世界はひとつの巨大な杯だった。
内に甘やかな欲望がなみなみと満ちて、その水面は縁をこえて柔らかに膨れている。
世界は、溢れるための最後の一滴を待っていた。
かすかな声がした。
感情の無い男が、夥しい欲望のなかに飲み込まれるその時、あげた声だった。
「ケイオス様」
音は空気を震わせ、水面にひとつの波紋を作った。さざ波は宇宙の始まりのように微かだったが、ゆるやかに輪を描きながら広がって、そっと杯の縁へとうち寄せた。
片ときの静寂に包まれた。終わりを始める無音だった。
そして、世界は決壊する。
洞窟は天井から歪み、たわみ、液塊となって落ちる。地面はとろけるチョコレートのようなツヤを帯び、なめらかに揺れて液塊を受けとめた。
『 だぷんっ 』
濁った泥音があがり、甘ったるい香りを撒き散らす。
跳ねたぬかるみは、ひとつの意思を持ってクロノスコマンド・ドラゴンに纏わりついた。その足が、錫杖が、腹部が、黴のようにマゼンダピンクによって汚染されていく。
その醜陋な有り様を眺めながら、ケイオスは宝石に彩られた黒革の本——アカシックブックの出来損ない——を開いた。
淡く色づいた紙には、クロノスコマンド・ドラゴンに纏わりつく巨大な蛇の姿が描かれている。
その隣の何も描かれていない白紙には、新たな図絵が刻まれていった。
ケイオスは手を傾ける。
豪奢な本はすべり落ちると、ばたばたと紙をはためかせ、あっけなく泥濘に沈んでいった。
「クロノスコマンド・ドラゴン——時を統べる英雄、退屈な時空間の守護者。君に似合いの結末だね」
男の顔に浮かんでいる宿願を果たしたという万感ではなく、熟した林檎が腐り落ちていくのを眺めるような、凪いだ微笑みだった。
泥濘はのたうって、ふくれ、ぐちゃぐちゃに混じり合い、クロノスコマンド・ドラゴンを丸呑みすると、ひとつの体相を成していく。
人のカタチを取ろうとしていることは確かだった。慎み深くヴェールを被った女の、カタチ。
しかし天を覆い尽くすその姿は、人と呼ぶにはあまりにも巨大であり、あまりにも無慈悲だった。
「——往古と来今は混じりあい、夢は現実と成り果てる」
舞台の幕が上がるように優美に、天空が墜ちるような絶望を従えて。
現実を塗り替える、大天涯グランドグマ、その顕現だった。
「久しいねぇ、グランドグマ。3000年飛んで……24年ぶりかな?」
ケイオスは天を仰ぎ、親しい友人にまみえたように声をかけた。
しかし顕現したグランドグマはケイオスの声など聞こえていないように、捉えどころの無い蠱惑的な微笑でもって地上を睥睨している。
ふぅ、とケイオスはため息をついて肩を竦めた。
「つれないなぁ。君と言えばいつもこうだ。時には語らってみたものだけど。好きなテレビ番組はあるかい? 私はコメディアンが秘境を旅してゲテモノ食べるやつ」
そこに、背後から声がかかった。
「偉大なるグランドグマに、低俗な言葉をかけるのはやめてください」
言葉の丁寧さとは裏腹に、刺すように鋭い声を投げかけたのはサクリファイス・グラスだった。
ケイオスは拗ねて唇を尖らせた。
「私のたゆまぬ努力がなければグランドグマだって顕現することも無かったんだよ? 彼女が眠ったあと、現実を記し続けてきたのも私。もう少し優しくしてくれてもいいじゃないか。キッスするとか」
ケイオスは一杯に満ちたサクリファイス・グラスのガラス球をコンコンと叩く。
しかしサクリファイス・グラスはそっけない態度を崩さなかった。
