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クレイ群雄譚(クロスエピック)

第4章 歌が聴こえる

作:鷹羽知  原作:伊藤彰  監修:中村聡

第4章 9話 欲望

 真っ黒な炎は、怒りにまかせた咆吼のようだった。それでいて、奈落の底から迸る悲鳴のようでもあった。
 数えきれないほどの負の感情はぐちゃぐちゃに入り混じって、およそ人の身から放たれるものとは思えない熱となり、ロロワの身体を焼いた。 
 無我夢中で伸ばした指先は焼け爛れていく。それをぞんざいに振り払ったラディリナは、掻き破るような手つきでロロワの胸を掴んだ。
 焼け鉄を打ち込まれるような痛みが走った。
「——……っ!」 
 声をあげることすらできなかった。吐き出した息は紅蓮に喰われ、いっそう激しい炎となった。
 煤となり、ぼろぼろと崩れていけたらどれほど良かっただろう。
 生命いのちの在りようが変えられてしまう予感に、ロロワは激しく身悶えした。
 逃げられない。
 生命いのちの形が変わる——石になっていく。

 自然界では、火山から噴き出したマグマは地中で冷やされ、長い年月をかけて美しいルビーになる。
 同じように、神の加護なき無神紀にあっても、人々の祈りはかすかに、それでも確かに積み重なって美しい結晶を作りだした。
 そう、3000年の時を経て、ロロワの身の内でオリヴィの祈りが煌結晶ファイア・レガリスになったように。
 しかし、好奇心と智慧は人工的にルビー作りだす。
 軽銀アルミニウムが火炎に溶融されてルビーになるように、黒い炎がロロワを歪な欲望の石へと変えていく。
 ラディリナの手のなかで、ロロワという生命いのちが物言わぬ石になっていく。

 嫌だ、とロロワは思った。
 それは恐怖から来るものではなく、純粋な拒否反応だった。
 ロロワの知るラディリナは強い人だった。
 荒っぽい言葉で自分を鼓舞して、強くあろうとする人だった。こんなおぞましい欲望の炎が彼女のものだなんて、到底信じられなかった。
(——こんな終わりは嫌だ、ラディ!)
 ロロワは焼け焦げた指で、胸を掴んでいる彼女の手に触れた。
「っ!」
 その瞬間——視界が切り替わり、ロロワの瞳の奥に幻が広がった。
 

 壮麗な丸柱が緋色にかがやき、大路をどこまでも導いている。家々のひさしに吊られた黒鉄の灯篭が、日没の薄闇を赤く払っている。
 ドラゴンエンパイアの帝都だった。
 3000年前から、驚くほどその街並みは変わっていない。立派な鎧をつけたドラゴンが大路を行き交い、夕餉の香りがあたりに漂っている。
「ラディリナ」
 背後から名前を呼ばれ、ロロワは——ラディリナは振り返った。視界の端で、ひとつに束ねた赤銅色の髪がひるがえる。
 幻のなかで、ロロワはラディリナだった。だから『彼女』のことはすべてわかった。
 『彼女』は田舎の生まれではなかった。家は3000年前からドラゴンナイトを輩出する名門で、生まれる前からドラグリッターになることが定められていた。
 だからと言って、彼女が生まれ育った環境に胡座をかいたことはなかった。
 常に誰よりも厳しく己を律し、正しい努力をやめなかった。
 竜駆ヶ原兵科学校でも主席の座を譲ったことはない。卒業後は、ドラゴンエンパイア第1軍『かげろう』へ入軍*する予定だ。 
 実力でここまで上り詰めたのだという自負が、彼女の誇りの源だった。
 無神紀が終わった今、世界は激動のさなかにある。変わっていく世界で、自分の成すべきこと、この命を賭すべきことがあるはずだ。ラディリナはそう信じている。
 ラディリナ、と背後から彼女の名を呼んだのは、隆々たる身体つきのフレイムドラゴンだった。
 背丈はラディリナの何倍もあり、鱗は磨き上げられた石榴石ガーネットのような深緋色。翼を広げればその偉容はさらに増す。
 彼とは竜駆ヶ原兵学校での訓練の折に知り合い、意気投合し、共に鍛錬に励むようになった。
 その年齢はすでに300歳を超えているが、熟練兵の佇まいと若者のような挑戦心を兼ね備えている。
 彼と一緒ならば、きっとこの激動の世界を救っていけるはずだ、とラディリナは信じて疑わない。
「えぇ、行きましょう」
 ラディリナは溌剌と笑みを浮かべた。
 
