけど……」
 首を傾げる。
 3000年前、オリヴィと旅をしていた時、国と国のあいだを船で移動をすることも珍しくなかった。
 それでも人並みに船酔いして体調を崩したので、酔いに強い体質ではないはずだ。
 あのとき、どうしたんだっけ?
「そうだ」
 ロロワは手を握って力をこめる。柔らかな緑の光が満ち、手を開くと、ペパーミントが生まれていた。
 軽く揉んで香りを立たせて、掌をラディリナとモモッケの前にかざす。爽やかな香りがあたりに広がった。
 ラディリナは深く息を吸い込んで、ぐったりと目をつむった。
「……ありがとう。だいぶマシになった気がするわ」
「そう、良かった」
「そういえば、体調はもういいの? リリカルモナステリオであの冷血エイリアンに撃たれてから、ずっと調子が悪かったでしょう」
「えっ、あれ? 本当だ」
 ロロワは驚き、自らの胸に手を当てた。
 呪いのようにロロワの身体を蝕んでいた銃創は、気づかないうちに塞がっていた。痛みすら無くなっている。
 強烈な車の震動に耐えられたのは、身体が回復していたことが大きいだろう。
「ダークステイツから離れたおかげかしら」
「あぁ、そうかもしれない」
 納得して、ロロワは頷いた。
 ダークステイツに充満する瘴気は、例えばゴーストやサキュバスなどの種族には力を与えるが、そうではないロロワやラディリナからはじわじわと力を奪っていく。
 数日滞在する程度では大きく消耗することは無いが、傷を受けたロロワの身体には負担になっていたのだろう。
 そこにヒッコリーが近づいてきた。
「具合が悪いのか? ヒッコリー・救急ケアモードの出番だな!」
「誰の運転のせいでこうなったと思ってんのよ!」
 ラディリナはヒッコリーの向う脛を、力いっぱい蹴り飛ばす。
「クソ硬いのよ!」
「ダハハハハ! 元気そうで何よりだ!」
 ヒッコリーは腕を上げ、前方を指し示した。
「さぁ、あそこがストーンドラゴンの遺跡だ!」
 ロロワはそちら顔を向け、首をかしげてしまう。
「あれが、ですか……?」
 それは、想像していた『ストーンドラゴンの遺跡』とあまりにかけ離れていた。
 切り立った崖の岩壁に、ロロワの身長よりもやや大きな穴が無造作に空いている。中は薄暗くてよく見えないが、どうやら坑道のように隧道が続いているようだ。
 出入り口の岩壁は風化して崩れ、遺跡というよりも野生動物の住処と言われた方がしっくりきた。
「伝説の遺跡と呼ぶにはショボいわね」
 ラディリナが真剣を振り下ろすように言い捨てた。
「まぁ、名所なんて期待を上回ってこないものだろ?」
「それはそうだけど」
「ガッカリしてはいられないぞ。さぁ行こう、諸君! ——ヒッコリー・ミニマムモード!」
 芝居じみた掛け声をあげ、ヒッコリーは身体から白い光を放った。
 収まると、そこには三分の一ほどのコンパクトなサイズに縮んだヒッコリーがいた。長い手足を身体のなかに収納したせいで、ずんぐりむっくりの体型になっている。
 なるほど、このサイズであれば狭い隧道を進んでいけるだろう。
「ヒーローについてこい!」
 ヒッコリーは短い足でパタパタと走り出した。
 その背中を慌ててロロワは呼び止める。
「ちょ、ちょっと待ってください。これ、本当に入っちゃって大丈夫ですか?」
 この隧道は、作られた頃はもっと太い道だったのだろう。しかし四方の岩壁が崩れ、土砂に埋もれ、今の形になったようだ。
 その証拠に、出入り口には雪崩れた土くれが積み上がっていた。
 ロロワは近づいて手を伸ばし、そっと天井に触れてみる。岸壁の間から、小石がぽろぽろと落ちてきた。
 3000年の長い年月を耐えきれたのが信じられないほど、脆い。
「入ってる間に崩れる、なんてことは……」
「そうね、有り得る話だわ」
 ラディリナも同意する。
 硫黄臭がするということは、ここは火山地帯だ。火山地帯ということは噴火があり、地震もあるだろう。脆いこの出入り口が埋まってしまう可能性は、十分ある。
 ずんぐりヒッコリーは「ふーむ」と唸った。
「なら仕方ない、リーアに引き返そうか。帰りの運転も任せてくれ!」
 実に頼もしい台詞を放ち、ヒッコリーは親指で背後のセダンを指した。
 気の強さでは向かうところ敵なし、どんな強敵にも怯まないラディリナ。そんな彼女を苦しめた白い悪魔が、きらりと光った。
「ぐぐぐ、それは……」
 ラディリナは悔しそうに歯噛みする。
 ここまでの過酷な道のりと、遺跡が崩れるリスクを天秤にかけているのだろう。その気持ちはロロワにも痛いほどわかった。
 3000年ものあいだ維持されてきた遺跡なのだから大丈夫に違いない。そう楽観的に思う気持ちと、遺跡が埋まるのは今日なのではないかという恐れがせめぎあっている。ロロワは自分の運が良い方では無いという自覚があった。
 答えを出せずに逡巡しているロロワたちを見て、ヒッコリーも腕組みをして考えこんだ。
「ふーむ。安全に配慮したい気持ちは本官にも痛いほどわかるぞ。どうにかしてやりたいが……むむむ……そうだ、本官に良い考えがある。ヒッコリー・監視サーベイランスモード!」