「あなたに口づけをするぐらいなら、腐爛した膿血に身を投じたほうが遥かにマシというものです」
「何てことを言うんだい、こんなイケメンそうそう居ないよっ?!」
「その方が都合が良かっただけでしょう」
ケイオスはショックを受けてよろめいた。
「うぅ、私だって悪口を言われれば傷つきもするんだよ。ねぇ、ミカ?」
同意を求め、ケイオスは傍らを見た。
そこには誰もいなかった。
ケイオスは目をしばたたかせたが、すぐにプッと噴き出し、身悶えして笑いだす。
「ハハハハハッ! いけないいけない、もう居ないんだった! だって私が贄にしてしまったんだから、ねぇサッくん?」
サクリファイス・グラスは当然のように無視した。
空を仰ぎ、熱病に侵されたように謳いあげる。
「あぁ、尊き御身、大天涯グランドグマ! 我々からの供物をお受け取りください!」
祝詞が呼び水となったように、ぐずついたマゼンダピンクの地面から、ぬめり、と人影が溢れてきた。
「ラララー♪」
「ポココ♪」
「ラララー♪」
「ポココ♪」
ツギハギマントのラララポココはナイフとフォークを手に舞いおどる。言祝いで、ホップポップが色とりどりの花を振りまいた。
彼らは声を合わせて聖譚歌を響かせる。
褒め称えよ 尊き御名
甘露はしたたり 天へと至り
天にして地 地にして天
大天涯グランドグマ!
この忌まわしき愛おしき日を彩るのは歌にダンス、そしてもちろんビビッドなマゼンダのフルーツパイ。
コック服のシェフィーが次々に極彩色のパイを焼きあげ、巨大な皿を差し出した。
「あまいあまいフルーツパイ♪」
「イケニエたっぷりフルーツパイ♪」
ラララポココたちは腕を掲げ、巨大なフルーツパイを持ち上げた。
ととととっ
ラララポココは小さな足で駆けだし、ピョンと飛び跳ねる。
「イダイなるグランドグマ♪」
「おめしあがりクダサイ♪」
グランドグマはゆっくりとその腕を振りあげ、差し出された好餌を取った。
つややかな唇がうっすらと開く。
ぞろぞろと並んだ歯が降りて、どろどろのマゼンダピンクを噛み潰す。
『 ——ぐちゃっ 』
歯と歯の間で、マゼンダピンクが粘ついた糸を引く。
グランドグマは次々と甘やかな欲望を貪っていった。
ヒーローに憧れたバトロイドの欲望を。
『 ——ぐちゃっ 』
勇気を求めたハイビーストの欲望を。
『 ——ぐちゃっ 』
錯乱の記憶のなかでまどろむ、清廉なる騎士の欲望を。
『 ——ぐちゃっ 』
テグリアの足元に、黒闇色の篭手が落ちてきた。
その断面はいっそ美しいほどすべらかだったが、またたく間に血が滲み、滴り、ただの肉になっていった。剣を握る手ではなく、ただ腐りゆくだけの肉塊に。
野卑な剣だった。情のない冷酷な剣だった。
どれだけ憎んでも、その強さはテグリアの前に在り続けた。
それが、今この瞬間に終わったのだ。テグリアの剣がオブスクデイトの剣に打ち勝つ日は、永遠に訪れることはない。
甘く濁った脳裏に、ぼんやりと疑問が浮かんでくる。
私は、何のために騎士になったのだろう。何のために剣を振るってきたのだろう。
ややあって、自答する。
そうだ、ジラール様の仇を討つために。
それならば、今日こそ長年の悲願が果たされる日だ。自分が手を下さなくても、モーダリオンは私情や慈悲を挟まずに処刑することだろう。
あぁ、なんて素晴らしい日だ!
悲願が果たされるのだから、喜ばしいのだから、そう、笑わないと。
笑え、笑え。
もうあの男を殺す必要はない、倒すために強くなる必要はない、剣を振るう必要はない。
英雄になんて、ならなくていい!