 幻のなかで、ロロワはその光景を自らの事として見つめていた。
『もしも』の世界は、可能性と希望に満ちていた。彼女の心から生まれたものは、歪でも、おぞましくもなく、とても真っすぐだった。 
 だからこそ、ロロワの胸に、ひとつの事実が突きつけられる。
 自分は、ラディリナの『理想の世界』には居られないのだ。
 彼女と出会ったのはストイケイアの禁域で、悲鳴と罵声によって幕をあけた。トゥーリの事件が終わったあとも一筋縄ではいかず、ブルーム・フェスではリリミララミと戦う羽目になり、ケテルサンクチュアリでは毒を盛られ、テグリアには殺されかけ、オモチャ工場では火事に巻き込まれた。
 ロロワの脳裏に浮かぶのは、いくら手心を加えたとしても『良い思い出』ではない。自分とラディリナが過ごした時間は『間違い』だったのかもしれない。
——そうだとしても。
 ロロワは目を開いた。
 灼熱が瞳を焼き、激痛が走る。それでもロロワは目を逸らしはしなかった。
 真っ黒な炎がわずかに揺らいで、彼女が透かし見えた。
「……僕は君と会えてよかったよ、ラディ」
 言葉は炎に喰われて消えていく。
 しかしラディリナの耳はどんな小さな物音も聞き逃しはしない。それをロロワは知っている。
 欲望に突き動かされ、正気を失っていたラディリナの形相に変化が兆した。その手のなかで結晶に小さな亀裂が入る。
 期待が目を曇らせて見間違えただけかもしれない。それでも、ロロワにはそう見えた。 
 あぁそうか、とロロワは不意に理解する。
 
「僕は——君と過ごした時間を、無かったことにしたくないんだ」

 ラディリナの瞼がかすかに震え、真円に開かれた虹彩に、かすかな驚きが射した。
 欲望に突き動かされ、裂けたように吊り上がっていた唇に綻びが生まれる。
 声が溢れた。

「……ロロワ」

——パキンッ!
 結晶に、雷に貫かれたようなヒビが生じた。
 次の瞬間、結晶は千々に砕け、その石片は欲望の火などものともせず、流れ星のように輝きながら散っていった。
 ラディリナの胸に、欲望に翻弄される彼らの胸に、歪んでしまった世界に絶望する人々の心に。
 生命の結晶は、幾千、幾万の生命いのちの欠片となって魂に届く。

 
「……おや?」
 ケイオスは首を傾げた。
 ロロワとラディリナを右手に乗せたグランドグマが、突然動かなくなったのだ。ラディリナの身体からは炎が消えたようだが、二人が何がしかの抵抗をしたようには見えなかった。
 炎が消えたのは、ケイオスにとってはむしろ良い兆候だった。欲望の炎によって、ロロワの生命いのちは石になる。それが完了した合図だ。
 グランドグマが石を腹に納めれば、莫大な力によって彼女の顕現は完全なものとなる。世界のすべてが欲望の夢で満たされる。
「小休憩かな? コマーシャル挟んで焦らす感じかい? いいね!」
 楽観視するケイオスとは反対に、あたりで楽しそうにしていたラララポココたちは一転して悲鳴をあげた。