 ガシャン、と金属音を立て、胸部パーツが内側から開いた。出てきたのは黒い半球状の機械だ。スイッチを入れると、チカッと青く光り、すぐに消えた。
「出入り口にこの監視センサーを置いておこう。出入り口に異変があれば本官に通知がくる。監視カメラの機能もついているぞ!」
「すごい……! なんでも出来るんですね、ヒッコリーさん」
「ダハハハハ! そうだろう、なにせヒーローだからな!」
 ミニヒッコリーは自慢げに胸を張った。
「監視カメラ……」
 それでもなお、ラディリナは険しい顔で考えこんでいたが、ついに「わかったわ」と首を縦に振った。
「よし、ヒッコリー探検隊、出発進行!」
 隊列は、光る目で前方を照らすことができるヒッコリーが先頭で、そのあとにロロワ、モモッケ、ラディリナが続いた。
 ロロワは暗い隧道を見つめ、ひとつ深呼吸をした。
(……この先に、クロノスコマンド・ドラゴンさんがいる)
 ついに偉大な英雄に会えるのだ。
 そう思うと、緊張で背筋が伸びた。
 意を決して、ロロワは『ストーンドラゴンの遺跡』に足を踏み入れた。
 元は誰かに管理されていたのだろうか。隧道には大理石のタイルが敷かれ、人工的な『遺跡』の跡が残っていた。しかしそのほとんどが砕け、土砂がかぶさって、自然にできた横穴のように足場が悪い。
 明かりはなく、ヒッコリーのライトが無ければ完全な暗闇に閉ざされていただろう。
 道はわずかに下りの傾斜がついていた。ヒッコリーは軽快なステップを踏み、短い腕を突き上げた。
「さぁ、今が本官というヒーローに質問をするまたと無い機会だぞ。ロロワくん、何か本官に聞きたいことは?」
「いえ、特には……?」
「何?! 遠慮はいらないぞ。そうだ、本官の強さの秘密を教えよう。ロロワくんは細剣を提げているが、銃ももちろん好きだろう?」
「好き……?」
 聞かれている意味がわからず、ロロワは鸚鵡返しをしてしまった。
 ロロワが武器を所持しているのは自衛のためであって、職務のために銃を持つヒッコリーや、鍛錬のために剣を持つラディリナとは違う。腕力が無くても扱いやすいのが細剣だっただけで、その判断に好き嫌いは関係ない。
 困惑はヒッコリーには通じていないようだった。
「本官の武器はこの銃、トゥルーホワイト3000! これは特別製の弾丸が必要なが、その威力は抜群だ。これが無ければ本官は限界突破ブレイクザリミットアルティメット・ショットを撃つことができないのさ」
「は、はぁ……そうなんですね」
 適当に相槌を打つ。
「だがトゥルーホワイト3000でも敵わない強大な敵も時には現れる。そのときは身体のエネルギーを右手に集め、ヒッコリー・マキシマムキャノンを——」
「まともに聞くことないわよ、ロロワ。永遠に終わらないでしょうから」
 背後からはラディリナのありがたい助言が聞こえてきた。
 むむむ! とヒッコリーが叫ぶ。
「ラディリナくんは銃が好きじゃないのかな?」
「好きどころか嫌いね。見たくもない。弓の訓練はからっきしだったし、故郷では“繊細さが無い”って散々怒られたもの」 
 あぁ……と思わずロロワは納得の声を漏らしてしまった。
 リリカルモナステリオでフェスに出る前のダンス訓練でも、ラディリナは講師から散々注意されていたからだ。見当違いの方向に矢を放つラディリナの姿が目に浮かぶようだった。
「故郷? ラディリナくんの生まれはドラゴンエンパイアで合っているかな?」
「当たり。山奥の竜騎士の村よ。3年前に出てきたの」
 山奥の、というラディリナの言葉には微かにうんざりしたような響きがある。
「3年前……っていうと人間ヒューマンだと相当若いんじゃないのか? 家族には心配されただろう」
「多少はね。でも戦士の村だから、割と放任主義って感じ。もし親元を出て竜駆ヶ原兵学校に行くとしても、それぐらいの年齢だしね」
「竜駆ヶ原兵学校?」
 思わずロロワは問い返してしまった。知らない言葉だ。
「あぁ、3000年前には無かったものね」
 とラディリナは納得し、補足の言葉を付け足した。
「竜駆ヶ原兵学校は帝国軍第1軍『かげろう』の竜騎士を育成する学校よ。ケテルサンクチュアリの騎士学校に役割が近いわね。いわゆる帝国竜騎士ドラグリッターのエリート養成所」
「へぇ、そんなところがあるんだ」
 ドラゴンエンパイアといえば軍が国を治めている大帝国だ。確かに各所に兵学校があるのは当然のことだろう。
 そこでロロワはふとひとつの疑問を抱いた。しかし口には出さずに秘めておく。
 そんなロロワの胸の内などラディリナはお見通しらしい。
 背後からまっすぐ声が飛んできてロロワに突き刺さった。
「なんで私が兵学校に行かずに今こうしているのか、気になるんでしょ」
「……少し。でも言いたくなければ大丈夫だから」
「その馬鹿みたいに気を使うとこ、損するだけよロロワ。秘密を探られなくて喜ぶのは悪党だけなんだから」
「……う」
 ラディリナの言うとおりだった。遠慮をしても、それが正当な扱いとして戻ってくることは少ない。
 ラディリナは特に気にしていないようで、説明を続けた。