そうだ、自分のためにおしゃれをして出かけよう。あの日から一日たりとも、自分だけのために遊んだことなんて無かった。
生家にだって、騎士団長になったことを報告するために一度帰ったきりだ。生まれ持った膂力を、剣の道に進むために使うと決めた娘を、きっと心配しているに違いない。
家族にケーキを焼いてあげよう。フルーツとクリームがたっぷりのショートケーキ、雪のように粉糖をまぶしたガトーショコラ、レモン果汁を効かせた甘酸っぱいレアチーズケーキ。きっと食卓には笑顔が満ちている。
もういい、私は新しく生まれ変わるのだから。
だって、顔をあげれば世界は甘やかな香りに満ちて、熟した果実で染めあげたようなマゼンダピンク。
あぁ、なんて……なんて、きれい!
『 ——ごくん 』
グランドグマは欲望を飲みこんで、しらと笑った。
その腕が、またひとつ、好餌に伸びていく。
黒洞洞たる記憶のなかでまどろむ、炎華のドラグリッターの欲望に。
ヒッコリーに出入り口の映像を見せられたとき、ラディリナは、この影はミカニに違いない、と思った。自分たちを——いや、ロロワを追いかけてきたのだ。
出入り口からここまでの道のりは、分岐のない一本道だ。左右に展開できるような幅はなく、また、銃弾を避けられるような高さもない。
この隧道でミカニを倒すには、あちらがこちらを認識するよりも先に、闇に乗じて畳みかける必要がある。ならば音によって敵を探知できる自分が、単独で戦いに臨むのが最善手になる。
自分がそう考えていることを伝えれば、ロロワとモモッケは反対しただろう。共に戦闘に挑むか、戦闘を回避するために力を尽くしただろう。
だからこそ、ラディリナは黙っていた。
大丈夫、私はあの男を倒してみせる。
モモッケの力は借りずに、自分一人の手で。
「本当に……大丈夫?」
ロロワが心配そうに問いかけてくる。
大丈夫に決まっているでしょう、と尖った声が出そうになった。
しかし下手に言葉をつくれば想いのうちが露わになってしまう気がした。きっとロロワは敏感に感じ取るだろう。
ラディリナは彼の目を見ずに、ひとつ鼻で笑い飛ばして背を向けた。
狭隘な隧道には闇がみっちりと詰まっていて、光は欠片も見当たらない。
耳には自信があったが、それでも音だけでは曲がりくねる道を認識することはできず、ラディリナは土壁に手を突き、一歩また一歩と来た道を戻っていった。
しかし、来たときのようには調子よく進むことはできない。
だからだろうか。道のりがやけに長く感じられ、いつまで経っても出口は見えてこなかった。
次の瞬間にはミカニと会敵するかもしれない。そう思うのに、単調に流れていく時のなかで集中力が低下していく。
無為な時間はいやだ、努力を怠る自分への嫌悪が募るから。
時間を持て余すのはいやだ、下らない思考が湧いてくるから。
空いた思考の隙間に、記憶たちがラディリナへ囁きかけてくる。
——大志など所詮、弱者を焦がす誘蛾灯だ。
——想像力がない、つまらない現実主義者!
——お前は邪魔でしかないのに、なぜ戦っている。
うるさい、うるさい、うるさい!