「なにかとんできたよ」
「あったかいもの」
「キラキラしたもの」
「こんなのいやだ、いやだよぅ」

 ラララポココはホイッスルを吹くように騒々しく言い立てる。しかしケイオスの目には何も見えなかった。
「うーん、ついに老眼かなぁ。君には何か見えるかい?」
 と、やや離れたところで村人たちに指示をしていたサクリファイス・グラスに質問を投げかけた。
「っと、君には目がないんだった!」
 サクリファイス・グラスは、寒々しいジョークを放つケイオスを完全に無視した。
 彼もまた、あたりの様子から異変を感じ取っていた。
 ラララポココは不安げに言葉を交わし、ホップポップはステップする足をもつれさせ、シェフィはパイを焦がしている。
「…………」
 グランドグマが復活した結願の日にあってはならない乱れだった。しかしケイオスと同様に、サクリファイス・グラスにも混乱の原因がわからない。
「何があったのですか?」
 足下のラララポココたちに問いかける。
 しかし狼狽えている本人たちにも、自分がそうなっている理由はわからないらしい。言い立てるばかりで、はっきりとした答えは返ってこなかった。
 どうしよう、どうしよう。
 いやだよう、いやだよう。
 ラララポココたちはしばらくのあいだ震えていたが、ふと、何かを思いついたらしく高々とジャンプした。

『——そうだ!』

 一目散に駆けだした。
 少ししてシェフィの元から持ってきたのは、これまでの半分ほどしかない小さなフルーツパイだった。
 上には小柄な少女が載っている。
 イエローとピンクの羽に、もふもふとした襟巻き。メープルが、マゼンダピンクのジュレにまみれて、ぐったりと横たわっていた。
「いっしょにあそぼうっていったのに」
「いっしょにうたおうっていったのに」
「夢がいちばんすてきなのに」
「現実なんてなくなっちゃえばいいのに」
「だからイケニエになっちゃうのに」
「でも、これできっとだいじょうぶ」
「ピンクで、キラキラして、とってもきれい!」
 応えるように、グランドグマの左手がパイへと伸びていく。
 

 テグリアは、誕生日パーティをしようと思った。
 この11年の間、一度だって自分の誕生日を祝ったことは無かった。齢を重ねるたびに憎いかたきを討てない自分への嫌悪に襲われ、到底祝おうとは思えなかったから。
 だけど今は違う。
 パーティをしよう。顧みられることがなかった、自分のためのパーティを。
 そうと決まれば準備開始だ。
 王様が晩餐に使うような、大きな大きなダイニングテーブルに、真っ白なテーブルクロスを敷いて、レースのフリルを垂らして。
 美しいボーンホワイトの三段トレイには、ベルモット香る焼きたてのスコーン、クロテッドクリーム、カラメル滴るプディング!
 ローストビーフはとびきり厚く切って、上からグレイビーソースをひとまわし。ナイフを入れれば、命のように真っ赤な肉汁が溢れだすだろう。かぶりつけば、口元がはしたなく汚れるだろう。
 構うものか。しぶきを口紅にして、ごくんと飲み下すのだ。
 そう、主役はもちろんケーキ! とびっきり甘いやつがいい。
 そうだ、フルーツタルトにしよう。フルーツは……そう、温室で大切に育てられた完熟のベリーがいい。
 パンッ!
 軽やかに手を鳴らすと、空中から瑞々しいマゼンダピンクのベリーが降ってきた。
 パパンッ!
 さらに手を鳴らすと、群がったベリーは押しひしゃげて果汁をまき散らし、水気の多いジュースになった。
 砂糖を加えて火にかける。
 クツ、クツ、クツ……
 マゼンダピンクの液の底から、小さなあぶくがのぼってくる。ほどなくして、あぶくはうじゃうじゃと湧き出して、ジュースがジュレのとろみを帯びた。
 それを薄く焼きあげたパイ生地に注ぎこんで——
 パンッ!
 ひときわ高く手を打ち鳴らせば、フルーツパイの完成だ。広大なテーブルの中央に置く。
 そこにはすでに、幾百という、すぐには数え切れないほどの皿が並んでいた。五十人以上の腹を満たせる夥しい量だが、テグリアの他には誰もおらず、空の椅子ばかりが連なっている。
 しかしテグリアは軽やかな仕草でドレスの裾をさばき、ふわりとチェアに腰かけた。ぴんと背筋を伸ばし、興奮を抑えきれないように深く息を吸いこむと、左右に置かれたナイフとフォークを取りあげた。
「いただきます」
 ベリーパイを貫いた。
 ぶつり、と裂けた切れ目から、マゼンダピンクのジュレがぐじゅぐじゅと溢れ出し、ボーンホワイトの皿を汚していく。
 テグリアはいっそう深くナイフを差しこむと、ジュレが垂れるのも気にとめず口元へと運んでいった。
 舌は期待して唾液に濡れ、ひとつ、ふたつ、その先端が中切歯をそっと叩く。
 テグリアは名残を惜しむように視線を落とし、ふと、宝石のように艶めくパイのなかにキラキラしたものが埋もれていることに気づいた。
 光の粉を振りまいたような、淡い薄桃色。それは毒々しいマゼンダのなかで溶けて消えてしまいそうなほど、か細いか細い糸だった。
 パイに埋もれた糸は、一すじ細く光りながらテーブルを越え、そのまま宴をかこむ暗闇へと伸びていた。
 顔を向けても、その端がどこに繋がっているのかは判然としない。
 しかしどうしてだろう、糸はテグリアを招いているように見えた。
 不思議な予感に急かされて立ちあがった。勢いがつき、椅子が後ろに倒れたが、気にかけてはいられなかった。
 胸のざわめきのまま、糸を辿って足を踏みだした。
 鮮やかなマゼンダピンクの光を外れれば、そこは自分の存在すらおぼめき境目から溶けていくような闇だった。
 そこにあって、頼りない薄桃色の糸だけが清らかにテグリアを導いている。