「理由は主に2つ。まずは1つ目。私の故郷では伝統的に、兵学校に入らずに村の中で鍛錬を重ねて、そのあと軍に入るのが普通だったの。兵科学校は遠いし、何より村には伝統を守ってきたっていう誇りがある。私の家でも、兵科学校に入るなんて話題すら出なかったわね。つまり、簡単に言うと“ド田舎だから”」
「な、なるほど」
 だから“山奥”という言葉にネガティブな感情が乗っていたのか、とロロワは納得した。
「それに、どうせドラゴンエンパイアの竜騎士将校は皇都周辺の連中が代々牛耳ってるのよ。うちの村出身のドラグリッターは間違いなく実力がある。それでも将まで登ったっていうのは聞いたことがないわね」
 騎士の国ケテルサンクチュアリでも、地方出身者はロイヤルパラディンになるために相当苦労をするという。
 それと同じように、ストイケイアのグレートネイチャー総合大学の研究者たちはズーの時代からストイケイア出身のハイビーストが多い。
 いつの時代、どこの場所であっても、自らの力を発揮するためには、生まれ育った境遇を無視することはできないらしい。
 ロロワが世の中の厳しさをしみじみ感じていると、後ろから、拳を打ち鳴らす物騒な音が聞こえてきた。
「それならエリート連中が文句を言えないぐらいの力をつけてやればいいでしょ」
「ラディらしい」
 思わずロロワは噴き出してしまった。
「2つ目は、モモッケの年齢がフレイムドラゴンの入学年齢よりも幼く、小柄だったから。だから私はモモッケとドラグリッターになるために、兵学校には入らずに武者修行に出たというわけ」
「そうだったんだ」
 ロロワが頷くと、すぐ後ろからモモッケの声がした。
「でも、僕はもう子ドラゴンじゃない。きっと今なら入れてもらえるんじゃないかな」
「……そうね」
 ラディリナは、なにか思案しているのか煮え切らない声だ。
「無神紀も終わったんだ、ドラゴンエンパイアもどんどん変わっていくよ。きっとエリートが牛耳ってるのも終わるはずだ」
「そうかしら。そうだといいけど。……でも、モモッケの言うとおり、ちゃんと将校を目指すなら、兵学校に入らなきゃいけないのは確かよね」
 ラディリナの声が重いのは、現実を知っているからこそだろう。
 モモッケと共にドラグリッターになるため煌結晶ファイア・レガリスを求め、鍛錬を重ねてきたラディリナが、兵学校という組織の中で技を磨く。その姿を、ロロワは上手く想像することができなかった。
 まず教官の命令に素直に従っているラディリナが想像できない。タマユラやテグリアなどの年上で良識のある大人とは相性が良いようだったから、案外どうにかなるのだろうか?
 しかしオブスクデイトやモーダリオンなどの、個性的と言えば聞こえはいいが癖の強いタイプとは喧嘩ばかりしていた。
 実直で剛健なイメージのあるドラゴンエンパイアだから、彼らのようなクセのある将校はいないのだろうか? 
 ラディリナが、相性のいい教官と巡りあえますように。祈っていると、後ろから質問が飛んできた。
「ロロワはどうするつもりなの?」
「どうするって?」
「今からクロノスコマンド・ドラゴンのところに行って、もし助けられたとして、その後のことよ。例えば、クロノスコマンド・ドラゴンが復活したら、彼はまた別の時空に行くでしょう。そうしたらロロワもお役御免よ。そのあとどうするつもり、って聞いてるの」
「うーん……」
 目の前のことに追われて、その先にある未来について考えたことはなかった、というのが正直なところだ。不意の質問に対して、上手く答えが出てこない。
 ケイオスや、マゼンダピンクに侵されたオモチャ工場のことは気がかりだ。けれど、ここから引き返してケイオスたちを倒そうという気にはなれなかった。
 ダークステイツは弱肉強食の魔の国だ。あの毒々しいマゼンダピンクも、弱肉強食に基づいて広がっていき、場合によっては淘汰されるに違いない。
 ロロワがすべきことは単純だった。
「僕はこのまま旅を続けるよ」
 オリヴィとそうしてきたように。 
 だけど、3000年前と今では決定的に違う。オリヴィはもういない、ロロワは一人で行かなくてはいけない。それでも。
「これまでは、ただオリヴィにくっついていくだけだった。だけど今は、僕にしかない力がある——生命を咲かせる力が」
 暗闇のなか、ロロワは拳を握りしめた。
 脳裏には、トゥーリの街の光景が思い出されていた。オリヴィから離れた葉の一枚一枚が、傷ついた人々を癒やしていく。あたりには、柔らかな命の光が満ちている——
「僕でも、きっと誰かの助けになれると思うんだ。……まだわからないことはいっぱいだけど」
「——そうとも、君も誰かの英雄ヒーローになれる!」
 しんみりとした空気を台無しにしてヒッコリーが叫んだ。狭い空間に響き渡る。
「だから、うるさいのよ。音量下げなさいっ!」
 ラディリナも怒鳴り返すが、もちろんヒッコリーはめげない。
「未来ある若者たちが本官のようなヒーローになれるよう、本官の経験を話そうじゃないか。そう、あれは5年前、真白勇隊ホワイト・エースとして宇宙海賊ワルワルパイレーツの親玉と戦ったときのこと——」
 すぅ、とラディリナが息を吸いこむ。
 あ、これ全力で怒鳴るやつだ。察したロロワは両手で耳を覆い、罵声に備えた。
 そのときだった。