ラディリナは脳内で絶叫し、呪詛じみた記憶を払う。
もちろん、モモッケと共に村を飛び出した頃は不安感に苛まれ、眠れない夜もあった。それでもどうにか眠ろうと毛羽だった毛布を被れば、脳裏に故郷の人々の嘲りが蘇った。
生来、楽天的な性格ではない。何についても敏感に受け取ってしまう気性は、自分が誰よりもわかっているつもりだ。気がかりに思う気持ちを攻撃的な言葉に代えて、雑音は力でねじ伏せてきた。
これまでも、これからも、そうして生きていく。その先に、きっと伝説のドラグリッターへの扉があるに違いないのだから。
そこにふと、声がした。
それは男のようで、女のようで、ただ音を組み合わせただけの弦楽器のようにも聞こえるやわい音。泥濘の底からあぶくが立ち上るように、暗闇のなかに響く。
——可哀そうに。
泥濘が嗤う。
適当な憐れみほどこの世で腹立たしいものはない。
何が可哀そうだ、ラディリナは叫び返す。
——だって、君は永遠に伝説の騎士になんて成れないのに。
——そう、彼……ロロワくんとは違ってね。
何を馬鹿なことを言っているのだろう。自分とロロワは人生の目標が違うのだから、並べて語ること自体が愚かなことだ。
——どうかな。
——君は凡人だ。けれど、彼は君とは比べ物にならないほど特別な存在だよ。
凡人。
不意に投げかけられた言葉が思いがけず胸に刺さって、上手く言い返せなかった。
——世界樹のバイオロイド、ロロワ。彼は英雄になる。きっと世界を救うだろう。だけど君は違う、英雄に成る日は来ない。
——わかっているだろう? 君が一番、自分の身のほどを知っているんだから!
——君は努力家で、持てる力のすべてで努力している。ただ闇雲に力を振るうような愚かな努力ではなく、きちんと考え抜いたすえの、正しい努力だ。
うるさい、うるさい、うるさい!
脳内に向かって絶叫しているのか、現実の声として叫んでいるのか、自分でもあいまいになっていく。
泥濘は嗤い、言葉は鳴りやまない。
——だけどね。ひたむきに努力するということは、一歩また一歩と可能性を失っていくことなんだ。君は自分が凡人であると思い知るためだけに努力をしているんだよ。
——黒暗の騎士は、天与の肉体を持っていた。清廉な騎士は才と時間を。沈黙の毒騎士は巧智を。
——歴史に残らない凡庸な騎士でさえ、才と努力を惜しまない。ならば凡人の努力に意味なんて無いじゃないか。
——そしてモモッケ少年には長い人生と、未来と、才能がある。幼い日に食べた飴玉の味のように、君のことなんて忘れてしまう。
息が詰まって、ラディリナはとっさに言い返せない。
泥濘は、我が意を得たりというようにほくそ笑む。
——ご覧、君の未来だよ。
闇のなか、幻想のように広がったのは、故郷の生家だった。
卓に座っているラディリナは、今よりもいくらか年かさだ。同じく、食卓を囲んでいる父母も年齢を重ねているようで、目許や首回りの皺が深い。
きっと何かの祝い事なのだろう、食卓にのぼっている料理はずいぶんと豪華だった。揚げ焼きの川魚は一匹まるごと、よく煮込まれた豚肉は宝石のように艶めき、鮑のスープがふわりと湯気をたてている。
ラディリナはレンゲを取り、スープを掬った。
その指は白くたおやかで、ごつごつと節くれだった剣士の手ではなかった。髪も手入れが行き届いて、日に焼けて茶けた今とは別人のようだ。
ラディリナは父母と会話を交わし、食卓に笑いが満ちていく。
——ずいぶんと幸せそうじゃないか。これが君に相応しい、身の丈の幸福だよ。
確かに、ラディリナの目にもその光景は幸せそうに見えた。とても、とても。
しかし——だからこそ。
ラディリナの喉から、悲鳴じみた声が迸った。
「嫌!」
——どうしてだい? これが君の人生における、もっとも恵まれた未来なのに。
「人並みの幸福なんていらない。だって私は……誰よりも強いドラグリッターになるって決めたんだから」
泥濘が嗤った。
——可哀そうに。
——その先には地獄しか待っていないよ。身体は傷つき、朽ち衰え、誰にも顧みられることなく、初めから無かったのと同じように居なくなる。そんな未来だけが君を待っているというのに。
「いいの、それでも」
ぼんやりと何も為さないまま、幸せにこの世界から居なくなるより、地獄の苦しみのなかで人生に爪を立てるほうがずっといい。
それが生きるということだから。
それが戦うということだから。
——そう。では君に火をあげよう。
——たとえ誰かを踏みつけてでも、君を英雄にする火を。
——命を燃えたたせ、地獄のなかを進んでいく炎華を!