——どこに行くんだい。
——ここには素敵なパイがあるのに。

 マゼンダの光さすパーティ会場から、テグリアを引き止める泥濘の声がする。
 それを振り払うようにもう一歩、足を踏みだした。

『 トンッ 』

 その足元でぽんと明かりが灯った。綿毛よりもかすかな光だったが、底なしの暗闇のなかでは何よりも眩く見えた。
 光の奥に映ったのは「テグリア様」と慕ってくれる団員たちの顔だった。
 希望に顔を輝かせた新兵がいる、テグリアよりもよっぽど騎士としての経歴が長い熟練兵がいる、生真面目に眼鏡を光らせているライネットがいる。
 ぽん、ぽん、ぽん。
 足を踏み出すたび、淡い光は士官学校時代の友人たちを、笑いかけてくれる南部の人々を、ぼんやりと映しだした。
 すべては騎士になる道を選ばなければ見られなかった光たち。
 しかしそれも、すぐに闇に呑みこまれて消えてしまった。

——彼らは君を慕っていたんじゃない。君の振るう力と、その地位を慕っていたんだ。
——もうその地位は捨ててしまったんだろう?
——彼らにとって君はもう無価値だし、君にとっての彼らも無価値だ。

 泥濘の声は囁き、テグリアの魂を揺らがせ、足を竦ませる。
 そのときだった。
 どこかで、結晶の砕ける音がした。
 四散した生命いのちの欠片は、まっすぐテグリアのもとに届き、その胸にひとつの光を宿した。
 それは夢でさえ朧にしか見られなくなった、かつての正義。
 テグリアの唇から声がこぼれ落ちる。

「……ジラール様」

 人生で唯一の人だった。英雄だった。
 あの人はもう居ない。決して生き返ることはない。
 だけど——

「……あの人と過ごした時間を、無かったことにはしたくない」

 自分の剣で仇を討つことが、その証明になるのだと思っていた。だけどそれは永遠に叶わない。
 傲慢かもしれない。愚劣かもしれない。けれどもし、正義のために生きることが、あの人の生きた証になるのなら——
 間違ってばかりの過去を抱え、間違ってばかりの自分のまま、生きていく意味もあるのだろうか。
 そうして、テグリアは顔を上げた。
 糸が頼りなく伸びていくその先、ひときわか細い光に向かって微笑みかける。