 ビ——ッ!

 けたたましいアラート音が鳴り響き、隧道内に真っ赤な光が明滅した。音も光もヒッコリーからだ。
 なに、なにっ?!
 手のひらを貫通する爆音に飛び上がったロロワは、鼓動する胸を抑えつつ、前のヒッコリーを覗き込んだ。
「何があったんですか」
「監視センサーに何か引っかかったようだ。いま確認する」
 ヒッコリーはこめかみをトントンと叩いた。どうやら監視センサーの映像はヒッコリーの頭に転送されるようになっているらしい。
 ヒッコリーは思いを巡らせるように目を瞑り、すぐにパチリと開けた。
「うぅぅん?」
 なにやら困惑している。
「どうしたんですか?」
「それが……何が起きたのか、わからないんだ。影が一瞬映りこんで消えた。この遺跡に入ったらしいんだが……ちょっと見てくれ」
 ヒッコリーは踵を返し、ロロワたちの方へと振り向いた。
 ガシャン、と胸パーツが回転し、小型の液晶モニターが現れる。そこに隧道の出入り口が映し出されていた。
「再生するぞ」
 液晶をタップすると、静止していた動画が動き始めた。
 向かって右手にはここまでの移動に使った白いセダンがとまっており、左手には岩だらけの荒野がある。しかし逆光とノイズのため、セダンも荒野も白くぼやけて輪郭しかわからない。
 最初の数秒は何も起こらず、動画に目立った動きはなかった。時間経過を示す数字が表示されていなければ、静止画だと勘違いしたに違いない。
 しかし数秒後、灰色がかった影が映りこんだ。あっと思ったときにはカメラの死角に入りこみ、動画にノイズが走って途切れてしまった。
「ここでカメラは壊れている。それで本官にアラートが来たというわけだ」
「虫……だといいんですけ」
 ロロワが言う。
 大型の虫やコウモリなどの小動物が入ってきて、ぶつかり、カメラが壊れてしまった。あり得る話だ。
 少なくとも自然災害が起きて出入り口が崩れた、というわけではないようだ。ロロワはほっと胸を撫でおろす。
しかしラディリナの声は渋かった。
「野生動物とか? 魔獣に背後をつかれたらちょっと面倒ね」
 さすが自ら故郷を『ド田舎』と評しただけのことはある。ラディリナは野生動物の脅威を低く見積もるつもりはないらしい。
 急いで戻れば……まぁ、すぐね。
 独りごち、ラディリナは剣の柄を鳴らした。
「見てくるわ」
『一緒に行くよ』
 ロロワとモモッケは声を重ねた。
 しかしラディリナはふふんと余裕の笑みだった。
「いいわよ、これぐらい。アラートの誤作動ならすぐ追いつく、魔獣でもすぐに倒すわ。行ってて」
 一般人が魔獣と出くわせば無事では済まないが、腕自慢のラディリナが負けるはずはない。
 わかってはいてもロロワは不安を拭いきれなかった。
 ずしりと重い不気味な予感が、胸の底に蟠っている。
「本当に……大丈夫?」
「大げさね。魔獣ぐらい軽く追い払えるぐらいじゃなきゃ、兵学校じゃとてもやっていけないもの。なに、私が魔獣なんかに負けると思ってるの?」
「そういうわけじゃ……」
「ならさっさと行きなさい。じゃあ」
 ひらりと手を振って、ラディリナは闇のなかに消えていった。
 足音は遠ざかり、すぐに聞こえなくなる。
 せっかくラディリナが戻ってくれたのだから進むべきだ。そうわかってはいても、ロロワとモモッケは後ろ髪を引かれてなかなか動けなかった。
 しかしヒッコリーは二人の不安に気づかないらしい。
「よし、行くぞ諸君!」
 勇ましく号令をかけ、ロロワたちを置いて進み始めてしまった。
「待ってください!」
 慌ててロロワとモモッケはその背中を追いかけた。
 隧道はずいぶんと長いようで、代わり映えがしない真っ暗な隘路がどこまでも続いている。歩いても歩いても、なかなか終わりが見えてこない。
 途中で道が分かれている所もあったが、いずれも片方は土砂に埋もれており、到底通れるような状態ではなかった。実質は蛇行する細い一本道だ。
 ロロワは、歩いているうちに巨大な生物の巣を歩いているような錯覚に陥った。
 例えばネズミ、例えばモグラ、例えば蛇、例えば蟻地獄。
 彼らは餌が飛びこんでくる時を、舌なめずりをして待っている——
 蟠ったままの不安感をまぎらわせるために、ロロワは言葉を作った。