*
世界は蕩け、潰れ、捻れ、混じりあい、取り返しがつかないほど決定的に因果律が変わっていく。
ロロワは喉もとに震懼の塊をつかえさせ、ただ為すすべ無くその様を眺めていた。
洞窟はどろどろに蕩け、クロノスコマンド・ドラゴンを呑みこんだ。引き上げようとしたロロワの蔦は、一本の生糸よりも容易く千切れた。
ロロワはのたうつ泥濘を避け、自分が引きずりこまれないようにするだけで精一杯だ。液塊を飛びわたり、どうにかぬかるみの弱い地面に降り立った。
洞窟が蕩け天井が落ちたことで視界は拓け、あたりを見渡すことができた。
今、ここはロロワの知っている岩山ではなかった。隆起は緩やかで、どこまでも、どこまでも、地平線の果てまで残さずマゼンダピンクに侵されきっている。
無力感がロロワを満たし、言葉すらなく、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
そこに——
「ガァ!」
濁った鳴き声をあげて、監視烏がロロワの肩に舞い降りた。監視烏は物言いたげに、そっとロロワの頬に頭を寄せてくる。
何だろう。
耳をそばだてると、ザザザ、ザッ……というノイズがあって、通信機から声が聞こえてきた。
冷静で平坦な、男の声。
『……ロロワ、ラディリナ、聞こえるか?』
モーダリオンだった。ロロワは藁にもすがる気持ちで声を張りあげた。
「ロロワです、はい、聞こえます」
『状況の報告を』
必要最低限の端的な問いかけだ。
ロロワは一瞬言葉に詰まって、空を覆っている巨大な女を見上げた。“常闇村”の教会に奉られていた、ベールを被った女の石像に酷似している。
考えられることはひとつだった。
「……グランドグマが顕現しました」
『そうか。まぁ……だろうな』
はぁ、という溜息が聞こえてきた。
『そいつは今、何を?』
「わかりません。ただ微笑んで、あたりを眺めているようにしか……」
『あぁ、寝起き気分というわけか。3000年も眠っていたなら頭も回らないだろう』
モーダリオンの皮肉めいた冗談も、どこか力が無い。
「場所はブラントゲートの遺跡で——」
説明を続けようとしたロロワだったが「違う、ダークステイツだ」とモーダリオンが遮った。
「え?」
『お前たちはブラントゲートには向かわなかっただろう。俺が南に飛んでブラントゲートに入るようにと指示したにも関わらず、な』
言われている意味がよくわからなかった。
「えっと……ここはブラントゲートですよね……?」
『いいや。その通信機の位置情報はダークステイツになっている。オモチャ工場から北に約15km』
おかしい。
ロロワたちはケイオスから逃れるためオモチャ工場を南に直進し、ブラントゲートに入り、リーアの街に辿り着いた。リーアの街から出たあとも、瘴気のない寒々しい荒野を進み続けた。
間違ってもダークステイツの景色ではなかった、ダークステイツに居るはずはない。
『あぁ、夢遊病のようなものだな。“巨躯”の罹患者は夢を操られ、夢のなかでも夢から覚めたあとも自分の意思で行動していると思い込む。お前が現実だと思っていたものは、すべて“巨躯”が作り出した夢だったんだよ」
「……そんな、嘘でしょう?」
では、辿り着いたと思っていたリーアの街も、共に過ごしたヒッコリーもすべて夢だったということだろうか。
天を突く摩天楼、行き交う人々のざわめき。
真実を教えられてなお、すべてが現実だったとしか思えなかった。
『俺も今、お前たちから30kmほど離れた場所に居るが、こっちも高熱のときに見る夢みたいな有様だよ。地面から空まで甘ったるいピンクでぐちゃぐちゃ、そこから粘土細工みたいに歪んだ建物が生えて、どいつもこいつも正気じゃない。笑いながら奪い、泣きながら犯し、歌いながら身を投げて “グランドグマ様!” ——いいキマり方してるな』