「……メープル」

 応えるように、光がかすかに瞬いた。
「ずっと私のそばに居てくれたのは、あなただったのですね」
 欲望に心を奪われ、何度も過ちを犯した。
 けれどその声は、糸のように細く、それでも切れず、そこに在ったのだ。
「どれだけ叫ばせるんだよ、馬鹿テグリア」
 メープルは闇のなかで脚を広げてしゃがみこみ、丸い頬をいっそう丸く膨らませている。
 テグリアはそっと腕を伸ばし、恐れるようにメープルの身体を抱きしめた。
「ごめんなさい……ありがとう」
 自分は弱く、ジラールのような英雄にはなれない。なれるはずもない。
 だけど闇のなかで道を見失った末に、光さすところに辿り着けたのだから——この道を選んだ意味はあったのだろう。
「泣き止め、弱虫」
 メープルはくすぐったそうに笑い、小柄な胸をぐんと張った。

「言っただろう。テグリアは悪党だから、メープル様が守ってやるって!」

 グランドグマの胸部の内から、清廉な淡い光がこぼれた。
 それはまたたく間に数を増して、生糸を縒るように収束し、刃となってグランドグマを斬り裂いた。
——ケテルサンクチュアリが誇るロイヤルパラディン、第二騎士団長テグリア。
 彼女がその地位に登りつめた理由には、エルフという種の枠から外れた膂力と、優れた剣技のセンス、そして極めて強い魔力があった。
 剣の核となる魔法石を失ってなお、その一閃は桁外れの力を持っていた。
 グランドグマの胸を貫いた清廉な光は、その腕すら容易く両断する。
 ロロワとラディリナを掴んだまま、右腕はぬかるんだ地面へと落下した。

『 ぐちゃっ 』

 巨大なそれを避けて、ラララポココたちはぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 心細げに身を寄せあい、震える声で言いたてた。

「夢をどうしてキョヒするの?」
「欲望をどうしてキョヒするの?」
「だって現実ここにいいことなんて、ひとつもない」
「すぐにぶつこぶし」
「いじわるな口」
「とがったつまさき」
「——でもでもっ」
 流れを遮って、一人のラララポココが声を張りあげた。
「だきあげてくれた腕は、あったよ。いいことだって、あったよ」
 そうだそうだ、と他のラララポココも同意する。
「ほっぺのやわらかさ」
「つないだ手のひら」
 生命いのちの欠片はかすかに光り、そして彼らの声がひとつになった。

『——ボクたちが、おともだちになったこと!』

 世界は欲望に満ちていた。
 満ちた欲望は現実を侵し、マゼンダピンクに染めあげ、その在りようを変質させていた。
 欲望は甘く、どこまでも魅力的で、人の心を捕らえて放さない。
 蟲が腹わたを喰い破るように、指先のわずかな切り傷から全身が壊死するように、欲望は現在だけでなく、時空竜の力を飲みこんで、これまでに積み重ねた過去までも余すところなく歪めていた。
 神無き世界をどうにか乗り越えるための、健気な祈りも。
 希望無き世界を生きていくための、弱弱しい歌も。
 すべてが甘やかな欲望に蕩け、歪んだ夢だけが現実となっていく。
 そこに、彼方から小さな小さな生命いのちの欠片が届いた。
 それは波に洗われた砂粒よりも小さく、大人の目で見ることはできない。
 しかし、消えることなく確かに存在し、人々の胸に希望を灯した。
 ひとつ。
 またひとつ。
 ドラゴンエンパイアの森のなかで、ケテルサンクチュアリの天空で、ストイケイアの川辺で、欲望に呑まれた腹の底で。
 グランドグマの身体は、光に裂かれたところからほつれ、どろどろと溶け崩れていった。
 厚い緞帳を落とすように、ついにマゼンダピンクの粘液の向こうにクロノスコマンド・ドラゴンがその顔を現す。
「——……」
 瞳に、かすかな光が灯った。