「モモッケと言葉で話せるなんて、まだ不思議な感じがするね」
「うん、僕も」
 貝気楼シェルラージュの祈りによってモモッケは成長し、上背ではロロワを超えている。しかし聞こえてくるのは、どこか幼さの残る声だった。一音一音が、新しい靴で歩み出したときのような、たどたどしい喜びでできていた。
「ラディリナは僕の言葉をわかってくれるけど、ロロワとはずっと話せなくて。少し……寂しかったから」
 ごめん。
 ロロワはそう言葉を作りかけて、やめた。
「話せなかったぶんも話そう。僕もずっと、君と話をしたかった」
「うん!」
 瑞々しいモモッケの声が弾け、不安に傾きかけた心に光を灯した。
 歩みを進めながら、ロロワはモモッケと取り留めも無い言葉を交わした。
 モモッケとラディリナが生まれ育ったドラゴンエンパイアの『ド田舎』のこと。
 二人がそこを飛び出したは良いものの、最初は苦労して野の獣を狩って暮らしていたこと。
 山賊に襲われている商人を助けたことをきっかけに、そこからは傭兵として生計を立てながら煌結晶ファイア・レガリスの情報を集めていたこと——
 オリヴィと世界を旅していた頃のロロワの暮らしと近いが、それでもロロワはオリヴィという導き手がいた。何かあれば頭を撫でて助けてくれた。
 しかしラディリナとモモッケは子どもだけで荒波を超えてきたのだ。その困難の大きさを、ロロワは想像すらできなかった。
 ロロワが話せるのは、3000年前の世界にも今と変わらず人々がいたことだけだ。
 神がいた時代ですら世界は常に巨大な争いに翻弄され、それに抗う英雄たちの激闘は3000年を経たいまも歴史に刻まれている。
 けれど、ほとんどの人々の名は歴史に残ってはいない。
 自分に「ありがとう」と言ってくれた人々、怒ったあと笑って許してくれた人々。
 彼らはもうこの世界のどこにも居ないし、行方を追うこともできない。だって彼らは歴史を変えるような英雄ではなかったから。
 それでもロロワは覚えている。覚えていて、取りとめも無い会話のなかで話すことができる。それがただ、嬉しかった。
 夢中で話しているうちに、気づけば隧道の深くまで進んでいたようだ。
 ふと、澱んだ空気の向こうから一筋の風が吹き込んできた。土の香りに混じる、どこか懐かしい清浄な樹々の薫香。
 この先に、拓けた空間があるのだ。
「行こう、モモッケ!」
「うん!」
 狭道を一気に駆け抜けると、そこは広い広い、吹き抜けの洞窟だった。
 遺跡の魔力に影響されたのだろうか。岩壁では光苔が淡くかがやき、洞窟全体を光で満たして闇をはらっている。
 ロロワの目でも空間全体をはっきりと見渡すことができた。
 その偉容に、ロロワは目を見開く。
「……クロノスコマンドさん」
 夢のなかで言葉を交わした英雄クロノスコマンド・ドラゴンが岩壁を背にして立っていた。
 身の丈は10メートルに及び、二本の角が洞窟の天井を掠っている。その全身に巨木のようなものが巻きつき、彼の動きを拘束していた。クロノスコマンド・ドラゴン、巨木、そのどちらもが御影石を掘りぬいたような銀灰色に沈んでいる。
 本当に、この遺跡に居たんだ。
 ロロワは地面を蹴りあげ、我を忘れて駆け寄った。
「ロロワです! あなたを助けに来たんです!」
 必死で呼びかける。洞窟に絶叫が反響する。
 しかしクロノスコマンド・ドラゴンはびくとも動かなかった。
 偉大な功績を残し、時の支配者として語られている彼が今、物言わぬ巨大な石像になっている。
 恐る恐る、ロロワは手を伸ばした。その肌から指先に伝わってくる、『物』でしかない無慈悲な低温。
「……冷たい」
 ヒッコリーはロロワの背後で腕組みをしていた。
「そりゃあストーンドラゴンだからな。3000年前に石化しちまったのさ。ロロワくんの知り合いだっていうのは、やっぱり何かの勘違いなんじゃないか?」
 彼はきっと親切心で言葉をかけたつもりなのだろう。ロロワは力無く首を横に振った。
 この石像がクロノスコマンド・ドラゴンであることは間違いない。
 ならば、トゥーリでロロワを助けてくれたのは、わずかな力を振り絞ってのことで、完全に息絶えてしまったのだろうか?