投げやりに言ってモーダリオンは口を噤む。すると通信機越しに、あちらの物音が漏れ聞こえてきた。
家屋が破壊される甲高い破砕音、それにも関わらず響き続ける浮かれた嬌声、そして場違いな歌たち。
欲望の歌だった。
讃美の歌だった。
『監視烏からはケテルサンクチュアリ各地でも、同じようなことが起きていると報告が入ってる。10年前に“巨躯”現象は沈静化したつもりだったが、甘かったな。南部を中心に、地上はどこもかしこもお祭り騒ぎだ。あのとき人心を集めていた騎士ジラールと、その友オブスクデイトはもういない。南部の騎士団長テグリアは精神衰弱、俺もダークステイツにいる。まぁ居たとしてもあの人たちのように対処できる気はしないがな』
あの二人は馬鹿がつくほど真面目だった。
モーダリオンは低く呟く。
『ストイケイアの大学の連中からも、ブラントゲートの妹からも似たような連絡が来ている』
「モーダリオンさん妹いたんですね?!」
状況にそぐわない頓狂な声が出た。
マイペースなので一人っ子に違いないと思いこんでいた。
『あぁ。“お兄ちゃん”じゃなくて“クソ兄貴”と呼んできて、飯やら服やらたかってくるタイプだが、それでも俺の妹だからな。あれの情報収集能力は確かだ。全世界的に“発症”していると見て間違いない』
ケイオスという男の正体も、その目的も、ロロワにはわからない。
しかし3000年もの間、惑星クレイのいたるところに潜み、自らの保つ豊富な知識で立場を維持しながら、ひとつ、またひとつと厄災の種子を撒いていたことだけは確かだ。
それが今、グランドグマの顕現を助けとして一斉に果実をつけた——
『甘ったるい夢は現実に溢れ続け、このまま影響範囲が広がっていけば、最悪国が滅ぶが……まぁ俺は雇い主のために精々働くさ』
言葉とは裏腹に、さして愛国心らしいものも感じさせずに言う。
モーダリオンらしいな、とロロワは苦笑してしまう。
と、そこで不意に、『ん?』とモーダリオンは自問するように声を漏らした。
『……いや、俺は何を言っているんだ。……ケテルサンクチュアリなんて、ずいぶん前に滅びた国なのにな』
「滅びた……? えっと、それってどういう意味ですか?」
つい先日まで滞在していた大国だ、この短い期間で滅びるわけがない。万が一そんな事件があったとしても、国の一大事のすぐあとにテグリアやモーダリオンがダークステイツに来るはずがない。
あまりに脈絡のない台詞に、ロロワはただただ混乱してしまった。
通信機越しのモーダリオンは、独り言のようにぶつぶつと呟いている。
『地上の人々が蜂起して、天空を落として……だからケテルサンクチュアリは滅びて……』
独り言を続けようとしたモーダリオンだったが、そこで自分の様子がおかしいことに気がついたようだ。
『……待て。俺は何を馬鹿なことを言っているんだ』
「ですよね、良かった」
ロロワは、ほっと胸を撫で下ろす。
モーダリオンは奇抜でマイペースで、理解しがたいところも多いが、それでも彼の知識や判断力は並外れている。
モーダリオンまでもがおかしくなってしまったら、ロロワはすべての頼りを失うことになる。
わずかなノイズを伴って、通信機からモーダリオンの声が聞こえてきた。
『あぁ、反乱分子は全員殲滅されたから、ケテルサンクチュアリの地上には今、魔獣しか住んでいないんだったな』
「えっ……?」
ロロワには聞こえてくる言葉の意味が、ただただ、わからなかった。
そんなはずがない。
リップモの屋敷では優しい女性に服をもらい、ジラールの墓に参った。ポルディームではロイヤルパラディンの騎士たちと食事を共にした。
あれがすべて嘘だったわけがない。
呆然としたロロワの呟きをどう取ったのか、モーダリオンは、地上から人々がいなくなった経緯について簡単に補足してくれたが、ロロワが知るケテルサンクチュアリの事とは思えなかった。
モーダリオンが変な冗談を言っている?