「なんてことだ、あぁ、もっと贄を、贄を、偉大なるグランドグマに献げなければ!」
 サクリファイス・グラスは狂乱に陥り、崩れゆくグランドグマの身体を維持するため、パイを焼くようシェフィーに指示を飛ばした。
 常闇村の住人——グランドグマの信徒たちは恐慌をきたしながらも、グランドグマに生贄を捧げようとするが、パイは焼きあがるそばから崩れ落ちてしまう。
 それは丹念にドミノ牌を積みあげた塔が、ひとつの刺激をきっかけにして崩壊していく様に似ていた。
 狂騒のなかで、ケイオスは手を貸すでもなく立っている。
 その目前に、溶け崩れたマゼンダピンクの液塊がぼたりと落ちてきた。ぐじゅぐじゅと軟体動物の末期まつごのように蠢いていたが、やがて動かなくなり溶け広がっていく。
 現れたのは、宝石細工の黒革の本——ケイオスが投げ入れたアカシックブックの出来損ないだった。
 ケイオスはひとつまばたきをする。
「おや、おかえりだね」
 腰を屈めて黒革の本を拾いあげ、こびりついたマゼンダピンクを拭いとり、表紙を開いた。
 そこには、グランドグマが眠りについてからの3000年の出来事が記されている。
 英雄たちの活躍だけではなかった。
 歴史に残らない、残るはずのない市井の人々の営みと、欲望のすべてがそこに在った。
 ケイオスは慈しむように一頁、また一頁とめくっていき、ついに最後の一頁に辿り着いた。

 少年の姿が描かれていた。
 ひとりの少年が闇を祓う、その姿が。

 ケイオスは本を閉じた。
 ゆっくりと顔をあげ、そこに立っている少年へと微笑みかけた。
「あぁ、ロロワ少年! 君の仕業か。やってくれたねぇ」
 しかし言葉とは裏腹に、別段責める語調ではなかった。
 面白がっているようであり、それすらも作り物のようだった。
「——……」
 細剣を構えたロロワは、真っ直ぐにケイオスを睨みつけた。その耳には、常闇村の人々の甲高い悲鳴と、マゼンダピンクが崩れる濁った水音が届いている。
 形勢は明らかだった。
「あなたの計略は終わった。もう果たされない」
「そのようだねぇ」
 ケイオスはつまらなさそうに肩を竦めた。
 企みはすべて挫かれたはずなのに、その何気ない佇まいはロロワの不安を掻き立てた。
 まだ何かするつもりなのだろうか? いや、まさか——
「世界樹のバイオロイド、実はね、私は君に期待していたんだよ。充溢するその生命力で、どんな欲望を見せてくれるのかってね」
 ふぅ。
 ケイオスはため息をついた。男が軽く頭を揺さぶると、その髪は血で浸したように赤く染まっていく。
「だけど、結局はつまらない生命いのちの守護者だったね」
 物憂げに伏せられた瞼が持ち上がり、ロロワを見た。
 血を噴き爛れたように赤い目だった。
「いいよ、なら私はきちんと悪人をしようじゃないか」
 たちまち、その足下がタールを撒いたように黒く染まる。
 底から溢れ出したのは、巨大な蛇の群れだった。クロノスコマンド・ドラゴンを捕らえていた大蛇たちが、目を赤く爛々と光らせ、牙を剥き、ロロワへと襲いかかった。