——駄目だ、諦めたら、駄目だ。
 絶望に傾いていく心を必死に鼓舞する。
 ここで諦めるわけにはいかなかった。
「……っ!」
 ロロワは石肌に触れる手に力をこめた。
 身体の底に満ちている、澄んだ水を指先から注ぎこむイメージ。砂漠に向かって手杯の水をこぼすのと代わらないとしても、クロノスコマンド・ドラゴンを助けたかった。
 だって、彼が救ってくれたこの命なのだから。
——応えてください、僕のすべてが無くなってもいい、だから!
 しかしどれだけ力を込めても、クロノスコマンド・ドラゴンがロロワの声に応えることはなかった。
 ロロワはそっと手を離し、目を瞑って苦悶する。
 本当に命を喪ってしまったのだろうか? 恐ろしい考えを振りはらうため、首を強く振る。
 自分の力が足りないのなら、使いこなすための努力をすればいい。けれど『世界樹のバイオロイド』としての先達であるオリヴィは、もう居ない。方法は自分で探らなければいけない。
 ストイケイアに戻れば何か手がかりがあるだろうか? 
 それとも、自分と同じバイオロイドたちに助けを求めれば、何か助けになってくれるだろうか——
 俯き、一心不乱に考えこんでいると、背後のやや離れたところから物音が聞こえてきた。
 硬い靴底が石地面を踏む、ざらりとした足音。
 ヒッコリーではない、モモッケでもない。
「——ラディ?」
 振り返った。
 隧道と洞窟の境、ロロワから20メートルほど隔てた先で、ミカニがロロワへと銃を構えていた。
「っ!」
 考えるよりも先に身体が動いた。
 ロロワは横様に身を転じつつ、正面に硬化胡桃を生み出す。次の瞬間には銃撃を受けた胡桃が砕け、破片が頬を切り裂いた。
 どうしてミカニが。
 ここまでの隧道は曲がりくねった一本道だった。ミカニがここに来るまでに、ラディリナと会敵しているはずだ。
「ラディはどうした!」
「……何のことだ」
 ミカニは感情のない声音で答える。
 何かを隠しているというわけではなく、本当に思い当たることはないという風だ。
 ラディと会っていない? だが、監視センサーに引っかかった影はミカニのはず、隧道のどこかでぶつかっていなければおかしい。
 彼女の生存を確かめたい。焦りは募るが、このままでは自分が先に殺される。ミカニを撃退するのが優先だ。
「——モモッケ!」
 自分は植物を駆使して地上から、翼のあるモモッケは洞窟の高さを生かして空中から。オモチャ工場でそうしたように、二方向から攻撃するのがミカニと対峙する最善手だろう。
 しかし、モモッケからの反応は無かった。いない。空にも、地上にも、あの鮮やかな赤が見当たらない。
「どうして!」
 この洞窟に出る直前までは話していたはずだ。それは間違いないのに、まるで蝋燭の火を吹き消したかのように、その姿が掻き消えている。
 ラディリナはいない、モモッケもいない。目の前で、ありえないことが起きている。
 どうして?
 巨大な生物の巣を歩いているような錯覚、口に餌が飛びこんでくるのを待っている巨大なあぎと、自分たちは飲み込まれてしまった——
 振りはらったはずの下らない妄想が、刹那のうちに蘇ってくる。
 そうして身体を強ばらせた一瞬が仇となった。ロロワが生み出した蔦植物の隙間から、ミカニの銃口が光る。
——死ぬ。
 戦慄が、ロロワの背筋を冷たく駆けのぼる。
 しかし銃声が響くよりも先に、勇ましい叫びが轟いた。
「ヒッコリー、ロケットパーンチ!」
 横から飛び出してきてミカニの頬桁をぶん殴ったのは、機械仕掛けの拳だった。
 思いっきりミカニをぶっ飛ばすと、華麗に宙返りを打ち、元来た方へと戻っていく。拳は持ち主の手首にガチャンと収まった。
「ヒッコリーさん!」
「悪いエイリアン退治は本官に任せろ、ロロワくん!」
 ロケットパンチを放ったヒッコリーはミニマムモードから元の戦闘姿に戻っていた。ジェットエンジンを轟々と噴かし、全身が神々しいほどの光を帯びている。
 殴られたミカニはわずかによろめいたが、すぐに姿勢を戻すと、名乗りをあげたヒッコリーに銃を向けた。
 ミカニは厚いレンズの奥で、わずかに目を眇めた。
 ただ仔細を確認するための動きだった。
「……ヒッコリー」
 