まさか。こんなときに、ありえない。
彼が錯乱している? 通信機に細工をされてデタラメな音声を流されている? まだ夢を見続けている? ——わからない。
目に見えるもの、耳に聞こえるものすべてが蕩け、ぐちゃぐちゃに混じりあっていた。
現在も、そして現在を形作る過去までもが、ひとつ残らず捻じれていた。
——それとも、おかしいのは、間違っていると思う自分の方なのだろうか?
呆然とロロワが立ち尽くしていると、あたりを睥睨していたグランドグマがゆるりとその腕を動かした。
その腕が差し向けられる先、波打つ泥濘のなかでは常闇村の人々が狂乱に身を躍らせて、毒々しいフルーツパイを掲げていている。かつてロロワたちに振る舞われた、あの極彩色のフルーツパイを。
——駄目だ、あれを食べさせちゃいけない。
嫌な予感がして、ロロワは蔦を奔らせた。
蔦は幾重にもグランドグマの腕に巻きついたが、まるで水を掴むような虚しい手応えがあり、まともに掴むことすらできずに擦り抜けてしまう。
グランドグマの身体は、生身のそれと異なっていた。これは有機生命体ではない——霊体なのだ、とやや遅れて気づく。
小さなロロワなど、羽虫以下の存在でしかないのだろう。グランドグマはロロワを見もせず、献げられる好餌を貪っていった。
『 ——ぐちゃっ 』
『 ——ぐちゃっ 』
『 ——ぐちゃっ 』
その食欲はおぞましいほどに旺盛で、永遠に満たされることはないようだった。
そしてグランドグマは次の一切れを取りあげる。
ロロワは破れるように大きく目を開いた。
「……どうして!」
巨大なパイの上にはラディリナがぐったりと横たわり、その身体はマゼンダピンクのジュレに包まれていた。瞼はきつく閉ざされ、身じろぎすらしない。
ラディリナがどうしてグランドグマの贄に?
困惑している暇はなかった。グランドグマは無慈悲な仕草でパイを口へと運んでいく。
「くっ!」
ロロワはぬかるむマゼンダピンクに巨木を突き立て、身体を宙におどらせ跳躍した。
内臓がかき混ぜられるような浮遊感があり、落下。肩から転げながらロロワが着地したのは、グランドグマの掌、まさにその中だった。
ロロワはすぐさま身を起こし、パイ生地の上に倒れているラディリナの肩を掴んだ。
「——ラディ、起きるんだ!」
必死で揺さぶると、ラディリナは弱々しく身じろぎをして、細く目を開いた。
「……ロロワ」
「逃げよう、今すぐ!」
グランドグマは飛び乗ってきたロロワにも動じることはなく、パイを口元に運び続けている。距離はあと数メートル、口は餌食に向かって開かれている。
なりふり構わず手を引くロロワに、ラディリナはぼんやりと濁ったまなこを向けてくる。まだ夢見心地なのだろうか、おぼろげに微笑んでいた。
「——あなたの力が……」
囁かれた声は小さく、ロロワにはうまく聞き取れなかった。
なに? と問い返す。
その間近で、ラディリナは刃で裂いたように口を開き、この世のものとは思えない怨嗟を迸らせた。
「煌結晶の力があれば——私は!」
絶叫するラディリナの身の内から、欲望の業火が溢れ出す。
またたく間に莫大な火柱となって、ロロワの命を包みこんだ。