Design:kaworu Illust:山月総

「……っ!」
 ロロワは細剣を振りかざし、必死にその牙を跳ね返した。
 しかし勢いに呑まれ、身体ごと宙に吹き飛ばされてしまう。
 鋭い風音に混じって、興醒めしたように淡々と、ケイオスの声が聞こえてきた。
「君がただの植物だったとしたら、自らの種の繁栄のために動くのだろうね。生きて、殖える。この世でもっとも純粋で無垢な欲望エゴだ」
 大蛇は牙を閃かせ、ロロワの腕を切り裂いた。
「っ!」
 血しぶきが空気を染め、一瞬遅れて、焼けつくような痛みが走った。
 痛みで脳がクリアになる。
 ロロワは空中に腕を翳し、手のひらから大量の蔦を生み出した。
 自由落下に身を任せながら、一つに縒った生命の力で大蛇を薙ぎ払う。
「——ッッッッ!」
 身体を地面に叩きつけられた大蛇は、超音波めいた悲鳴をあげて見悶えした。
 しかしケイオスの声は淡々と響き続けている。
「ロロワ少年、君は世界樹のバイオロイドであるがゆえに、自らの欲というものが希薄で他者の生命いのちにしか興味がない。そうだろう?」
「そんなわけが、」
 ロロワは反論のため口を開いたが、しかし、すぐに言葉が出てこない。
 にぃ、と。
 ケイオスは唇を歪め、嗤った。
 ロロワの腹にうそ寒い恐怖が広がっていく。
「君はこの惑星の営みに組み込まれた現象に過ぎないんだ。それは私も同じだよ。生命いのちを求める君と、欲望を求める私は鏡合わせのように真逆で、その本質において同じだ。欲望もまた、生命いのちの営みだろう?」
 ケイオスの言葉はどこまでも詭弁だった。
 けれど、人の心の弱いところに染み入るような甘やかな響きがあった。
 巧言を耳に入れてはいけない。  
 強く思うのに、泥濘からの声は甘やかに忍び寄り、剣を鈍らせ——次の瞬間には、真っ赤に開かれた喉と鋭い牙が迫っていた。
 地面を蹴る。間に合わない。ロロワの脳天に毒牙が下ろされる。
 そこに——歯車の彼方から、梵鐘を鳴らしたように厳粛な声が響き渡った。

『世界樹の若芽よ』

 かつて聞いたときのような、距離を隔てた彼方からの声ではなかった。
 クロノスコマンド・ドラゴンが、朗々たる声差しでロロワへと呼びかけていた。

『——我が力を貸そう』

 瞬間。
 ロロワと毒牙の間に巨大な歯車ギアが出現し、その攻撃を阻んだ。
「ッァァァッ!」
 跳ね返された大蛇は甲高い悲鳴をあげ、天を仰いで見悶えた。
「っ!」
 飛びすさりながら振りかえる。
 グランドグマの泥濘にいまだ半身を呑みこまれながらも、クロノスコマンド・ドラゴンがそのまなこを開いていた。
 あぁ、と。
 万感のこもった吐息が、ロロワの唇から溢れ出た。
 伝えたい言葉はあまりに多く、胸の底からとめどなく溢れてくる。けれど今は、彼がそこに居てくれるだけでよかった。偉大な英雄が共に在ってくれる、ただそれだけで。
 歯車ギアはロロワにつき従うように浮かび、黄金の輝きを帯びていく。

『あまりに長く囚われていた。だが——刻限だ』

 あぁ、これが覚醒したクロノスコマンド・ドラゴンの力。
 身体の奥底から清水が湧きだすように、瑞々しい力がロロワを満たしていく。
 草原を走るように地面を蹴りあげた。
 群れをなして襲いかかってくる蛇を抜け、泥濘を裂き、その向こうへ。
 ロロワはその一閃に、すべての力と祈りを込めた。