 

 ミカニがケイオスに命じられたのは、ロロワを追い、殺すこと。
 ただ、それだけだった。
 ロロワに格別の興味を示していたケイオスが、突然処分に方針を転換した理由は不明だ。
 しかし、ミカニはケイオスの真意を探りたいとは思わなかった。ミカニはただケイオスの命令を実行するだけだ。
 遺跡の出入り口から隧道に入って、すぐに吹き抜けの洞窟に出た。
 ロロワの近くにはドラグリッターの少女ではなく、フレイムドラゴンでもなく、見覚えのある白服のバトロイドが立っていた。
 有機生命体ならば、クローンなどの例外を除き、顔かたちはそれぞれ異なっている。しかし人工物であるバトロイドにおいては、まったく同じ型の機体がいたとしても不思議ではない。
 ただの偶然だろうと結論づけようとした矢先に、ロロワがバトロイドの名を呼んだ。
——ヒッコリー。
 かつて自分を『マブダチ』と呼んだバトロイドの名を。
「……なぜ生きている。殺したはずだ」
「ヒーローは死なない! ダハハハハッ、当然だろう!」
「……なぜ、と聞いている」
 デパートで任務についた晩、自分はヒッコリーに向かって6発の銃弾を撃ち込んだ。
 記憶メモリーを納めている頭部が形も残らないほど破壊され、砕け散るのを、この目で確かめた。
 仮に四肢などの残パーツを生かす形で復元されているとしても、ヒッコリーはエイリアンに寄生されていた。
 人格が残っている可能性は、ゼロだ。
 ミカニの懐疑の視線に構わず、ヒッコリーは真白勇隊ホワイト・エースの特別白服に包まれた胸をぐんと張った。
「お前がセカンドウェストドームから去ったあと、本官は功績を認められて真白勇隊ホワイト・エースになったのさ!」
 意図してか、それとも意図せずか、ヒッコリーの言葉は「なぜ生きている」というミカニの問いかけには答えていない。
 ヒッコリーは喋り続ける。
「もちろん、クメトも一緒に真白勇隊ホワイト・エースになった。今は本官だけセカンドウェストドームからリーアに単独赴任して街を守っているってわけだ。本官のように優秀な白服の男ホワイトマンは一人でも街を守ることが可能だからな!」
「……リーア?」
 ミカニは疑問を表した。
 惑星クレイの主要都市はもちろん、ブラントゲートの地理は細部まで記憶している。リーアという街の名前など聞いたことがない。セントラルに基地を置く真白勇隊ホワイト・エースの隊員が、地方都市に単独で赴任するという事例もまた、聞いたことがなかった。
「本官たちから離れたあと、ミカニは何をしていた? そうだ、わかったぞ。ヒーローになるために頑張ってきたんだろう」
「いいや」
 ケイオスに従うと決めてから、彼が搔き立てた欲望のぞみを眺める日々だった。
 力を望む者がいた。
 智慧ちえを望む者がいた。
 革命を、命を、喝采を。
 そのどれもが、画面に映るフィクションと同じものとして、ミカニの目に映った。
 どこにもミカニの欲望は存在しなかった。
「ならば今こそ立ち上がるときじゃないか! 二人でヒーローになろう! あの日の夢の続きを実現するんだ!」
 ヒッコリーはミカニへと手を差し伸べた。
「リーアは俺たちが活躍できる、理想の街なんだ。厄介な悪党、称賛する市民たち、きっとミカニの力を生かせる!」
「…………」
 しかし、ミカニはヒッコリーの手を取らなかった。
「……英雄に成りたがる人間は無数にいた。弱者救済の騎士、存在証明の弱者、その全てが偽物だった。すべての義勇心に価値は無い。模倣エミュレーションする価値は、無い」
 ミカニは銃を——リアトス18をヒッコリーの脳天に向けた。
 同時に銃口からグリップにかけて禍々しいオーラが発生し、彼の腕に、千切られたミミズの断末魔のように纏わりつく。

 ミカニ、ミカニ、お前を許さない、許さない——
 
 ミカニの鼓膜にはコールタールじみた怨嗟の声が張りついている。
 それは在りし日に殺した男の声だった。目の前にいる男と同じ声をしていた。
「お前もまた、偽物だ。俺の欲望のぞみでは、ない」
 引き金を引いた。
 弾丸はヒッコリーの額に刺さり、頭部を吹き飛ばし、砕けた部品が宙を舞った。
 下顎部だけが残り、剥き出しになった機械仕掛けの断面から、血潮のように循環液が噴き出した。
 しかし頭を失ってなお、その口は動いていた。故障による不随意な動きではなく、はっきりと意思をもった、嘲笑の形だった。
 
 ハハハッ
   ハハハハハハハッ
  ハハハハハハッ

 ミカニの目前で、砕けた断面がジュレのようにとろけていく。悪夢のように歪な世界で、口はミカニへと問いかけてくる。
「あの日、俺を殺して悲しかったか?」
「いいや」
「俺が生きていると知って、胸に喜びが沸き起こったか?」
「いいや」
「ヒーローになる未来に、希望を感じなかったか?」
「いいや」
——可哀そうに。
 口は、そう呟いた。
「ではなぜ、ミカニは生きているのかな?」
「……それは」
 ミカニの逡巡はわずかだった。
「あなたが、俺の欲望を望むからです」

 ハハハハハハハハハハハハッ

 哄笑を響かせながら、ヒッコリーの身体は蜜が滴るようにとろけ落ち、あたりにグロテスクなマゼンダピンクの泥濘を撒き散らした。
 泥濘は水ぶくれのような泡沫を含み、ミカニの身体へと纏わりつく。四肢を囚われ、ミカニは身動きが取れなくなる。 
 泥濘を震わせて、声がした。
 それは男のようで、女のようで、ただ音を組み合わせただけの弦楽器のようにも聞こえるやわい音。 

「あぁ、ミカ、ミカ。お前はどこまでも——虚ろだね」

 とろけたマゼンダピンクは醜悪な泥細工のようにゆらめいて、ケイオスの姿を形作った。
 際だった愉悦はなく、際だった憐れみもなく、いつもと変わらない笑みを浮かべているケイオスを、ミカニは感情のない瞳で見つめた。
「……あのヒッコリーはあなたの企みですか」
「企み! いいねぇ」
 ケイオスは身体を折って笑った。
 薄く開かれた口から覗く喉奥が、やけに昏い。
「そうとも。これはお前のために特別に用意した夢だよ、楽しんでもらえたかな?」
「……いいえ」
 わかりきっていたことだ。
 ヒッコリーは死んだ。自分が殺した。
 ヒーローになりたいという彼の意思は呪いに転じて銃に宿り、ミカニを責め立て続けた。
 ヒッコリーやクメトが真白勇隊ホワイト・エースになる未来は来なかった。
 ヒッコリーとミカニがヒーローになる道は、存在しなかった。
 もし自分に感情があったなら『悲しい』と感じたのだろうが、それがどういう現象なのか想像することすらできなかった。
「いやぁ、あれだけの夢を作るのは久しぶりでね。なかなか上手くできたんだけど。お前が欲望するなら、リーアの街で旧友とヒーローとして活躍することもできる。本当にいいのかい?」
「はい、結構です。お気遣いを無下にして、申し訳ありません」
「いいよいいよ、謝らなくたって。パーティは準備が一番楽しいものだからね。そして、寂しいけれどパーティにはいつかは終わりがやってくるものさ」
——終わり。
 ケイオスの言葉に応えて、マゼンダピンクの泥濘は、ミカニの四肢を、腹を、胸を、喉を、視界を侵していく。
 わずかに残された視界の穴隙からケイオスが手を振った。
「バイバイ、ミカニ」
 泥濘に飲み込まれ、自分に起こることのすべてを理解したミカニは、ケイオスへと問いかけた。
「俺の欲望を見たいと言ったのは、あなたです」
「おや、私を責めているのかい? ずいぶんお前らしくないねぇ」
「いいえ」
 責める、という感情がミカニにはわからない。
「ではなぜ?」
「あなたは欲望の木を植える。もし明日世界が終わるとしても。実る前に摘果してしまうのは、その行いから外れている」

 ハハハハハハハハハハハハッ

 ケイオスが嗤うと、泥濘がごぶごぶと打ち震えてミカニの耳朶に打ち寄せた。
「ずいぶんと可愛いことを言うね。では、その愛らしさに免じて答えよう。——お前の欲望は、永遠に実ることはないんだよ」
 囁いて、ミカニの目尻を指先でなぞった。
「私は欲望を望み、お前は私に応えて欲望を望む。自らの尾を喰らう蛇は、永遠に何も生み出さないだろう?」
 何も知らない子どもに言って聞かせるような、甘く優しい声音だった。
「私はすべての欲望を望む。でもね、ただひとつ望まない物があるんだよ」
 ケイオスは、指揮者が交響楽シンフォニーを締めくくるように手先をひらめかせた。 

「——虚ろわたしだ」

 そうして、ミカニの身体も意識も、すべてがマゼンダピンクの泥濘にとろけ、消えていった。