Illust:kaworu

 それは歪められた欲望を、無に帰す緑流だった。
「……あぁ」
 ケイオスがぽつりと呟く。
 刺し貫かれたアカシックブックの出来損ないは、燃え尽きた炭のようにぼろぼろと崩れ落ち、風にまぎれて消えていった。
 ぱっ、ぱっ、と指先についた煤を軽く払い、ケイオスはロロワを見た。
 禍々しい赤に染まっていた髪も瞳も、もとの闇色に戻っている。そこには穏やかな微笑だけがあった。
「おめでとう、欲望の記録ヒストリー・レコードは消え去った!」
 パチパチパチ。
 すぐにケイオスは安っぽい拍手を止めた。
「で、私を殺さないのかい? あぁ、私が改心するよう説得するつもりかな? いいねぇ!」
 ケイオスは興味津々といった様子で身を乗り出してくる。
 ロロワは静かに首を横に振った。
「……あなたはどんな言葉をかけても変わらない」
「そうだねぇ」
 ケイオスは他人事のように相づちを打つ。それがまったく虚勢でないことが、ロロワにはわかってしまった。
 ロロワは剣を——生命いのちがの力を通して、ケイオスという存在をはっきりと理解してしまった。
 自分はこの惑星の営みに組み込まれた現象に過ぎない——ケイオスの言葉は口先だけの巧言ではなかった。すべて本心だった。
 ケイオスという男は、風が吹くように波が寄せるように欲望を求めていた。それはただの現象であって、改心を促すどんな説得の言葉も無駄だった。
「じゃ、そろそろ悪人は店じまいにして、私は行こうかな」
 ケイオスは嘯いて、グランドグマへと足を踏み出した。
 崩れゆくグランドグマは、サクリファイス・グラスたちによる必死の供犠にも関わらず、もうヒトの形を保つのもやっとという有り様だった。夜が明けるよりも先に溶け崩れるだろう。
 自らを贄にすることで、ケイオスはグランドグマの力を取り戻すつもりだろうか?
 しかし力を失ったケイオス一人が贄になったところで、再顕現が可能だとは到底思えない。
 そこでロロワは気づく。
 ケイオスがグランドグマの元に向かうのは、彼女の贄になるためではない。 
「——消えるつもりですか」
「うん」
 ケイオスは素直に頷いた。
 クロノスコマンド・ドラゴンを飲み込んだグランドグマによって『過去』と『現在』は歪に混じりあった。
 いまだ時空は歪み、欲望は満ち満ちている。ケイオスはその狭間に身を投じようとしているのだ。 
 時空間の修復を使命とするクロノスコマンド・ドラゴンのような者たちならまだしも、ケイオスが欲望に歪んだ空間に身を投じて、無事でいられるとは思えない。
 ケイオスは「あぁ、でも」と声をあげた。
「自死のように言われるのはいささか不本意かな。私という存在は、欲望に満ちた過去と混じりあい、やがて未来で実を結ぶ」
 ケイオスは芝居がかった身振りで両腕を広げた。その四肢に、マゼンダピンクの泥濘がまとわりついていく。
「さぁ、欲望の木を植えよう! すべての欲望には黄金の林檎に勝る価値があり、“私”には塵ひとつの価値も無いのだからね」
 ケイオスは嘘くさい笑みを浮かべて、綿毛ほどの軽さで手を振った。
「バイバイ」
 
——銃声が響いた。

 ケイオスの右胸に黒い銃痕が穿たれた。
「ん?」
 ケイオスは胸に手をあてて、黒い体液で汚れた手のひらを見つめた。
 振りかえる。
 グランドグマの崩壊によって解放されたのだろう、ミカニがぬかるむ地面から半身だけ這い出して、ケイオスに拳銃を向けていた。
 銃口からは硝煙が白く立ちのぼっている。
「やぁ、ミカ。私を撃ったのかい? 驚いたよ!」
 ケイオスはまとわりついていたマゼンダピンクの泥濘を振りはらうと、踊るような足取りでミカニへと歩んでいった。
 一歩踏み出すたびに、胸に穿たれた孔からは真っ黒な体液がどろどろと漏れ出し、傷口が広がっていく。
 ケイオスはしゃがみ、覗きこむようにしてミカニと視線を合わせた。
「どうして私を撃ったのか、当ててもいいかな?」
 ミカニは答えない。ケイオスはそれに構わず「んー」と唇を尖らせ、考えこんだ。
「そうだ、私が憎いから撃ったんだろう。だって私はお前を贄にしたからね」
「いいえ」
「外れか……わかった! 私を倒して世界を救うためだろう。あぁ、これでお前はヒーローだね」
「いいえ」
「また外してしまった。こんなにお前のことを分からないと思ったのは初めてだよ」
 降参だ、と言うようにケイオスは両手を上げた。
「さぁ、私に君の欲望を教えて?」
 ミカニはためらうことなく答えた。 
「——あなたを」
「ふむ」
 ケイオスは、意表を突かれたようにひとつ、ふたつ、まばたきをした。
 そのあいだにも銃弾に穿たれた傷は広がり、全身が煤のように脆く崩れていく。
 ケイオスは、失われていく指先で、ミカニの目尻をそっと撫でた。

「それは素敵な欲望だね」

 ミカニの瞳はケイオスを映している。
 それは今や、感情のない褪せたアイスブルーではなかった。
 たったひとつの欲望をたたえて、冴え冴えと美しく、あざやかな緑に輝いていた。